2023年04月16日「神の言葉は生きている」

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神の言葉は生きている

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 4章1節~13節

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聖書の言葉

1だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。2というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。3信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。4なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。5そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。6そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、7再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、/「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。8もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。9それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。10なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。11だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。12というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。13更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。ヘブライ人への手紙 4章1節~13節

メッセージ

 キリスト者の歩みは、「神の言葉」に聞き従う歩みです。これまでも神様が語りかけてくださった御言葉によって、慰め、励まされてきました。これからも変わることなく、神の言葉によって支えられ、希望をもって歩んでいきます。

 聖書は、地上を生きる信仰者について、「仮住まいの身」であるとか、「寄留者」という言い方をすることがあります。本当の故郷は、ヘブライ人への手紙第11章でも語られていますように、天にあるからです。「天の都」「天の故郷」を目指して、旅を続けていきます。キリスト者の地上の歩みというのは、いわばその途上にあるということです。そこで私どもは様々な経験をすることでありましょう。キリストのものとされながら、なお自分に固執してしまうこともあるでしょう。神様のことを知れば、知るほど自分の惨めさというものが、洗礼を受ける前よりも鮮明に見えてきて、落ち込んでしまうということもあるかと思います。神様を信じれば、すべては安泰だと思っていたのに、私どもの予想を超えた大きな出来事に呑み込まれて、神様のことも自分のこともよく分からなくなってしまうということもあるかもしれません。いや、本当は「何でこんなことで?」と思うような小さなことで、躓いてしまうということも起こりうるのだと思います。

 しかし、そのような私どもがなぜ立ち直ることができたのか。色々あったけれども、「すべてが守られた」と言って神様に感謝できるのは、「御言葉が与えられたから」と言うに違いないと思います。自分の心から、自分の内側からは決して出てこない言葉、望みなきところで、なお望みを抱くことができ、私を生かすいのちの言葉。それは神様の言葉だけです。あるいは、「神様の言葉によって、真実に生かされている人たちに」と言ってもいいでしょう。つまり、教会の仲間たちの執り成しによって、今日の私があるということです。何よりも、神の言葉というのは、教会において、主の日の礼拝において語られる言葉でもあります。そのいのちの御言葉を自分一人だけではなく、神様が呼び集めてくださった信仰の仲間たちと共に聞く。そのような中で、御言葉が私の中に、私たちの群れの中に立ち上がってくる。そのような幸いな経験をするのです。今朝も神様が私ども一人一人の名を呼び、御子イエス・キリストの御体である教会に招いてくださいました。

 今朝、神様がお語りくださる御言葉は、ヘブライ人への手紙第4章の御言葉です。その12節にこのような言葉がありました。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く…」。何度も口にしたくなる御言葉であるかもしれません。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く…」。改めて思います。神様の言葉は生きているのだということを!神の言葉は死んでなどいないのです。神様が、復活の主が今も生きておられるからこそ、その言葉もまた生きているというのです。それも、「力を発揮する」とか「両刃の剣よりも鋭く」とあるように、力強さに満ちているのです。決して、弱り果て、疲れ果てているけれども、何とか踏ん張って生きている。何とかいのちをつなぎとめている。そういうことではないのです。私どものいのちを蝕み、信仰の喜びを奪い取ってしまうような、あらゆる力というのが世に満ちています。神様の愛から私どもを引き離そうとする悪の力もあります。しかし、そんなものはもろともしないのです。辛うじて勝利したというのでもないのです。勝ちて余りあるほどに、神様の愛は強いのです。神の言葉はまことの力に満ちているのです。圧倒的な力をもって罪と悪に勝利してくださるからこそ、そのような神様の愛と赦しの中にある私どもは心から安心し、憩い、望みを持つことができます。

 ところで、「神の言葉は生きている」という時の、「神の言葉」というのは具体的に何を意味するのでしょうか。例えば、私どもが手にしている「聖書」のことでしょうか。もちろん、そのように理解しても全然間違いではないのですが、より丁寧に申しますと「神様がお語りになる言葉」ということです。言葉が「語られる」ということです。言葉が「声」となって響き渡るということです。ヘブライ人への手紙の第1章の初めを見ますと、旧約聖書の預言者や、信仰の先輩たちをとおして、御言葉が語られてきたということが言われています。何よりも、神様はご自分の御子であられるイエス・キリストをとおして、ご自分の思いを私どもにお語りくださいました。また、第3章では、聖霊をとおして、神様の御声が語られているということが言われています。「だから、聖霊がこう言われるとおりです。『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。』」(ヘブライ3:7-8)さらに、この手紙の終わりのほう、第13章では、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい」(同13:7)という勧めが語られます。指導者というのは、教会の指導者のことです。御言葉を語る教師、牧師のことです。そのように、神の言葉というのは、イエス・キリストをとおして、聖霊をとおして、また教会の指導者たち、信仰者たちをとおして語られてきました。礼拝の中で語り続けられてきたのです。そして、神の言葉は生きているのですから、今も、今日もまた語られるということです。

