2022年10月30日「福音が語る生ける真の神」

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福音が語る生ける真の神

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 1章14節~18節

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14節 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15節 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16節 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17節 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18節 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネによる福音書 1章14節~18節

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説教の要約

先週から、このヨハネ福音書のプロローグ部分の結論が示される御言葉に入りまして、今日はその2回目です。予告通り、本日は16節から18節までの御言葉に焦点を当てます。

まず、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(16節)」、と言われます。ここで、「恵みの上に、更に恵みを受けた」とまで証言されているこの計り知れない偉大な恵みが、主イエスの十字架と復活を目撃した者たちが経験した事実であり、それを解明するのが、実は本日の御言葉の役割で、その手掛かりが、次の17節と18節の両方で記されています。

最初に17節「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」「律法はモーセを通して与えられた」、これはその通りであります。では、「恵みと真理」、というのは何でしょうか。実は、「恵みと真理」これは、神の御名であり、旧約聖書の神様の契約の強固さ象徴する定型句でもあります(出エジプト34:5~7参照)。ここで気を付けなければならないのは、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」、と「与えられた」が、「現れた」に変化していることです。「恵みと真理」、これは神の御名であり、この憐れみ深い神の御名のゆえに守られてきた契約そのものです。それが、「イエス・キリストを通して現れた」、言い換えれば「実現した」というのが、この御言葉の示す意味なのです。「律法はモーセを通して与えられた」のです。しかし、神の民イスラエルに、それを守った世代があったでしょうか。いいえ、律法が与えられて以来、どの世代もことごとく堕落し、偶像崇拝を繰り返し、神様に背き続けてきました。そして、結局「モーセを通して与えられた」律法は、神の民の罪を指摘し、暴く役割を担うことになったのです(ガラテヤ3:23、24参照)。しかし、そのいつの時代におきましても、恵みと真理は変わらなかった、そればかりか、律法によって明らかにされてきた全ての罪を帳消しにするために、神の御子イエスキリストは、十字架で死なれた、これが、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」、とヨハネ福音書が言います本当の意味であり、これはそのまま「信仰義認」に他なりません。

 その上で「恵みの上に、更に恵みを受けた」、と御言葉が証言する、そのもう一つの手掛かりが示されます。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(18節)」、この「いまだかつて、神を見た者はいない」、という宣言は、ローマ帝国の支配下にあったこの時代におきまして、非常に大胆な信仰告白であったのではないでしょうか。これは、皇帝崇拝、異教の神々とその神殿でごった返していた当時の世の中に対して一歩も譲らぬ信仰告白です。実は、この最初期の教会の時代におきまして、キリスト者は「無神論者」と呼ばれて蔑まれていました。皇帝はもとより、目に見えるあらゆる偶像を拝まず、人々が目で確認できない聖書の神を礼拝していたからです。誰でも神を見ていた時代におきまして、最初期の教会とキリスト者は、いまだかつて、神を見た者はいない、と敢然と立ち向かい、一歩も譲らなかったわけです。

 しかし、ただ一つだけ神を見ることが可能である、それが、続けて、「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」、と謳われているわけなのです。「いまだかつて、神を見た者はいない」、しかし、その神がイエスキリストによって実現し、私たちは、それを目撃した、その現実が「恵みの上に、更に恵みを受けた」、と言わざるを得ない圧倒的な恵みに満ちていた、それが、「恵みの上に、更に恵みを受けた」この御言葉の示す本当の意味です。

では、今はどうでしょうか。私たちのこの群れで、「恵みの上に、更に恵みを受けた」この御言葉が今実現しているでしょうか。溢れんばかりのはずの恵みが、どこかでせき止められていないでしょうか。

このことについて、二つのことを確認したいと思います。

一つ目は、私たちの群れが本当に、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」、この信仰義認に生かされているのか、いないのか、これが問われるわけです。

もう45年も前に52歳の若さで天に召された、自身をちいろば、と名乗った榎本保郎という牧師がいました。このちいろば先生は、どんなに体調が悪くても毎日信徒と共に早天祈禱会を欠かさない愚直な信仰者でした。その早天祈禱会の記録として出版された「一日一章」のヨハネ福音書1章のところにこのようなことが記されてありました。「講壇ではキリストの十字架のゆえに、あなたの罪が赦され、神の子とされているということが語られるが、依然としてキリストの十字架とはあまり関係のない生活しか行われていない、私も恩恵の言葉を語りながら、いつもそのことを思わされる」・・・現代のキリスト者と伝道者の姿を非常に鋭くとらえているように思います。信仰義認が説教で語られる、語る方も聞く方も、アーメンと心に響いてこの世に遣わされる、しかし、この世の現実に、それがすぐに霞んで行ってしまう、それが実際の信仰生活ではないでしょうか。私たちの信仰生活の土台に、信仰義認があって、罪赦されて永久の命に生きる喜びがいつも輝いている、その時だけ、「恵みの上に、更に恵みを受けた」、この御言葉が、私たちの生活の中で実現しているのではありませんか。

二つ目、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(18節)」、このキリストによって示された生ける真の神を私たちは目撃しているのか、ということです。この時代、神の象徴とされていた「神の沈黙」を打ち破ったのが、この福音書の冒頭に謳われている「初めに言があった(1節)」この宣言でありました。先々週の御言葉の説教で申し上げましたように、今この時代も神は「沈黙」である、とされています。戦争、災害、病、その時、神様なんているものか、と人々はつぶやきます。神様がいるのならどうして、と問いかけます。神は「沈黙」なのです。しかし、私たちも、御言葉によって、生ける真の神を目撃していないのであれば、そこに広がるのは、「神の沈黙」ではありませんか。私たちが、福音が語る生ける真の神と生きた交わりをもっていなければ、実は私たちもこの世と共に、「神の沈黙」にうなだれるしかないのです。

実は、本当に大切なのは、私たちが、「初めに言があった」、というこの御言葉の現実に生かされているか、いないか、これなのです。私たちは毎朝、沈黙の中で目が覚めます。その時、初めに神の言葉があるでしょうか。多くのキリスト者は、このことに曖昧なのではありませんか。沈黙の中で目覚めた時、初めに言があった、と御言葉を諳んじ、或いは聖書を開いて御言葉に聞き、そして祈る、その時、初めて私たちの中で初めに言があった、という御言葉が実現するのではありませんか。

今日はとりわけ宗教改革を覚える礼拝です。しかし、宗教改革記念日とは言いたくないのです。記念日ではなくて、宗教改革は常に起こっていなければならないからです。実は、私たちの中で宗教改革が実現していく、この私が御言葉に改革され続ける、その時、初めて「恵みの上に、更に恵みを受けた」、という圧倒的な恩恵に直面するのです。

 私たちの信仰が、初めに言があった、と言えるように改革され続けたいと願います。