2020年09月27日「神の手になる文字」

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神の手になる文字

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ダニエル書 5章13節~30節

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聖書の言葉

13そこで、ダニエルが王の前に召し出された。王は彼に言った。「父王がユダから捕らえ帰ったユダヤ人の捕囚の一人、ダニエルというのはお前か。14聞くところによると、お前は神々の霊を宿していて、すばらしい才能と特別な知恵を持っているそうだ。15賢者や祈祷師を連れて来させてこの文字を読ませ、解釈させようとしたのだが、彼らにはそれができなかった。16お前はいろいろと解釈をしたり難問を解いたりする力を持つと聞いた。もしこの文字を読み、その意味を説明してくれたなら、お前に紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけて、王国を治める者のうち第三の位を与えよう。」17ダニエルは王に答えた。「贈り物など不要でございます。報酬はだれか他の者にお与えください。しかし、王様のためにその文字を読み、解釈をいたしましょう。18王様、いと高き神は、あなたの父ネブカドネツァル王に王国と権勢と威光をお与えになりました。19その権勢を見て、諸国、諸族、諸言語の人々はすべて、恐れおののいたのです。父王様は思うままに殺し、思うままに生かし、思うままに栄誉を与え、思うままに没落させました。20しかし、父王様は傲慢になり、頑に尊大にふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。21父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草を食らい、天から降る露にその身をぬらし、ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。22さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。23天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。24そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。25さて、書かれた文字はこうです。メネ、メネ、テケル、そして、パルシン。26意味はこうです。メネは数えるということで、すなわち、神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられたのです。27テケルは量を計ることで、すなわち、あなたは秤にかけられ、不足と見られました。28パルシンは分けるということで、すなわち、あなたの王国は二分されて、メディアとペルシアに与えられるのです。」29これを聞いたベルシャツァルは、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖をその首にかけるように命じ、王国を治める者のうち第三の位を彼に与えるという布告を出した。30その同じ夜、カルデア人の王ベルシャツァルは殺された。ダニエル書 5章13節~30節

メッセージ

 月に1度の夕礼拝では、旧約聖書のダニエル書を読み進めています。今お読みした第5章は一つの時代の終わりを告げる箇所でもあります。最後の30節は、「カルデア人の王ベルシャツァルは殺された。」という不気味な言葉で終わっています。ベルシャツァルというのは、バビロン帝国の王であったネブカドネツァル王の息子です。しかしベルシャツァルは殺され、バビロン帝国は終焉を突如迎えることになります。そして今度はダリウス王のペルシア帝国の時代になるのです。

 一つの時代が終わり、また新しい時代が始まっていく。このような時代の変化や支配者の交代というのは、歴史の中で幾度も繰り返してきました。このことは何を意味しているのでしょうか。どれだけ力ある王や支配者であっても、その力が永遠に続くことはないということでしょうか。確かにそうかもしれません。たとえ、力があったとしても、それは限られた時間に過ぎないのです。だから、人は「永遠」というものに憧れを抱くのでしょう。そして、そのような時代の移り変わりというものを、信仰の視点で捉えることが、私どもキリスト者にとっては大事なことです。21節にはこのようになります。「いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられる…。」また23節にはこうあります。「あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神…。」この世界は神によって造られ、その時間も歴史も、神様が御心のままに導かれるのです。自分の人生は自分の手によって握られているのではなく、神様の御手に握られています。そして、人間が永遠の存在ではなく、限りある存在であるということは、神様と比べて限りがある、限界があるということです。だから、そこをよく理解しないと、私ども人間は神に対しても人に対しても、大きな過ちを犯してしまうことになります。

 ベルシャツァルは、神を畏れず、自分の力に酔いしれていたのです。父のネブカドネツァルもまた、最初は神を畏れようとはしませんでした。神からの警告も無視し、最後には神の裁きを受けることになったのです。歴史において、時代が変わり、世の支配者が変わるというのは、人間が持っている力が大きくなった、小さくなったという問題ではないのです。いつも問われるのは、神様に対する信仰の姿勢です。そして、神を畏れ敬うことなしに、文化も社会の営みも人間の歴史も続くことはないのです。

