2021年04月25日「聖なる契約を信じる」
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聖なる契約を信じる
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ダニエル書 11章21節~39節
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聖書の言葉
21 代わって立つ者は卑しむべき者で、王としての名誉は与えられず、平穏な時期に現れ、甘言を用いて王権を取る。22 洪水のような勢力も彼によって押し流され、打ち破られ、契約の君も破られる。23 この王は、僅かの腹心と共に悪計を用いて多くの者と同盟を結び、勢力を増し、強大になって行く。24 平穏な時期に彼は最も豊かな地方を侵略し、先祖のだれもしたことのないようなことを行い、戦利品や財宝を分配する。また、諸方の砦に対して計略を練るが、それは一時期のことである。25 やがて彼は力と勇気を奮い起こし、南の王に対して大軍を整える。南の王も非常に強大な軍勢をもってこれと戦うが、計略にかかり、勝つことができない。26 すなわち、南の王の禄を食む者ら自身が彼を打ち破る。その軍勢は押し流され、多くの者が傷つき倒れる。27 これら二人の王は、互いに悪意を抱きながら一つの食卓を囲み、虚言を語り合う。しかし、何事も成功しない。まだ終わりの時ではないからである。28 北の王は莫大な富を獲得して自国に引き揚げる。聖なる契約に逆らう思いを抱いて、ほしいままにふるまい、自国に帰る。29 時が来て、彼は再び南に攻め入るが、これは最初でも最後でもない。30 キティムの船隊が攻めるので、彼は力を失う。彼は再び聖なる契約に対し、怒りを燃やして行動し、また聖なる契約を離れる者があることに気づく。31 彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。32 契約に逆らう者を甘言によって棄教させるが、自分の神を知る民は確固として行動する。33 民の目覚めた人々は多くの者を導くが、ある期間、剣にかかり、火刑に処され、捕らわれ、略奪されて倒される。34こうして倒れるこの人々を助ける者は少なく、多くの者は彼らにくみするが、実は不誠実である。35 これらの指導者の何人かが倒されるのは、終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるためである。まだ時は来ていない。 36 あの王はほしいままにふるまい、いよいよ驕り高ぶって、どのような神よりも自分を高い者と考える。すべての神にまさる神に向かって恐るべきことを口にし、怒りの時が終わるまで栄え続ける。定められたことは実現されねばならないからである。37 先祖の神々を無視し、女たちの慕う神をも、そして他のどのような神をも尊ばず、自分を何者にもまさって偉大であると思う。38 代わりに、先祖の知らなかった神、すなわち砦の神をあがめ、金銀、宝石、宝物でこれを飾り立てる。39 強固な砦の数々を異国の神に頼って攻め、気に入った者には栄誉を与えて多くの者を支配させ、封土を与える。ダニエル書 11章21節~39節
メッセージ
私どもは、聖書をとおして神がどのようなお方であるかを知ることができます。同時に聖書は、私ども人間がどのような存在であるかを映し出す鏡のようなものでもあります。様々な人間の姿が記されていますが、なかでも心に留めなければいけないのは、罪人としての人間の姿です。聖書は初めから終わりまで、人間の罪を描いています。もちろんそれは罪深い人間を救い出す神の恵みを語ることとも重なりますが、ここに生きる私たち自身が神の前に罪人であるということを心に留めるためでもあります。もう何千年前に記された聖書の言葉ですが、御言葉をとおしてこれまで気付くことがなかった自分の闇について初めて気付かされるということがあるのです。そして、罪というのは決して抽象的なことではありません。長い歴史を歩んできた人間が実際に経験してきたことです。だから聖書にはちゃんと歴史に基づいた人間の営み、その中で重ねてきた罪の歴史を語ります。今日を生きる私どももまた、罪の力により誰かを傷付けることもあれば、誰かの罪によって苦しめられ、癒されることのない痛みを経験してきたことでありましょう。
