2023年04月23日「サマリア伝道の序章」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
2節――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
3節 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4節 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
5節 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
6節 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7節 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
8節 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
9節 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
10節 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」ヨハネによる福音書 4章1節~10節

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説教の要約

「サマリア伝道の序章」ヨハネ福音書4:1~10

本日からヨハネ福音書講解は、第4章へと入って行きます。まず主イエス様とサマリアの女との会話が、長い聖書個所を使って記録されていまして、ここには大切な真理が散りばめられていますので、見落とすことがないように、何回かに分けて一字一句丁寧に学んでいきたいと願っています。

通常この記事は「サマリアの女」と馴染みをもって呼ばれていますが、全体的な視野で正確に申し上げれば、これは「サマリア伝道の記録」とするのが正しいと思います。本日の箇所はそのプロローグ部分であります。

主イエスとサマリアの女との会話は、主イエスが「水を飲ませてください(7節)」と語りかけたことを契機に始まりました。ここで注目すべきは、「サマリアの女が水をくみに来た」時刻が、「正午ごろのことである」、と報告されているところです。当然ではありますが、この時代は、現代のように水道はありませんでした。そして、日々の水汲みは女性の仕事でありました。しかし、その水汲みは、朝の涼しい時間帯か、それでも足りない場合は、夕方にもう一度行うことになっていました。パレスチナの亜熱帯性の気候の中で、昼間、しかも正午に活動するなんてことは非常識でありました。

つまり誰もいない時間帯に、この女性は人目を避けるように、この井戸まで水をくみにやって来たわけです。次週の箇所で「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない(18節)」と主イエスが言い当てていますように、このサマリアの女は、大変身持ちの悪い女性でありました。しかし、大切なのは、主イエスが、それを百も承知で「水を飲ませてください」とこの女性に頼んだことで、この一言から主イエスのサマリア伝道が幕を開けたことです。

 しかし、当然のごとくサマリアの女は困惑します。「すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである(9節)」、とここで、「サマリアの女」が、驚いている様子が分かりやすく描かれています。

よく見ますとこの節だけで「サマリア」という言葉が三回繰り返されています。そして、これは日本語訳の聖書ではわからないのですが、実は、この節で使われているサマリアという字と、7節で使われているサマリアという字は微妙に違うのです。7節で、「サマリアの女が水をくみに来た」、と記録されている「サマリアの女」、のサマリアは、サマリアのその地域を示す意味がありますが、9節で繰り返される「サマリアの女」という字の方は、サマリア教徒という意味を持ちます。「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」、この「サマリア人」、というのもサマリア教徒を意味する同じ字の複数形です。ですから、この女性は、サマリア教徒であり、しかも女性である自分に、ユダヤ教徒のラビが語り掛けて来た、そのことに非常に驚いているのです。当時ユダヤとサマリアは絶交状態であったからです。ここで、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである、」とあります、「交際しない」、という字はもともと「器を共有しない」という意味を持つ言葉です。器を共にしない間柄で、「水を飲ませてください」、これは物理的にも不可能です。接触点が作れないのですから。しかし、その不可能という壁が、いとも簡単に取り除かれるのが、キリストの福音なのです。サマリア伝道のプロローグは、まず不可能の壁が主イエスの一言によって取り除かれることにありました。

 さて、その上でその福音が主イエスの回答で示されます。

「イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。(10節)」、つまり、サマリアの女は、「神の賜物」も、また主イエスの正体も知らなかった、ということで、実はそれが彼女の決定的な盲点でありました。もし、知っていたら、「水を飲ませてください」、むしろ、これはサマリアの女のセリフになっていたはずである、と主イエスは言われるわけです。

ここで言われている、「神の賜物」とは何でしょうか。これは、次週の御言葉で明らかになりますが、この節で「その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」と言われた上で、少し先回りをいたしまして14節で「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」、と言われていますので、「神の賜物」とは「永遠の命」に他なりません。これは以前学びましたローマ書の6章の結論部分でパウロが高らかに謳っています。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ローマ6:23)」、サマリアの女が、イエスキリストも、永遠の命も知らなかった、これがいかに悲しいことであったか、改めてこの御言葉が証言しています。イエスキリストも永遠の命も知らずに生きていた彼女に残されていたものは何であったのでしょうか。それは、「罪が支払う報酬は死です」、とありますように、死だけであったのです。

 主イエスは、彼女が身持ちの悪い女であったとか、それゆえに社会から孤立していた、ということに対して非難しているのではないのです。むしろ、主イエスはそれをそのまま受け入れている。

 ふしだらであろうが孤独であろうが、主イエスはそのようなものは問題にはされない、むしろその罪人に福音を真っ先に語られるのが主イエスキリストなのであります。他の誰でもない、この女性に主イエスはまず福音を語り始めたからです。

実に、主イエスキリストも永遠の命も知らずに生きている、これはそのまま私たちの同胞の姿ではありませんか。この町にこそキリストの福音は宣教されねばならないのです(聖書的には、宣教されることになっている、という意味です)。

 既に天に召されています三浦綾子というキリスト者の作家がおられました。ご存知の方も多いと思います。その三浦綾子が、本職である小説ではなくて、聖画を44枚集めて「イエスキリストの生涯」という単行本をずいぶん前に著しました。その中にパオロ・ヴェロネーゼというルネッサンスの時に活躍したイタリアの画家の書いた「キリストとサマリアの女」、という作品が紹介されていました。

三浦綾子は、「これは私にも題名がなくてもわかる絵だ」と謙遜しながらも、この絵画に描かれているサマリアの女が少し逞し過ぎるのではあるまいか、と評していました。

私はその体つきではなく、描かれた彼女の暗い目と歪んだ口元が印象的であったことを憶えています。「いいから、かまわないで頂戴」と主イエスを睨みつけているようにさえ見えます。

しかし、そこが福音宣教の舞台であり、それが、最も福音が語られなければならない状況なのではないでしょうか。希望がないところに希望が生まれ、命がないところに命が与えられ、そして、暗いから福音が輝くのです。サマリア伝道は、最も福音から遠い者にまずキリストが手を差し伸べられた、私たちは、この事実を忘れてはなりません。