 聖書も神の言葉ですが、遠い昔、遠い何処かの国で、そこにいた人たちだけに向けて書かれた、何か立派な文学作品というのではありません。聖書には神の言葉が文字として記されていますけれども、それが生きた神の言葉であるというのは、礼拝の中で語られて、聖霊が働いてくださって、そこで初めて御言葉が分かるという経験をするのです。神様が本当に生きて働いておられるというのが分かるのです。このヘブライ人への手紙というのは、一通の手紙というよりも、礼拝の中で語られた「説教」ではなかったかと言われています。神様がここに集めてくださった、一人一人に向けて、キリストの教会に向けて、「今日」語られる神の言葉。それが説教であるということです。

 「今日」語られる。「今」語られる。そのように言われますと、気持ちがたいへん引き締まる思いがいたします。一種の緊張が走るのではないでしょうか。神様の前に立つ緊張感、畏れでもあります。ですから、別に今日ちゃんと聞かなくても、いつでも聖書を家で開くことができるし、ホームページからいつでも聞くことができるから。そういうことではないのです。神の言葉は生きている。それゆえに、今日、あなたに向けて神様は語られるのです。それはどうしても今あなたに話したいことがあり、どうしても今あなたに伝えたいことがあるからです。だから、ちゃんと聞いてもらわないと困るのだというのです。あとで申しますけれども、生きた神の言葉を今日ここで聞くかどうか。今日聞いて従うかどうか。ここに生きるか死ぬかということがかかっているのです。だから、今日聞いてほしい。今日わたしに従ってほしい。あなたにはわたしのいのちを生きてほしいから!神様が緊張しておられるというのも変ですが、それだけ気持ちを引き締め、神様は真剣に私どもと今日も向き合ってくださいます。私どもの救い、私どものいのちが、神様がお語りになる言葉にすべてかかっているからです。

 

 今朝、共にお聞きしました第4章の御言葉は、もう少し視野を広げて理解しますと、第3章7節からの大きな文脈の中で見ることができます。一つの大きな特徴は、手紙の著者が、旧約聖書詩編第95編の御言葉を、全部で4度にわたって、繰り返し引用して語っているということです。それも4回とも別々の箇所を引用するというのではなく、同じことを繰り返すのです。なぜなら、どうしても聞いてほしいからです。聞くほうにとっては少しくど過ぎるかもしれない。しかし、それだけ真剣に聞いてほしい言葉がここにあるということです。手紙の著者が強調したかった言葉が、詩編第95編7〜8節の御言葉でした。ヘブライ人への手紙では第3章7節、8節、15節。そして、第4章7節に記されています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」(3:7-8)「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」(4:7)「今日」、あなたたちが神の声を聞くなら…。詩編の中でも「今日」という言葉が強調されるのです。

詩編95編は開いていただくと分かるのですが(旧約933頁)、「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう」というふうに、喜びの賛美をもって始まります。少し飛ばしてこう続きます。「わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」(詩編95:6-7)私どものまことの牧者、羊飼いは神様です。その神様が私どもを愛の御手によって捕らえてくださり、私どものいのちを養い、その歩みを導いてくださいます。主イエスもまた「わたしは良い羊飼い」(ヨハネ10:11)とご自分のことを紹介してくださいました。神様のもとから離れ、見失われた一匹の羊を見つけ出すために、主イエスはこの世界に降りて来てくださいました。そして、十字架の死と復活によって、私ども罪人を神様のもとに連れ帰ってくださったのです。そのようにして、私どもは、神様のもの、神様に養われる羊とされました。詩編第23編にもありますように、主が私の羊飼いであるがゆえに、私には何も欠けることがないと告白できるほどに、満たされている。平安の中にある。それが私ども信仰者の歩みです。

けれども、詩編95編の後半からは、これまでとはまったく違ったトーンになるのです。緊張が走るのです。「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」(詩編95:8-11)このことがヘブライ人への手紙でも繰り返し語られます。警告として語られるのです。心をかたくなにしてはならない!かつて神の民イスラエルはエジプトの奴隷から救われました。そして、神がお示しになる約束の地カナンに向かって旅を続けました。荒れ野の中、40年にもわたって旅を続けました。神への信頼、御言葉への信頼が問われる旅でもありました。しかし、彼らはそこで心をかたくなにしてしまったのです。御言葉によって新しくされること、変えられることを受け入れようとはしませんでした。

