2023年01月15日「あなたがたは見る」
問い合わせ
あなたがたは見る
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 1章47節~51節
Youtube動画
Youtubeで直接視聴する
聖書の言葉
47節 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
48節 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
49節 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
50節 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。
51節 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
ヨハネによる福音書 1章47節~51節
メッセージ
説教の要約
「あなたがたは見る」ヨハネによる福音書1章47節~51節
先週の御言葉では、主イエスの最初の弟子たちが形成されていく場面が描かれていましたが、一人だけ異端児的存在と言える人物が登場してきました。それがナタナエルであります。
そのナタナエルに主イエスは、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。(47節)」と言われ、それに対して、ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」、と問うと、主イエスは、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た(48節)」とこのように答えられました。この主イエスの回答が、ナタナエルを驚かせ、この後信仰告白へと導くのですが、これは単に超能力的なメッセージに驚いているのではありません。実は、「いちじくの木の下にいるのを見た」、これが、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」、これを強烈に裏付けていて、ここに深い意味があります。パレスチナ地方ではイチジクの木は、かなりの大木に成長し、この時代、その大きなイチジクの木の下は、律法の学びの場所の言い換えであったのです。一日の寒暖の差が激しく、日中の強い日差しを避けるために、多くのラビたちは、イチジクの木陰で弟子たちと共に律法の学びをしていたのです。ですから、「いちじくの木の下にいるのを見た」、これは、律法を熱心に学んでいるナタナエルの姿を現して、彼が「まことのイスラエル人(当時のユダヤ主義者や権力者をこの福音書ではユダヤ人と言い、真の信仰者をイスラエル人と呼ぶ)」であり、「この人には偽りがない(原文の意味は、神の言葉を曲げない)」、ということを裏付けたのです。だから、ナタナエルの目が開かれたのです。
御言葉の説教を聞いていて、まるで、私の心の中まで見透かされているように、後ずさりすることがないでしょうか。説教者は、主イエスのような霊的な洞察など、これっぽっちも持ち合わせていませんが、御言葉は、私たちの心を砕くからです。説教者が、御言葉の要求する通りに御言葉の説教を語る時、信仰者、或いは求道者の心に響くはずなのです。ここに私たちを招いてくださっているのが、主イエスである以上、主イエスご自身が、必ず週ごとに御言葉の糧を与えてくださっているからです。
この礼拝で起こる主イエスの導きをパウロは、コリント書で的確に表現しています。「心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。(Ⅰコリント14:25)」これです。心の内に隠していたことが明るみに出される、これが御言葉の説教の役割であり、その時、悔い改めと信仰が与えられて行くのです。ナタナエルにも、このことが起こったのです。
しかし、ここで主イエスは「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか(50節)」とナタナエルに問い返されます。つまり、これだけでは不十分である、ということなのです。主イエスを神の御子と信じるためには、もっと偉大なことを見なければならない、これはそう言う意味なのです。そして、そのもっと偉大なことが最後に、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる(51節)」、と示されます。これは、旧約聖書の創世記28章のヤコブの夢の場面からの引用です(創世記28:10~12)。実は、この時、ヤコブは、家族を欺いて居場所がなくなってしまい、親戚の家へと逃亡中でした。その惨めな逃亡者ヤコブが見た夢、それが、「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」これなのです。
実は大切なのは、この後の主なる神の言葉なのです。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である~(中略)~地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。(創世記28:13~15)」これは旧約聖書における祝福を伴う神の契約の定型文と言えます。この全く同じ契約がすでにアブラハムに与えられていて(創世記12、15、17章)、それが、ここでヤコブに改めて確認されたわけです。
重要なのは、これが偽り者で宿なしのヤコブに与えられた、ということなのです。そして、そのヤコブがイスラエルなのです。ですから、アブラハムに最初に与えられたこの契約は、イスラエルがどのように落ちぶれても更新され続ける、これがこの場面で最も強調されている神の約束なのです。そして、まさに旧約聖書は、その証言集であります。堕落し続けるイスラエルの罪の深さと、神の忍耐と憐れみの偉大さ、だから旧約聖書は分厚いのです。今主イエスは、これをナタナエルに示したのです。しかし、よく見ますとナタナエルだけではありません。最後は、「あなたがたは見ることになる」とこのように二人称単数ではなくて、二人称複数に変えられています。つまり、ナタナエルに代表されるまことのイスラエルが、この約束の対象とされているわけです。
では、その神の契約を目撃する真のイスラエルとは何でしょうか。それは、教会です。旧約のイスラエルは、新約のエクレーシア、すなわち教会なのです。パウロは、ガラテヤ書のエピローグで、割礼を救いの根拠とするユダヤ主義者たちに真のイスラエルである神の教会を示しました。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」、と謳われていますように、「大切なのは、新しく創造されること(ガラテヤ書6:15、16)」、すなわち、主イエスの十字架で罪赦され、復活の主イエスと共に永遠の命に生きることであります。それが、神のイスラエルであり、教会であります。
パウロと共に新約聖書を代表する主イエスの使徒ペトロも真のイスラエルを見事に謳っています。
「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(Ⅰペトロ2:9)」これです。ここに真の神の民イスラエルが鮮やかに示されています。そして、ここに暗闇の中という場所と、驚くべき光の中という場所がそれぞれ示されています。
私たちは、かつては滅びに向かう暗闇の中を歩む民でありましたが、主イエスの憐れみによって、教会という驚くべき光の中へと招き入れられたのであります。勿論、私たちは世の中に生活しています、世の人たちと全く同じようにこの地上で生きている。しかし、この地上にあって天の国の祝福に与っている、それが教会なのです。そして、これが、主イエスが最後に言われていることの意味なのです。 神の言葉が鮮やかに証言され語られる、それは天が開けることであります。それだけではない、天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りする、教会に天国の入り口があって、天と地を繋ぐ階段が伸びている、私たちは、それを御言葉によって今見ているのであります。すでに召された兄弟姉妹は天にあって主に見え、私どもは、地上の教会にあって同じ主に見えているのです。来て見なさい、と言われたその主イエスが、あなたがたは見ると約束された天国の祝福を私たちは、地上にありながら目撃しているのであります。
ナタナエル、はヘブライ語で「与える」という言葉の「ナタン」、そして「神」を意味する「エル」、が組み合わされて呼ばれた名前です。「神、与え給う」そう言う意味です。神がご自身の民をキリストの教会に与え給う、つまりナタナエルは神の民そのものを意味する言葉であり、教会に集う私たちこそナタナエルです。