 お読みしませんでしたが、ダニエル書第5章の初めには、ベルシャツァルが千人もの貴族を招いて大宴会をしています。お酒に酔っていたこともあるでしょうが、ベルシャツァルは、父がエルサレム神殿から奪い取った金や銀の祭具を、酒を飲む器として利用し、金や銀、青銅、鉄、木、石などで造った神々をほめたたえたというのです。まことの神を崇めるための神殿の祭具が、このような形で、自分たちの楽しみのために用いられ、最後には偶像の神々をほめたたえたというのです。当然、ここには神を畏れ敬う信仰の姿勢はまったくありません。

 そのように、ベルシャツァルが自分を喜ばすことしか考えず、そのためには神さえも利用しようとする。神様はこのことを見過ごしにされるようなお方ではありません。5節以下を見ます、たいへん不思議な出来事が起こった様子が記されています。人の手の指が現れ、白い壁に文字を書き始めたというのです。王は腰が抜け、体が震えるような恐怖を覚えます。壁に書かれている字が何を意味するのかも分かりませんでした。それで、祈祷師、賢者、星占い師などの知者たちを連れて来させ、壁の文字を読み解くように命じるのです。しかし、誰も解釈することができず、文字を読み解くことができませんでした。

 この様子を聞いた王妃が、ダニエルのことを王に紹介します。呼び出されたダニエルは王の前に立つことになります。ダニエルは、前回のネブカドネツァル王の前に対してもそうですが、今回のベルシャツァルの前でも屈することなく、壁に書かれた文字の意味を解釈し、神の御旨を告げるのです。それは神のベルシャツァルに対する裁きの言葉でした。捕囚の地バビロンにいるダニエルの役割は、この地上における教会の役割でもあると、よく言われることがあります。つまり、教会は預言者的な働きが神から与えられているのです。「預言者」-それは、神の言葉を伝える者のことです。神の言葉は聞くだけで慰められる、そういう言葉もありますが、たいへん厳しい言葉もたくさん記されています。たいてい人は、そのような神様からの厳しい言葉、裁きの言葉を好みません。聞くほうだけでなく、語るほうもまた遠慮したり、裁きの響きを少し和らげて伝えたり、遂にはそんなこと口に出して言っても仕方がないと言って、黙ってしまうこともあるかもしれません。しかし、それでは預言者としての務めを放棄することになります。

 誰かに伝道する時、キリストの福音を伝えたい時にも、そこにはある厳しい言葉が伴うものです。決して、相手を脅そうとしているわけではありませんが、裁きを抜きにした福音というのは、結局、安っぽい喜びにしかならないからです。そして、この預言者的な働きは、神様だけが願っておられるだけでなく、この世の人々も教会に対して、願っていることなのではないでしょうか。教会が語るべきことを語ること、そのことを求めているのだと思います。そして、教会が語るべきことというのは、私ども人間の言葉というよりも神様御自身の言葉です。自分では語ることもできないし、聞くこともできない神の言葉を黙ることなく、毅然とした態度で語り続けてほしい。そのことを人々は教会に求めているのではないでしょうか。

 さて、ダニエルは王の前で怯えることなく、語るべきことを語りました。ベルシャツァルの問題は、最初にも述べましたように、神を畏れなかったということです。これは彼に始まったことではありませんでした。父のネブカドネツァルもまた同じような過ちを犯し、神の裁きによって、獣のようになり、人間としての理性を完全に失いました。やがて、裁きの期間は終わり、元に戻ることがゆるされ、神をたたえる者に変えられたのですけれども…。「この父の話を、ベルシャツァルよ、あなたも聞いていただろう?」と言うのです。まことの神を知らないはずはなかったし、神を畏れずに生きようとする時に人はどうなるのか。その恐ろしさを聞いていたはずです。でも、ベルシャツァルは神のもとに立ち帰ろうとはしませんでした。へりくだろうとはせず、益々傲慢になりました。自分のいのちも行動も、すべては自分の手の中にあると思い違いをしていました。

