2022年11月06日「洗礼者ヨハネの証-Ⅰ荒れ野で叫ぶ声」
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洗礼者ヨハネの証-Ⅰ荒れ野で叫ぶ声
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- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 1章19節~23節
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聖書の言葉
19節 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、
20節 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
21節 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
22節 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
23節 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
ヨハネによる福音書 1章19節~23節
メッセージ
説教の要約
「洗礼者ヨハネの証-Ⅰ荒れ野で叫ぶ声」ヨハネ福音書1:19~23
先週までで、このヨハネ福音書のプロローグ部分であります1:18までの段落が終わりまして、いよいよ本日よりヨハネ福音書の本論部分へと入っていきます。そしてこの本論部分では、まず洗礼者ヨハネの証が記録されています(1:19~34)。本日の御言葉は、洗礼者ヨハネが何者であるかが証言される場面です。
洗礼者ヨハネは、都エルサレムに居座って幅を利かせる当時のユダヤ社会の権力者から派遣された者たちに、「あなたはエリヤですか(21節)」そして、「あなたは、あの預言者なのですか(21節)」、と問いかけられ、いずれに対しても否定しました。それは、ユダヤの権力者たちが、ヨハネが「預言者エリヤ」、或いは「あの預言者」であることを期待して人を遣わしたのではなくて、エルサレムで保障されている自らの立場を守るために、ヨハネは何者であるかを知りたかっただけであったからです。
「預言者エリヤ」は、メシア到来の前に現れると信じられていましたが(マラキ書3:23、24)、彼らが期待していたのは、火の戦車に乗って登場する預言者エリア(列王記下2:11、12参照)でありました。また「あの預言者」と言うのは「モーセのような預言者」のことで(申命記18:15参照、申命記34:10~12も参照。)、そのモーセのような預言者に期待されることは、出エジプトの再来であり、それはローマ帝国からの解放に他なりませんでした。つまりいずれについても、「ユダヤ人はしるしを求め、(Ⅰコリ1:22)」というこのユダヤ人の不信仰の法則が暗躍しているわけです。そのしるしに対して荒れ野で悔い改めを呼びかける洗礼者ヨハネの姿はあまりにも遠かったのです。
ですから、彼らに対するヨハネの回答は、その不信仰な彼らの正体を見抜いた実に核心を突いたものでありました。「ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。(23節)」
ここで、「ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った」、とあります通り、これは、本日の招きの詞で私たちに与えられたイザヤ書の御言葉です。
「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。(イザヤ40:3)」、洗礼者ヨハネは、この御言葉を要約して引用して、「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」、この部分をまとめて、『主の道をまっすぐにせよ』、とこのように諳んじたわけです。
このイザヤ書の預言は、紀元前6世紀中頃から後半にかけて起こったバビロン捕囚からの解放が背景になっています。バビロン捕囚の憂き目から解放されたユダヤの民が、夢にまで見た都エルサレムに向かって帰還することが出来る、その希望がここで謳われているわけです。
バビロンからエルサレムまでの間には延々と荒れ野が広がっています。聖書の世界で荒れ野という場所は、信仰が磨かれるところであり、信仰の訓練を意味する場所です。出エジプトの後の荒れ野の40年は、まさにイスラエルの信仰が試される時でありました。しかし、その後、約束の地カナンを与えられ、王国にまで発展したイスラエルは、その恵をすぐに忘れて堕落し、偶像崇拝を繰り返しました。バビロン捕囚は、その不信仰なイスラエルに主なる神様が与えられた懲らしめであります。そのバビロン捕囚から解放された時、「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」、とイザヤは謳ったのであります。
つまり、ここでイザヤは悔い改めの勧告をしているのです。これは、「エルサレムにたどり着くまでに、主のために、信仰の道を備え、荒れ野のように、不毛で、でこぼこな信仰ではなく、悔い改めて、真っすぐな信仰の道を通せ」、というイザヤのメッセージなのです。
ですから、ここで洗礼者ヨハネも同様に、悔い改めを訴えているのです。イザヤ書の御言葉を引用して洗礼者ヨハネは、『主の道をまっすぐにせよ』、と今やエルサレムから使いを送るような支配者的な立場となったユダヤの宗教的指導者たちに呼びかけたわけです。
つまり、ユダヤ社会の権力者たちは、「主の道を」歪めていたのです。彼らの姿によって、イザヤの預言はむなしく響き、形式的信仰が都エルサレムに蔓延っていた、その彼らに対して、ヨハネは、「荒れ野で叫ぶ声」となったのです。
つまり、それは、エルサレムをもう一度荒れ野に引き戻す声なのです。もう一度バビロン捕囚からやり直して、『主の道をまっすぐにせよ』、と今ヨハネは荒れ野から悔い改めを叫んでいるのです。
それだけエルサレムの堕落は深刻であったのです。
ユダヤの権力者や宗教的指導者たちは、自分たちの立場を守るためにヨハネの正体を暴こうとした、しかし、彼らが暴いたヨハネの正体である荒れ野で叫ぶ声が、かえってエルサレムに居座る彼らの正体を暴き、悔い改めを要求する叫びとなったのです。実に滑稽な姿であります。
しかし、『主の道をまっすぐにせよ』、この声は今も響いているのではないでしょうか。私たちは、不信仰なエルサレムと無関係でしょうか。いいえ、この声は、私たちに対しても悔い改めて立ち帰るように響いています。私たちもバビロン捕囚という悪魔の虜から解放された神の民です。
喜び勇んで、現代の神の都エルサレムであります教会に導かれたキリスト者です。
しかし、私たちもまた御言葉に背き、或いは自らの都合を御言葉に優先させる恩知らずではありませんか。いつの間にか、主の道を歪めているのが私たちなのです。
『主の道をまっすぐにせよ』これは、今日私たちに対して叫ばれているのです。
『主の道をまっすぐにせよ』、これこそは御言葉によって改革されるべき、改革派信仰に立つ私たちへのメッセージなのです。
しかし、それだけではないはずです。悔い改めてキリストに立ち帰った以上、この私たちが、「荒れ野で叫ぶ声」、とされなければなりません。「荒れ野で叫ぶ声」、それは福音宣教の叫びであります。
この世はまるで荒れ野のようであります。このところの世界情勢を見ていて、何よりも憂うべきは、人の命が、いとも簡単に奪われていく、という事実です。命の尊厳はどこへ行ったのでしょうか。
聖書的に荒れ野を定義しますとそれは、「人の住めない場所」であると言いえます。今や人間の罪が、神様が甚だよく創られたこの世界を「人の住めない場所」に変えていってしまっている、だから命が粗末にされるのです。その荒れ野の只中で、『主の道をまっすぐにせよ』、と再臨の主イエスキリストの備えをするのが私たちの務めであります。私たちは、主イエスが再び来られるその時まで、「荒れ野で叫ぶ声」となって、滅びゆくこの世に向かって、十字架の福音を叫び続けていきたいと願います。