2021年01月24日「終わりの時を悟る」
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終わりの時を悟る
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ダニエル書 8章1節~27節
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聖書の言葉
1 わたしダニエルは先にも幻を見たが、その後ベルシャツァル王の治世第三年に、また幻を見た。2 その幻の中にあって、見るとわたしはエラム州の都スサにおり、ウライ川のほとりにいるようであった。3 目を上げて眺めると、見よ、一頭の雄羊が川岸に立っていた。二本の角が生えていたが共に長く、一本は他の一本より更に長くて、後ろの方に生えていた。4 見ていると、この雄羊は西、北、南に向かって突進し、これにかなう獣は一頭もなく、その力から救い出すものもなく、雄羊はほしいままに、また、高慢にふるまい、高ぶった。5 これについて考えていると、見よ、西から一頭の雄山羊が全地の上を飛ぶような勢いで進んで来た。その額には際立った一本の角が生えていた。6 この雄山羊は先に見た川岸に立っている二本の角のある雄羊に向かって、激しい勢いで突進した。7 みるみるうちに雄山羊は雄羊に近づき、怒りに燃えてこれを打ち倒し、その二本の角を折ったが、雄羊には抵抗する力がなかった。雄山羊はこれを地に投げ打ち、踏みにじった。その力から雄羊を救い出すものはなかった。8 雄山羊は非常に尊大になったが、力の極みで角は折れ、その代わりに四本の際立った角が生えて天の四方に向かった。9 そのうちの一本からもう一本の小さな角が生え出て、非常に強大になり、南へ、東へ、更にあの「麗しの地」へと力を伸ばした。10 これは天の万軍に及ぶまで力を伸ばし、その万軍、つまり星のうちの幾つかを地に投げ落とし、踏みにじった。11 その上、天の万軍の長にまで力を伸ばし、日ごとの供え物を廃し、その聖所を倒した12 また、天の万軍を供え物と共に打ち倒して罪をはびこらせ、真理を地になげうち、思うままにふるまった。13 わたしは一人の聖なる者が語るのを聞いた。またもう一人の聖なる者がその語っている者に言った。「この幻、すなわち、日ごとの供え物が廃され、罪が荒廃をもたらし、聖所と万軍とが踏みにじられるというこの幻の出来事は、いつまで続くのか。」14 彼は続けた。「日が暮れ、夜の明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る。」15 わたしダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。その時、見よ、わたしに向かって勇士のような姿が現れた。16 すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。「ガブリエル、幻をこの人に説明せよ。」17 彼がわたしの立っている所に近づいて来たので、わたしは恐れてひれ伏した。彼はわたしに言った。「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい。」18 彼がこう話している間に、わたしは気を失って地に倒れたが、彼はわたしを捕らえて立ち上がらせ、19 こう言った。「見よ、この怒りの時の終わりに何が起こるかをお前に示そう。定められた時には終わりがある。20 お前の見た二本の角のある雄羊はメディアとペルシアの王である。21 また、あの毛深い雄山羊はギリシアの王である。その額の大きな角は第一の王だ。22 その角が折れて代わりに四本の角が生えたが、それはこの国から、それほどの力を持たない四つの国が立つということである。23 四つの国の終わりに、その罪悪の極みとして/高慢で狡猾な一人の王が起こる。24 自力によらずに強大になり/驚くべき破壊を行い、ほしいままにふるまい/力ある者、聖なる民を滅ぼす。25才知にたけ/その手にかかればどんな悪だくみも成功し/驕り高ぶり、平然として多くの人を滅ぼす。ついに最も大いなる君に敵対し/人の手によらずに滅ぼされる。26この夜と朝の幻について/わたしの言うことは真実だ。しかし、お前は見たことを秘密にしておきなさい。まだその日は遠い。」27わたしダニエルは疲れ果てて、何日か病気になっていた。その後、起きて宮廷の務めに戻った。しかし、この幻にぼう然となり、理解できずにいた。ダニエル書 8章1節~27節
