2022年10月23日「言は肉となった」

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14節 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15節 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16節 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17節 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18節 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネによる福音書 1章14節~18節

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説教の要約

「言葉は肉となった」ヨハネ福音書1:14~18

先々週より、ヨハネ福音書のプロローグ部分から教えられていまして、本日はその三回目で、このプロローグ部分の結論ともいえる箇所であります。それゆえに、この部分はこれからヨハネ福音書を学んでいく上でも非常に重要になってきますので、2回に分けて、今週は、14節と15節、そして次週は16節から18節までに焦点を当てて、共に教えられて行きたいと願っています。

そして実は、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(14節)」、この最初の14節が、18節まで段落の中心でありまして、それゆえ、この御言葉が、そのままプロローグ部分の結論ともいえます。ここで示されていますのは、主イエスの受肉から十字架と復活までの地上の歩みの全体像でありまして、すなわち、これはそのままヨハネ福音書が語る福音の要約です。この格調高くも、確信に満ち溢れた目撃証言が、ヨハネ福音書が描く福音の特徴ともいえましょう。

まず、「言は肉となって」、とありますこの肉という字は、人間そのものを示す聖書において非常に大切な言葉です。人間のあらゆる弱さともろさ、そしてやがて死んで朽ちていく、というそのむなしさが、この肉という字に詰め込まれています。ですから、実は、「言は肉となって」、これは言葉の矛盾以外の何物でもないのです。先週まででロゴス(λόγος)は、天地万物に先立って存在され、天地創造にも参与された永遠の神の御子を示してきました。そのロゴス(λόγος)が、人間に、しかも、弱さで特徴づけられた人間になった、ということだからです。つまり、本来ロゴス(λόγος)の正反対に位置するものが、肉であったのです。

そして、その目撃証言が、「わたしたちはその栄光を見た」とこのように簡潔に示されていまして、ここで、「栄光」という字が使われています。これは、永遠からの神の御子という立場を示す言葉でありますが、実はこのヨハネ福音書の最大の特徴は、十字架からすでに「栄光」が始まっていると理解していることにあるのです(17:1参照)。この立場は、私たちが、この世で苦難や痛みにある時の大きな慰めとなりましょう。私たちと共におられる主イエスは、十字架の主であり、その十字架さえ栄光であるのならば、私たちのこの世のあらゆる苦難も、この十字架の主がともにおられる以上「栄光」とされるはずです。この世の苦難を栄光に変える御言葉、それがこのヨハネ福音書なのであります。

 このヨハネ福音書を始めると同時に新しい命が与えられ、さらに幼児洗礼式が執行されました。何度も申し上げてまいりましたが、ヨハネ福音書は、この新しい命の躍動を最も賛美することが出来る御言葉です。しかし、今病と闘いながら、或いは、年を重ねて身体の衰えと付き合いながら、この御言葉に立つ信仰者も私たちの群れにはおられます。或いは、人知れず大きな悩みを抱えておられる方もいらっしゃるでしょう。そのあらゆる苦難の現実にあって、ヨハネ福音書は、必ず大きな慰めと勇気を与えるはずです。この福音書の言います命は、年齢や病に負けるようなやわな命ではない。かえって、十字架の主のお姿に神の栄光があるように、生涯の最たる苦難の日にあっても、私たちキリスト者は、主イエスのゆえに栄光とされ、永遠の命に躍動しているのであります。ヨハネ福音書は、生涯最大の苦難にある者にさえ、或いは死の床にあっても喜びを与える御言葉であります。どうか、そのことをまず覚えておいていただきたいのです。

その上で、その「栄光」が「恵みと真理とに満ちていた」とこのように御言葉は続きます。この「恵みと真理」、これは、神の憐れみを示す旧約の神の民の信仰告白の定式で、これは主なる神様が、ただその契約のゆえに与え続けて下さる恩恵を意味します(創32:11、出エ34:6参照)。ヨハネ福音書は、とりわけ旧約で裏付けられた神の憐れみを根拠に描かれていくのです。

 さて、続いてこの「栄光」の主に対する洗礼者ヨハネの証が示されます。

「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。(15節)」、まず、ここで無視してはならないのは、洗礼者ヨハネが「わたしより優れている」、とこのように言っていることです。ヨハネは優れていたのです。垢ぬけていたのです。だからこんなことが言えたのです。そうでないと、「わたしより優れている」などとは言えないはずですし、周りで聞いている人は、何のことかさっぱりわからないはずです。洗礼者ヨハネは、もしや彼こそがメシアではないか、と疑われるくらいに輝いていたのです。これは先週も少し触れましたが、福音宣教に仕える者には、この輝きが必ずあるはずです。キリストの福音は、みすぼらしい土の器の中からでさえ、光を放つのです(Ⅱコリント4:5~7参照)。キリストを宣べ伝えないで、自分自身を宣べ伝える手合いもいるわけなのです。福音宣教者が、『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』、と徹底して再臨の主の道を備える働きに仕えているか、主のお役に立つために勤しんでいるか、それを教会はよく見ておかなければならないでしょう。

 しかしながら、それでも尚、このヨハネの証は、何時の時代も必ず響いています。実は、「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った」、この部分は、ギリシア語の本文で読みますと少しニュアンスが違います。まず、「この方について証しをし」、の部分と最後の「言った」の部分の動詞の時制は、現在形になっていまして、まるで今ここでヨハネが、証をしているかのように御言葉は言っています。さらに、「声を張り上げて」、この部分は完了形でありまして、過去の動作が現在まで続いている、そう言う状態です。そして、ここは「声を張り上げて」、というよりも「叫んで」と訳す方が普通です。ですから、この部分は、「ヨハネは、この方について、証しを続け、叫びながら言い続けている」、とこのように御言葉は言うのです。ヨハネの証は今も響いている、それは世の終わりまで絶えず響き渡っている、これがこの御言葉が示す真理です。

福音宣教は、「私がやらなければならない」でもなければ、「誰かがやるから大丈夫」でもないのです。そんな人の熱意や、心配で左右されるようなちっぽけなものではない。福音宣教は、主なる神ご自身が、今日も洗礼者ヨハネを用いて行っている、そしてその証は地の果てまで響き渡っている、それがこの御言葉が示す聖書の理解なのです。

 大切なのは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」この主イエスの十字架と復活が、私たちの教会で現実となっているのか、いないのか、このことです。

 最初に記しましたように、「言は肉となって」、これ自体が言葉の矛盾であります。言は肉となった、永遠の神の御子が、最も恥ずべき姿で殺された、私たちは、この真理に立って福音宣教に仕えているでしょうか。この真理に立って苦難に立ち向かっているでしょうか。何よりも、何ともつまらない者である私たちの友となってくださったその十字架の主イエスが、今この群れの中心におられるでしょうか。実は、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」、ここにだけ真の教会の姿があるのです。