2023年03月26日「あの方は栄え、私は衰えねばならない。」

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あの方は栄え、私は衰えねばならない。

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 3章22節~30節

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22節 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
23節 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
24節 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
25節 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
26節 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
27節 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
28節 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
29節 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
30節 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
ヨハネによる福音書 3章22節~30節

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説教の要点

「あの方は栄え、私は衰えねばならない。」ヨハネ福音書3:22~21

本日の御言葉は、「ヨハネはまだ投獄されていなかった」時に、主イエスと洗礼者ヨハネの洗礼を授けるという働きが並行して行われていたことを示す貴重な資料です。そのような状況で「ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった(25節)」と聖書は報告しています。この清め論争は一体どのようなものであったのか、聖書にはその詳細についての記述はありませんが、この論争の火種になっているのが「洗礼」であったことはまず間違いありません。どうして清めが必要かと言いますと、それは神様の御前に人間が汚れているからです。旧約聖書では具体的には、レビ記の11章から26章の間を中心に汚れと清めについて細かく記されていまして、ここでは汚れが二種類のものに区別されています。

①「祭儀的汚れ」(11~15章)これは出産や病、或いは性器などからの漏出と言った、日常生活において避けようとすることのできないものです。「身体的汚れ」、「生理的汚れ」と言い換えることも可能でしょう。そしてこの汚れは、それが完治するまで、民の中から絶たれたり、祭儀に参加出来なかったり、神殿に入ることが禁じられるわけなのですが、一定の期間を経たのちに清めの儀式によって清められることになっていました。つまり、「祭儀的汚れ」には清めの方法がある、ということです。

②「道徳的汚れ」(17~26章)これは、性的不品行、或いは偶像崇拝、神様に対する冒涜、と言った人間の行為によって引き起こされるものでありまして、この道徳的汚れは、そのまま罪に直結します。「祭儀的汚れ」は不可抗力的なのものであるのに対して、「道徳的汚れ」の方は、人間の罪が引き起こす積極的な行為なのです。そして実は、「道徳的汚れ」の方は、それを清めるための具体的な儀式についての記述は旧約聖書にはないのです。それは永続的な汚れとして付きまとうのです。

 そこで洗礼なのです。その「道徳的汚れ」を清める方法として、新約聖書で登場するのが「洗礼」なのです。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた(マルコ1:4)」、とありますように、ここで初めて「道徳的汚れ」を清める具体的な儀式として洗礼という行為が登場してくるわけなのです。ですから、この「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」が、どれだけユダヤ人たちの間で、インパクトがあったか、それは想像に難くないでしょう。

 今まで、永続的な汚れとされてきた「道徳的汚れ」を清める具体的な儀式が、洗礼者ヨハネによって始められた、ユダヤ人は黙っていられなかったはずです。それがこの「清め論争」なのでしょう。

 ですから、この「清めのことでの論争」、と言いますのは、旧約から新約に時代が移る現実の中で必然的に起きた論争であり、罪の赦しを宣言できるメシアの登場がその背後にあるわけです。

勿論、「ヨハネの弟子たち」は、その深い主なる神様の救いの御計画などさっぱり分からずに、「ヨハネの弟子たちと、ユダヤ人との間」の清め論争は平行線をたどるしかなかったはずです。

しかし、「ヨハネの弟子たち」も「洗礼」という罪の赦しの行為が、ユダヤ人との論争の火種となっていたのはよくわかりました。ですから、ヨハネの弟子たちは、自分たちの授けている洗礼の優位性を説明しなければならないわけです。その場合、自分たち以上に、ナザレのイエスの洗礼に群衆が集まっていると説得力を失うわけなのです。そう言う事情で、ヨハネの弟子たちが師匠であるヨハネに問いかけた質問が、「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」というものになったのです。

 しかし、洗礼者ヨハネは、彼の弟子たちの期待するような回答をしません。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。(29節)」、と洗礼者ヨハネは、自らを「花婿の介添え人」に喩えて、弟子たちに彼のその役割を分かりやすく説明しました。「介添え人」は、主役である「花婿」の引き立て役であり、黒子のような存在であり、決して目立ってはならないのです。それが洗礼者ヨハネの役割でありました。しかし、どうでしょう。この節の御言葉で一番喜んでいるのは、他でもないヨハネなのです。彼は、ため息を残して婚宴の場を去っていくようなニヒルな役者ではありません。ここで、「花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」、そして、「わたしは喜びで満たされている」、と洗礼者ヨハネは、喜ぶという言葉を繰り返します。まず、「大いに喜ぶ」、と訳されている表現は、ギリシア語の本文を直訳しますと「喜びに喜ぶ」、となりまして、ニュアンスとしては、喜びが爆発している、そう言う状況です。さらに、「喜びで満たされている」、これは、喜びが、そのキャパシティーを超えて、外にあふれ出し零れてしまっている、「手の付けられない喜び」とでも言いましょうか。もはや、言葉で言い表すことが困難な、想像を絶する喜び、これが、わき役に徹してきた洗礼者ヨハネに今与えられている喜びなのです。そして、実はこれが主イエスを証するために用いられる伝道者に与えられる喜びなのです。

 最後にヨハネは語ります。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。(30節)」この「ねばならない」、は何度か確認してきましたが、神様のご計画の中で必ず実現することを示す時に使われる言葉で、ギリシア語では「デイ(δεῖ)」という字を書きます。これは神のmust、神の必然ともいえまして「わたしは衰えることになっている」とも訳せます。ですから、主イエスが栄えることも、ヨハネが衰えることも、神のご計画であり、神の御心であり、神の摂理の中で必ず実現するわけです。宿命とか運命のような偶然ではなくて、神の必然によって実現する出来事である、ということです。

 もうすでに天に召されていった牧師のお一人お一人が、往年の雄姿とはかけ離れた弱々しい姿で地上の歩みを終えていきました。その中には若くして病に倒れ天に召された牧師もおられました。

 しかし、病であれ、老衰であれ、福音宣教に勤しみ、衰えていくその姿は、天のお父様が与えてくださった福音宣教者の栄誉であります。

 加えまして、ここで見逃してはならないのは、「わたしは衰えねばならない」と語って消えていった洗礼者ヨハネは、さっさと福音宣教者から身を引いたわけではないということです。このヨハネ福音書が記していますように、主イエス様が登場しても尚彼は、その働きから引退するのではなくて、むしろ真打が登場したのにも関わらず、洗礼を授けてその働きを続けていたわけです。ヨハネはヘロデに逮捕されその働きを続けることが不可能になるまで、自らの意志で福音宣教を辞めようとはしませんでした。これも大切な福音宣教者の姿であります。生涯可能な限り福音宣教を続ける。這ってでも十字架の言葉を語り続ける。

 そして、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」これは伝道者や牧師だけではありません。これは、キリスト者が老いていく時に必ず与えられる御言葉ではありませんか。

私たちが衰えていって、動けなくなっても、福音宣教は躍動している。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」、とキリストが栄え、キリストの教会が成長していく姿に大いに喜びながら、私たちは目を閉じて天に移されていくことを願います。