2020年08月02日「いのちの開拓者」

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いのちの開拓者

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 2章5節~18節

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聖書の言葉

5 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはな さらなかったのです。6 ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが 心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なの か。 7 あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉 の冠を授け、8 すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に 従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。 しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。 9 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえ に、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のた めに死んでくださったのです。10 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼ら の救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源であ る方に、ふさわしいことであったからです。11 事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる 者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟 と呼ぶことを恥としないで、12 「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、 /集会の中であなたを賛美します」と言い、13 また、/「わたしは神に信頼します」と 言い、更にまた、/「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます」 と言われます。14 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、こ れらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によ って滅ぼし、15 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるため でした。16 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。 17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を 償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおで きになるのです。ヘブライ人への手紙 2章5節~18節

メッセージ

 先程、讃美歌121番を共に賛美しました。すべての節を歌うことはできませんでした が、この歌がひたすら、私どもに呼びかけていますことは、「この人を見よ!この人を見よ!」 ということです。「この人」というのは、神でありながら、私どもと同じ人間としてこの世 界に生まれてくださった救い主イエス・キリストのことです。私どもと同じ場所に、いや、 それよりももっと深い所に立ちながら、共に歩んでくださった主イエス。最後には十字架 でご自分のいのちを献げてくださった主イエス。この人を見よう!この人の中に神の愛が どのようなものであるのか。その恵みが豊かに表れているのだから!と歌うのです。

 「この人を見よ!」と言われても、主イエスは、2千年前のように、私どもと同じ肉体 を持って、ここにおられるわけではありません。しかし、御言葉をとおして働く聖霊によ って、私どもは信仰の目をもって、主イエスを見ることがゆるされ、神様の大きな愛を知 ることができます。聖書を開きますと、他にも「見る」ことの大切さということが、色ん なところで言われています。どうしてでしょうか?そんなにも、「見なさい。見なさい。」 と言われなくても、「きちんと覚えていますから大丈夫です。」と言いたくなるかもしれま せん。例えば、大事な試験や面接がある時、いちいち参考書やメモなど見てなどいられま せん。そんなことしたら失格になりますし、見ないと分からないと言うようでは、まだま だあなたの力は本物ではないということになります。

でも、聖書は繰り返し、「見なさい!」と語ります。例えば、9節に「『天使たちよりも、 わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けら れた』のを見ています。」とありますが、この「見ています」というのは、ただ何となく、 ボッーと見るというのではなくて、「注目する」とか「魂の目をもって見る」という意味で す。ちゃんとよく見ないと意味がないのです。分からなくてなったら、もう一度よく見直 して、イエスというお方がどのようなお方なのか。あなたがたにとってどのようなお方な のかを、確かめなさいというのです。そして、「見なさい」と伝道者たちが言わざるを得な かったのは、ちゃんと主イエスのお姿を見ることができない現実があったからではないで しょうか。最初は見ていたけれども、次第に別のものに目が行ってしまう。主イエスのこ とをちゃんと見たいという思いはあるのだけれども、それを邪魔する大きなものが立ちは だかっている。そのような厳しい現実があったのでしょう。

このヘブライ人への手紙が記されたのは、1世紀末と言われています。だいたい80年 頃です。この手紙を書いたのは、誰かは定かでありません。昔は、使徒パウロが書いたと 言われていたこともありますが、今はそのように言われることはありません。しかし、い ずれにせよ、教会の牧師、伝道者が心を込めて手紙を書きました。この手紙の結びの部分 に「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください。」(ヘブライ13: 22)とあります。「勧めの言葉」というのは、豊かな意味を持つ言葉で、「慰め」とか「励まし」と訳すことができる言葉です。そこから、「説教」と訳されることもあります。元々は、「側に呼び寄せる」という意味です。「こっちに来なさい」と招いてくださる主イエス が、私どもを慰め、励ましてくださる。それが御言葉の説教を聞くということでもありま す。そして、事実、この手紙は礼拝の中で読まれ、聞かれた手紙でもありました。