メッセージ
月に一度の夕礼拝では、旧約聖書ダニエル書を1章ずつ読み進めています。このダニエル書には、幻や夢を見たという場面が何度も登場します。聖書の最後に記されている「ヨハネの黙示録」のように、「黙示文学」と呼ばれています。それは幻や夢という形でしか伝えることができない特別な事情というものがダニエルをはじめ、神の民を取り巻いていたということです。ダニエル書においてはバビロン捕囚という時代背景がありました。ヨハネの黙示録においては、ローマ帝国による厳しい迫害がありました。伝えるべき神の福音を真っ直ぐに伝えることができない。隠しておかないといけない。これは、教会にとっても、伝道者にとっても大きな試練であり、本当に辛いことです。しかし、神の言葉はどのような妨げがあったとしても、そこで止まってしまうことはありません。どのような状況においても神の言葉は前進します。キリストの福音は何者にも縛られることなく、自由であり、私どものもとに届けられるのです。
幻や夢といったものは、いつも私どもが見ている光景とはずいぶんかけ離れているところがあります。それゆえに、その光景を見た者たちは圧倒され、恐れおののくことがよくあります。あるいは、その意味が分からない限りは不安から解き放たれないのです。世の権力者である王も、そして、夢を解く賜物が与えられていたダニエルさえ恐れを抱きました。この第8章で幻を見ているのは、前の第7章に引き続きダニエルでした。最後の27節を見ますと、「わたしダニエルは疲れ果てて、何日か病気になっていた。…この幻にぼう然となり、理解できずにいた。」とあります。見たことのないものを初めて見、聞いたことのないものを初めて聞く。ダニエルは幻をとおして、そのようは激しい信仰の経験をいたしました。疲れ果て、病み、倒れ伏すほどに神に圧倒される。このような経験はそう何回もすることではないでしょう。ここで見た幻は確かに恐ろしい部分もありましたが、結論を先取りしますと神様の勝利が謳われているのです。そういう意味では、どうして疲れ果て、病んでしまうのだろうかと不思議に思ってしまうのです。しかし、冷静に考えてみますと、神の勝利を告げる喜びの知らせを真実に聞く時、誰もが圧倒されるのではないでしょうか。人によっては、程度や時間の差はあるかもしれませんが、身も心もボロボロになりながら、しかし、神の大きな御手によってしっかりと捕らえられている自分がいることに気付かされることがあるのです。
さて、この第8章でダニエルが見た幻は、先の第7章と同じベルシャツァルがバビロンの王として支配していた時代でした。ダニエルが見た幻に登場するのは動物たちです。一匹は雄羊、もう一匹は雄山羊です。最初の雄羊は二本の角が生えていました。羊という動物は明らかに弱い動物です。しかし、幻の中で描かれているのはそうではありません。4節には、「見ていると、この雄羊は西、北、南に向かって突進し、これにかなう獣は一頭もなく、その力から救い出すものもなく、雄羊はほしいままに、また、高慢にふるまい、高ぶった。」とあります。ずいぶん激しく、勢いがある姿です。そして、体の動きだけではなく、その心においても高慢や高ぶりのことが記されています。そして、さらにその上を行くのが後から登場する雄山羊でした。雄羊に向かって突進し、怒りに燃えた雄山羊は雄羊を地に投げ打ち、踏みにじったというのです。この雄羊は、高慢に振る舞っていた雄羊を倒すために遣わされた者ではありません。雄羊以上に恐ろしく、厄介な存在でした。そのことが8節以下に記されています。そこを見ますと、「天の四方に向かった」(8節)とか「天の万軍の長にまで力を伸ばし…その聖所を倒した」(11節)とあるように、雄山羊は神に対して、そして、神を信じる者たちに敵対するこの世の力であるということです。雄羊も雄山羊という存在は、漠然とこの世の力をたとえているのではなく、20〜21節にはっきりと記されているように雄羊は、メディアとペルシアの王を指しています。そして、雄山羊はギリシアの王を指しています。このギリシアの王が強大な力を持ち、天におられる神に立ち向かう勢いで昇りつめようします。そして、地上においては、神の民にとって大事な場所である聖所、つまり、神殿を破壊します。神の民が心を込めてささげた供え物さえも無きものにします。24、25節ではこう記されています。「自力によらずに強大になり/驚くべき破壊を行い、ほしいままにふるまい/力ある者、聖なる民を滅ぼす。才知にたけ/その手にかかればどんな悪だくみも成功し/驕り高ぶり、平然として多くの人を滅ぼす。」このような幻を見せられるというのは、神を信じる者たちにはとっては耐えられない姿だと思います。それこそ、身も心もボロボロになってしまうようなことでありましょう。そして、このような世の権力者が、神に造られた人間であることを忘れ、まるで獣のようになって振る舞う姿は、ダニエルが生きた時代に限った話ではなく、どの時代においても起こり続けてきた悲惨な出来事です。
