2021年11月07日「わたしたちこそ神の家」

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わたしたちこそ神の家

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 3章1節~6節

音声ファイル

聖書の言葉

1だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。 2モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。 3家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。 4どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。 5さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、 6キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。ヘブライ人への手紙 3章1節~6節

メッセージ

 ヘブライ人への手紙を書いた著者は、手紙の読み手に対して、「わたしたちこそ神の家なのです」と、語気を強めて語ります。確信に満ちて、「わたしたちこそ」と語るのです。この言葉の不思議さは、普通「神の家」と聞くと、「教会」のこと、より丁寧に言うと、「教会堂」のことを思い浮かべるかもしれません。しかし、聖書はどこかの建物を指差して、「これこそが神の家です」とは言いません。私たち一人一人を指して、「わたしたちこそ神の家なのです」と語るのです。また、「家」というのは、人間が住む場所です。「神の家」という場合、神様が住まいとしてくださるということです。神様は、私どもを神の家である教会としてくださり、御自分の住まいとしてくださいました。天にお住いの神様は、天に腰を据えておられるのではなく、この地上にまで降って来てくださり、私たちを神の家としてくださるお方です。

 洗礼を受け、キリスト者になることは、神の家に加えていただくことです。いや、洗礼を受けたあなた自身が神の家となって生きることです。以前、洗礼を受けた若い方が、自分には「もう一つの家ができた」と言って、信仰の証しをしておられました。よく考えてみると、私どもはいくつもの家を持っています。それは、どこかに別荘を持っているとか、遠くにまだ実家があるとか、そういう話ではなくて、キリスト者としての「家」をいくつも持っているということです。しかも、その家というのは、下宿をして一人暮らしを始めたというのではなく、新しく与えられた家で、新しい家族である教会の仲間と共に、キリスト者としての生活を始めていくということです。地上にはそれぞれの家・住まいがあり、神の家である教会があり、さらには天においても私どもには住まいが与えられています。救われるというのは、イエス・キリストによって、天における住まいが与えられることです。ヘブライ人への手紙においても、第11章を見ると、天こそがまことの「故郷」であると語っています(ヘブライ11:16)キリスト者の幸いは、そのようにいくつも家、あるいは、故郷を持っていることです。

 そして、大切なのは、地上の住まいも、地上の教会も、天も、決してバラバラに存在しているののではなく、一つに結び付いているということです。洗礼を受けキリスト者として私どもはこの地上を生きていきます。主の日には、神の家である教会に集い礼拝をささげます。そこで天の御国の前味を教会で味わい、天へと思いを高く上げて歩んでいくのです。だからある説教者は、日曜日の朝、教会員が教会にきたら、「お帰りなさい」と挨拶することができるし、礼拝が終わって別れる時は「行ってらっしゃい」と声を掛けることができるのではないかと言っていました。教会は私どもにとってなくてはならない神の家だからです。また、神の家というのは、先程申しましたように、自分一人で構成されているわけではありません。信仰の歩みは自分一人ですることではないからです。「わたしたちこそは」とありますように、また1節で「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」とありますように、兄弟姉妹と共に、つまり、神の家族と共に、信仰の旅路を続けていきます。

 さて、このヘブライ人への手紙は、誰が書いたのか、誰に向けて書いたのか。ずいぶん謎に包まれた部分も多いのです。「ヘブライ人」とありますから、ユダヤ人がユダヤ人に向けて書いた手紙だろと普通考えることもできます。実際この手紙には、本日の箇所もそうですが、旧約聖書の引用も実に多いのです。しかし、最近では、ユダヤ人でない人が、ユダヤ人のことについて詳しく記した手紙ではないかと言われています。ユダヤ人でないとユダヤ人のこと、つまり、イエス・キリストのことを語れないわけではありません。国も時代も言葉も違うのに、私どももイエス・キリストのこと、聖書の物語を喜んで人々に語り伝えます。それとよく似ていると思います。そして、手紙を受け取った人たちはローマ人ではないかと言われています。当時、ローマの地において、キリスト教会というのは、たいへん小さく弱い集団に過ぎませんでした。今のローマのように、立派な教会堂などありません。それぞれの家庭を解放して、まさに家の教会として歩んでいました。ローマ帝国による厳しい迫害がありましたから、地下に潜り、身を隠すように神を礼拝することもありました。毎日が死と隣り合わせであり、洗礼を受けるということは、殉教を覚悟が同時に問われることでもありました。

