2023年01月22日「最初のしるし(前)」
問い合わせ
最初のしるし(前)
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 2章1節~12節
Youtube動画
Youtubeで直接視聴する
聖書の言葉
1節 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2節 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
3節 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
4節 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
5節 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
6節 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
7節 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
8節 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
9節 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
10節 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
11節 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
12節 この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。
ヨハネによる福音書 2章1節~12節
メッセージ
説教の要点
「最初のしるし(前)」ヨハネによる福音書2章1節~12節
本日の御言葉は、12章終わりまでのこの福音書の前半部分で記されている7つのしるしの最初しるしで、通常「カナの結婚式」というタイトルで日曜学校などでもよく教えられる箇所です。
実は、ここには、非常に深い御言葉の真理が凝縮されていまして、到底一度で終えることは出来ません。それで、今週と来週の二回に分けて、前編と後編で、丁寧にこの御言葉に教えられたい、とこのように願っています。
事の起こりは、「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。(3節)」このぶどう酒が底をついたことでした。この時代婚礼は、通常一週間続く大きなイベントで、その喜びを祝う席でぶどう酒がなくなった場合、ホスト側の面目は丸潰れです。
「ぶどう酒は人の心を喜ばせ(詩編104:15)」、と古の信仰者も謳っていますように、当時ぶどう酒は喜びを象徴する、なくてはならないものでした。
ところが、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。(4節)」、と主イエスは返答しました。親子であるのに、非常に冷淡な言い方に聞こえます。
しかし、ここで、大切なのは、「わたしの時はまだ来ていません」、この主イエスの言葉で、この「わたしの時」、これはこの福音書におきまして何度も繰り返される、十字架の時を意味する表現です(7:6、8、30、8:20、17:1etc.参照)。ですから、「わたしの時はまだ来ていません」、と主イエスが言われます時、ここから始まるしるしは、実は主イエスの十字架との関連で行われる、ということで、これが最も大切なこのしるしの意味なのです。これは次回また詳しく確認することになります。
そして、この主イエスの返答に対する母の対応が、実は大切です。「しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。(5節)」、彼女には、主イエスの言葉の意味がよくわからなかったはずです。しかし、信じたのです。だから、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」、と言ったわけなのです。
キリストの言葉に従う、というのは、それを私たちが理解できない場合にも求められるのです。腑に落ちて初めて御言葉に従う、という人間中心な姿勢は信仰者でなくても可能です。神様どうしてですか、と疑いたくなる、逃げたくなる、しかし、御言葉が言うのなら従いましょう、これが信仰者ではありませんか。そして、その時、私たちは神の偉大な御業の目撃者とされるのです。
さて、この信仰者の言葉が用いられて、ここからしるしが行われていきます。「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。(6節)」、ここで大切なのは、六つの水がめが、ユダヤ人が清めに用いるためのものであった、ということです。六と言うのは、聖書的に非常に不完全なもの、さらに言えば忌まわしいものさえ意味する象徴的な数字です。ですから、実はここでは、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが、不完全なものであったことが暗示されているのです。しかも、喜びを象徴するブドウ酒が尽きた時、そこには、ユダヤ教の重たい石の水がめが並んでいた。これが、当時のユダヤ教の姿そのものではなかったでしょうか。当時ユダヤ教の指導者たちは、清めに敏感で、律法の要求以上に細かい規則を作り出して人々を縛り付けていました。そこには喜びなんてありません。せいぜいあるのは冷たくて、重たくて担うのも困難なルールばかりです。重たい、石の水がめが、そこに横たわっているかのように。
しかし、実に、その重たく冷たい石の水がめが用いられるのです。
「イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。(7節)」、この節から二つ大切なことを確認して、それ以降は次週の後編で学びます。
一つは、ここで、召し使いたちが登場して、主イエスに用いられている、ということです。
この召し使いたち、これはギリシア語では、「ディアコノス(διάκονος)」という字を書きまして、これが、「執事」と言葉の語源となりました。この召し使いたちこそは、何が何だかさっぱりわからなかったはずです。この時代、勿論水道のようなものはございません。だから彼らは、近くの井戸まで何度も往復して、水を運んで、かめの縁まで水を満たした、水瓶を一杯にした、これは大変な重労働であります。しかし、教会の働きはこのようなものなのかもしれません。
今日私たちの手元に配付されたこの年報には、昨年一年間の私たちの奉仕が記録されています。例えば、会計報告の数字すべてが、毎週の執事さんのお働きの上に誤りなく記載されています。
特に、このお働きは、近くの井戸まで何度も往復して、水を運んで、かめの縁まで水を満たした、その姿ではないでしょうか。
教会は神の国の完成のために勤しんでいます。しかし、神の国は目には見えませんし、その進捗状況も、いつ完成するかさえもわからない。それでも尚、主イエスを信じて愚直に続ける、教会の奉仕はその連続です。そして、そこにこそ信仰者は喜びを見出すのです。
さらに、この召し使いたちは、完全に裏方仕事です。恐らく宴会の席からは全く見えない働きでしょう。実は、表に出ない、今で言いますとホームページやインスタグラムなどでは掲載しようのないそう言う働きが、神の国の完成のために主イエスに用いられているのです。
イエスの母は、「そのとおりにしてください」とお願いし、召し使いたちは、その通りにした。その先に何があるかは、はっきりはわからない、骨もおれる。
しかし、主イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われる時、召使いたちは、「かめの縁まで水を満たした」のです。それが、主イエスのしるしのために用いられたのです。
大切なのは、かめの縁まで水を満たすこと、すなわち、御言葉にそのまま従うことでなのです。
二つ目は、主イエスは、役に立たないものを、役立つものへ、不完全なものを完全なものに変える方である、ということです。ぶどう酒が尽きた時、そこにあったのは、石の水がめが六つだけでありました。この重たく冷たい容器から、この後喜びのぶどう酒が生まれることになるのです。
私たちは、そして、私たちの教会は、主イエスのお役に立っているのだろうか、と悩むことがあります。不信仰さに嘆くこともあります。私たちは、罪を悔いては犯す罪深く汚れた者であります。当時のユダヤ教を、重たく冷たい石の水がめ、と私たちは批判できるような立場にはないのです。
その私こそ、役に立たない石の水がめのようだからです。しかし、そこからぶどう酒を、そこから喜びを創造してくださるのが主イエスなのです。
福音に立つ時、私たちがどうであるか、それは問題ではありません。大切なのは、その私を用いてくださるイエス様がどなたであるか、ということであります。
主イエスが共におられる時、この役に立たない石の水がめから、尽きることのない喜びが湧き出でて、この世を潤すのです。