幻に登場するのは雄羊と雄山羊でした。雄山羊のほうが力の上では圧倒していますが、雄羊、雄山羊共にある特徴を持っています。それは二匹とも「角」を持っているということです。そして、角というのは実に不気味なものとして描かれます。そして、角というのは明らかに「力」の象徴でもあります。雄羊は二本の長さが違った角を持っていました。雄山羊はその額からは際立った一本の角が生えていたと言います。雄山羊は雄羊お角を折り、力を振るいます。そのうち、雄山羊の角が折れてしまうのですが、再び四本の角が生えて、その力を今度は天に向けます。その四本のうちの一本からさらに角が生え、非常に強大な力となったというのです。その力は神に歯向かおうとするほどに畏れを知らないものでした。この力によって地上の神の民が苦しめられてきました。しかし、王をはじめ権力者たちによって苦しめられるというのは、何も神を信じている者たち、キリスト者だけの問題ではなく、まだ神を知らない者たちを含め、すべての人間が巻き込まれてきたところがあると思います。そういう意味では、権力者の力の象徴である角が折られること。それこそ、動物の姿を取りながら、実際は獣のような姿をしているものがその強大な角が折られ、普通の雄羊と雄山羊に戻ってくれることを願うものです。しかし、人間は本当にそのことを願っているかということなのです。角が持つ恐ろしさを知りながらも、その力に苦しめられるという経験をしながらも、しかし、まだ人は「力」というものを求めて生きているということです。角と角がぶつかればどうなるか、私どもは長い歴史の中から学んでいます。人を救うための力ではなく、人を破壊しようとする力がぶつかれば当然平和など生まれないことを知っていると思います。それにもかかわらず、人はこの幻に出てくる雄羊や雄山羊が持つ不気味な力、強大な力を求めているということです。そのような破壊的な力、暴力的な力を求め、すべてを解決してほしいという願いや求めというものが人間の心に潜んでいるということです。それは武器をたくさん持ち、軍事力を拡大してということもあるかもしれませんが、自分もまた力を持ち、その力をもって誰かの上に立ちたい。自分もまた力を得て、神のように、神以上の存在になることができればという思いがあるということでもあると思います。
では、神は何を私どもに求めておられるのでしょうか。「力」そのものを否定しておられるわけではないでしょう。そうだとしたら、どのような力が必要なのでしょうか。神様はどのような意味で力あるお方なのでしょうか。そして、この幻をとおして、神は何を伝えたいのでしょうか。ある説教者はこのようなことを言っています。「神はこの幻をとおして“ユーモア”というものを私たちに見せておられるのだ」と。神様から幻を見せられる時、ダニエルがこの時感じたように「恐ろしい」という思いを抱くこともあるかもしれません。そして、この恐ろしさが消えるには、どうしても神に勝利していただかないといけない。私どもはそう信じて、神の勝利を告げる新しい幻を求めます。もちろん、このようにいつも神の力と勝利を求め、いや既に勝利にあずかっている恵みを覚えることは大切なことでしょう。でも、「恐ろしい」という思いを抱き、目を逸らしたくなるような悲惨な現実においては何の希望もないのでしょうか。つまり、恐ろしい現実を圧倒する力を求める以外に、希望はないのかということです。このことを信仰的に考えることは非常に重要だと思います。聖書を読みますと、罪や悪に打ち勝つ力、あるいは、神様の義(正しさ)を激しく祈り求める信仰者の姿を度々目にすることがあります。それは誰がどう考えても、この世界に神様の正しさ、御心というものが貫かれていないように見える。だから、今こそ「神よ、あなたがまことの神として力を発揮してください!」と叫ぶようにして祈るのです。そのような祈りを神御自身もまた求めておられることも事実です。しかし、一方で心を上に向けるだけではなく、心を下に向けることによって、つまり、地上で起こっている現実をしっかりと見つめることによっても、確かに見えてくる信仰の事実があるのだということです。そのことを神様は幻という形をとおして、ダニエルに見せておられるのだというのです。