 最初にこの手紙を読んだ人たちはどういう人たちだったのでしょう。これもはっきりと 明記されてはいないのですが、一つの有力な定説として、ローマの教会の人たちに向けて 書かれたものであるということです。今は、立派な教会堂がローマにたくさんありますが、 昔はいわゆる教会堂と呼ばれる建物を持ちませんでした。信徒が家を開放して、そこに集 まり、礼拝をささげていました。そのような群れがいくつもあったのです。時は1世紀末、 場所はローマです。この時代がどういう時代であったのか。それは、ローマ帝国による迫 害がたいへん厳しい時代であったということです。もう家に集まってなどいられない。そ れでローマのキリスト者たちは地下に潜り身を隠しました。地下に長く続く鉱山の坑道の ような場所で礼拝をささげたのです。窓もないし、太陽の光もまともに入らない真っ暗な 場所を、小さな光を灯しながら礼拝をささげたのでしょう。「ローマ皇帝を主とあがめよ。」 と命令されても、「まことの主はイエスだけ!神の子はイエス・キリストのみ!」と信仰を 告白する。しかし、それゆえに、愛する家族や教会の兄弟姉妹が捕えられ、殺されていく。 そのようなたいへん辛く胸が苦しくなるような経験を、おそらく毎日のようにしなければ いけませんでした。明日、自分が生きているという保証はない。今日のこの礼拝が地上で の最後の礼拝になるかもしれない。そのような緊張感のもと、与えられた一日一日を本当 に大切にして生きていたに違いありません。

 しかし、この手紙全体をよく読んでみますと、どうもそういうことばかり書いているわ けではないことに気付かされます。つまり、迫害を恐れることなく、信仰の戦いを立派に 戦い抜いた人たちを称賛しているわけではないのです。三つほどヘブライ人への手紙の言 葉を紹介しますので、お聞きくださればと思います。一つ目は、第10章25節です。「あ る人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づ いているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありません か。」「集会を怠った」とありますように、どうも教会の礼拝に行くことをさぼってしまっ たり、やめてしまった人たちがいたようなのです。自分が教会に行っているということが 明らかになれば、自分もまた捕えられ、殺されてしまうことも恐れたのでしょう。また、 第5章11節にはこのようにあります。「このことについては、話すことがたくさんあるの ですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。」「耳が鈍くなっ ている」「鈍感になっている」と伝道者は教会の人たちに指摘します。語られる御言葉を正 しく理解することができないほどに、心が鈍くなっていた、固くなっていたのです。また、 第12章12節にはこうあります。「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしな さい。」手が萎え、膝が弱くなり、信仰者としてしっかりと立ち、歩くことができなくなっ てしまったということです。だから、ちゃんと信仰の鍛錬を積み重ねるように勧めるので す。このように、迫害や試練の中で、信仰が弱くなり、ついには教会に行くことさえやめ てしまう。そうなってしまったのは、イエスが誰であるのか。そのことが分からなくなっ てしまったからでしょう。主イエスのお姿をしっかりと信仰のまなざしで見つめることができなくなってしまったのです。

 本日の第2章5節以下は、イエス・キリストがどのようなお方か。あなたがたにとって、 どのようなお方なのかを改めて心を込めて紹介する箇所です。6〜8節に目を向けますと、 鉤括弧で括られているところがあります。これは引用の言葉です。旧約聖書・詩編第8編 からの引用です。詩編の中で「私たち人間が何者か」を語りますが、ヘブライ人への手紙 の中では、この詩編が語る人間というのは「イエス・キリスト」のことを指していると理 解します。8節にこうありました。「この方に従わないものは何も残っていないはずです。 しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」 「この方」というのは、主イエスのことです。そして、主イエスに従わない者は誰もいな いと語ります。しかし、現実は、「すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」 と言うのです。聖書ではこう言っているけれども、現実はそうではない。誰もキリストに 従ってなどいないではないか、と言うのです。読んでいて、心が痛むような言葉でしょう。 誰よりも神様御自身が、深い悲しみをもって、キリストに従っていないこの世の現実をご 覧になっていたに違いありません。ローマの教会の人たちが毎日直面していたのは、まさ に、「キリストに従っている様子など見えない」という現実でした。自分たちを支配してい るのはどう見ても、ローマ帝国ではないか。神が本当に自分たちを支配していてくださる のだろうか?守っていてくださるのだろうか?どれだけ目を凝らしてみても、神のお姿が 見えないではないかというのが本音だったのでしょう。私どもも、普段の歩みをよく考え てみますと、色んなものが自分を支配していることに気付かされます。色んなものが自分 を悩ますのです。敵対している人たち、仲が上手くいっていない人たち、人間関係だけで はなくて、今、抱えている悩みや病など、挙げれば切りがありません。そして、「あの人た ちはキリストに従っていないではないか」と嘆き、批判するだけでなく、批判している自 分自身がもうそこで神から心が離れてしまっている。神ではない、何か違うものを見てし まっているということがあるのではないでしょうか。

