2023年01月07日「来て、見なさい。」
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来て、見なさい。
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- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 1章40節~46節
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聖書の言葉
40節 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
41節 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。
42節 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
43節 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。
44節 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
45節 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。
46節 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
ヨハネによる福音書 1章40節~46節
メッセージ
説教の要約
「来て、見なさい」ヨハネによる福音書1章40節~46節
先週から、ヨハネ福音書の講解説教を再開し、そこには、洗礼者ヨハネの最後のキリスト証言と、それによってもたらされた出来事が記録されていました。
洗礼者ヨハネは、「見よ、神の小羊だ」、と最後に主イエスを証言してその役割を終えていきました。そして、この洗礼者ヨハネのキリスト証言によってイエスに従った弟子たちの更なる動向が、この後1章の終わりまでで示されています。この部分を二つに分けて、今週は46節まで、次週はそれ以降の部分から教えられていきたいと願っています。
本日の御言葉のキーワードは「会う」、或いは「出会う」と訳されている言葉です。
「彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、(41節)」、「イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、(43節)」、「フィリポはナタナエルに出会って言った(45節)」、これらは、「見つけ出す」、と通常訳される言葉でありまして、あの迷子の羊や放蕩息子が見つけられた時に使われる字で、必死になって探したうえでの発見を表現する時に用いられる、聖書的に非常に大切な意味を持つ言葉です。
アンデレは、真っ先に自分の肉の兄弟であるシモンを探し、そして見つけ出して、主イエスを伝えた、或いはフィリポも、親友であるナタナエルに真っ先に主イエスを伝えた、と御言葉は言うのです。本当に、それが価値あるものであると確信した時、真っ先に伝えるのは、やはり肉親なのではないでしょうか。或いは、親友とか本当に大切な人にまず知ってもらいたい、そう思わないでしょうか。この気持ちは聖書の世界でも同じなのです。
さらに、両者が主イエス見いだされ、真っ先に行ったこと、それは伝道なのです。家族や友人に主イエスを紹介したのです。この伝道という行為が、主イエスに従うその最初に記録されているのが重要です。信仰と伝道は一体的だ、ということだからです。
それ以上に、「イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、(43節)」、と記録されているのが重要です。主イエスは、偶然フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われたわけではないのです。探していたのです、フィリポを。そして、これが主イエスと弟子たちとの関係です。
イエスの弟子になるのは、弟子たちの意志ではなくて、主イエスの選びなのです。これは、先週も開きましたが、主イエスとの結合が最も鮮やかに記されているあのブドウの木のたとえの中で、はっきりと言われています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。(ヨハネ15:16)」
これは、非常に大切な主イエスの約束であり、全ての信仰者にとってこれ以上ない慰めです。信仰者である、というこの現実を支えているのは、主イエスの選びにあるのです。
主イエスは、私たちを最後まで憐れんで共にいて下さり、そして用いてくださるのですが、もともとその私を選んでくださったのも主イエスなのです。私たちが信仰者である、というこの立場は、最初から最後まで主イエスにその根拠があって、すべての責任を主イエスが担ってくださる、ということであります。
そして、フィリポはナタナエルに対して、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。(45節)」、とこのように主イエスを紹介しました。当時、これは戯れ事のように聞こえたのではないのでしょうか。
「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」、言い換えて見ますと、これは旧約聖書が預言している方に出会った、ということで、つまり、「わたしたちはメシアに出会った(41節)」、この報告と全く同じです。メシア=モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方であり、両者は寸分の狂いもなく同じです。ところが、あろうことか、そのメシアが、ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ、とフィリピは言うのです。
この時代ナザレは、さびれた村であり、旧約聖書のどこにも登場してこない寒村であります(*マタイ2:23は福音書記者の解釈で、実際ナザレという町の名は旧約には登場しない)。それどころか、「ヨセフの子イエスだ」、などと言われても、こんなのただの身元不明であります。メシアであり、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方、という割には、何とも説得力のない立場であります。ですから、ナタナエルは不振に思い、「ナザレから何か良いものが出るだろうか(46節)」ととっさに口走ってしまうほどでした。しかし、これはその通りでありまして、むしろナタナエルが、冷静沈着な男で、しかも旧約聖書によく通じていたことの証です。
それに対して、「フィリポは、「来て、見なさい」と言った(46節)」、と記録されています。これが非常に大切です。フィリポは、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」、と主イエスを紹介しました。恐らく、その場で多少なりとも議論が出来たでしょう。「ナザレの人で、ヨセフの子イエス」が、どうしてメシアなのか、聖書全体を紐解いて、出来る範囲で説得することも可能であったはずです。
しかし、フィリポは、ただ「来て、見なさい」と言った。これが伝道であります。伝道は、議論して説得することではなくて、まず主イエスの許に連れてくることなのです。
実は、先週の御言葉の39節で、「イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた」とあります。
この「来なさい。そうすれば分かる」これも、直訳しますと「来なさい、そしてあなた方は見る」となります。「来て、見なさい」、これはまず主イエスが言われているのです。そして、先週も確認しましたように、主イエスの許に来る、実は、ここからキリストとの結合は始められているわけなのです。
罪人の救いは、彼が意識する以前に始められていて、教会に来る、主イエスの許に来る、これはその救いが実現し始めている何よりの証です。
実に、教会は、この世にあってナザレのような場所ではありませんか。ここはさびれた村のような空間です。貧しく、弱々しい信徒の共同体、ここはナザレであります。主イエスを救い主だと伝えても、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」、そうです、「教会から何か良いものが出るだろうか」、と首を傾げられる。それでも尚、私どもは「来て、見なさい」、とこの教会を指し示すのです。
それは、ここに主イエスがおられる、と私どもが確信し、喜びに満ち溢れているからです。
この礼拝に、十字架と復活の福音が、最も鮮やかに実現しているからです。
そして、何よりも、主イエスが「来て、見なさい」、と招いておられるからです。
本日招きの詞で与えられたエゼキエル書の御言葉は、この立ち帰りの福音そのものです。
「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。(エゼキエル書18:32)」