具体的にどういうことかと申しますと、この幻に登場する雄羊と雄山羊というのは、姿かたちこそ恐ろしい部分はありますが、しかし、それでも一匹の羊であり山羊に過ぎないのだということです。見方によれば、小さなか弱い動物たちが仲良く戯れているようにしか見えないということもあるのだと思います。角を持ってはいるものの、普通の羊や山羊のように綺麗に生えているわけではありません。角の長さもバラバラですし、おかしなところから生えています。これも恐ろしいというよりも、実に滑稽な姿でありましょう。神が見せてくださる幻には、恐ろしさと同時についくすっと笑ってしまうような光景を見せてくださるということです。それは必ずしも幻や夢の中だけでなく、現実に見えている悲惨な光景の中においても言えることだと思います。恐ろしいことを恐ろしいこととして、悲しいことと悲しいこととしてしっかりと見つめ、受け入れることも大切です。そこで笑ってしまったならば、「何て不謹慎な人だ」と咎められることでしょう。もちろん、笑って馬鹿にするとか、笑って現実を誤魔化すということではありません。そうではなくて、神が与える幻、ユーモアの中で笑うことが許され、そして神にもう一度希望と託し、地に足を着けて地上の旅路を続けていくことができるということです。
そして、ユーモアを与える神御自身もまた、笑っておられるお方であるということです。詩編第2編4節以下(〜6節)にこのような御言葉がります。「天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り 憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。『聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。』」 この詩編は、地上にいる王たちが主に逆らっている現実が背景にあります。しかし、神は天の王座で笑っておられるのです。まことの王は神御自身であり、地上においてもまことの王を即位させると告げられるのです。だから、私どもは心を天に向けます。そして、この地上にも向けることができます。どこにおいてもまことの王である神がいてくださり、それゆえに勝利を見出すことができます。強大な力を持ち、神の民をも迫害したギリシア帝国の王ですが、24節の冒頭をよく見ますと、「自力によらずに強大になり」とあります。この王の名前は「アンティコス」と呼ばれる人物だったと言われますが、聖書は「王は自分の力によって強くなったのではない」のだと言います。何が言いたいかと申しますと、「無力」だということでしょう。恐ろしく、酷いことをしているかもしれないけれども彼には力はない。彼もまた神の支配の中にあるのだということです。そして、25節の終わりには、「人の手によらずに滅ぼされる」とあります。人以外の手、つまり、神の手によって滅ぼされるということです。
この神様の御手は私どもが生きることの時代においても働いています。なお存在し続ける罪と悪の力に打ち勝つために、今も神は働いておられるのです。それは先程の詩編第2編にありましたように、神は地上にまことの王を立ててくださった出来事とも重なりますが、ダニエル書第8章の文脈から理解する時に16節に登場する「ガブリエル」という存在に注目することができます。このガブリエルというのは天使のことです。そして、天使ガブリエルと言えば、クリスマスの場面に登場天使です。マリアに受胎告知を告げた天使です。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカによる福音書1章31〜33節)
