大胆に生きられる
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- 聖書 ヘブライ人への手紙 4章14節~16節
14さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。16だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。ヘブライ人への手紙 4章14節~16節
日本のキリスト者であり、哲学者でもあった人に今道友信という人がいます。カトリックの信仰に生きた人です。もう何年か前に召された方ですが、この今道さんが30年ほど前に、朝日新聞から頼まれて、「自分を見つける」というテーマで短い文章を寄せられました。これは今道さん一人だけでなく、色んな仕事・立場にある方たちが同じテーマで文章、エッセイを記しました。自分を見つけるということ、つまり、自己発見、自分探しということです。どういうふうにして今の自分を見つけたのか。なぜこれまで今の自分を見つけることができなかったのか。そのように、色んな人たちの色んな生き方を聞くことはとても興味深いことだと思います。では今道さんは何を記したのでしょう。「自分を見つける」というテーマで文章を書いてくださいと頼まれながらも、そこで、「私は自分を見つけることができない」「本当の自分に出会うことなど恐ろしくてできない」。そのように面白いことを言うのです。「本当の自分は手の届かない深いところにいる。」つまり、絶望の中にいるというのです。そういう自分を見つけて、捕まえることなどできないし、ましてそういう自分を救うことなど到底できないのだというのです。
でも、今道さんはキリスト者らしく言葉を続けます。「手が届かない深い所にいる私を支えてくださるたった一人のお方がいるのだ。」「そんな私であっても本当に出会いたいと思うのは、神の顔だ。その神の顔から放たれる光りのもとに立っている私とならば、かろうじて出会うことができるかもしれない。」深い所にいる自分、光の届かない絶望の闇の中にある自分など見つけたくもない。救うことができないのだから…。そのように諦めてしまう私を支えてくださるお方がおられます。そのような私の前に立ってくださって、救いの光をもって照らしてくださるお方がおられるのです。私どもは、神様から遠く離れた暗闇の中で自分を探そうとしてしまいます。けれども、暗闇の中で自分の姿を見ることはできません。神様の光がなければ、決して、本当の自分を見ることはできないのです。私どもが主の日ごとにささげている礼拝、それは神様の御顔の前に立つ時です。終わりの日に備える時でもあります。けれども、それは決して恐ろしいことではありません。自分をがっかりさせてしまうようなことでもありません。礼拝の中で、神様の御顔の光の中に立っている自分と出会うからです。ここに本当の私がいるということに気付くことができるからです。私どもを救うために、十字架の上ですべてをささげてくだったイエス・キリストのゆえに、私どももまた、神様にすべてをささげるために、今日も感謝と賛美を携えて、ここに進み出ることがゆるされています。
今朝も先週に続いてヘブライ人への手紙第4章の御言葉を読みました。先週は第4章1〜13節までを共に聞きました。12〜13節をお読みします。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く…」。神の言葉は、私どもを生かすいのちの言葉です。私どもに喜びと希望、平安を与えます。けれども、神が語られる御言葉は、私どもの心の中にある複雑に絡み合った思いを明らかにしていきます。自分でも気づくことができなかった心の闇が暴かれます。自分の本当の心、自分の本当の姿がそこで示されます。それは罪が明らかにされるということです。たとえ、今は上手く誤魔化すことができている、隠し通すことができている。そう思えたとしても、神様の目は誤魔化すことができません。そして、終わりの日、審判の日、神様の前に立つ時、私どもがこの地上でどのように生きてきたのかを、自分の言葉をもって正直に申し述べなければいけないのです。そのような意味でも、神様の前に立つこと、そこで神様の言葉を聞くこと。これは、喜びというよりも、正直恐ろしいとしか言いようがない一面が確かにあるのです。罪のゆえに、自分で自分を救うことができないということに気づかされるからです。けれども、今道さんの言葉で言えば、そのような深い底にいる自分を支えてくれるたった一人の方がおられるということ。この恵みの事実に心の目が開かれるということ。このことがとても大切です。神の言葉は、裁きの言葉、私どもをひとりぼっちにさせるような言葉ではありません。神の言葉は、私どもに救いをもたらす喜びの知らせであり、まさに生きている言葉、いのちの言葉なのです。だからこそ、神が語られた言葉を聞いた「今日」という日に、心をかたくなにしてはいけない。今日、神に聞き従おう!今日、神の前に罪を悔い改め、神の懐に立ち帰ろう。そのように神様は私どもに呼びかけておられるのです。
