2023年01月01日「何を求めているのか」

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聖句のアイコン聖書の言葉

35節 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。
36節 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
37節 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
38節 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと
39節 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
ヨハネによる福音書 1章35節~39節

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説教の要約

「何を求めているのか」ヨハネによる福音書1章35節~39節

クリスマス期間中断していましたが、本日からまたヨハネ福音書の講解説教を再開します。

前回の1:34までで洗礼者ヨハネのキリスト証言が終わり、本日の箇所からは、その洗礼者ヨハネのキリスト証言によって始まった出来事が描かれています。ここでとても大切なのは、洗礼者ヨハネは、「見よ、神の小羊だ(36節)」、と主イエスを呼んで証言を終えた、ということです。「見よ、神の小羊だ」、これは、分かりやすく言い換えれば、「十字架の主を見よ」、となるからです。キリスト証言とは、十字架の主イエスキリストを証言することで、それさえできれば、そこでお役御免となっても、全く問題ない、と洗礼者ヨハネの生涯は、それを雄弁に訴えています(29節も参照してください。)。

このヨハネのキリスト証言を聞いたヨハネの弟子たちのアクションが、「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。(37節)」、と記録されています。つまり洗礼者ヨハネは、いっぺんに弟子を二人も失ったわけです。これも非常に大切です。キリスト証言のために遣わされた者の役割は、キリストの許に、人々を導くことだからです。「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った(40節)」、これが、牧師や伝道者の務めであります。教会が罪人を救うのではありません。私たち罪人の救いは、私たちが信仰を与えられて、主イエスキリストに結び付けられる、これ以外はないのです。

さて、イエスに従った弟子たちに主イエスは言葉を語られました。「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。(38節)」、実に、「何を求めているのか」、これが、このヨハネ福音書で記録されたイエスキリストの最初の発言です。そして、これは、昔も今も、キリストに従おうとする時、必ず問われる言葉ではないでしょうか。「何を求めているのか」、洗礼を受けられて、今は教会員としてキリストに仕えておられる信徒の方も、何かを求めて教会の門を叩いたのではないでしょうか。クリスチャンホームに生まれて、物心がついた時には、教会の中におられた方も、最終的には、やはり、求めるものがあるから、教会を離れることなく、信仰の歩みを続けているはずです。求めるものがない信仰生活はあり得ません。或いは、イエスキリストと聖書のことを知りたくて、教会の礼拝に出席してくださる方を「求道者」と呼びます。この求道者には、特に、この「何を求めているのか」、このキリストの問いかけが、心に響くのではないでしょうか。これは、非常に現実的な問いかけだからです。この世で生きていく中で、どうしても解決できない問題がある、悩みがある、悲しみがある、その時、教会の門を叩くのではありませんか。心が満たされている状況で、自己啓発などを目的に、礼拝に出席される方は滅多にいないと思います。キリスト教は、教養とか趣味ではないからです。キリスト教とはイエスキリストそのものであり、「何を求めているのか」、このキリストの問いかけに正面から向き合い、自分の本当の悩みや苦しみを、イエスキリストに委ねることであります。

 さて、この主イエスの問いかけに対して弟子たちは、「どこに泊まっておられるのですか(39節)」、と一見的外れな質問をするのですが、主イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と返答されました。主イエスは、実際ご自身が滞在している場所へと彼らを導かれたのです。それは、主イエスのおられるところに行けばわかるからです。キリスト教とは、「何を求めているのか」、このキリストの問いかけに正面から向き合うことで、そして、それは、主イエスの許に来て、初めてわかるのです。

実は、「何を求めているのか」も正確にはわからない、そのように多くの人が生きているのではないでしょうか。昔から現代に至るまで、人間とは何か、何のために生まれて、何のために生きて、そしてどうして死んでいくのだろうか、と多くの人が真剣に考えてきました。実に「何を求めているのか」、これは全ての人に対する問いかけともなるのです。そして、「何を求めているのか」、これは、主イエスの許に来て初めてわかる、と聖書はそのように言うのです。すなわち、これは礼拝に集うことです。礼拝に来て、全てのことは御言葉によって明らかにされる。「何を求めているのか」、このキリストの問いかけは、礼拝に招かれ、御言葉によって明らかにされていくのです。

 同時に、ここで大切なのは、「どこにイエスが泊まっておられるかを見た(39節)」、さらに、「イエスのもとに泊まった」、と泊まるという言葉が繰り返されていることです。これは、「いる」とか「滞在する」とも訳される言葉で、このヨハネ福音書におきまして、キリストとの結合を表現するキーワードだからです。これは、この福音書の所々に見られますが、特に、イエスキリストとキリスト者との結合を最も鮮やかに謳いあげた、あのブドウの木のたとえの御言葉では、この言葉が11回も繰り返されています。

 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。(15:4)」ここで、「わたしにつながっていなさい」、と始まって、何度も繰り返される「つながる」という字、これが、本日の御言葉では、「イエスのもとに泊まった」、の「泊まる」と訳されている言葉です。或いは、「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(15:10)」ここで、「とどまっている」と訳されている字が全く同じ言葉です。「わたしにつながっていなさい」、或いは、「わたしの愛にとどまっている」、これはそのままキリストとの結合です。すなわち、「イエスのもとに泊まった」、とキリストの許に行く、実は、ここから、キリストとの結合という救いの御業が始まっている、これが本日の御言葉の最も大切なメッセージです。弟子たちは、何の前触れもなく、「何を求めているのか」、そして、「来なさい。そうすれば分かる」、とキリストの救いに招かれていたのです。これがキリストの救いの道筋です。私たちが無意識のうちに、キリストの救いが計画されていて、いつの間にかそれが実現していく、キリストの救いは、私たちが無自覚の内に進められていて、礼拝に集っているのは、その救いが実現し始めている何よりの証拠です。10年、20年、伝道を続けてきても全く歯が立たなかった家族や友人が、たった一度の礼拝で悔い改めと信仰が与えられる、神のご計画でしたら、むしろ必ずそうならないはずはないのです。伝道に諦めはあり得ません。伝道の主は神様だからです。何年かかろうとも、「来なさい。そうすれば分かる」この主イエスの御言葉に立って、祈りつつ、伝道を続けるべきです。そして、信仰者である私たちも、あの二人の弟子のように、イエスの後に従う以上、常に「何を求めているのか」、という問いかけと無関係ではありません。これは、今日私たちにも問いかけられています。もう洗礼を受けて、救いが確定したのだから、大丈夫です、今は遠慮しときます、などと言う立場の信仰者はいないはずです。私たちはそれでも尚、主イエスを求めている、主イエスがいなければ生きていけない、だから、主イエスの後にくっ付いているのです。「何を求めているのか」、そうです、私どもは御言葉を求めている、キリストの言葉を求めている、週ごとに生ける神の御言葉によって、悔い改めと喜びを与えられて、キリストとの結合を確認して、この世に遣わされる。私たちは、主イエスを求めているのです。そして、生涯この主イエスだけは私を見捨てることはないのであります。ただ主イエスに信頼し、私たちの歩みを委ねようではありませんか(詩編37:5)。