また、主イエスよりも半年ほど先に生まれた洗礼者ヨハネの父・ザカリアは、クリスマスの時にこのような賛美の歌をうたいました。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。」(ルカによる福音書1章68〜69節)ザカリアは歌います。「我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた」と。ここに「角」という言葉が登場します。しかし、ダニエル書に登場した雄羊や雄山羊の角とは違います。人々を苦しめ、神のような存在になろうとする恐ろしい力ではありません。罪と悪の力によって苦しみの中にある者を救い、勝利をもたらす力です。そのために神は独り子イエス・キリストを遣わしてくださいました。羊や山羊を食い尽くすどう猛な動物としてではなく、「神の小羊」(ヨハネによる福音書1章29節)としてこの世に遣わしてくださったのです。主イエスがこの世界にお生まれになった時、馬小屋の飼い葉桶に寝かされたように、誰の目にも明らかな形で来られたのではありませんでした。主イエスは十字架に向かう道を歩まれますが、この十字架の中に神の救いの力を見るということもまた困難なことです。しかし、私どもはかつてこの地上に立ち、今も信仰の目をとおして見させていただいているキリストの十字架の中に、はっきりと「神の救いがここにある」ということを見ることがゆるされています。
キリストの勝利に連なる教会もまた、神の小羊であるキリストに結ばれて歩みます。それは、幻に登場した雄羊や雄山羊の「角」よって攻撃されるということでもあるでしょう。角で突かれ、痛みを覚えることもあるということです。しかし、たとえ肉体のいのちを奪うことができたとしても、魂まで支配することはできません。そして、ダニエルがここで見た幻は17節にありますように、「この幻は終わりの時に関するものだということ」を悟らなければいけないということす。ここで言われている「終わりの日」というのは、いわゆるキリストが再び来られる「再臨」の時ではなくて、ギリシア帝国の治世が終わる時を指してします。しかし、キリストの再臨の時もまた、力ある王はまことの神ただお一人であるということが明らかになる時です。ですから、一つの時代が終わるだけではなく、この世界が終わりの時を迎え、神の救いが完成する日を、今日の私どもは待ち望みながら生きるのです。その時、誰にも邪魔されることなく聖所に安心して集い、神を心から礼拝することができます。終わりの日には、14節にあるように破壊された聖所も、「あるべき状態に戻る」のです。聖所に立って神を礼拝する時、私どももまた心が元の状態に戻り健やかに歩むことができます。そして、聖所というのは今日で言う「教会」のことでありましょう。世の荒波の中で、私どもも困惑や苦しみを覚え、時に世の流れに巻き込まれそうになることもあるかもしれません。しかし、主の日ごとにここに集い、礼拝をささげます。ここに私どもの力の源があるからです。
さて、最後の27節にこう記されていました。「わたしダニエルは疲れ果てて、何日か病気になっていた。その後、起きて宮廷の務めに戻った。しかし、この幻にぼう然となり、理解できずにいた。」説教の最初にも少し触れましたが、とても不思議な終わり方をしています。幻を見て、その意味を説明されてもなかなか理解することができませんでした。身も心も疲れ果て、病さえ患いました。依然として呆然としているのです。しかし、「その後、起きて宮廷の務めに戻った」と一言記されていることに気付かされます。「務め」というのは、他の聖書を見ますと「事務」と訳されています。事務仕事です。どんな内容かは具体的には分かりませんが、どちらかと言うと目立たない仕事でしょう。いつもの仕事です。決して、誰の目にも明らかな大仕事であるとか、何年もかかる大事業というのではないのです。しかし、ダニエルは王宮から逃げ出すことなく、信仰者として与えられた仕事を異国の地でいつものように続けたのです。終わりの時を自覚しながら、希望を持ち、そこでいつもの仕事、小さな働きを一所懸命続けたのではないでしょうか。このように、疲れ果ててしまうような現実に囲まれても、なお日常の務めを怠ることなく続けていくことができるのは、神の勝利を確信しているからです。再び主イエスが来てくださることを信じているからです。天においても、地においても神の恵みと力強さは満ち溢れています。その信仰の事実を真っ直ぐに見つめ、この一週間も為すべき務めに励みたいのです。お祈りをいたします。
神様、あなたの御心をいつも求めて歩むことができますように。あなたがお示しになる出来事を見る時に、恐れを覚えることがあるかもしれません。しかし、畏れおののきつつも、神様の偉大さを知り、御名をたたえることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。