そして、神のもとに立ち帰った人間は、どのように生きることができるのでしょうか。その祝福について今朝の御言葉は語ります。このことは洗礼を受けた人に限ったことではありません。神様がお造りになったすべての人間に同じように言えることなのです。生きるとは何であり、生きる喜びとは何であるかということです。16節で次のように語られていました。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」16節全体の細かいことについては後でまたお話しますが、まずここで注目したいのは、手紙の著者が「大胆に恵みの座に近づこう!」と呼びかけていることです。心を留めたいのは「大胆に」ということです。大胆に生きることができる!ここに神のものとされた喜び、信仰の喜びがあるのです。
「大胆に生きる」と聞いて、どういう人たちの姿を思い浮かべることができるでしょうか。大胆にというのは、普通でしたら、怖くてできないようなことを思い切ってやって遂げること、勇気を持って行動すること。そのように考えます。私どもはどちらかと言うと、なかなか自信を持つことができなくなって、引っ込みがちになってしまうことがあります。自分なりの考えや意見はちゃんと持っているのだけれども、それを上手く言葉に表せないことがあります。何もない時には立派なこと、最もらしいことを言ったり、行動することができていたとしても、いざとなった時に何もすることができない。そういう自分に気づかされてがっかりすることがあります。けれども、自分とは違って、あの人はいつも大胆だなあと驚かされることがあるのです。恐れに捕らわれることなく、いつもあの人は「自分」というものを持っていて、それをちゃんと実行することができる。周りから何と言われようとも、おじけることなく、自分らしく生きている。自分というものを最後まで貫いている。そういう人の姿を見る時に、たいへん感心するということがあります。
聖書で言われている「大胆に」ということですが、これは「確信を持って」とか「自由に」とか、あるいは「喜んで」と言い換えることもできます。元々は、ギリシアのアテネの市民だけに与えられた「言論の自由」を意味する言葉であったとある資料には記されていました。そして、この大胆にということですが、これは決して、自分勝手にということではありません。自分が「こうだ」と思ったことを、なりふりかまわず言動に全部移すということが、大胆に生きるということではないのです。一歩間違えると、その大胆さはただの傲慢になってしまいます。そのあたりの境目がどこにあるのか分からないというのも、人間の心の複雑さの一つではないかと思います。
「自分」というものをちゃんと持って、大胆に生きたいと思っていても、周りに迷惑をかけて、そのことがかえってストレスになるくらいならば、何もしないほうがいい。周りに合わせて、上手くやっていったほうが楽だ。多少不自由さ、窮屈さを感じていても、それを受け入れて生きたほうが無難に生きていけるのではないかと思ってしまいます。ずいぶん前に礼拝の中で用いていた聖書に口語訳聖書というものがありますが、そこでは「大胆に」という言葉が、「はばかることなく」と訳されていました。「はばかる」というのは、幅を取るということです。距離を取るということです。自分自身に対しても、隣人に対しても、そして神様に対しても距離を置いている。親密な関係になろうとしない。距離というのは「安全な距離」ということでしょう。相手と距離を取るのではなくて、お互いいつも近い距離感の中で生きるということは、当然いいことに違いないかもしれませんが、一方で何かあった時に面倒なことになるのではと警戒してしまいます。それよりも初めからある程度距離を置いたほうが、冷静に物事を見ることができるし、何か危ない目に遭った時にはすぐに逃げることができる。相手と簡単に関係を断つことができる。そう考えるのです。あるいは、本当は近づきたいのだけれども、自分のような者が近づくことがゆるされるのだろうか。恐れ多いと言って、遠慮してしまう。そういう場合もあると思います。
けれども、信仰者の生き方は神の言葉を聞き、神の言葉に従う生活です。それは距離を少し置いて従うということではありません。キリストの救いにあずかることを、「キリストに結ばれて」と言うことがありますが、キリストと一つになるほどに、御言葉が生活の隅々にまで行き届き、浸透するほどに一つになって歩むということです。確かに罪のゆえに、大胆に神の前に進み出ることができない私どもでありました。恐れも知らずに、神に近づくならば滅びる他ありません。だったら、神様と距離を取り続けて、好きなように生きたらいいというのでしょうか。それも違うのです。そういう生き方をしていても、初めに申しましたように、私どもは終わりの日、誰もが神の前に立たなければいけないからです。
