2023年01月29日「最初のしるし(後)」
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最初のしるし(後)
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 2章1節~12節
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聖書の言葉
1節 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2節 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
3節 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
4節 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
5節 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
6節 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
7節 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
8節 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
9節 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
10節 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
11節 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
12節 この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。
ヨハネによる福音書 2章1節~12節
メッセージ
説教の要点
「最初のしるし(後)」ヨハネによる福音書2章1節~12節
先週から、この福音書の最初のしるしを記録した御言葉に教えられています。前回は、このしるしが行わるまでの経緯が描かれている場面でした。本日は、後編といたしまして、この最初のしるしが明らかにされる場面です。
ここで、「世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした(9節)」、と記録されています。そして、この世話役は、瞬時にそれが極めて上等なぶどう酒であることを理解したのです。
しかし、彼が理解できたのはそこまででした。世話役は、このしるしを、花婿側の粋な演出である、と大きな勘違いで終わらせているのです。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。(10節)」、これがこの世話役のしるしに対する理解の全てでありました。すなわち、キリストのしるしが行われることと、人々がそれを理解することとは別問題である、ということです。それどころか、真っ先にそれを味わった者が、自分勝手に解釈し、このしるしに対する結論を出していたのです。
世話役は、彼が思いつく最も合理的な方法でこのしるしを理解したのです。
現代も似たような状況は起こりうるのではないでしょうか。
実に、私たちが与えられている、この聖書の御言葉こそは、水がぶどう酒に変わる以上のしるしであります。聖書、それはこの世に与えられているキリストのしるしそのものであります。だから、今、水がぶどう酒に変わる必要など全くないのです。しかし、やはり多くの人たちが、この聖書という絶対的なしるしに合理的な結輪を出して通り過ぎていく。特にその聖書の頂点にあるキリストの十字架の死と復活のしるしについても、合理的な、科学的な説明を求めるだけなのです。
すなわち、神を科学や人間の論理の下に退けてしまっている、これがこの世の立場なのです。この最初のしるしは、現代に至るまでの、さらに世の終わりまでの、世の人々のしるしに対する態度も端的に示しているのです。
しかし、聖書は、この世話役の大きな勘違いなどには興味を示しません。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された(11節)」、これが聖書のこの最初のしるしに対する結論であります。そのしるしを人々が理解しようがしまいが、それはここでは問題とはされず、客観的にそのしるしが行われたことを記録して、この記事を終わらせているのです。
そこで重要になってくるのが、「わたしの時はまだ来ていません。(4節)」この主イエスの言葉です。
先週の前編で、このわたしの時と言うのは、主イエスの十字架の時であることを確認し、その上で、「この最初のしるしは、実は主イエスの十字架との関連で行われる、ということで、これが最も大切なこのしるしの意味なのです。」とこのように申し上げました。実は、ここで主イエスが、「婦人よ」、と母に対して、「わたしの時はまだ来ていません。」と言っているところが重要なのです。
実は、このヨハネ福音書におきまして、この後イエスの母は、人々の会話に中では出て来ますが、実際彼女が登場するのは、主イエスの十字架の場面なのです。
「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(19:25~27)。」
最初のしるしの次にイエスの母が登場するのは、この場面なのです。そして、次の節で「こうして、聖書の言葉が実現した。(19:28)」という極めて重要な報告が記されています。さらに、ここでは、「愛する弟子」という匿名の弟子が登場してきます。この愛する弟子がイエスの母を自分の家に引き取ることになるのです。
ですから、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。(4節)」、これは、そのまま十字架の記事に接続しているわけなのです。この最初のしるしは、そのまま主イエスの十字架の死を指し示していた、ということです。十字架の記事の結論として、「こうして、聖書の言葉が実現した。(19:28)」と記録されていました。水がぶどう酒に変化するこの最初のしるしは、聖書の言葉の実現であります十字架のしるしに対するプロローグであり、この枠組みの中に、他の全てのしるしが吸収されているわけなのです。
ですから、この最初のしるしで水に変えられたぶどう酒は、イエスキリストの十字架の血を指し示す機能も持っています。
「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。(6節)」、と記録されていました。ここでは、ユダヤ教の清めが不完全であり、そればかりか、それは冷たく重い石の水がめのように、人々を束縛していただけであったことが仄めかされていました。その不完全な清めと重たい束縛が、ぶどう酒に変化した。ユダヤ教の不完全な清めは、十字架の血によって完全な清めに、そして自由へと変えられたわけです。完全な罪の赦しと、喜びに満ち溢れた自由、それがイエスキリストの十字架によってもたらされる、この最初のしるしはその序章でもあるのです。
加えまして、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。(11節)」実は、この「その栄光を現された」、とあります「現す」、という字は、Ⅱコリント書でも非常に大切なところで使われています。
「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。(Ⅱコリ2:14)」
これは福音宣教の縮図ともいえる御言葉でありますが、この最後の「漂わせてくださいます」、この漂わせる、という字が、実は、本日の御言葉で、「その栄光を現された」、とあります「現す」、という字と全く同じであります。
主イエスがその栄光を現されたように、私たちは、キリストを知るという知識の香りを現すために用いられている。それは、まず私たちがキリストを知ったからであります。その時、私たちの中で決定的な変化が起こったのではありませんか。味気ない水のような心が、そして生活が、芳醇なぶどう酒で満たされたのです。だから、その私たちが、キリストを知るという知識の香りを漂わせるために用いられるのです。しかも、それは全て受け身であります。わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせてくださるのも、私たちからキリストの香りを漂わせてくだるのも、主なる神であります。
この最初のしるしで用いられた召使たちのように、我が道を主にまかせ、主に信頼する者でありたいと願います(詩編37編)。