2020年05月31日「みなしごの希望(2020ペンテコステ・後)」

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みなしごの希望(2020ペンテコステ・後)

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 14章15節~19節

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「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」ヨハネによる福音書 14章15節~19節

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説教の要約

「みなしごの希望(2020ペンテコステ・後)」ヨハネ14:15~19

先週から学んでいます聖書個所は、十字架につけられる前夜に語られた主イエスの告別説教の御言葉です。主イエスはこの告別説教を「心を騒がせるな」と言われて始めました。そして先週教えられましたように、私たちが心を騒がせる必要がないのは、主イエスが、心を騒がせてくださったからです。本来私たちが心を騒がせて、刑罰を受けなければならない罪人であったのですが、主イエスがその身代わりになって心を騒がせて(12:27)、十字架についてくださったからでした。

主イエスが十字架についてくださったから私たちは、心騒がせ必要がないばかりか、天の住みかまで用意されたのです。

 しかし、それでは終わらないのです。主イエスは十字架で救いを確立し、天の住みかを用意されただけではなくて、その天の住みかまでの私たちの歩む道、すなわち信仰生活全体まで主イエスは責任を取ってくださるのです。私たちが脱落することなく、天の故郷に辿りつくことができるように導いてくださるのです。実は、それが本日の御言葉で示されている内容です。

特に大切なのが、「別の弁護者を遣わしてくださる(16節)」、という約束です。

 ギリシャ語でこの弁護者は、「παράκλητος(パラクレートス)」でありまして、聖書的に非常に大切な言葉です。それは、この言葉で聖霊なる神をあらわすとともに、主イエスのこともあらわしているからです。ここで、別の弁護者と主イエスが言います時、本来の弁護者がいるはずなのです。そしてその本来の弁護者が、他ならぬキリストなのです。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます(ヨハネ第一の手紙2:1)。」ここでは、イエス・キリストが弁護者、すなわち「パラクレートス」と呼ばれます。そして、主イエスは、私たちがたとえ罪を犯しても、御父のもとで私たちを弁護してくださる弁護者なのです。つまり、今天上におられる主イエスが私たちを弁護してくださると同様に、地上におきましては、別の弁護者である聖霊が私たちを弁護してくださる。天におきましても地におきましても、私たちには弁護者が与えられている、という真理なのです。

これは驚くべき恵みです。驚くべきご配慮であります。私たちはこれほどまでに愛され、守られているのです。私たちが罪を犯さない日は一日もありません。しかし、それでも尚私たちが許され、救いから漏れることはあり得ないのです。

実は、弁護者と訳されています「パラクレートス」という言葉は、もともと「傍らに呼び寄せる」「御許に招く」という意味の言葉です。私たちを聖霊なる神様が、「御許に招く」そして、永久までも私たちの許にいてくださる、だから「パラクレートス」なのです。まるで家族が同じ屋根の下に宿り、共に生活するかのように、聖霊なる神は、私たちを御許に招き、共にいて弁護してくださるのです。

私たちの救いはここまで確実に適用されるのです。

 そのうえで主イエスは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない(18節)」と言われます。弟子たちは、この後主イエスの十字架と復活の証人となります。ペンテコステの時聖霊が降って、教会が建てられ、十字架の主を証する福音宣教の時代が始まったからです。しかし、主イエスを十字架につけたこの世に対して、十字架の主を証する、というのはどういうことでしょうか。実は、これほど困難なことは、ないのではありませんか。しかも、主イエスは天におられて、地上にはおられません。まさにみなしごのような集団、それが最初期の教会だったのです。

 それでも、あなたがたをみなしごにはしておかないという主イエスの約束は、このみなしごのような集団の中で実現したのです。この世の中に何の頼りもつてもない、そのようなみなしご集団が世界宣教の扉を開いたのです。

 このペンテコステの出来事から2000年たった今の時代も私たちは、この地上においてはみなしごのような集団です。特に私たちの国におきまして、キリスト者は1%、実際はそれ以下でしょう。100人に一人もキリスト者はいない、1000人一人でもおりましょうか。

 そのみなしごが、主イエスを十字架につけた世の中に、十字架の主イエスを証するのが伝道なのです。足がすくむような働きではありませんか。

 しかし、それでも尚、あなたがたをみなしごにはしておかないという主イエスの約束は、みなしごのような集団の中で実現することを忘れないでいただきたい。だからこそ、今、私どもの中で、あなたがたをみなしごにはしておかないという主イエスの御言葉が響くのではありませんか。そうでなければ、この御言葉の意味がさっぱり分かりません。キリスト者でなければ、キリストの言葉は響かないのです。私たちが、真のキリスト者である以上、必ずみなしごのような立場を経験します。しかし、そこに主イエスが戻って来られる、すなわち聖霊によって主イエスはいつも御許にいてくださるのです。

さらに、「あなたがたはわたしを見る(19節)。」とまで主イエスは言われました。実はこれが実現したのもペンテコステなのです。

 それは、ペンテコステの記事で示されています。「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした(使徒2:4)」、彼らは、聖霊に満たされ、語り始めたのです。そしてその内容が少し後の11節の途中から示されています。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(11節)」このように、聖霊に満たされた信徒たちは、神の偉大な業を語ったのです。神の偉大な業、それは聖書の御言葉そのものです。キリストを証する聖書全体です。聖書全体からキリストを証する時代、それがペンテコステの日に到来したのです。すなわち、御言葉によって、「あなたがたはわたしを見る」、と主イエスが言われた時代が、ペンテコステの出来事で始まったのです。今地上を歩まれた主イエスの姿を見ることは出来ません。しかし、それでも今、この私たちの時代は、「イエスを見る時代」なのです。そしてここに「みなしごの希望」があります。

 本日は「みなしごの希望」という説教題が与えられました。この世におきまして、みなしごの希望などと言いますと、泣けてくるような言葉かもしれません。それは、「この世がもう主イエスを見なくなった(19節)」からです。主イエスが見えない時、この世の可能性が全てだからです。しかし、キリスト者にとっては、みなしごの希望こそが真の希望でもあります。それは、御言葉によって主イエスを見ているからです。その時、私たちにとって、神の可能性が全てになります。みなしごは、何も持っておりません。しかし、無からすべてを創造された、全能者である神の可能性に立つ時、それが一体何でしょうか。

貧しくても、年老いても、病の床にありましても、私たちの希望が薄れることは一切ない。そこにこそ湧き上がり溢れ出てくるのが、みなしごの希望、真の希望だからです。ペンテコステは、みなしごに希望が与えられた日であります。