罪深い自分であるにもかかわらず、大胆に、確信を持って神に近づき、神の前に立つことができるのはなぜでしょうか。神の前に立つ恐ろしさを覚えながら、なおそこで喜びの内に立つことができるのはどうしてでしょうか。手紙の著者は言うのです。14節「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」なぜ、神の御前にあって、大胆に生きられるのか。それは「偉大な大祭司」である神の子イエスが与えられているからだというのです。与えられているというのは、持っているということでもあります。貧しくても、弱くても、罪深くても、これさえちゃんと持っていれば大丈夫と言えるものがある。それが偉大な大祭司であり、神の子であられるイエス・キリストです。
「わたしたちの公に言い表している信仰」という言葉もありました。洗礼の際に、私は神様のことについてこのように信じていますという信仰の内容です。それはキリスト者一個人だけではなく、教会として私たちはこう信じていますということでもあります。それも教会の内に向けて告白するだけではありません。「公に」というのは、この世に向けて、自分たちを迫害する者たちに向けても、そして私どもを救ってくださった神様に向けて、私たちに与えられている信仰は次のようなものです。次のことを堅く信じます、信じ続けますと告白します。その信仰の内容について、ここではたいへん短い言葉で告白しています。「神の子イエス」という信仰です。「イエス」というのはナザレの地にお生まれになり、地上を歩まれたお方ということです。私どもを同じ人間としてこの地上を生きてくださったイエス様という意味です。そのナザレのイエスが「神の子」だと告白します。「神の子」というのは、イエス様が神であられ、救い主であられるということです。まことの神であられるお方が、私どもの同じ人間としてこの地上を生きてくださった。ここに私どもの救いがあります。
そして、主イエスについてもう一つ鍵になる大切な言葉が「偉大な大祭司」という言葉です。「祭司」というのは、神殿で神に仕える特別な人たちです。礼拝のために仕える人たちと言ってもいいでしょう。「大祭司」というのは、祭司のリーダーに当たる人です。旧約聖書を見ますと、大祭司と呼ばれる人が、年に一度、神殿の奥にある至聖所というところに入って行って、罪の贖いとして動物をささげていたのです。旧約の時代の人々も神を礼拝し、神が共におられるという約束の言葉を聞き、信じていました。けれども、大祭司の執り成しなしには、神を礼拝することはできませんでした。まして神に近づくこともゆるされませんでした。大祭司でさえも、年に一度しか、至聖所に入ることができなかったのです。そして、毎年、罪が贖われるために、動物を犠牲としてささげなければいけませんでした。一回ではダメなのです。毎年犠牲を捧げなければいけなかった。それは、動物が流す血、動物のいのちでは人間の罪は完全に贖うことができないことを意味しました。
旧約聖書の時代、神殿に仕え、礼拝のために仕えた大祭司。その大祭司に比べて、主イエス・キリストは「偉大な大祭司」であるというのです。「偉大な大祭司」というふうに、「大」「大きい」という文字が重ねて用いられています。私どもにはこの偉大な大祭司である、神の子イエスが与えられます。主イエスは私どもが神様の前に大胆に進み出ることができるために何をしてくださったのでしょうか。動物の犠牲をささげられたわけではありません。動物ではなくて、主イエスは自らのいのちを十字架の上でささげてくださいました。そのようにして、神様と人間との関係を執り成し、和解へと導いてくださいました。また、旧約の大祭司は毎年神殿で動物をささげましたが、主イエスの十字架は一度だけです。何度も繰り返す必要などありません。主の十字架の出来事はたった一度だけです。全世界を救うために、一度で十分だったのです。だから、イエス様の十字架だけではない物足りないから、何か私たちのほうで付け加えないと救われないなどということは決してありません。私を罪から救うために主イエスが十字架で死んでくださった。そのように信仰を言い表すことができたならば、私どもは救われます。十字架の救いが完全であるからこそ、信仰生活の中でおかしてしまう過ちに対しても絶望することはありません。いつも悔い改めの道が開かれています。キリストにあって、「あなたは赦されている」という救いの宣言は何があっても揺らぐことはないのです。