でも、ヘブライ人への手紙を記した伝道者は、そのような私どもに決して負けてはいま せん。神は私どもの怠ける思い、鈍い思いに負けてなどいられないのです。だから、「もう 一度、イエス・キリストを見よう!」と言って、主イエスに私どもに紹介してくださるの です。10節にこうありました。「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの 救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である 方に、ふさわしいことであったからです。」「救いの創始者」という言葉がありました。「創 始者」というのは、これも豊かな意味を含む言葉で、色んな言葉に訳すことができます。 「導き手」とか、英語の聖書を見ると「パイオニア」と訳されているものがあります。主 イエスは「救いの開拓者」だと言うのです。誰も足を踏み入れたことのない未開の地に、 私どもに先立って前に進んでくださり、道を拓いてくださいました。その道は救いに通じ る道、まことのいのちに通じる道です。そのような意味合いから、「代表戦士」と訳される 場合があります。お互いの国の兵士たち全員が戦うのではなくて、それぞれの代表を一人 選んで、一対一で勝負をする。そして、勝った人の国のほうが勝者となる。そういう戦い 方を昔はよくいたしました。旧約聖書の物語に、少年ダビデと大男ゴリアトの戦いが記さ 

れています。子どもたちも大好きな聖書物語の一つでしょう。ペリシテ軍を代表して出て きた大男ゴリアトを前に、イスラエル軍は恐れで誰も戦おうとはしませんでした。そこに 用事でやってきた羊飼いのダビデが、神の民イスラエルを代表して、ゴリアトの前に立つ のです。そして、小さな石ころで大男を見事に打ち倒します(サムエル記上17章)。主イ エスも、救いの道を切り拓くために、私ども人間の「代表戦士」として、先頭に立ち、戦 ってくださるのです。だから、救いの創始者である主イエスのことを、「チャンピオン」と か「ヒーロー」と訳すこともあるのです。

 私どもの代表戦士として、救いの道を拓き、私どもを救いに導いてくださるために、ど ういう戦いをしてくださったのでしょうか。9節を見ますと、「死の苦しみ」とか「すべて の人のために死んでくださった」とあります。そして、「神の恵み」というのは、主イエス が死んでくださったことの中に表れるのだと語ります。そして、次の10節でも、「数々の 苦しみを通して」とありますが、数々の苦しみの行き着く先が、十字架の死であることは 言うまでもありません。そして、たいへん興味深いのは、10節の最後に「ふさわしいこ とであったからです。」とあることです。神様にとって、このことはふさわしいことなのだ と言うのです。つまり、十字架で主イエスが死んでくださったこと、その御業の中に、神 様が神様らしいということがよく分かるというのです。

 ふさわしいか?ふさわしくないか?私どもは、もしかしたらそんなことばかり考えてい るかもしれません。誰かに対して、ふさわしいとかふさわしくないとか言いながら、喜ん だり、逆に不平を言ったりしています。子どもが親を見て、「こんなことするなんてお父さ んらしくない」とか、親も子ども見て、「うちの子らしくない」とか。また、自分で自分に 問うこともあるでしょう。自分らしく生きるとはどういうことか。自分にふさわしい生き 方とは何なのか?そして、一番の問題は、神様がなさることに対して、これは神様らしく ないと言って、文句を言ってしまうことです。自分たちにとっていいことばかり続けば、 「さすが、神様らしい」と言ってたたえますが、少しでも嫌なこと苦しいことがあると、 「こんな目に遭わせるなんて、神様らしくない」と言ってみたりします。ローマの教会の 人たちは、厳しい迫害の日々を生きながら、絶えず問うていたに違いありません。神様が 神様であられるというのは、いったいどういうことなのだろうか。神様が神様らしく振舞 われるとは、どういうことなのだろうか。

