命か怒りか
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 3章31節~36節
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聖書の言葉
31節「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
32節 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。
33節 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。
34節 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。
35節 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。
36節 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」ヨハネによる福音書 3章31節~36節
メッセージ
説教の要点
「命か怒りか」ヨハネ福音書3:31~36
本日の箇所は、3章から4章への橋渡しの部分ともいえます。とても短い箇所ですが、その内容は、ヨハネ福音書のここまでの総集編、ともいえる非常に深いものとなっています。或いは、ヨハネ福音書全体を何度も読みますと、この箇所の御言葉がこの後4章以下で繰り返されたり、展開されていることに気が付きます。つまり本日の箇所は、その前後の御言葉に作用していて、大胆に申し上げれば、ヨハネ福音書の神学的拠点とでも言えましょうか、とても大切な要素が詰まっております。
この説教の要点では、簡潔に5つの点だけを抜粋します。
①「上から来られる方」(=キリスト)と「地から出る者」とのコントラスト。ヨハネ福音書は、「初めに言があった」と宣言して始まった時から、常にこの天と地との関係が神学的な枠組みになっています。
②しかし、「だれもその証しを受け入れない(32節)」、という罪人の姿。⇒(1:5、3:11、12を参照)これはニコデモとの会話でも示されました。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない(3:11、12)」
③それでも尚、救われる者が与えられる約束。「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。(33節)」この「確認した」という字はもともと封印する、という意味でありまして、実はこの言葉は、私たちが洗礼を授けられて、生涯その身分が保証される、という約束が示される時に使われる「保証する」という言葉です(エフェソ書1:14、4:30)。これもこの福音書の3章までで繰り返されて来た永遠の命の入り口としての洗礼の役割です。⇒(1:12、13、3:7、8)
④このヨハネ福音書の神学的拠点として三位一体の神のお働きが強調されている。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。(34節)」、まず、ここで、「神がお遣わしになった方」と言われていますのは、直接的には主イエスです。しかし、主イエスは、決して単独で神の言葉を語っているのではなくて、父なる神が、聖霊なる神を限りなく与えてくださる、その上で主イエスは「神の言葉を話される」という関係があるわけです(12:49参照)。ここには三位一体の神が、神の言葉と言う目的で一体となっています。つまり神の言葉は、父子御霊の三位一体の神の交わりから与えられているものである、ということです。私たちに今与えられていますこの聖書は、三位一体の神の作品であり、この聖書によって、今も三位一体の神が働かれている、ここにこの聖書の絶対的な権威があるのです。
しかも、三位一体の神様は、神の言葉によって働かれる、ということです。神の言葉と神の霊を分離させて、御言葉とは無関係に神の霊だけが降る、ということはありません。聖書から離れた熱狂主義の類はキリスト教ではありません。神が“霊”を限りなくお与えになる、その時、神の言葉が語られるのであります。そして、主イエスから、福音宣教に遣わされた私たちも又、神がお遣わしになった者たちであり、聖霊が無制限に注がれているのであります。私たちは、それぞれは弱い器でありますが、そこにこそ驚くべき神の力が、御言葉によって働かれることを疑ってはならないのです。
⑤この箇所の結論として、御子キリストを信じるか、信じないかで、命か怒りかが決定することが明確にされています。「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。(35、36節)」、これもニコデモとの会話の中で、特にその頂点で神の愛を謳った3:16~21節の間で明確にされていたことの要約です。(特に3:18参照)
まずここでは、「御子を信じる人は永遠の命を得ている」と約束されていますとことが重要です。御子を信じる私たち信仰者は、その生涯全体の信仰生活の評価のようなもので、救われるか否かが決定するのではないのです。今このように地上を歩む今現在、すでに永遠の命が確定している、ということです。信仰生活を続けていく中で、私たちは日々罪を重ねていきます。時には大きな罪さえ犯してしまいます。しかし、その罪で私たちの救いが覆ることはあり得ない、それが聖書の約束です。御子イエスキリストが十字架で全てを贖ってくださったからです。ただこの私たちの唯一の贖い主イエスキリストを信じる、ここに救いが約束されているのです。ですから、逆に唯一の贖い主イエスキリストに従わないのであれば、そこには滅びしかないはずです。しかし、よく見ていただきたいのです。ここでは、「神の怒りがその上にとどまる」と記されているのです。どうして「神の怒りがその上にとどまる」のでしょうか。それは、主イエスを信じないその罪人の上にも神の愛があるからです。前述の通り、「御子を信じる人は永遠の命を得ている」と御言葉が言います時、私たちの救いが覆ることはないのです。だとすれば、「御子に従わない者」は、その滅びがすでに確定していて覆ることがないと宣言されても仕方がないわけです。しかし、「神の怒りがその上にとどまる」と言います時、まだ悔い改めて立ち帰る余地が与えられているのです。
これはローマ書の前半でパウロが人類の罪を延々と語ったところで明確にされています。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。(ローマ書1:18)」ここでも「神は天から怒りを現されます」、
とはっきり示されています。しかし、この怒りは、最後の最後まで保留されている怒りでありまして、その目的は罪人の悔い改めです。「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。(ローマ書2:4~5)」、神の怒りは、神の憐れみの裏返しであり、罪人を悔い改めに導くための手段である、最後の裁きの日まで、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐は、罪人に対して向けられているのです。主なる神は最後の最後まで、罪人の立ち帰りを待っていてくださる、その無尽蔵の愛の裏返しが神の怒りなのです。
そしてその圧倒的な愛の根拠も同時に語られています。「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。(35節)」、ここでは父なる神が、いかに御子キリストを愛しておられるかが端的に示されています。「その手にすべてをゆだねられた」、つまり父なる神は、全てを放棄するほどに御子を愛された、ということだからです。しかし、さらにその御子をお与えになったほどに私たち罪人を愛されたのが父なる神様ではなかったですか。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」、この驚くべき愛が与えられたのに頑なに立ち帰らない、そこに怒りが注がれる、これは当然であります。
しかし、その怒りの中にもまだ立ち帰りの福音が躍動しているのです。よく考えるまでもなく、立ち帰りとか悔い改めとか言うのは、極めて虫のいい話です。さんざん怪しからんことをやり続けたのに、手ぶらで、しかも汚れたままで帰ってきて赦されてしまうのですから。しかし、私たちは、虫のいい話でないと救われない罪人であることを今日確認したいのです。(エゼキエル18:21~23)