 そのような厳しい状況の中で、ローマの教会の人たちは立派に信仰を貫いたと言いたいところですが、どうもそうではなかったようです。教会員の中には、集会を怠るようになった人もいたと第10章に記されています。洗礼を受けた時には、死をも恐れない信仰を信じることができました。けれども、迫害の手が迫って来ると、やはり死ぬのが恐いと思うようになりました。主イエスを信じて生きても、毎日が恐ろしいだけ。その恐怖にも勝てない自分が情けなくなったのでしょう。もう真面目に信仰生活をする気力を失い、怠けるようになり、教会の礼拝に来なくなったのです。けれども、そのような者たちを手紙の著者は、切り捨てるのではなく、励ますためにこの手紙を書きました。この手紙の終わりに、「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください」と言っています(ヘブライ13:22)。「勧めの言葉」というのは、励ましの言葉、慰めの言葉と訳すこともできます。だから、この手紙そのものが礼拝の中で語られた、あるいは、読まれた説教ではないかも言われています。

 迫害やあらゆる苦難や試練の中で、キリスト者として如何に生きるべきなのか。これはどの時代、どの国においても絶えず向き合わなければいけない大きな課題です。そのためにヘブライ人への手紙が一所懸命していることは、イエス・キリストをひたすら紹介し続けることでした。イエス・キリストとは誰であるか、どのようなお方であるのか。そのことをもう一度正しく知ってほしいからです。キリストを知り、キリストを正しく告白するところに信仰が与えられ、苦難の中でも耐えうる強さに生きることができるのです。本日の第3章1節は、「だから」という言葉から始まります。それは第2章までの言葉を受けてということですが、第2章11節には、「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」とあります。こんな罪深い者たちと自分が同じ兄弟だなんて、たまったものではない。一緒してくれるなというのではないのです。どれだけ、神様の御心から離れていても、「わたしはあなたを恥としない」と主イエスはおっしゃってくださるのです。そして、第2章14節、15節にはこうあります。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」主イエスが私どもと同じ兄弟になるというのは、私どもと同じように血と肉を持つということ。肉体を持つということです。しかし、そこで主が私ども人間と違うのは、十字架での死をとおして、私どもを死の恐怖から救ってくださったということです。悪魔は死によって、私どもに恐怖を植え付けます。迫害というのも同じことです。「死ぬのが嫌だったら、信仰を捨てろ」と脅すのです。しかし、主イエスによって、死の恐怖から解き放たれ、死を超えたいのちの確かさの中に立つことができるようにしてくださいました。そのために、私どもと同じ人間となり、私どもの兄弟となってくださいました。

 そして第2章の終わり17節、18節にもこうありました。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」ここでもう一度、主イエスが、私たちと同じ人間になってくださったということを語ります。それは私ども人間が経験する試練を、キリストも同じ人間として試練を受けてくださったということでもあります。私どもの試練は、キリストが経験してくださった試練であり、それにキリスト御自身が打ち勝ってくださいました。試練の極みは、私どもには決して耐えることができない十字架の死を死んでくださったということです。そのようにして、神と人の間に立つ大祭司として、私どもの罪を赦し、神のものとしてくださったのです。イエス・キリストはそのような神であられるからこそ、この地上で試練を経験する私どもを助けることがおできになるのです。主イエスに助けていただいて、私どもは主イエスを長兄とする神の家族としていただいたのです。

 このことを受けて、「”だから”、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」と第3章の言葉が続きます。キリストのおかげで、私どもは「天の召しにあずかっている聖なる兄弟」としていただきました。1節の「あずかっている」という言葉は「分かち合う」という意味です。本日は、この後、聖餐式を執行します。聖餐はキリストの肉であるパンと、キリストの血であるぶどう酒を、復活の主御自身から分けていただきます。それも一人だけ、主の救いの恵みにあずかるのではなく、神の家族とされている兄弟姉妹と共に分かち合います。教会はそのように主の救いの恵みを分かち合う共同体です。ここでは、「天に召されている」という恵みの事実を、私どもは分かち合うというのです。召されているというのは、天から呼ばれている者たちであるということです。心を天に向けて見るべきお方は、イエス・キリストです。