 だから、神が手を遣わし、白い壁に文字を記したのです。それは25節にあるように、「メネ、メネ、テケル、パルシン」というアラム語の文字でした。その意味についても、26節以下で一つずつ説明されています。「意味はこうです。メネは数えるということで、すなわち、神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられたのです。テケルは量を計ることで、すなわち、あなたは秤にかけられ、不足と見られました。パルシンは分けるということで、すなわち、あなたの王国は二分されて、メディアとペルシアに与えられるのです。」(26〜28節)つまり、「数える」「計る」「分ける」という3つのことが言われています。数えるのも、計るのも、分けられるのも神様です。神は「もうここまで」と言って、終止符を打たれます。神は「あなたでは足りない」と言って、振り落とされます。神は「あなたの国はあなたのものでなくなる」と言って、他の者の手に渡されます。そして、国がなくなるだけではなく、ベルシャツァルのいのちさえも奪われることになるのです。

 神への畏れを欠き、自分を喜ばすためだけに力を行使する権力者たちのもとで生きなければいけない者たちにとって、このような神様の裁きは慰めになります。罪の力、悪の力が勢いを増す時、この自分を苦しめる力はいつ終わるのだろうかと不安になります。いつ終わるかまったく分からない。もしかしたら、永遠に続くのかもしれない。そう思い始める時に、生きる気力さえなくなします。また、必ずしも世の権力やまことの神を信じない人々の力や支配ということだけでなく、日常にある人間関係であったり、病の力であったりというふうに、私たちを不安にさせ、苦しめる原因となるものはたくさんあります。「忍耐するように」と言われても、途中で投げ出したくなってしまうのは、終わりが見えないからです。ずっと続くのではないかという錯覚に捉われてしまうからです。しかし、神様は悪に対してはもちろんのこと、私どもを苦しめ、神の恵みから引き離そうとする力といつも戦い勝利してくださるお方です。人間の世界において、すべてには限りがあり、永遠に続くものなどありません。神様の御栄えだけが永遠に続くのです。そのことを、今一度、心に留め、神を畏れ敬う者でありたいと願います。

 そして、神様の裁きということを考える時に、決して他人事のように外側から見ていてはいけないと思うのです。例えば、今日の物語を読む時に、自分をベルシャツァルに当てはめて読む人はあまりいないと思います。私どもはむしろベルシャツァルのようなこの世的な力によって苦しめられているということに、自分たちの姿を重ね合わせると思います。そのような私たちを助けるために、神様が裁きをくだしてくださるのです。だから希望があるのだということを先程お話しました。もちろんそのとおりです。私たちは、キリストによって、救いの恵みにあずかっているのですから、何も恐れる必要はありません。

 しかし、私どもは、もう神様の裁きを自分のこととして真剣に受け止めなくてもよいのでしょうか。終わりの日に裁きの座に立つことがあっても、イエス・キリストが私のことを弁護してくださるのだから大丈夫だと言って、御心から離れた生活をしていいのでしょうか。そうではないと思います。せっかく救っていただいたのに、神様とはまったく関係のない生活を続けてしまったならば、たいへんもったいない生き方をしてしまっているばかりか、神様再び悲しませてしまうことになります。神様の裁きに心を向けて、ただ恐いと言ってビクビクするのではありません。裁きを見つめつつ、同時に救い主イエス・キリストを見つめます。十字架の上で、神様の裁きをすべて受けてくださった主イエスを見つめます。その時に、初めて私どもは神を畏れ、信仰の姿勢が整えられていくからです。