夕礼拝で耳を傾けていますダニエル書もまた、ちゃんとした歴史背景を持っています。ダニエル書は、「黙示文学」と呼ばれるジャンルですから、所々、国や王の名前を直接記さない箇所もありますが、地上に存在する具体的な国や王を指していることは明らかです。本日もペルシアやギリシアといった国が登場してきます。大まかに話しますと、ペルシアとギリシアの戦いがまず記されています。勝利したのはギリシアのほうです。そして、このギリシアがやがて4つに分けられるのです。その中から南の王と北の王が登場し激しい対立を繰り返すという話です。実際はまだ話が続いきます。
本日は第11章の真ん中の部分だけをお読みしましたが、敢えて、第11章全体を朗読したほうがよかったとさえ思います。おそらく、第11章全体を読んだ時に、おそらく皆様の正直な感想として、「この聖書の言葉は何を言いたいのか?」と不思議に思うことでありましょう。「何を言いたいか分からない」と言って、次の第12章に進んでしまうかもしれません。「よく分からない」というのは、この言葉がどの国を指すのか?どの王を指すのか?という謎解きをさせられるような感覚になるということかもしれませんが、それよりも大きな問題はここで神は私どもに何をおっしゃりたいのかということです。メッセージを聞き取ることができないということです。歴史のこまごまとしたこと、この時点ではこれから起こることが語られていくのですが、実に細かく書かれています。それはいいのですけれども、神様がこの場面で直接お語りになった言葉が記されているわけではありません。慰めに満ちた言葉をお語りくださったとか、反対に悔い改めに導くような激しいお言葉をお語りになったのでもないのです。あるいは、信仰者の手本になるような、ダニエルの言葉や行動が記されているわけでもないのです。これから起こることを淡々と天使がダニエルに語っていくだけなのです。神の言葉はどこにあるのか?最初はきっと多くの方がそう思われることでしょう。
「神の言葉はどこにあるのか?」「どこで神の言葉を聞けるのか?」このことはキリスト者にとっても、そうでない者にとってもたいへん切実な問題です。しかし、「神の言葉が聞こえない」という時に、果たして問題は「神様の側」にだけあるのでしょうか?どういうことかと申しますと、神の言葉が聞こえないとうことは、「教会」の言葉が聞こえないということでもあると思うからです。教会が語るべき言葉を語らずに、沈黙をしているということです。「教会が沈黙する」とはどういうことでしょうか。このダニエル書という文脈で理解する時に、教会の沈黙というのは、預言者としての見張りの務めを怠っているということです。ダニエル書の背景にはバビロン捕囚という出来事がありました。異国の地で、如何にまことの神を信じる信仰に生きることができるか?このことが、ダニエル書の中心テーマでもあります。ダニエル書に限ったことではありませんが、信仰に生きるということは信仰の戦いに生きることと一つのことです。一人一人が違う場所に遣わされていますから、そういう意味では、神様と私だけが戦っているというふうに考えてしまいがちですが、信仰の戦いは「教会」を抜きにして考えることはできません。神から与えられた信仰について周りから理解されないどころか、神を信じて生きる者を苦しめ、いのちさえ奪うということが、今日においても実際に起こっています。まことの神を知らないという罪が、多くの人々を今なお苦しめ続けているのです。だから、あなたがたは罪と悪の力に負けず、主と共に戦うように!世の支配者が御心に背を向けるようなことをしていたら、その過ちを指摘し、正してもらうように声を上げるように!神は御言葉をとおして教会を励ましておられるのです。しかしながら、神よりも目に見える人の力を恐れたのでしょう。信仰の戦いを拒み、あるいは、沈黙を貫き見て見ぬ振りをする。そのようなことが、歴史の中で起こってきました。そして、このことは今日においても神様から問われている信仰の姿勢であります。
