2023年04月30日「泉・永遠の命に至る水」

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泉・永遠の命に至る水

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 4章11節~15節

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11節 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
12節 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
13節 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
14節 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
15節 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
ヨハネによる福音書 4章11節~15節

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「泉・永遠の命に至る水」ヨハネ福音書4:11~15

先週からヨハネ福音書講解は4章に入りまして、まずそこでは身持ちが悪くそれゆえに孤立していたサマリアの女が登場しました。その女性に対して、「水を飲ませてください(7節)」、と主イエスが頼んだことから両者の会話が始まり、サマリア伝道が開始されたわけです。

特に、彼女は、主イエスが最後に言われた「その人はあなたに生きた水を与えたことであろう(10節)」この部分に反応しました。サマリアの女が汲み取る井戸は、「ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」、と言われているように、ヤコブの時代から、今に至るまでサマリア人の命の源であり、ここがサマリア人の全存在の根拠でさえあったからです。しかし、主イエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く」、とサマリア人の命の源であるそのヤコブの井戸のその限界を示します。サマリアの女にとっても、物質的な水が、彼女の宗教心の根拠であり命の源でありました。しかし、物質的なものは、物質的にしか機能しないのです。それに頼る以上、「この水を飲む者はだれでもまた渇く」、と主イエスが言われますように、結局最後まで満たされることはないのです。いくら歴史的に優れていても、由緒ある場所であろうとも、そこに自らの全存在をかける時、最終的に与えられるのは渇きであり、これがあらゆる偶像崇拝の末路です。

その上で、主イエスは、「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(14節)」、と約束されました。ここでは、この「わたしが与える水」とは一体何であるか、それを理解することが大切です。すぐに乾いてしまうヤコブの井戸の物質的な水とコントラストになっているのが、この「わたしが与える水」であるからです。そして、「わたしが与える水」それは、聖霊なる神様であります(ヨハネ福音書7:38、39を参照)。ですから、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」、これは主イエスが聖霊を与えてくださる約束であり、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」、これはすなわち、「主イエスが与えてくださる聖霊が、私たちの中で泉となり、そこから永遠の命に至る水がわき出る」と約束されているのです。

 ここでは、「泉」という字が非常に大切でありまして、大きな役割を示していることが分かります。今確認致しましたように、「わたしが与える水」と言うのは、聖霊なる神様でありました。ですから、聖霊なる神様が、「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」、とこのように主イエス様は言われているわけです。つまり、この「泉」と言うのは、聖霊なる神様が、私たちの中にとどまってくださる、そう言う状態であります。私たちキリスト者の体を「聖霊の宮」と呼ぶことがあります。まさに「泉」と言うのは、私たちが聖霊の宮として用いられている、その現実であります(Ⅰコリント6:19参照)。

特に、この「泉」と「永遠の命」との組み合わせは、私たちの死後の希望、特に再臨の主イエスを待ち望む信仰にとって、極めて重要であります。私たちは、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」、というこの主イエスの約束に立って最後まで歩むことが許されているだけでなく、この泉は死というこの地上での歩みの終点にあっても尽きることはないのです。むしろ、私たちの死後、さらに偉大な約束が待っていて、その時には「命の水の泉から価なしに飲ませよう(ヨハネ黙示録21:6)」と御言葉は言うのです。

以前、親しい方の死に駆けつけたことがありまして、そのご家庭の宗教が仏教でありましたので、葬儀は仏式で行われました。臨終の後に、葬儀社の段取りで「末後の水」という儀式がありまして、故人の口に水を数滴たらすというものでした。これは仏教の開祖である釈迦の故事に因んだ儀式であり、釈迦が死の間際に、喉が渇いて苦しかったので、彼の弟子に「水を取ってきて欲しい」と頼み、ひと悶着あったものの、無事に弟子が釈迦の臨終の直前に間に合って水を与え、それで釈迦は安らかに死んでいった、という伝説がこの儀式の起源になっているようです。これこそ物質的な水に全存在を依存する立場であり、末期の水は、「この水を飲む者はだれでもまた渇く」、その最も悲しく絶望的な事例ではありませんか。

しかし、私たちにとって、死は決定的な出来事ではないのです。末後の水ではなくて、永遠の命の水が死の時も流れているからです。今、この体に住んでくださって命の泉となってくださる聖霊なる神が、死という物質的な終わりを超えて、私たちを永遠の命へと導いてくださるからです。

それが約束されているのが、「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」、この御言葉であり、聖霊なる神によって保証される永遠の命が、このヨハネ福音書の福音そのものであります。

さらに、ここで、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」、と主イエス様が言われる時、周りの状況がいかようでありましても、さらに自分自身の状態がどうであろうが、それは問題ではないということです。命の泉は、それでもその人の内から湧き出るからです。

生きていて辛いこと苦しいことなど山ほどありますし、生きていくのが辛い時もある、しかし、それでもその泉が尽きることはない。私たちの状況はどうであれ、私たちに与えられた泉から、永遠の命に至る水は、ほとばしっている、この聖霊のお働きは、常に変わらないのであります。

すぐる週、宇都宮教会の金田知朗先生の葬儀に参列し、変わり果てた先生のお顔を拝見し、やはりこみあげてくるものを抑えられませんでした。しかし、永遠の命に至る水が今尽きたわけではない、その確信は全く揺らぎませんでした。むしろ、物質的には変わり果てたその状態で尚、命の泉はほとばしっている、その信仰が立ち上がりました。冷静になればなるほど不思議なことです。死者を目の前で見ながら、彼が永遠の命に生かされているという確信が揺らがないのですから。この確信こそが、聖霊なる神が私の中で泉となって住まい給うことの何よりの証拠ではないでしょうか。

これはイースター礼拝の時に確認したことですが、死はこの目で見れば分かります。疑いたくても疑えないのが死という現実であります。参列者の中で、先生の死を疑わなかった者は一人もいないでしょう。そこで私たちに問われるのは、私たちは死が確かに現実であるのと同じように、死者の復活と永遠の命も現実のこととして確信しているか、ということであります。

家族、友人、特に私を愛してくれた人の死ほど苦しいことはありません。果たして、それは末期の水で解決するのでしょうか。いいえ、無理です。それは死に対する敗北です。あきらめです。決定的な別れです。死という現実に対して、永遠の命に至る水をもって立ち向かう、それは難しいことではありません。ただ、悔い改めて十字架の主イエスを信じる時、全ての者に、この泉は与えられます。

 「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。(ヨハネ黙示録7:16、17)」、これが、すでに天に召された信徒の姿です。