 そのことがヘブライ人への手紙では4章2節のところで言われています。「けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」神様からの喜びの知らせである福音の言葉が役に立たない、つまり、結び付かなかったということですが、この「結び付く」という言葉は、「混じり合う」とか「溶け合う」という意味の言葉です。問われているのは、御言葉と私どもの存在が混じり合って、一体化しているかどうかということです。私どもの存在の深いところで、御言葉が混じり合っているかどうかということです。もし御言葉は深いところで混じり合い、一体化して結びついていたならば、試練の中にあっても、なおそこで希望が見出せるのです。神が与えてくださる救いの喜びというものは、どんな力にも妨げられることはない。このことを語られた御言葉をとおしていつも自分と存在・生き方と深く結び付いていたならば、私どもはどんなことがあっても神が備えてくださっている安息に入ることができる。この信仰の確信と希望に生きることができます。

 けれども、エジプトから出た民はそうではなかったのです。荒れ野の旅です。当然苦しい旅路でした。しかし、そこで彼らは神を信頼せず、それゆえに希望を見失ってしまったのです。なぜエジプトから出ることができたのに、ここでまた苦しい目に遭わなければいけないのか。心を変えるのは私たちではない。神よ、あなたのほうではないか。そもそも、神は本当に生きておられるのだろうか!そのようにさえ言い張ったのです。だから、彼らは約束の地カナンに入ることをお許しになりませんでした。入ることができたのは、8節にあるようにモーセの後を継いだ指導者ヨシュアとカレブという人物、また彼らに従う若い世代の人たちだけだったのです。

 だからこそ、詩編の詩人は、あなたがたはかつての民のように心をかたくなにしてはいけない。今日こそ、主の御声に従わなければいけないと警告するのです。ヘブライ人への手紙の著者も同じ思いです。この手紙を受け取った人たちはローマの教会の人たちではなかったかと言われています。厳しい迫害の時代でもありました。そういうところで、手紙の著者は、教会の人々を慰め励ますのですけれども、同時に、「気をつけなさい」と語調を強めています。1節をお読みします。「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。」「取り残される」というのは、神の安息・神の救いに入れるか、入れないかということよりも、「自分は本当に救われるのだろうか」と不安の思いに支配されてしまっている人のことのです。救われているにもかかわらず、なお世の権力者の力、死の恐怖の力に捕らわれている人のことです。そういう者が教会の中から一人でも出ないようにしなければいけないというのです。

 お読みしませんでしたが、第3章12〜14節にこのような言葉がありました。そこにも「今日」という言葉あります。「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい。―― わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――」また、何度もめくっていただいて申し訳ありませんが、第3章6節には「神の家」である教会についてこう言われています。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」あなたがた教会を支配しているのは権力者でも死の力でもない。キリストが力強い御手をもって治めてくださるのだから希望を持とうというのです。あなたがたのうち「だれ一人」取り残されないように!なぜなら、失われた一人を救うために、神は御子イエス・キリストのいのちを惜しまず差し出してくださったからです。だから、教会の仲間、皆が、最後まで望みに生きることができるように。その望みを御言葉から聞こう。今日聞こう!今日神に立ち帰り、神に従おう!今日のうちに励まし合おう!そう呼びかけるのです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」。

 今日、御声に聞くならば、私どもは永遠の「安息」に入れられます。詩編では「憩いの地」と訳されていました。この安息というのは、カナンの地のように、神様から与えられる地上の土地のことではありません。天における安息の地ということです。私どもの故郷は天にあるのです。だから地上の安息ばかりに目を留めていては、まことの安息は得られないのです。1節を見ますと、この「神の安息にあずかる約束がまだ続いている」というのです。神の安息は完結していない。まだ終わりではないということです。9節にあるようにまだ神の民に残されているのです。かつての民が御言葉に聞き従わなかったから、不従順だったから、「もうあなたがたには救いはない」というのではありません。出エジプトの時代から何百年も経ったイスラエルの王ダビデの時代にも詩編をとおして、「今日」従うように神は声をかけられました。ヘブライ人への手紙が読まれた時代も、「今日」語られた神の言葉に聞き従うならば、そこに神の安息が与えられると約束されます。そして、教会が誕生してから2千年経った現代も、今日(こんにち)も、神が「今日」ここで語られます。その御言葉に聞き従うならば、神の安息にあずかることができるのです。