「もろもろの天を通過された偉大な大祭司」と語られていました。「もろもろの天」と言われると、天国のようなものがいくつもあるのかと思ってしまうかもしれませんが、そういうことではないのです。ここで言われている「もろもろの天」というのは、安心できる場所というより、色んな霊が住み着くところ、悪霊がいる場所と言われている所です。そのもろもろの天を通過されたのです。打ち破ったと言ってもいいのです。神の救いに通じる道、その道の途中に色んな妨げがあります。いや罪人である自分自身が大きな妨げとなって、前に進むことができずにいるのでう。しかし、主イエスは偉大な大祭司として歩み、神の子としての歩みをまっとうすることによって、見事勝利してくださいました。そして、誰もが神の前に進み出て行くことができるいのちの道を開いてくださったのです。
この偉大な大祭司である主イエス・キリストについて、15節ではさらに次のように語られています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」「同情できない方ではなく」というふうに、「〜できない」「〜ではなく」と2度も否定の言葉が重ねられます。「同情できない方ではなく」、つまり主イエスは、「同情そのものである」ということを強く肯定する言い方です。主イエスは同情そのもの…。この「同情する」というのは、気の毒だなあ、かわいそうだなあということだけではありません。同情するというのは、「共に苦しむ」ということです。その人の苦しみ・弱さを見て、心が痛くなります。けれども、そこで何もできずに終わってしまうというのではなくて、私が抱える苦しみの中にまで、主イエスが入ってきてくださり、その苦しみを共有し、背負ってくださいます。私どもの弱さをご覧になって、その弱さの中に近づいて来てくださいます。手を差し伸べても、助ける自信がないから、少し距離を置いて様子を見ようというのではないのです。この弱い人間と関わったら、たいへんなことになるから近づくのはやめておこうというのでもないのです。同情そのものであるお方は、私どもの弱さの中に入り、その苦しみを共にしてくださいます。
15節の「弱さ」というのは、ここでは複数形で記されています。つまり、様々な弱さ、ありとあらゆる弱さということがここで見つめられているのです。罪人であるがゆえの弱さはもちろんですが、私どもは肉体的な弱さがあることを知っています。病気になることも弱さでしょう。歳を重ね老いることも弱さと言ってもいいでしょう。また、この手紙が書かれた時代は厳しい迫害の時代でした。相手から受ける侮辱の言葉、暴力によって自分たちの弱さを痛みをもって覚えたことでありましょう。今日も昔のような迫害ということではありませんが、人間関係の中で傷つけられることがあります。社会的な立場の違いによって覚える弱さというものもあります。自分らしさを貫きたい、個性を大切にしたいと思いながら、どうしても人の目や評価を気にしてしまう弱さがあります。周りの人の目というより、案外、自分の目が自分に対して一番厳しいのかもしれません。他人と比較して、「ああでもない」「こうでもない」と言って、一番騒いで、一番叫んでいるのは、周りの人よりも実は自分であったりするのです。
ある神学者はここで伝道者パウロが記した言葉を思い起こしています。コリントの信徒への手紙二12章9〜10節の御言葉です。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」弱さ、それは侮辱されること、見下げられることでもあります。弱さ、それは窮乏であるということです。必要な物や能力がない貧しい状態のことです。弱さ、それは迫害されることであり、行き詰まりの状態に陥ることです。どこを見ても八方塞がりなのです。いったいどこへ向かって行けばいいのか、どこに逃げたらいいのかも分からないのです。いったい自分はこの先どうなるのか、未来もまったく見えないのです。それが弱さということなのです。
けれども、私どもの傍らにおられる偉大な大祭司である主イエスは、あらゆる弱さを覚えている私どもの苦しみを共にしてくださいます。だから、私どもが弱さを経験する時、そこではっきりと確信できることは、この弱さの中に主イエスが共におられるということです。このことを信じてよいのです!このことを信じよう!と呼びかけているのです。
また、偉大な大祭司である主イエスについて「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」というふうにも言っています。主イエスは神の子なのだから、試練など関係ない。苦しみなど関係ないというのではありません。私どもと同じ人間として、あらゆる試練を経験なさいました。弱さを経験するというのは、試練を経験するということでもあります。主はあらゆる点において試練に遭ってくださったのですから、主が知らない弱さや苦しみというのはどこにもないのです。