神の言葉が聞こえないということが、私どもの歩みの中にはあります。それは神様のお考えがあって、敢えて沈黙しておられるという場合ももちろんあると思います。ですから、すぐに御心が分かるわけではないかもしれませんが、神の沈黙自体に深い意味があることは確かでありましょう。しかし、そのことと教会が沈黙するということは、表面的には似ているようでも、やはり違うのではないかと改めて思わされるのです。預言者的な務や見張りの務めを果たさなければいけないということもそうですが、よく考えてみますと、教会には色んな言葉や声で満ちていると思うのです。御言葉ということに限って言えば、何よりも礼拝のこと、聖書朗読や説教のことを思い浮かべることができるでしょう。この世の生活においては、まるで神が沈黙しておられるのではないかと疑い、望みを持つことができないような毎日が続いたとしても、日曜日教会に来れば、神のお姿を鮮やかに見ることができる。御言葉を聞くことができる。そのことを期待して教会に集うのではないでしょうか。またもう少し視野を広げれば、礼拝ということに限らず、教会で共に祈ることもありますし、色んな集会や会議で話し合うこともあります。そこで多くの言葉が交わされ、祈りがささげられることでしょう。ちょっとした立ち話のようなものであったとしても、兄弟姉妹との交わりや対話をとおして、大いに励まされるということはよくあることだと思います。しかし、その教会が本来の務めを見失い、語るべき言葉も失っているということがあるということです。神が何もされないから、神が黙っておられるから、私たち教会も何もしないし、何も語らないというのではないのです。とりわけ、試練の中に立たされる時、厳しい信仰の戦いを強いられる時、どのような仕方で神を見出し、御言葉に耳を傾け、なすべくことをなしていくのかということは、大切な教会の課題であると思います。
本日の第11章において、神は何を語っておられるのでしょうか。丁寧に目をとおす時、ある言葉に目が留まります。それが「聖なる契約」という言葉です。28節、30節、32節に記されています。32節は「契約」という言葉だけで、頭の「聖なる」という言葉は付いていませんが、意味としては同じことです。「聖なる契約」というのは、神が私どもを罪から贖うために、遥か前から私ども人間と結んでくださった救いの約束です。この神の契約を信じるならば、私どもは救われるのです。どれだけ私どもが罪深くても、不誠実であっても、ちょっとしたことで心揺らぐことがあっても、聖なる契約は揺らぐことがありません。神様と私たちの間でしっかりと結ばれているのです。
しかしながら、神の救いそのものを表す「聖なる契約」という言葉が、どのような文脈で用いられているかということです。そのことに注目する必要があります。例えば、28節では、「北の王は莫大な富を獲得して自国に引き揚げる。聖なる契約に逆らう思いを抱いて、ほしいままにふるまい、自国に帰る。」聖なる契約に「逆らう」ということが言われています。逆らっているのは北の王です。また、30節後半にはこうあります「彼は再び聖なる契約に対し、怒りを燃やして行動し、また聖なる契約を離れる者があることに気づく。」聖なる契約に逆らっていた北の王が、今度も同じ聖なる契約に対し怒りを燃やしています。そして、「聖なる契約を離れる者」とありますように、今までちゃんと信じていたのに、神の契約を忘れ、神のもとから離れている者がいるというのです。32節では、単に契約から離れるというのではなく、はっきりとした意志をもって「逆らう」というのです。これらのことを見ていきますと、人々の不信仰を言い表す文脈の中で、「聖なる契約」という言葉が用いられているということです。神を信じていない者だけでなく、信じている者もまた聖なる契約をちゃんと受け止め、信じることができなかったというのです。第11章に記されている内容に難しさを覚えつつ、やったと見つけた「聖なる契約」という言葉でさえ、人々から蔑ろにされている。神の民さえも信じようとしない。そのような為政者や信仰者の罪というものが語られていくわけです。