 そして、この安息ということについて、さらに詳しい説明がなされています。聞く者にとっては少し複雑という印象を受けるかもしれませんが、それだけ神の安息に憩う喜びに私どもを招こうとしていることのしるしでもあります。4節を見ますと、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」とありました。創世記第2章からの引用です。神の安息というのは、神が天地をお造りなった時からあったものでした。この世界をお造りになった神様は、「見よ、極めて良かった」とお喜びになり、私どもを、私どもが生きるこの世界を祝福してくださいます。そして、七日目に創造の御業を終え、休まれました。神様ご自身が喜びのうちに休み、憩うておられます。誰よりも、安息の素晴らしさを知っていてくださる神様が、あなたもわたしと共に憩おうと招いておられます。矛盾するように聞こえるかもしれませんが、神様は休みつつ、そこで、私どもを安息に招かれています。

 10〜11節「なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。…」ここは、記されている順番がとても大切です。つまり、安息に入るというのは、神がそうなさったように、自分の業を終えてから入るということです。六日の間、仕事をし、安息に入るというこの順序、秩序が大切なのです。「自分の業」というのは、日々、神様の御前で、神様からそれぞれに委ねられている働きや仕事をすることですが、それは必ずしも皆が手に職を持たないといけないということではありません。神様の前にしっかりと生きるという信仰の姿勢、御言葉によって示された救いの希望を持ち続けて生きるという姿勢が求められます。そのようにして生きるキリスト者の歩み、教会全体の歩みを神様は必ず祝福してくださいます。

 また、「安息」という言葉が、11節までに幾度も繰り返されていますが、9節だけが「安息日」となっています。「それで、安息日の休みが神の民に残されているのです」。安息というのは、休んで何もせずボッーとすることではありません。神様も休みつつ、私どもを招かれました。私どもも休みつつ、招いてくださった神を礼拝するのです。そして、そこで神と共に憩う喜びを知るのです。それが安息日です。今日で言えば、主の日の礼拝のことです。まさに今この時です。創造の時に既に与えられていた秩序、リズムを刻みながら、私どもは神の民としてこの地上を歩んでいきます。自分一人だけでというのではありません。神の家に集う信仰の仲間と共に、キリストに連なって歩むのです。しかも、「わたしたちはこの安息にあずかるように努力しよう」と呼びかけます。努力しよう!というのです。熱心にということです。もし冷えてしまったら、さめてしまったら救いの希望をもって生きることできなくなるからです。

 そして、説教の初めでも触れましたが、12節でこう言われていました。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く…」。たいへん励まされる言葉かもしれません。けれども、よく耳を傾けますと、これはとても厳しい言葉であるということに気づかされます。神の言葉が「両刃の剣」のよりも鋭いというのです。そのたいへん鋭い御言葉という剣が、自分以外の敵であるとか、他の誰かに向けられるわけではありません。この私に向けられ、私の心を刺し貫くのです。痛みを伴わないはずはありません。また、両刃の剣というのは、刀というよりも、手術の際に用いる「メス」のようなものだという人もいます。鋭く体を切るだけではなく、そこで細かい作業ができるということです。だから、「精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」というのです。精神と霊、関節と骨髄がそれぞれがどのように違って、具体的に何を意味するのか。それを判別するのは困難ですし、あまり探っても大きな意味はありません。けれども、神様の生きた言葉は、私どもの心に複雑に絡みつく、それら一つ一つのものを切り離し、えぐり出すのです。その時にどうなるのかと言うと、私どもの心の本質、正体というものが明らかになるのです。自分の心の奥底にあったものが何であったのか、そのことが明らかにされるというのです。

 私どもの心というのは本当に複雑です。例えば、「こう信じる」「こうすべきだ」という確信に立っているようで、ただの強情に過ぎないということもあるでしょう。熱心に、喜んで生きているつもりでも、ただ自分に酔いしれているだけかもしれません。あるいは、昔からの伝統を大事にするのはいいのですけれども、一方で変わろうとする思いがまったく欠けてしまっているということもあると思います。本当に人の心は捕えがたいのです。自分で意図しているわけではないかもしれませんが、気づかないところで、また「信仰」という名によって、自分の心を上手く隠している。そういうことがあるのだと思います。ほとんど病んでいるとでも言いたくなりますが、神様はそれらの思い一つ一つを丁寧に解きほぐし、あなたがいかなる心に生きていたのかを明らかにするというのです。本当の自分を知るということがそこで起こるのです。他の何者かによってではなく、御言葉によって本当の自分を知るのです。それは、私どもの罪が明らかになる時でもあるのです。深い畏れを覚えないわけにはいきません。

