2022年11月12日「洗礼者ヨハネの証Ⅱあなた方の中に主が立っている」

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洗礼者ヨハネの証Ⅱあなた方の中に主が立っている

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章24節~28節

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24節 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
25節 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、
26節 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。
27節 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
28節 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
ヨハネによる福音書 1章24節~28節

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説教の要約

「洗礼者ヨハネの証Ⅱあなた方の中に主が立っている」ヨハネ1:19~23

先週から入りましたヨハネ福音書の本論部分は、まず洗礼者ヨハネの証から始まり、本日の箇所でもヨハネの証は続きますが、ここでは、その洗礼者ヨハネとキリストとの関係が証言されます。それが本日の御言葉の内容です。

 ここで、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか(25節)」、とファリサイ派の人たちはヨハネを追求します。それに対してヨハネは「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。(26節)」、と回答します。「なぜ、洗礼を授けるのですか」、と問うたそのファリサイ派の只中に、「あなたがたの知らない方がおられる」、とヨハネは切り返すのです。つまり、わき役に夢中になっているのに、主役に気が付いていない、しかも、その主役はあなたがたの中にいるではないか、とヨハネは言うわけです。

 その上で、ヨハネは、そのあなたがたの中にいる方について、「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない(27節)」、とこのように説明します。

ヨハネは、「わたしの後から来られる方」の備えをしているのに過ぎないのですが、ここではその備えの役割さえ相応しくないことを「わたしはその履物のひもを解く資格もない」と明確にします。

実は、「履物のひもを解く」、というのは、奴隷以外はしない最低の務めであったということが、当時の文献で記されているのです。つまり、洗礼者ヨハネが、ここで、「わたしはその履物のひもを解く資格もない」、と言います時、「私は奴隷である値打ちもない」と言っているのと同じなのです。つまり「奴隷以下」、これがキリストと洗礼者ヨハネとの関係なのです。そして、これは現代にいたるまで、再臨の主イエスの備えをするすべてのキリスト者の認識であります。

しかし、大切なのは、私が「奴隷以下」であるということではなくて、その「奴隷以下」の私に福音宣教の務めが与えられているというこの現実なのです。私が何者であるか、それは問題ではない。福音には、それを物ともしない力があるからです。むしろ、「罪人の頭」であるこの私が救われた以上、救いに漏れる者は一人もいない、ここにも私たちの伝道のエネルギーがあるのではないでしょうか。

実は本日の御言葉では、この洗礼者ヨハネと主イエスとの関係以上に、大切な情報が開示されています。それはその主イエスの消息であります。それが、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」、これであります。実は、ここで、「おられる」、と訳されています字は、もともとは「立つ」という意味の言葉でありまして、素直に訳しますと「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方が立っている」、となりまして、こちらの方が正確でしょう。そして、これは福音宣教を理解するうえで非常に大切な真理であると思います。

「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方が立っている」と御言葉が言います時、この世が知ろうが知るまいが、イエスキリストは、この世の只中に立っている、ということだからです。

確かに、終末でありますキリストの日に、大いなる栄光に包まれて万人の目が仰ぐように栄光の主イエスは再臨されます。しかし、それまでは、天という遠い場所にいて、私たちを見張っているのではないのです。主イエスは、今この世の只中に立っている。争いの中に、災害の中に、病の中に、主イエスは立っている。神なんかいるものか、とつぶやくこの世の只中に主イエスは立っている。

これは、福音宣教に仕える私たちには大きな勇気と慰めを与える事実ではありませんか。

私たちは、救われたことを喜んでいます。この身が、たとえ死に絶えても、永遠の命の約束が与えられている、そこに私たちの希望や平安の根拠があります。キリスト者ほど幸福な人種はいない、それが私たちの確信です。しかし、同時に、自分が救われればそれでいいと思っている方は一人もいないはずです。私たちには、それぞれに救われて欲しいと思う家族や友人がいるはずです。その救いのために涙を流して叫ぶように祈る日さえあるはずです。しかし、状況は全く変わらない。それでもそこに主イエスは立っているのです。私たちの伝道が下手くそだからとか、説得力がないからとか、嘆くそこに主イエスが立っている。そうである以上、必ず主イエスの御心が通りに導かれるはずです。

実は 人が生かされるのも滅びるのも、この世の只中に立って全てを統べ治められる主イエスの御心なのです。私たちが知らない時、私たちが忘れている時でさえ、主イエスはここに立っておられる、それを今日は覚えておきたいのです。

 先週この御言葉と向かい合って、若い日によく聞いていた「Stand By Me」という曲を思いだしていました。固く訳すと「私のそばに立っていてください」、普通は、「そばにいてね」、このくらいの意味合いでしょう。「援助してください」というニュアンスもあるようです。

 この曲は同じ題名の映画のエンディングでも流れていて、オリジナルとしては、ベン・E・キング(Ben E. King)というシンガーが1961年にリリースしたそうです。その後、ジョンレノンを始め多くのアーティストにカバーされている名曲です。

しかし、「Stand By Me」というこの表現にどういうわけか心震わされるものがありまして、さらに調べて見ました。そうしますと、この歌のモデルとなったのは、実は黒人霊歌であることが分かりました。

チャールズ・ティンドリーというアメリカの牧師が、1905年に作曲した「Stand by Me」、これがあの大ヒットした「Stand By Me」の原曲にあったのです(別刷りの説教参考資料を参照)。

歳をとって老いた時も、傍にいてほしい(Stand By Me)

歳をとって老いた時も、傍にいてほしい(Stand By Me)

人生の重荷が増え、冷たいヨルダン川に近づいた時も

主よ 死の陰に咲く花よ 傍にいてほしい(Stand By Me)

何と健気な信仰の詩ではありませんか。

ここに、差別され、死ぬまで過酷な労働を強制された黒人たちの信仰があります。

彼らが暗闇の中で、それでも尚最後まで失わなかった希望、それが、主イエスが「Stand By Me」であることなのです。信仰が本物である時、信仰しか頼るものが残っていない時、彼らの口から出た言葉「Stand By Me」、今私たちに最も必要なのは、この真っすぐに主に目を向ける純粋な信仰ではありませんか。争い、災害、病、そして死、しかし、そこにも主イエスが立っておられる。

 主イエスが「Stand By Me」である、あなた方の中に主が立っている、この確信以上に強い信仰はありません。それは、主イエスが「Stand By Me」であることが現実だからです。