 そこで、御言葉は迷うことなく、神様の恵みというのはこういうことなのだと言って、 御子イエスを指し示し、その主イエスが十字架の苦しみを通して、十字架の死を通して死 んでくださったことだと語ります。人々はもしかしたら、主イエスが地上におられた時の 人々と同じように、神様が神様らしく振舞ってくださるというのは、今、自分たちを苦し めているローマの支配からはっきりと分かる仕方で解放してください、ということであっ たのかもしれません。目の前の現実が、キリストの十字架を見えなくしてしまっていたの です。そこで改めて問われるような思いがいたます。私にとってキリストとはいかなるお 方なのか。キリストが十字架で死んでくださったというのは、私にとって何を意味するの か。そして、自分の中で、主の十字架が、目の前にある苦しみに耐え抜き、戦い抜くことのできる力となっているのでしょうか。

 ヘブライ人への手紙は、神がキリストを十字架におつけになったところに、神様らしさ が表れていると言いました。どうしてでしょうか。14節、15節にこうあります。「とこ ろで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられま した。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖の ために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」私たち人間は、「血」 と「肉」を備えています。ここに人間の一つの特質があります。また、あまり詳しく触れ ることはできませんが、今日の箇所もそうですが、第1章からしばしば「天使」が登場し ます。「天使」と「御子(イエス)」が比較されます。天使は肉と血を備えていないのです。 だから死ぬこともないのです。

私どもが血と肉を備える、つまり「肉体」を持っているというのは、生きるうえで大切 なことであり、また喜びです。漠然とした、よく分からない者として、この世界に存在し ているのではないのです。肉体があるからこそ、やりたいことをやることができるし、鍛 錬を重ねれば、体を強くすることができ、自分の可能性を伸ばすことができるでしょう。 しかし、同時に、私どもが直面する現実は、その体が自由に使えなくなる時が来るという ことです。病を患ったり、ケガをしたり、歳を重ねたりする中で、以前はあれだけ自分を 支えていた肉体、自分が自分であることの大切な一つのしるしであった肉体が、今は厄介 なものになってしまった。こんなものなければ、もっと楽に生きることができたのにとし か思えなくなってしまった。そのように、私どもが肉体を持っているがゆえに、喜びだけ でなく、苦しみも痛みも負わなければいけなくなったのです。そして、肉体を持っている がゆえに、私どもにとって一番辛いことは、「死ぬ」存在となったということです。罪のゆ えに、人は死ぬ存在になったのです。しかし、主イエスは、私どもの救いの創始者、開拓 者、代表戦士として、この世界に生まれて来てくださいました。私どもが血と肉を備える ように、主イエスもまた、血と肉を備えた同じ人間として、この世界に生まれて来てくだ さいました。そして、私どもが死ぬように、主イエスも死ぬ存在となってくださったので す。

ところで、「死ぬ」ということの何が問題なのでしょうか。死を巡る問題というのも色々 ありますが、ヘブライ人への手紙は、15節で「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態に あった者たちを解放なさるためでした。」と記します。ここに「死の恐怖」とあります。死 ぬことは恐怖だ。だから大きな問題だというのです。そして、この死をつかさどっている のは「悪魔」だと言うのです。悪魔は、「死ぬのは恐いぞ!」と私どもを脅してきます。教 会を迫害する者たちは、「死にたくないだろ?死にたくなければ信仰を捨てろ!殺されたく なければ、ローマ皇帝を礼拝しろ!」そう言って、キリスト者たちの心に恐怖を植え付け ます。悪魔というのは、「死の恐怖」というものを巧みに用いながら、私どもを神から引き 離そうとします。そして、私どもを死の奴隷にするのです。また、誰かに脅されることが なかったとしても、死ぬことの恐怖というのは、多くの者が知っていることでしょう。そ れこそ、小さな子どもでも知っているかもしれません。あるいは、何十年、信仰生活を重ねていたとしても、いざ死を迎えるということを知った時、恐怖を覚えるという話はよく 聞きます。逆に、「自分は死ぬことなど恐くなくない!」と大声で叫んで、勇ましく死の中 に飛び込んで行くということもあるかもしれません。人は死を恐れない人たちの姿を見て、 心打たれるでしょうが、問題は立派に死んでったか、おびえながら死んでったか、そうい うことではありません。

