2023年03月05日「十字架の論理」
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十字架の論理
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 3章9節~15節
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聖書の言葉
9節 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
10節 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
11節 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
12節 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
13節 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
14節 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
15節 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3章9節~15節
メッセージ
説教の要点「十字架の論理」ヨハネによる福音書3:9~15
先週も確認しましたように、この主イエスとニコデモとの会話は、永遠の命の論証と申し上げてよろしいでしょう。全体を通して、神の愛の目的が、私たち罪人の永遠の命である、というこの驚くべき真理が示されていくのです。
本日の箇所は、その二回目でありまして、前回、主イエスが、永遠の命の誕生が、完全に受け身であり、自由に働かれる聖霊なる神様のお働きであることを教えられたわけですが(8節)、それに対して、ニコデモが、「どうして、そんなことがありえましょうか(9節)」と狼狽した場面が記録されて始まります。
それに対して主イエスは、「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。(12節)」、と言われます。ここで言われています、「地上のこと」とは、8節までで語られた、地上で与えられる新しい命であります。
「風は思いのままに吹く(8節)」、と喩えられた聖霊の自由なお働きによって、「水と霊とによって」天から生まれること。つまり洗礼によって新しい命に歩み出すことであります。これが「地上のこと」に他なりません。ニコデモは、それが全く理解できませんでした。それなのに、「天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」、と主イエスは言われるわけです。全くもってその通りでありましょう。
しかし、面白いことに、主イエス様は、ここから天上のことを話し始められるのです。
「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。(13節)」
「天から降って来た者」、これは、当然主イエスのことでありますが、これは、このヨハネ福音書のプロローグで謳われているロゴス賛歌の冒頭が証言しています。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(1:1)」、この初めから神と共に、天におられた言(ロゴス)であるイエスキリストが、時満ちて地上に来られた、それが本日の御言葉では、「天から降って来た者」と示されているわけです。
さらに、「人の子」、という言葉が使われています。これは、神の御子であり、その力、存在、栄光が父なる神と等しいキリストが、私たちと同じ卑しい肉を取って地上に生まれた、その地上における神の御子イエスキリストを表現する言葉です。その「人の子」である、主イエス以外には「天に上った者はだれもいない」、とこのように主イエスは言われるわけです。つまり、天上のことを話し得るのは、主イエスだけである、ということがここで確認されているのです。
そして、今や明らかにされる「天上のこと」、のその頂点に、いよいよ次週学びます16節の御言葉があるのです。今一度、先回りをいたしまして、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」、これです。この新旧両約聖書全体を通しても類を見ない神の愛の真理、これが「天上のこと」のクライマックスとして、今や、目の前に用意されているわけです。
しかし、その前に、その神の愛の頂点を支える旧約聖書の証言が引用されます。
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。(14節)」
これは、イスラエルの民の出エジプトから、荒れ野を40年間さまよった間に起こった事件が背景になっています。(この出来事の全体は、民数記21:4~9を参照ください。)
「主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。(民数記21:8~9)」このモーセが荒れ野で上げた「青銅の蛇」を主イエスは、ご自身のこととして引用されたのです。
イスラエルの民は、エジプトの奴隷状態から解放されたのにも関わらず、ことあるごとに神につぶやき、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか」、とまで言い出していました。その懲らしめとして、「炎の蛇」によって、多くの者がかみ殺されました。
しかし、モーセが神に祈り、主なる神の命じられた通り、青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げることによって、それを仰いだ者は救われたわけです。すなわち、これは、イエスキリストの十字架です。これを主イエスはご自身の十字架に引用し、死ぬべき人間が、十字架の主イエスを仰ぐと、命を得る、この赦しの福音の証拠聖句にしているのです。
しかし、ここには驚くべきコントラストがあります。
主イエスは、「天から降って来た者」であります。しかし、その「天から降って来た者」である、「人の子も上げられねばならない」、と主イエスが言われる、その上げられる場所は十字架なのです。
本来、果てしなく高いところにおられるべき方が、地上2メートル程度の十字架にあげられる、このコントラスト、本来、いと高き天の玉座におられて全人類に崇められるべきお方が、十字架の上で、全ての人に蔑まれる、この驚くべきコントラストなのです。
さらに、ここで見逃してはならないのは、「人の子も上げられねばならない」と主イエスが言われているところです。この「ねばならない」、という字は、ギリシア語では、「デイ(δεῖ)」という字を書きまして、これは、神のご計画によって、必ず起こることになっている出来事を指す時に使われる言葉です。
神のMustと呼んでもよろしいでしょうか。「人の子も上げられることになっている」、と訳すことも可能です。さて、さらに主イエスは続けます。
「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。(15節)」
これが天上の論理であり、すなわち十字架の論理です。いと高き神の御子が、十字架に上げられる、それが、この世の罪人の救いとされる、ということです。これは地上では決してあり得ない論理です。どうして、罪なき者が、罪人のために死んでよいでしょうか。しかも神の御子が、罪人のために死んでよいでしょうか。そんな馬鹿な話はありません。
私たちは、多くの矛盾を感じながら生きています。私たち自身、理不尽な目に会いますし、特にこの頃は、身の回りでも、世の中壊れてしまっている、と開いた口が塞がらない事件が頻発しています。世界に目を向けましても、戦争は終わらず、大地震は頻発し、弱い者たちが犠牲になっている。これを説明するこの世の論理はありましょうか。いいえ、ありません。しかし、私たちは十字架の論理を知っています。これ以上の矛盾はないはずです。世界がひっくり返ってもあってはならないそれが神の御子の十字架であり、この十字架の論理に立つ以上、私たちは、何があっても、天を仰ぎ、キリストを待ち望みます。必ずや全てが新しくされて神の国が完成することを微塵も疑えないのであります。
十字架の論理は、私たち罪人の希望そのものであります。