2022年10月09日「初めに言があった」

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1節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
2節「この言は、初めに神と共にあった。」
3節「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」
5節「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」ヨハネによる福音書 1章1節~5節

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説教の要約

「初めに言があった」ヨハネ福音書1:1~5

本日からヨハネ福音書の講解説教に入って行きます。ヨハネ福音書は1:1~18まででプロローグが展開され、本日の御言葉は、その最初の部分です。

ここで「初めに言があった(1節)」、と御言葉が言います時、聖書の最初の御言葉を思いだす方が多いのではないでしょうか。「初めに、神は天地を創造された。(創世記1:1)」、とこのように、旧約聖書も、「初めに」、この言葉から始まるのです。しかし、ヨハネ福音書はそれに遡って、天地創造の前に、まず「言があった」、つまり、この「言」が天地万物の第一原因であり、これ以上遡れるものは何もない、ということを宣言しているのです。ですから、「初めに言があった」と御言葉が言います時、全ての人が、認めようが認めまいが、生ける真の神と直面せざるを得ないのです。

この「言」は、ギリシア語では、 λόγος(ロゴス)という字を書きます。そして、もう申し上げるまでもありませんが、この「言」こそが、イエスキリストに他なりません。

さらに「言は神と共にあった」と続きます。この「神と共にあった」、の「共に」、という字は、もともと「~に対して」、という前置詞でありまして、「神と向き合って、言はあった」、という意味です。そのうえで、「言は神であった」、と御言葉は謳うのです。ここでは、父なる神と御子キリストとの永遠からの関係性が明確に示されています。両者は、唯一の真の神であると同時に、それぞれの人格を持っておられた、ということです。ここに早くも三位一体の真理が、その姿を現し始めています。ヨハネ福音書は、この後、聖霊なる神様についても詳しく述べることになりますが、聖書の中で最も三位一体の生ける真の神を鮮やかに示しているのが、この福音書である、と申し上げてよろしいでしょう。

そして実は、2節までで、「あった」という言葉が立て続けに三回繰り返されていますことがとても大切です。これは、英語の聖書ではbe動詞の過去形でwasという字が繰り返されていて、この日本語の訳もそうなのですが、もともとのニュアンスとは少し違います。これはギリシア語では「未完了過去」と言って、ギリシア語の独特の過去形を示す時制でありまして、継続している過去の動作を表現するものです。ですから、「この言は、初めに神と共にあった」、これは、正確に訳せば、「この言は、初めに神と共にあり続けた」、とこのようになります。つまりここでは、キリストが永遠から神と共に存在していた、という父と御子との永遠の交わりの関係が謳われているわけなのです。

 さらに、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(3節)」、とここでは、今まで明らかにされてきた天地創造に先立つキリストの先在性だけでなく、そのキリストの天地万物の創造への参与が謳われています。旧約聖書が「初めに、神は天地を創造された。」と宣言して始まる時、そこにキリストはおられる、これが新約聖書の立場であり、私たちキリスト者の信仰告白です。「万物は言によって成った」、と御言葉が言います時、キリストは創り主でも在られるのです。実に、主イエスは、聖書の一ページ目に、早くもその名が刻まれているのです。

その上で、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(4節)」、とここで、「命」という言葉が出て来ます。ここで言います「命」と言うのは、肉体的な生物学的な生命ではなくて、キリストの命、永遠の命のことです。単なる肉体的命であるのなら、聖書的に申し上げれば、むしろそれはしばしば死の方に含まれます。そして、ヨハネ福音書におきまして、この「命」という言葉は、極めて重要で、ヨハネ福音書は、命を得るための福音書、と呼んでもよろしいくらいでしょう。

 実は、ヨハネ福音書のエピローグ部分にこの福音書がかかれた目的が記されています。

 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(20:31))」これです。「イエスは神の子メシアであると信じてイエスの名により命を受けるため」、これがヨハネ福音書の目的であってそれ以外ではないのです。これからこの福音書の講解説教を続けてまいりますが、毎週の御言葉、さらに一つ一つの章句が、「イエスの名により命を受けるため」である、ということを覚えていることが大切なのです。

 さて、その上で、「命は人間を照らす光であった」、と続き、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(5節)」、と「光」と「暗闇」とが対照的に描かれています。「光」は命であって、「暗闇」は死である、それがこの福音書を貫く強力なメッセージです(8:12、12:35、36を参照)。

 そして、この「光」と「暗闇」とのコントラスト、実はこれは、この5節までのプロローグ部分でも含みを持たせていて、それを見出すことが、ロゴス(λόγος)についての理解を深めることにつながります。

 ここで言われています「光」は主イエスです。つまり、光は、この序文の他の言葉で言い換えれば、「初めに言があった」、この「言」、すなわちロゴス(λόγος)であります。では「暗闇」は何でしょうか。実は、それがこの序文のロゴス賛歌を本当に理解するための鍵なのです。そして、それは「沈黙」です。「光」の対象概念が「暗闇」であるとすれば、λόγος(ロゴス)の対象概念は「沈黙」なのです。

 この時代のヘレニズムの異教社会であれ、ユダヤ教の立場であれ、「沈黙」は、そのまま神の存在を示すものでありました。この時代の異教徒の祈りに、「沈黙、沈黙、沈黙、永遠の不死なる神の象徴よ」、というものがありまして、「沈黙」は、いと高き神の象徴でありました。

 また、ユダヤ教にとっても、神の沈黙は、非常に大切な教えでした。当時のユダヤ教の高名なラビの教えでは、「初めに、神は天地を創造された。」と創世記が謳う前にあったものは、「神の沈黙」である、という理解でした。その只中で、この福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と謳うのです。これは、異教社会に対しては、真の神は「沈黙」ではなくて、「言」・ロゴス(λόγος)である、というセンセーショナルな福音宣言。そして、ユダヤ教に対しては、真の神と共に初めにあったものは「神の沈黙」ではなく「神の言・ロゴス(λόγος)」である、という真理の提示に他ならなかったのです。

 これが、ロゴス(λόγος)の語られた本当の意味であります。ナザレのイエスは、神の沈黙を破った「言」そのものであるという宣言、これがこのヨハネ福音者の序論であり、その証言が以下の本論部分で記述されていくのです。

「初めに言があった」、と御言葉が言います時、異教とユダヤ教の只中で、その暗闇の中で、キリスト教が光として輝いたのであります。

 これは、私たちの時代も同じではありませんか。今この時代も神は「沈黙」である、とされています。

 戦争、災害、病、その時、「神様なんているものか」、と人々は呟き、「神様がいるのならどうして」、と問います。これこそが、暗闇ではありませんか。そこに光を輝かせるのが御言葉であり、そのために用いられるのが私たちであります。神の沈黙にうなだれるこの世の暗闇に、神の言葉を宣言する、これがキリスト教です。「初めに言があった」、今、神はキリストの御言葉によって沈黙を破られた、この「言」であるキリストの救いを、私たちは、喜び勇んで宣言いたしましょう。