 私どもはイエス・キリストが誰であるのかということを「公に言い表している」のです。イエスとは誰かという信仰を告白しているということです。毎週礼拝の中で、例えば、「使徒信条」を告白しているように、神とはどのようなお方であるのかという信仰を告白し、賛美するために教会に集っていると言ってもいいのです。それはこの時のローマの教会がそうであったように、時代と状況によれば、信仰を告白するというのは「戦い」となります。自らのいのちの危機を覚えながら、キリストを告白すること。それは大きな戦いになりますが、同時に、私どもの信仰の歩みを支える確かなものとなります。1節では、「使者」としてのキリスト、「大祭司」としてのキリストのことが語られます。使者というのは、神の言葉を伝える使者ということです。大祭司というのは、第2章にもありましたように、私どものために神に執り成し、罪を償ってくださるということです。そのイエス・キリストのことを「考えなさい」と勧めるのです。これはボーッと考えるのではなく、よく考える、しっかり考えるということです。あるいは、しっかりと見つめるということです。そこに主イエスがどのようなお方であるかがはっきりと見えてくるからです。

 さて、次の2〜5節では、モーセと主イエスの対比がなされています。モーセというのは、旧約聖書に登場する人物で、エジプトの奴隷として長く苦しんでいたイスラエルの民を解放するために、神に仕えた人物です。旧約聖書では、アブラハムたちと並ぶほどに、重要な人物の一人でしょう。ユダヤ人からもたいへん尊敬されていた人物です。信仰は旅路にたとえられますが、「信仰の旅路」と聞いて、当時誰もが思い起こしたのが、エジプトから解放された神の民イスラエルが約束の地に向かって、40年もの間、荒れ野の旅を続けたことです。決して楽な旅ではなく、信仰が幾度も試されるような旅でした。ローマの教会の人たちも、厳しい迫害の中にあって、旧約の民が同じように試練の中を歩んでいたことを思い起こしていたのかもしれません。また、手紙の著者は、モーセと主イエスを対比していますが、決して、モーセをおとしめるつもりなどありません。モーセを尊敬しつつ、しかし、それを遥かに凌ぐイエス・キリストの素晴らしさに目を向けさせようとしています。

 モーセも主イエスも、神様に対して「忠実」であるという点においては同じです。2節で「モーセが神の家全体の中で忠実であったように」とあります。5節では「神の家全体の中で忠実でしたが」とあります。イスラエルという神の家の中で、モーセは忠実に神に仕えました。ただモーセは家の「中」で仕えた人です。そのことを評価しつつも、モーセは家そのものを造った訳ではありませんでした。家を建てた人と家とでは、家を建てた人のほうが尊ばれます。家を造り、家を建てたのは、神御自身です。主イエスは教会の礎、土台となってくださいました。だから、本当に尊ばれ、栄光そのものであるお方は、神の御子であられるイエス・キリストです。そして、主イエスはモーセのように神の家の中で仕えるというよりも、神の家そのものを忠実に治めておられるお方です。

 だから、教会がいつも祈り願うことは、教会の頭であられるキリストの御支配が明らかになるようにということです。迫害や試練の中で、弱音をはき、不平をつぶやくこともあるでしょう。神を信じて生きていても、いつまでも苦しみは消え去らない。死の恐怖がなかなか取り除かれない。だったら、いっそう教会なんか行っても意味がないと思って、礼拝生活を怠ってしまう。そいうことが起こるのです。しかもそのことを、その人だけの責任にしないで、互いの重荷として担い合うことが教会には求められています。人間の欲望や思い煩いによって教会が支配されてはいけないのです。罪に対しても、死に対しても、あらゆる試練に対しても、主イエスがどのような御心をもって臨んでくださるのか。そのことを御言葉に聞きつつ、よく考え、共に祈り求めなければいけません。主イエスは、神の家である教会に住んでくださり、ここに集う私どもと共に歩んでいてくださいます。主イエスが教会に宿ってくださり、愛の御手によって支配してくださるからこそ、私どもは心から喜んで礼拝をささげることができ、ここで主の恵みを覚えることができるのです。

