2023年02月26日「神から生まれる」
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神から生まれる
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ヨハネによる福音書 3章1節~8節
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聖書の言葉
1節 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
2節 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3節 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4節 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5節 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
6節 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
7節 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
8節 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
ヨハネによる福音書 3章1節~8節
メッセージ
説教の要点
「神から生まれる」ヨハネによる福音書3:1~8
本日から、ヨハネ福音書講解説教は、いよいよ3章へと入って行きます。
ここではニコデモというユダヤの最高議会の議員が突如現れて、21節まで続く主イエスとそのニコデモとの会話によって、これ以上ない神の愛が示されていきます。今回は、この部分を3回に分けて、共に学んでいく予定です。本日は、8節までの部分、次週は、9節から15節までの部分、そして再来週は、16節から21節までの御言葉に教えられたい、と願っています。
この全体の文脈の中で、特に注目していきたいのは、「永遠の命」という言葉で、最も簡潔に申し上げれば、神の愛の目的が、私たちの永遠の命である、それがこの全体で示されています。
このニコデモとの会話は、永遠の命の論証であり、本日の御言葉は、その最初の一歩です。
ニコデモの挨拶に対して主イエスは、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。(3節)」と返答します。そしてこれを契機に永遠の命の論証が始まります。
しかし、最初から両者に食い違いがあります。主イエスが、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、と言われたのに対して、ニコデモは「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか(4節)」と言うわけです。百歩譲って、もし、もう一度母親の胎内に入って生まれることが、可能だとしても、この論理によれば、彼の考える永遠の命は、若返りの繰り返しでありまして、永遠の命とは言えません。ニコデモは、あくまでも、この地上の出来事の範囲で永遠の命について論じているのです。
実は、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」、と主イエスが言われています新たに生まれる、という部分が非常に大切なのです。これは、もともとのギリシア語の本文で素直に訳しますと、「上から生まれる」となります。主イエスは、「上から生まれなければ、神の国を見ることはできない」、と言っているのに、ニコデモは、その「上から」という字をわざわざ「もう一度」という字に訂正して聞き直しているのです。彼は、神の可能性を人間の可能性に翻訳しているのです。
主イエスは、そのさっぱり理解できてないニコデモに対して、表現を変えて同じことを仰います。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない(5節)」、ここでは、新たに生まれる(上から生まれる)が、水と霊とによって生まれる、に言い換えられています。これは、すなわち洗礼のことであります。水と言うのは、罪の洗い清めの象徴であり、霊と言うのは神の霊、すなわち聖霊でありまして、これは新しい命、永遠の命のことであります。「水と霊」、これは罪の赦しと永遠の命を象徴する言葉でありまして、これが実現するのが洗礼なのです。
実はこのヨハネ福音書で、この「神の国」という言葉が使われるのはここだけです。ですから、この御言葉は、ヨハネ福音書全体の中でも、洗礼と神の国を結び付けた非常に大切なところであります。
さて、その上で主イエスは、上から生まれる、言い換えれば、水と霊とによって生まれる、というこの状態について説明されます。まず、『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。(7節)」と主イエスは言われます。この新たに生まれる、の部分も直訳は「上から生まれる」、であります。先ほど「上から生まれる」と主イエスが言われたことに対して、ニコデモは、「もう一度母親の胎内に入って生まれること」だと勘違いして混乱していました。そのニコデモに対して、再度主イエスは『あなたがたは上から生まれねばならない』と繰り返して、その説明をするわけです。
そしてそれが、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。(8節)」この部分です。
実は、ここで、「風」、と訳されている字と、「霊」、と訳されている字は、全く同じで、これらは、いずれもギリシア語で「プニューマ(πνεῦμα)」という字を書きます。つまり、この「風」、と言うのが、霊の比喩的表現であることが分かります。ここでは極めて自由な聖霊の働きが示されているわけです。
聖霊は、御心のままに働かれる、そして私たち人間にはそれがわからない、ということです。
そして、「霊から生まれた者も皆そのとおりである」、と主イエスが言われます時、この霊から生まれる、というのは、先ほどから繰り返されています「上から生まれる」のことであり、すなわち、洗礼によって永遠の命に歩み出すことであります。
ここから、2つ大切なことが導き出されます。本日の御言葉は、永遠の命の論証の最初の一歩の部分である、と最初に申し上げました。まずそこで大切なのは、「生まれる」、ということです。
本日の御言葉では、新たに生まれる、すなわち上から生まれる、或いは、水と霊とによって生まれる、霊から生まれる、と繰り返えされてきました。これらをあえて一つの言葉にまとめるのなら「神から生まれる」となりましょう。そして、ギリシア語の本文で、本日の箇所には、「生まれる」という字が8回使われていますが、当然のことながら、全て受け身であります。肉の命の誕生が完全に受け身であるように、神から生まれる、この永遠の命の誕生も完全に受け身なのです。これが非常に大切です。
肉の命の誕生がそうであるように、永遠の命に生まれようと思って、それを実行して生まれることは出来ないのです。いいえ、私は自分の意志で洗礼を受けました、と言われる方も多いと思いますが、それさえも、完全に神の導きです。神は人間の意志や環境など、あらゆるものを用いて働かれます。
洗礼を受ける時は、聖書もキリスト教もあまりよくわからなかった、ただ主イエスの救いが欲しかった、という方もおられますし、本格的に原語から研究して聖書を隅から隅まで読んでも洗礼を受けることが出来なかった、という方もおられます。どちらも素直な姿であり、間違いではありません。洗礼と言うのは洗脳されたり、思い付きで受けるものではなく、人間の理性や経験が総動員されたうえでの決断だからです。しかし、そこにこそ聖霊なる神の導きがあるのです。
それゆえに二つ目、その聖霊のお働きを、私たち人間はコントロールできないということです。
もし、聖霊なる神が、一人の罪人を救われるように働かれるのなら、その罪人は、必ず洗礼へと導かれます。誤解を恐れずに申し上げれば、嫌でも、救われてしまう、それが聖霊のお働きであり、その力に立ち向かえる人は、一人もおりません。風は思いのままに吹くのであります。そしてこれは生涯続くのです。信仰者である以上、その主導権は聖霊なる神様にあります。
「風は思いのままに吹く、その音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」、とこのように、聖霊なる神は最も自由に働かれています。私たちは、それをコントロールすることなど出来ません。しかし、風の音を聞くことは出来る、風を感じることは出来る、風に逆らわずに歩むことは出来るのです。私たちの役割は、聖霊なる神様をコントロールしようとすることではなくて、聖霊なる神にコントロールされることなのであります。それこそが永遠の命に続く道に他なりません。
そして、その方法が、礼拝中心の生活であり、神の言葉と祈りに従って生きることであります。