また、主イエスは私どもの同じ人間です。けれども、罪をおかされなかったという点で、私どもとは違います。これも主イエスは神の子なのだから、罪の誘惑など何にも感じないというのではありません。主イエスご自身、荒れ野で受けたサタンからの誘惑をはじめ、罪の恐ろしさを知っておられました。罪をおかさなかったお方であるからこそ、私たち以上に、罪の力というのを誰よりも敏感に感じ取っておられたのです。罪の力に捕らえられている人間の悲しみをご存知でした。しかし、主は最後まで罪の誘惑に負けることなく、十字架の道を歩み抜かれました。神に対して、最後まで従順であられました。そのようなお方であるからこそ、私どもを罪から救い出すことがおできになるのです。また、あらゆる弱さに同情し、その苦しみを共にし、必要に応じた助けを与えることができるのです。
私どもが経験するあらゆる弱さや試練というのは、その種類の多さというふうに言うこともできますが、「いつも」「毎日」というふうに言い換えることもできるのだと思います。絶えず弱さの中にあるということです。自分や家族のいのちの誕生、進学、就職、結婚、そして死を迎える時。そのような人生の大切な節目と言われる時は、確かに喜びと同時に誘惑も多いですし、弱さを覚える時でもあります。でも主イエスはそれらの人生の節目だけ、特別に守ってあげよう。だから、残りの日々は自分で何とかしなさいということではないのです。自分が経験する弱さの中にも大きい、小さいがあるかもしれません。しかし、主イエスは私どもとどのような時も共に歩んでくださるお方です。主がおられなければ、私どもはいつまでも弱いままなのです。主が私どもと共に苦しみを共有してくださることを信じるならば、伝道者パウロが言いましたように、「わたしは弱いときにこそ強い」という喜びに満ちた生き方へと導かれます。弱さや試練を感じる中でも、主イエスにあって、大胆に生きられるのです。そのような地上の日々が、神様の前に永遠の価値を持つものとなるのです
もう一度、16節。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」偉大な大祭司イエス・キリストの執り成し、助けのゆえに、大胆に恵みの座に近づくことができます。「恵みの座」というのは、神様がおられるところですが、本来ここは「裁きの座」でありました。終わりの日、神の御前に立つというのは、神の裁きを受けるということです。しかし、今やキリストのゆえに、恵みの座と変えられました。神を畏れつつ、しかし、大胆に喜んで、神に近づくことができるようになりました。神は恵み深いお方、愛と憐れみに満ちたお方であるということを、主イエスに教えていただいたからです。
また、「近づく」というのは、神を礼拝することを意味する言葉です。終わりの日だけでなく、この地上において主の日ごとに、私どもは教会の礼拝に招かれます。私どもの本当の住まいである天の故郷に向かうまさにその途上にあるのですが、主の日ごとに礼拝の恵みにあずかり、ここでも神に近づくことができる恵みを信仰の仲間たちと共に味わいます。何のために神の前に近づくのでしょうか。「時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」とあるように、「時宜にかなった助け」「日毎の助け」「今の自分に一番相応しい助け」を神様からいただくためです。地上の歩みにおいて、私どもは数々の誘惑・試練に遭います。あらゆる弱さを覚えます。そこで再び、自分が誰であるのかを忘れてしまうことがあるのです。弱さの中にこそ、神様がおられるのに、それを忘れて一人パニックになったり、落ち込んだり、反対に「神などいない」と言って、開き直ってしまったりというふうに。しかし、神様はそういうたいへんな日々を生きている私どものことを知っていてくださり、そして礼拝に招いてくださいます。神の御顔の光によって、私どもを明るく照らし出していてくださるのです。もう恐れることはありません。ここでこそ、私どもは大胆になれます。大胆に神の恵みの座に近づくことができます。ここでなら真っ直ぐ胸を張って立つことができるのです。ここでなら自分を見ても怖くないのです。だから、時宜にかなった神の助けをいただきましょう。遠慮などいらないのです。大胆に神様の恵みの座に近づきましょう。お祈りをいたします。
大胆に、確信をもって立つことができない弱さがあり、罪がある私どもですが、ただキリストの執り成しによって、今、御前に立つことがゆるされていることを覚え、感謝いたします。なお弱さと誘惑の中にある私どもですが、そのような時にこそ、主が近くにおられることを信じる信仰に立たせてください。あなたの助けいただくために、御前に立ち続ける熱心さと大胆さをお与えください。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。