しかしながら、このように「聖なる契約」を信じることなく、そこから離れ、逆らおうとうする思いがこの世界に満ちているからこそ、私どもはこの神の契約を信じよう!どんなことがあっても離れることなく堅く信じよう!主と共に信仰の戦いを戦い抜こう!そういった思いが与えられていくのだと思います。ですからこのような罪に満ちた現実にあって、迫害という苦難の中にあって、32節にあるように「自分の神を知る民は確固として行動する」のです。また、33節にあるように、「民の目覚めた人々は多くの者を導く」のです。「目覚める」というのは、賢いということです。思慮深いということです。迫害の中にあっても、信仰者として愚かな振る舞いをしないということです。そして、自分だけでなく、他の人々をも信仰の正しい道に導くことができるほどの賢さだということです。
迫害という厳しい苦難の中にあっても、そこに神がいないとか、神がおられてもまるで知らん振りをしておられるというのでもないのです。神の聖なる契約は、遥か前から神の民に与えられていたものです。神様の思いを理解せず、何度背を向けることがあっても、時に厳しい裁きを下されることがあっても、神は私どもを見捨てようとはなさいません。そして、聖なる契約はある一つのところを目指していました。やがて、この世界に救い主として来られるイエス・キリストです。キリストをとおして、私どもは聖なる契約の恵みに、つまり、救いの恵みにあずかることができます。そして、地上に立てられている教会は、聖なる契約が指し示すキリストの福音を宣べ伝える大切な働きが託されているのです。そして、福音を伝えるだけではなく、聖なる契約に逆らおうとする力があるならば、教会はそれらの力と戦わなければいけません。福音を伝えるにしろ、福音に堅く立つ戦いに生きるにしろ、教会は沈黙するわけにはいかないのです。
31〜33節を見ますと、この時、世の支配者がどのような仕方で神の民を苦しめたかが分かります。礼拝をささげるための中心となる聖所を汚し、礼拝そのものをできないようにします。あるいは、巧みな言葉を用いながら攻撃します。とりわけ、既に信仰に疑いや弱さを持っている者たちにターゲットを絞り、信仰を捨てるよう説得します。そして、最後には暴力や武力を行使して人々のいのちを奪おうとします。このような悪魔的な力を前にして、信仰者たちは同じように暴力や武力で抵抗することはいたしません。信仰をもって戦うのです。だから、肉のいのちが奪われるかもしれないという恐怖の中にあっても、聖なる契約を信じる者は賢く生きることができるのです。
地上にある教会、またキリスト者というのは、主イエスが山上の説教の中でおっしゃったように、「地の塩」であり「世の光」です(マタイ5:13~16)。「地の塩」「世の光」たいへん響きのいい言葉ですが、このことを語る前に、主はこのようなことをおっしゃいました。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書第5章11〜12節の御言葉です。主イエスは信仰のゆえに迫害される幸いと喜びを弟子たちにお語りになりました。でも迫害の何が幸いなのでしょうか。それは地上においては苦しむことがあるけれども、天においては報われるということです。ダニエル書第11章35節でも、「終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるため」とありました。ただ、そこで私どもは余計なことを考えてしまうのです。天において報われるのはいいけれども、地上における苦しみ自体には意味がないのだろうか。来たるべき日に報われるのだから、今はひたすら我慢をしろということなのだろうか。あるいは、いのちをかけてまで信じる姿勢が多くの人々の心を打ち、証しになるから頑張りなさいということなのだろうか…。
確かにそのような一面もあるでしょう。本日の箇所でもう一つ興味深いのは34節にこのように記されていることです。「こうして倒れるこの人々を助ける者は少なく、多くの者は彼らにくみするが、実は不誠実である。」つまり、迫害されている神の民の姿を見て、かわいそうになった人がいるということです。だから、彼らを助けたいと思いました。しかし、助けてくれる人はわずかなのです。そして、彼らは自分たちの味方のようで、実際はそうではないというのです。そうしますと、教会が抱える苦しみ、キリスト者一人一人の苦しみはこの地上において何を意味するのか?そのことを改めて問わずにはおれません。死を恐れずに苦しんでいるキリスト者を見て、人々は心打たれ、私もキリスト者になろうと思う人は稀だと思います。おそらく、多くの人々はこんな酷い目に遭うのであれば、キリスト者になりたくないと思うことでありましょう。
