2022年11月27日「ヨハネの証-Ⅲ世の罪を取り除く神の小羊」
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ヨハネの証-Ⅲ世の罪を取り除く神の小羊
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 1章29節~34節
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聖書の言葉
29節 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
30節 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
31節 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
32節 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
33節 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
34節 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
ヨハネによる福音書 1章29節~34節
メッセージ
説教の要約
「ヨハネの証-Ⅲ世の罪を取り除く神の小羊」ヨハネ福音書1:29~34
本日の御言葉は1:19から続いてきた洗礼者ヨハネの証の最終回で、洗礼者ヨハネの証の結論部分ともいえます非常に重要な箇所です。本日はアドベント第一週でありますが、丁度この御言葉は、そのまま再臨の主イエスを待ち望み、その道を備えるアドベントの御言葉ともなります。
ここでは「わたしはこの方を知らなかった(31、33節)」、と洗礼者ヨハネが繰り返すのが重要です。
しかし、ルカ福音書の記事を見ますと、洗礼者ヨハネは、主イエス様と親戚関係にあったので(ルカ1:39~45参照)、「知らなかった」、と言うのは非常に理解に苦しみます。
実は、ここにもこのヨハネ福音書の特色があって、ヨハネ福音書で、この「知る」という言葉は、他の聖書の御言葉以上に重要なのです。これから幾度も現れてくるのですが、この福音書が「知る」と言います時、それは「愛する」という言葉と同義的であり、多くの場面で「信じる」という言葉以上に信仰的理解を示す言葉となります。実は、この「知る」という言葉をよく理解することが、今後この福音書を読み進めていく上で重要になっていくのです。
つまり洗礼者ヨハネは、勿論、血のつながった親類としてナザレのイエスを知っていたのです。しかし、その親類のナザレのイエスが、この世に遣わされた救い主であり、自分自身がその道を備えていたことは全く知らなかった。つまり、今この時まで洗礼者ヨハネにとって彼の肉親であるナザレのイエスは、信仰の対象ではなかった、ということなのです。それが「わたしはこの方を知らなかった」、とヨハネが繰り返す意味なのです。
そして、実に「わたしはこの方を知らなかった」、これは、罪人が主イエスを信じる瞬間に悟ることではないでしょうか。イエスを知っていても知らなかった、これが未信者の状態なのです。
知っているのです、イエスを。しかし、それは歴史上の人物としてのイエスです。しかし、そのようにイエスを知っていても、聖書の立場から言えば、それは知っていることにはならないのです。イエスを、偉大な宗教家、キリスト教の創始者、愛の人、或いは、十字架で死んで復活した、というところまでちゃんと知っている人は多いと思います。しかし、それは知らないに等しいのです。イエスを知るというのは、私の救い主として主イエスを迎い入れ、主イエスを愛することなのです。つまり、洗礼を受けて、キリスト者として歩むこと、これ以外にイエスを知る方法はないのです。
そして、信仰の対象として、主イエスを知った、主イエスを迎い入れ、主イエスを愛した、その時、洗礼者ヨハネは、この方こそ、すなわちイエスこそ、神の子であると証ししたのであります(34節)。
しかし、その神の子とは、この時代の人々が理解するような神の子ではありませんでした。
当時、この地中海世界の覇者は、ローマ帝国でありまして、そのローマ皇帝は、神の子と呼ばれていました。或いは、歴史を紀元前に遡って世界帝国にのし上がった異教徒の全ての支配者たちが、自らを神格化し、その権力の絶対化を図りました。その手段として、彼らは、例外なく自分自身を神の子と呼ばせて民衆を支配したのです。
しかし、今洗礼者ヨハネが、この方こそ神の子であると証しした主イエスは、「世の罪を取り除く神の小羊(29節)」に他ならないのです。この世が祀り上げる神の子となんと違うことでありましょう。
これは、言うまでもなく直接的には、主イエスの十字架によって実現いたしました。しかし、この洗礼者ヨハネがここで証をしている時は、まだ主イエスの十字架が明らかにされていません。ですから、ヨハネはその目で主イエスの十字架を目撃してこの証をしたわけではないのです。
では、どうして洗礼者ヨハネは、神の子=「世の罪を取り除く神の小羊」、この証をここで打ち立てることが出来たのでしょうか。それは、洗礼者ヨハネが旧約聖書の神の言葉に立っていたからなのです。神の子=「世の罪を取り除く神の小羊」、実にこれは旧約聖書で預言されてきた旧約時代の信仰者のメシア理解なのです。これは多くの旧約の御言葉から証言されていますが、最も鮮やかに神の子=「世の罪を取り除く神の小羊」、これが示されていますのが、本日招きの詞で与えられたイザヤ書の御言葉です。
「苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように毛を刈る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。(イザヤ書53:7)」
このイザヤの預言に立って洗礼者ヨハネは、神の子=「世の罪を取り除く神の小羊」、とこのように証言したのです。そして、実にこれが、このアドベントの時に、最も響かなければならない御言葉の証ではありませんか。
神の子=この世の支配者、この図式がもたらすのは何でしょうか。それは、戦争です。飢えです。差別です。この世の闇なのです。神の子=この世の支配者、この闇の世に、神の子=「世の罪を取り除く神の小羊」、この光を輝かせる、それが再臨の主を待ち望む私たちの役割なのです。
神の子=「世の罪を取り除く神の小羊」、この「世の罪を取り除く神の小羊」、これは言い換えますと「十字架の主イエス」です。ですから、神の子=「十字架の主イエス」、これこそが、再び主イエスがこの世に来られる時を待ち望む、私たち信仰者の福音宣教の言葉です。
すなわち、「わたしはこの方を知らなかった」、と今滅びに向かう世の暗闇に「世の罪を取り除く神の小羊」、「十字架の主イエス」を宣教する、これが私たちの務めなのです。
洗礼者ヨハネは、十字架の贖いを目撃する前に、「十字架の主イエス」を証言しました。それは、旧約聖書全体の神の言葉に立った証でありました。当時、神の子が、十字架で殺されるなんて一体誰が信じたでしょう。しかし、ヨハネは、人々が信じようが信じまいが、「十字架の主イエス」を証したのです。この世ではなく、御言葉に立ったからであります。その結果、洗礼者ヨハネは、牢に入れられ、殺されてしまいました。
私たちも、「再臨の主」を肉の目では目撃していません。これは信仰による目撃証言です。
その時、主イエスが再び来られて最後の審判をされるという御言葉の約束をこの世は信じるでしょうか。いいえ、信じません。しかし、だからこそ証するのです。
この世が信じようが信じまいが、それは問題ではない。私たちも神の言葉に立っているからです。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」
福音で示された十字架の主イエスこそ、救い主である、これを宣言するのです。
主の再臨の時に、「わたしはこの方を知らなかった」、ではもはや通用しないからです。
実は、今この時代は、主イエスに立ち帰る最後のチャンスなのです。
私たちは、この大切なアドベントの時に、聖書信仰に立って、神の子=「十字架の主イエス」である、罪人の救い主である、このキリストに立ち帰れ、立ち帰れ、立ち帰れ、と叫ぶのであります。