2023年02月19日「人の心の中にあるもの」
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人の心の中にあるもの
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ヨハネによる福音書 2章23節~25節
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聖書の言葉
23節 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
24節 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
25節 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。ヨハネによる福音書 2章23節~25節
メッセージ
説教の要点
「人の心の中にあるもの」ヨハネによる福音書2:23~25
本日の御言葉は、とても短いところですが、先週の宮清めの記事と次の3章の御言葉の橋渡しのような役割をしていて、実はここにも非常に大切な御言葉の真理と福音が溢れています。
ここでは、「多くの人がイエスの名を信じた(23節)」のに、「イエス御自身は彼らを信用されなかった(24節)」、と御言葉は語り、その理由が二つあげられています。
一つは、主イエスは、すべての人のことを知っておられた、ということです。
ここで、大切なのは、全ての人が一括りにされている、ということです。ここでは、人間の全ての区別が取り除かれているのです。人種や性別、この世の地位、或いは、善人悪人のような区別さえもないのです。それは全員罪人だからです。私たち人間は周りを見渡して、あの人よりはましだと安心したり、あの人には歯が立たないと劣等感を抱きます。しかし、主イエスの視点は全く違うのです。そして大切なのは、私たちが周りを見渡して自分の位置を確認することではなくて、主イエスの御前でどうであるか、ということなのです。
さらに、主イエスは、すべての人のことを知っておられた、その時、多くの人がイエスの名を信じたのに、主イエスは、彼らを信用されなかった、という事態が起こっている、この重大さです。
キリスト教は、十字架の主イエスが、私の救い主であることを信じて、それを公表し、洗礼を受けた時に、救いが約束される、簡単に申し上げればこれが救いの教理です。キリスト教の救いは非常に単純でありまして、救い主イエスキリストを信じる、ここに救いが実現しています。
しかし、これが安易に転用されて、「信じる者は救われる」、のような格言にまで発展するような要素は、キリスト教にも、聖書にも全くありません。主イエスを信じる、というのは生涯全体を賭けた信仰告白以外ではないからです。ですから、多くの人がイエスの名を信じた、しかし、そこにはうわべだけの信仰も、混ざりこんでいた、これがここで暗示されているのです。むしろ、「信じる者は救われる」、という格言は、ここでは却下されています。そもそも、しるしを見て、イエスの名を信じることは、信仰とは言えません。そのしるしが、自分にとってメリットになるから、信じるのであれば、それがデメリットに変わった瞬間、その信仰ごっこは終わるからです(6:66、Ⅰヨハネ2:19参照)。
そして、多くの人がイエスの名を信じたのに、イエス御自身は彼らを信用されなかった、と御言葉が言います二つ目の理由が、「人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである」、これです。イエスキリストが神の御子であることを証するのは、私たち人間の役割ではないということなのです。それは聖書の役割なのです。聖書が、イエスキリストは神の御子であることを証するのです。これはこの福音書の所々に見られますが、この少し後ではっきりと記されています。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(5:39))」、イエスが神の御子であることを証明する役割は聖書にあって、私たちの役割は、その証に対して「イエスは主である」と額づいて信仰告白することなのです。そして、実は、この聖書だけが、主イエスを証しうる権威を持つというこの原則は、キリスト教のあらゆる神学の方法論に適用されなければならない根本的なルールでもあるのです。
このヨハネ福音書のプロローグでも謳われていますように、言葉が肉となって世に来られたのが主イエスであり、つまり主イエスご自身が御言葉でも有られるのです。
この聖書が、キリストの言葉であり、キリストご自身である以上、聖書は聖書以外の思想で解釈してはならない、ということです。この世の哲学やその他の思想、或いは聖書以外の文献によって、相対的に聖書を解釈してはならないし、その必要もないのです。聖書は、聖書によってのみ解釈する、「だれからも証ししてもらう必要がなかった」、と御言葉が言います時、この聖書解釈の原理が導き出されるわけなのです(ウエストミンスター信仰告白1:9参照)。
そのうえで、この短い御言葉は、「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。(25節)」と終わります。この御言葉から大切な二つの真理が与えられています。
一つ目は、それでも尚、主イエスは私たちを用いてくださっている、ということです。
24節の方では、主イエスは、「すべての人のことを知っておられ」、と記されています。私たちは主イエスの御前に何一つ隠すことなどできないのです。誰にも言えないような恥ずかしい罪の一つ一つさえも、全て明らかにされています。しかし、その上で私たちは赦され、そして救われて、今このように福音宣教の群れに生かされているのです。
私たちは、もっと胸を張って生きてよいのではないでしょうか。多くの恥を抱えて、罪に顔を曇らせるような生き方は、私たちキリスト者には似合いません。むしろ、その全てがキリストの十字架で帳消しにされた、この平安と喜びに生きる、これが私たちキリスト者の生き方であります。
そればかりではありません。今や、私たちは信用されているのです。
「すべての人のことを知っておられ」~「イエスご自身は、彼らを信用されなかった」、とこの御言葉は言います。しかし、その主イエスご自身が、十字架と復活でその信用さえ回復されたのです。
これが極めて大切です。福音宣教が、私たちに委ねられているのはどうしてでしょうか。
それは、今や私たちが十字架と復活の救いに与り、信用された者として遣わされているからです。
もう一つは、次の章との神学的なつながりです。
次の3章のニコデモとの会話によって引き出される真理は、聖書の頂点にある神の愛であります。
少し先回りをしまして「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」
これほど鮮やかに神の愛を謳った御言葉は見つかりません。しかし、神が愛されたこの世には愛すべき要素など何一つなかったのです。「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」、と御言葉が言います時、人間の心の中にあるものは、罪と汚れです。このコントラストなのです。全く愛する価値のない罪人のために、神は、その独り子をお与えになった、本日の御言葉では、この人間の本来の姿が描かれ、直後に謳われる神の愛の偉大さに目を向けさせる機能も持っているのです。
今週の金曜日で、ロシアのウクライナ侵略から丁度一年が経過します。世界は、この一年で戦争の無意味さと悲惨さを改めて学習したはずです。しかし、この世はますます憎しみあい、平和から遠のいていくのです。すべての人間の心の中にある罪の深刻さが、この現実で証明されています。
しかし、その罪の世に「神は、その独り子をお与えになった」、これが福音です。救われる値打ちなど全くない者が救われる、だから福音なのです。そして、これを宣教するのが私たちの役割であります。争いの絶えないこの世が、福音宣教の舞台なのです。