でもある説教者はこう言います。「教会が苦しんでいるということ」「教会が迫害されているということ」そのこと自体が、世の人々に対しても大きな意味を持っているのだと言うのです。だから、教会が正しい信仰をもって苦しみを受け止めるならば、教会は人々に寄り添うことができると言うのです。どういうことかと申しますと、教会が苦しんでいるということは、キリスト御自身が苦しんでおられるということでもあるからです。なぜキリストが苦しまなければいけないのでしょうか。誰がキリストに苦しみを負わせているのでしょうか。それは「迫害」ということの中に表れていますように、人間の「罪」のゆえに、主は苦しみと痛みを覚えておられるということです。
けれども、このような罪に満ちた世界と人間が、本当に必要としていることがあるのです。それは、罪の悲惨をすべて背負ってくださり、受け止めてくださり、そして解決してくださるただ一人のお方です。迫害というのは、神に対する罪の表れそのものです。私は決して、彼らを擁護するわけではありませんが、迫害する者たちの問題というのは、結局のところ自らの罪をどのように解決すればいいのかが分かっていないというところにあるのではないでしょうか。罪を誰かになすりつけ、その相手を傷付けるという仕方でしか解決できないと、どこかで思い込んでいのです。
しかし、主イエスは「そのあなたの罪をわたしに投げつけろ!」とおっしゃいます。他の誰かに投げつけたところで何の解決にも救いにもならないからです。「わたしにかあなたを罪から救うことができないのだから…」この主イエスの御声が、地上の教会をとおして高らかに告げられていきます。それゆえに、教会はキリストが苦しまれたように、主の苦しみの一端を担う存在となります。そして、主の十字架なしに罪の赦しがないように、教会が信仰において苦しむということを真剣に受け止めるならば、あるいは、信仰の戦いに生き抜くならば、キリストの福音は人々の魂に確かに届けられていくのです。魂が飢え渇くようなこの世にあって、いのちの水が湧き出る泉として、教会は人々に寄り添うことができるのです。「神の聖なる契約によって、どんなことがあっても、あなたは神から引き離されることはないのだ」そう言って、救いの確信の中に人々を導くことができるのです。
最後に、新約聖書コロサイの信徒への手紙の第1章24節の御言葉をお読みします。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」私どもが教会に生きるということは、キリストの苦しみの欠けたところを満たすためです。それは、キリストの十字架の苦しみが不十分だったから、後は私たちのほうで補っておきましょうという話ではありません。キリストが成し遂げてくださった救いの御業に、私どもは何も付け加える必要など一切ありません。しかしそれにもかかわらず、神は教会を地上に建ててくださいました。それは信仰生活の中で覚える様々な苦しみにあずかるそのことの中に、実は「救いとは何か」「イエス・キリストとは誰か」ということが鮮やかに示さるのだということを、神御自身確信しておられたからに違いありません。だから、「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」そのようにして、私どもも信仰を言い表します。そこに、目の前の苦しみと向き合う力も備えられていくのです。お祈りをいたします。
地上を旅する私どもの歩みには常に苦難があります。様々な形での迫害というものがあります。なるべく苦しみを避けて通りたいというのが本当の思いかもしれませんが、あなたは苦しみを担うように私どもを召してくださいました。すぐには悟ることができない、神様の深い御旨があることを思います。そのような中にあっても、地上の教会が信仰の戦いを終わりの日までしっかりと戦い抜くことができるように、上からの力をもってお支えください。「ここに来れば、神の救いを見ることができる」ということを、教会が大胆に、自信をもっていつも語ることができるように、御霊をもって強めてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。