 神様が私どもを秤に乗せて計られたならば、誰一人として、神の義を満たす人はいません。救いに値しないと言われ、「あなたはもう終わり」と告げられるだけの存在です。でも、その秤の上に、キリスト御自身が一緒に乗ってくださるのです。キリストのゆえに、あなたは救われるべき者と告げられ、救いの恵みに入れていただきました。今日の箇所においては、神様の裁きが、「手」という形で現されています。そして、この裁きを告げる「手」というのは、何を意味するのでしょうか。聖書を読む限りは、神様の手としか言いようがないのですが、神様の手というのは、同時に、イエス・キリストの手でもある。そのように理解することもできるのではないでしょうか。キリストは、十字架の上で、父なる神様から裁きを受けられたお方ですが、同時に、神の裁きを私どもに人間に対してくだすことができるお方でもあるということです。私ども罪人を真実に裁くことができる唯一のお方であるからこそ、人々の罪を本当に赦すことがおできになるお方であるということです。何が神の御心で、何が御心でないか。そのことがわからなければ、真実の裁きもできませんし、赦しを与えることができません。でも、キリストにはそれができるのです。

 このことを思う時に、新約聖書ヨハネによる福音書第8章に記されている物語を思い起こします。「罪の女」と呼ばれる物語です。姦通の罪を犯した女が捕まったのです。主イエスと対立していた律法学者やファリサイ派たちは、イエスをおとしめるために、こう言いました。「姦通の罪を犯したのものは、石打ちの刑に処せられると聖書に書いている」と。もし主イエスが、「そのとおりだ。だからこの女を殺せ」などと言えば、イエスは何て冷たい人間だ言って、人々から批判されるでしょう。もし、「この聖書の言葉は間違っている」と言えば、イエスは神の言葉を軽んじていると批判されます。しかし、主イエスはその場でかがみ込み、指で地面に何かを書き始めます。そして、「あなたたちの中で罪を犯したことがない者から、この女に石を投げなさい」と命じました。しかし、誰も石を投げる者は現れませんでした。年長者から順にその場を去って行ったというのです。誰もが罪人であり、他人を裁く権利など自分にはないことを知ったのです。

 ところで、主イエスが地面に書いていた文字とはどんな内容のものだったのでしょうか。はっきりとしたことは分かりません。神様がベルシャツァルに示されたような裁きを告げる言葉だったのでしょうか。この主イエスが指で書いた文字について、色々と推測がなされるわけですが、多くの人たちは、この時、主は人々の罪を書き記していたのではないかと言うのです。自分たちこそ、正しい人間であり、その正しさは他人の罪さえも裁く権利があると思い込んでいる人間の罪です。そのような意味で、主イエスもまた人々の罪を裁く言葉を記しました。

 主の言葉を前にして人々は女の前を去り、誰もいなくなった時、主イエスは女と真っ直ぐに向き合ってくださいました。そして、このように告げてくださいました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネによる福音書8章11節)女が一番聞きたかった言葉がここにありました。主イエスからしから聞くことができない赦しを言葉がここにはあります。なぜなら、主イエスだけが、この女に石を投げる権利があったからです。主イエスは神であり、罪を犯したことがない聖なるお方だからです。でも、その主イエスは手に持っている石を地面に置き、「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言してくださいました。やがて、主イエスは無実であるにもかかわらず、十字架につけて殺されました。石を投げられるよりもはるかに厳しい神の裁きと呪いを、十字架の上で受けられたのです。それは、私どもが罪から救われるためです。神の裁きの手は、同時に、赦しの手、愛の御手です。主に赦されて、私どもは新しい出発をすることができます。

 「これからは、もう罪を犯してはならない」と主が女に告げられたように、私どもも神の裁きと赦しの前に立つ畏れと喜びを心に留めながら、信仰の姿勢をもう一度新しくします。そのために、神が主の日ごとの礼拝を備えていてくださいます。ここで自らの罪をはじめ、自分自身の限界を覚えます。そして、そのような私どもが永遠なる神様の祝福の中に置かれている幸いを感謝して、歩んでいくのです。お祈りをいたします。

 神様、あなたを正しく畏れることいつも学ぶことができますように。そこに見えてくるあなたの愛と赦し、そして、あなたの支配に生かされ、望みを持って歩んでいくことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。