2022年10月16日「神によって生まれた」

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6節 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7節 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
8節 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9節 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
10節 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11節 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
ヨハネによる福音書 1章6節~13節

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説教の要約

「神によって生まれた」ヨハネ福音書1:6~13

先週から、ヨハネ福音書の講解説教がスタートしまして、本日の御言葉は、このヨハネ福音書のプロローグ部分(1:1~18)の2回目で、ここでは、まず洗礼者ヨハネが、「光」であるイエスキリストについて証をするために登場いたします(6~8節)。

 そしてその「光」について、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(9節)」、とこのように説明されます。実は、この、「照らす」、という字は、「明るみに出す」、という意味もありまして、「すべての人を照らすのである」、と御言葉が言います時、「全ての人が救われる」、とか「聖くされる」とかそう言う意味ではなく、むしろ、「すべての人が明るみに出される」ということなのです。

キリストの十字架の光は、全ての人を露わにする、さらに言えば、全人類の救いと滅びを決定づける、そう言う光であるのです。そして以下でその救いと滅びの両局面が記されます。

「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。(10節)」、これが堕落した人間の姿でありました。そして、文字通りそれは、光を光と認めないほどに深刻なのです。

しかし、これは決して昔話ではなく、現代もそのままです。どうして争いが絶えないのか、それは光を光と認めないからです。或いは、格差社会、環境破壊、その全ての根源に光を光と認めない人間の罪が横たわっているのではありませんか。昔も今も「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」、と御言葉が明らかにするこの世の状況は、何ら変わっていないのです。

さらに、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。(11節)」、この「自分の民」と言うのは他でもない神の民ユダヤ人のことです。実に、神の言葉を委ねられたユダヤ人のところに、他でもないその神の言葉がやってきたのです。しかし、「民は受け入れなかった」、とここまで来ますと、状況はさらに深刻になっているのです。これは、この世に来られた主イエスをユダヤ人たちが受け入れず、最後には十字架で殺してしまった、この主イエスの地上での歩み全体を指しています。

 異教徒はおろか、神の民も、神の言である主イエスを受け入れなかった、光を光と認めなかった。この人間の罪が、神の言であるキリストの十字架によって、全て明るみに出されたわけなのです。

キリストの十字架に人間の罪の頂点があって、「世に来てすべての人を照らす」光は、それを暴いたのです。しかし、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。(ローマ5:20)」これが神の救いの法則です。人間の罪の頂点は、神の愛の頂点でもあり、それゆえに言は、もう一方の人々に対しても作用して、ここで救いと滅びを真二つに分けるのです。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。(12節)」、ここでは、「自分を受け入れた人、その名を信じる人々」、という人たちが登場します。つまり、十字架の主イエスを受け入れ、主イエスキリスト、この名を信じる人々であります。そして、彼らには、「神の子となる資格を与えた」、と聖書は言うのです。それは簡潔に言いますと永遠の命を含めた神の国の祝福の全てです。

永遠の命を欲しがらない人はいないはずです。それは、大枚をはたいても手に入れたい代物です。しかし、この資格を取得するのに、そのようなものは一切いらないのです。ただ十字架の主イエスを受け入れ、信じる、すなわち、主イエスを信じる信仰、ただこれだけでこの資格は無償に与えられるのです。それが最後に明確にされます。

「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。(13節)」、ここで言われています「この人々」と言うのは、神の子となる資格を与えられた人々のことです。神の子となる資格を与えられた人々は、「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」、とこのように御言葉は言うのです。

ここで「肉の欲」、或いは「人の欲」、と「欲」という字が使われていますが、ギリシア語でこれは普通に訳せば「意志」でありまして、つまりここでは、私たち人間の意志のようなものでは、神の子となる資格を与えられることはない、ということが言われているのです。すなわち、主イエスを受け入れ、信じるという信仰、これも実は私たちの意志ではなくて、全て神の導きなのです。これが非常に大切です。

もしも信仰が人の意志によるならば、どれほど頼りないものでありましょう。しかし、神から与えられるものでありますので、生涯保証されているのではありませんか。また、神から一方的に神の子となる資格を与えられるのでありますから、血筋とか、この世の身分や貧富の差、人の性格とか経験、そのような人間側のあらゆる事情は、全く問題にはならないのです。私がどうであったかとか、どうであるか、これは救われるためには問題とされない。逆に言えば、私がどのような者であっても救われる、ということであります。神の救いは神の側の一方的恩恵であり、しかも偶然は一つもないのです。

主なる神が、罪人を救おうと導いておられるのなら、偶然と思われるその全てに神の御業があって、彼に対して、最もふさわしい形で信仰へと導いてくださっているのです。

 そして、実に「神によって生まれた」、これはそのまま洗礼式ではありませんか。

 洗礼とは、「神によって生まれた」ことを証明する礼典であり、天の国にその名が書き記される瞬間であります。

今日幼児洗礼を受けた幼子は、まだはっきりと自分の意志を持つまでは成長していません。ですから、幼児洗礼ほど神の選びと神の恵みが先である、ということが最も鮮やかに示される時はないのであります。救いは、神の恵みと憐れみが先行して実現するのです。

そして、実は、これは成人洗礼であっても同じです。確かに成人になれば、私たちは意志を持っています。しかし、その私たちの意志さえ支配してしまうのが、神の導きなのです。それは、もはや洗礼を受けなくてはいられなくなる、私たちの都合など全く歯が立たない、というそう言う導きです。

 そして、「神によって生まれた」以上、私たちは人間の可能性ではなくて、神の可能性に生かされる者とされます。人間の可能性に立つのであれば、有限であり、人は死に向かって生きる存在であります。しかし、神の可能性に立つ時、そこには無限の時間が広がっていて、死ではなくひたすら命へと歩みことが許されるわけです。幼児洗礼と言うのはこの神の可能性に我が子を委ねることであり、成人洗礼もわが身をこの神の可能性にあずけ、信仰に生きることです。

今日この幼子は、永遠を約束される者とされました。引き続き、父母の愛情に育まれ、成長の恵みが与えられ、やがては目の前に広がる永遠の命を自らの言葉で受け入れることでありましょう。

今朝私たちは、古の信仰者の詩でこの礼拝に招かれました。「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らいあなたの正しさを光のようにあなたのための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる。(詩編37:5、6)」、ここにこそ、神の可能性に立ち、希望をもって永遠の命を展望する、「神によって生まれた」私たちキリスト者の慰めと確信があります。