 6節後半が本日の中心となる御言葉です。「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」「もし〜ならば」というふうに、ここは条件文になっています。このような言葉遣いを聞きますと、私どもは不安になります。自分はここで言われている条件を満たす人間なのだろうかと思うからです。「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば」とあります。自分はキリスト者として、いつも確信を持って生きているでしょうか。希望に満ちて生きているでしょうか。おそらく、胸を張って、「そうです」と答えることができる人はいないと思います。しかし、ここで問われていることは、キリスト者「個人」ではなく、「わたしたちこそ神の家」とあるように、「教会」のことについて語られている言葉です。この世にあって、教会はどのような確信と誇りを持って歩んでいくのでしょうか。教会もまた、不安や思い煩いの虜になっていては、神の家として立ち続けることができません。

 神の家として、しっかりと立ち続けるために、「確信と希望に満ちた誇り」が必要です。「確信」「希望」「誇り」とても力強い言葉がいくつも並べられています。最初の「確信」という言葉と最後の「誇り」という言葉は、両方とも「大胆に」と訳すことができる言葉です。試練の中で教会に求められていることは確信であり、誇りであり、大胆さです。試練の中で、恐れに捕らわれ口を閉ざすのではなく、大胆に、率直に信仰を言い表すこと。それが、神の家としての教会の姿です。そして、大胆に信仰を言い表すためには、私たちはこのことを信じているという「確信」が必要です。

 また、6節には「希望に満ちた誇り」とあるように、「希望」という言葉があります。信仰に生きることは、希望に生きることでもあります。また、希望というのは、まだ現実のものになっていないということです。これから起こること、将来起こることを確信するということです。第10章で手紙の著者はこう言います。「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」(ヘブライ10:22,23)教会が公に言い表している信仰は、例えば、「使徒信条」を見るとよく分かるように、将来に関する告白が含まれており、それが信仰において大きな意味を持ちます。終わりの日、主イエスがもう一度、この世界に来られることもそうですし、それに伴い、私どもが復活し、死を超えて、永遠に神と共に生きる幸いにあずかることができることも将来に関わる事柄です。それらを信じることができるのは、希望を持っているからです。希望があるからこそ、信じて生きることができます。「希望を持ちましょう!」と呼び掛けつつも、なかなか希望の中を生きることができないのは、希望というのは将来に関わる事柄であるがゆえに、目に見えないという性質があるからかもしれません。当時のローマの教会は、迫害という苦難を含め、すべての者たちが神に従っていない現実を目の当たりにして、神の祝福は目に見える形ではまだ来ていないという感覚を持っていました(ヘブライ2:8)。このことは、今日を生きる私どもにも同じように問われていることではないでしょうか。この世界に神は本当に生きておられるのだろうか?と不安になり、確信と希望を持つことができなくなることがあります。だからこそ、1節にありましたように、イエス・キリストのことを考えるのです。ぼんやり考えるのではなく、「しっかり」考えるということです。6節の「持ち続けるならば」というのも、「しっかり」「終わりまで」持ち続けるということです。そこに信仰の確信と誇りと大胆さが生まれます。

 もし、人生に希望を持つことができなければ、それは虚しいものになってしまいます。特に歳を重ねた晩年に希望を見出すことができなければ、何のためにこれまで生きてきたのか。ただ虚しく死ぬためだけに生まれてきたのかということになります。しかし、教会が公に言い表し、告白するキリストの福音は、人生の最後の一瞬まで希望を持ち続けることができるという喜びの知らせです。

今から共に祝う聖餐において、復活の主は私どもにパンとぶどう酒を分け与えてくださり、救いの確かさにあずからせてくださいます。目で見、手で触れ、舌で味わうことができるように、あなたがたに与えられている救いは確かであり、死に打ち勝つほどに力強いものだということです。そして、天にある希望を仰ぎ見ながら、こらからも神の家で、主イエスと共に、そして、教会の仲間と共に歩んでいくのです。お祈りをいたします。

 私たちにはまだ分からないこと、見えないことがたくさんあります。しかし、そこで失望するのではなく、希望を持ってしっかりと立ち続けることができるようにしてくださいました。私どもを神の家としてくださり、私どもとどこまでも共に歩もうとしてくださるイエス・キリストのお姿を見失うことがありませんように。様々な試練や思い煩いで心がいっぱいになってしまうのではなく、そこでしっかりと主のことを心に留めることができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。