 最後の13節も12節との結び付きの中でこう言われます。「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」神様の前に立ち、そこで神様の生きた言葉、力ある言葉を聞き、それに触れる時に、私どもの心の奥にある思いが明らかにされ、神様の目には裸だというのです。隠すこと、誤魔化すことはゆるされないのです。そんなことをしても神様の前では意味がないのです。そして、私どもは自分のことを、六日間の歩みや働きだけでなく、終わりの日に、地上の歩みすべてを神様の前に申し述べなければいけません。いわゆる最後の審判の時です。主の日、日曜日の礼拝というのは、そういう意味で、終わりの日、神の前に立つ備えを毎週繰り返していると言えるのです。神様の前に「申し述べる」というのは、「申し開きをする」とか、「総決算をする」というふうにも訳されます。もっと直接的に言えば、「言葉」という意味です。私に向けて語られた「神様の言葉」に対して、私も「言葉」をもって応えることがここで求められているのです。しかも、真摯な応答が求められるのです。誤魔化しても神様には通じません。神様の言葉によって明らかにされた私の心、私の姿、私の生き方を、神様の前に告白します。つまり、罪の告白であり、神の前に悔い改めるということです。

 それはほとんど「恐れ」としか言いようがないことではないでしょうか。神様の言葉を聞いてホッとする、慰められる、安心する、喜びが生まれる。あるいは、聖書のこの言葉の意味が初めて分かった。そのように心動かされることは大切なことです。けれども、それで終わってしまったならば、それは虚しいことです。「ああ今日、教会に来れてよかった」「為になるいい言葉を聞いた」。そう言いながら、もし神様のもとに帰ることなく、つまり、心から悔い改めることなく、ここ出て行ってしまったならば、本当に神の言葉を聞いたということにならないのです。あなたを真実に生かす神の言葉とはならないのです。

 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」。心をかたくなにしてはいけません。頑固になってはいけないのです。神様の生きた言葉の前で、私どもの罪が明らかにされた時、それはもう恐れというよりかは、死んだも同然です。いや、実際、罪人である私どもは神様の前に死んだのです。キリストと共に十字架で死んだのです。けれども、私どもは罪ある自分を生きるのではありません。生きた神様の言葉によって、イエス・キリストによって、私どもは神様と共に、神様から与えられたいのちを生きるのです。だから、神様のもとに今日帰りましょう。今日悔い改めましょう。かたくなな自分を神様の前に捨てて、神様ご自身に私の人生を生きていただきましょう。

 神様の言葉が生きています。力があります。しかしそれは、私どもの罪を暴いて、恐怖の中にずっと閉じ込めてしまおうということではないのです。驚くべきことに、自分の罪や惨めさを知ることが、実は大きな恵みなのだというのです。なぜなら、神様がお語りになる言葉はいつも「福音」であるからです。キリストをとおして与えられる喜びの知らせは、「私どもを罪と死から救い出す」という神の宣言です。だから、私どもは神様の祝福を信じ、それぞれに与えられた地上の生涯を、また委ねられている自分の業を精一杯、最後まで行うことができます。

 終わりの日、神様の前に深い畏れを覚えながら立つことでありましょう。そこで自らの罪を正直に悔い改めます。しかし、そこで私どもの心を支配しているのは恐れではなく、むしろ喜びです。なぜなら、次週も続けて聞きたいと願いますが、14節以下に記されているように、大祭司であるイエス・キリストが私どもの傍らに立ち、私どものために神に執り成してくださるお姿を見ることができるからです。だから、安心して、大胆に、神様のもとに近づき、神様の懐で憩うことができます。「こんな私ですけれども、今、私の側におられるキリストと共に生きてきました」と信仰を言い表すことができるのです。そのような真実で確かな希望の中に、今、立つことがゆるされています。神の言葉は生きています。だから、望みを失うことはないのです。お祈りをいたします。

 神よ、あなた御前に生きながら、あなたをなき者とし、自分の思いに生き続けようとしてしまうかたくなな者であることを深く悔い改めます。あなたの御言葉は、私どもの惨めさを明らかにします。けれども、それだけではなく、キリストによって与えられる恵みの豊かさを知らしめてくださいます。救いの確信と希望を持ち続けることができますように。誰一人取り残されてはいけないという神様の思いを、教会が受け止め、御言葉によって互いに愛し合い、励まし合う群れとして私たち千里山教会が成長することができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。