 救いの創始者である主イエスは、十字架の上で「何も恐くない」と言って、立派な死を 死なれたのでしょうか。そうではありませんでした。第5章7節を見ますと、「キリストは、 肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から 救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられまし た。」主イエスは十字架の上で、激しい叫びをあげ、涙を流されました。「わが神、わが神、 なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれながら、息を引きとられたのです。主 イエスは誰よも深い所で、死の恐怖を味わい、十字架の上で死んでいかれました。しかし、 一つ決定的に違うのは、主イエスは死の奴隷、悪魔の奴隷にはならなかったということで す。悪魔の支配ではなく、神の前で正しい仕方で死の恐れを抱かれたのです。そして、主 イエスの十字架の死は、15節で言われていたように、「死の恐怖のために一生涯、奴隷の 状態にあった者たちを解放なさるため」のものでした。

 だからもう、悪魔の手の中に死というものはありません。悪魔は何も持っていないので す。空っぽなのです。もう死という恐怖をもって、私どもを奴隷とすることはできなくな ったのです。人間にとって絶対的だと思っていた死が、私どもを捕らえることがもうでき なくなりました。主によって、解き放っていただいたからです。私どもは、主イエスが十 字架の苦しみをとおして、切り拓いてくださった救いの道を、先頭に立つ主と共に歩みま す。しっかりと主イエスを見つめて歩むなら、死の恐怖の虜になることはありません。死 に勝利したキリストのいのちが私どもをいつも取り囲んでいるからです。死もいのちも神 の御手の中にあります。そして、神はキリストをとおして、死に打ち勝ったいのちを与え てくださるのです。この救いの事実は、私どもを苦しめるあらゆる苦しみよりも、遥かに 確かなことなのです。

 この救いの創始者であり、開拓者であり、代表戦士である主イエスについて、最後の1 7節、18節でこのようも言っています。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深 い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにな らねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受 けている人たちを助けることがおできになるのです。」ここで言われていることは、主イエ スは「大祭司」でもあるということです。大祭司とは、人々の罪の赦しを神に願うために、 年に一度、エルサレムの神殿の一番奥の部屋に入って、いけにえの動物を献げ、執り成し の祈りをささげた人でした。主イエスは、まことの大祭司として、誰も入って行くことの できない死の恐怖の中に入ってくださいました。動物をささげたのではなく、御自身のい のちをささげ、「彼らの罪をお赦しください」と祈ってくださいました。そして、死の恐怖 に勝利、私どもをまことのいのちの中に解き放ってくださったのです。そして、まだ触れていませんでしたが、11節を見ると、主イエスは「彼らを兄弟と呼 ぶことを恥としない」とでおっしゃっているのが分かります。「あんな奴と俺を一緒にしな いでくれ。恥ずかしいから。」と、私どもだったら自分の兄弟に対して、平気で口にしてし まうかもしれません。でも、よく考えてみると、私どもは「お前はわたしにとって恥だ」 と主イエスに言われてもおかしくない存在でした。しかし、主は私どもと同じ人間となり、 そして兄弟となってくださいました。十字架の苦しみをとおして、死から解放し、救いに 導いてくださいました。主イエスは私どもの一番上のお兄さん、長兄です。その兄であら れる主イエスが、「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であ なたを賛美します」とおっしゃってくださいます(12節)。主イエスが集会の中で、つま り、教会の中で神の名を私どもに紹介し、共に賛美します。そして、神を信頼し、「ここに、 わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます。」(13節)と、主イエス御自 身が、兄弟である私ども一人一人を、今度は神様に紹介してくださるのです。「神よ、この 子たちはあなたが与えてくださった者たちです。」「この子たちはわたしが十字架でいのち を注いで贖い出した者たちです。」「この子たちは悪魔と死の恐怖から解放された者たちで す。」というふうに...。今も生きておられる救いの創始者であり、大祭司であられる主イエスは、とりわけ、主 の日の礼拝において、御自身のお姿を明らかにしてくださいます。私どもに、神様のこと を紹介しつつ、共に神を賛美しようと呼びかけていてくださいます。そして、「神よ、あな たが与えてくださったここにいる兄弟たちを祝福してください。神以外の何者かに捕らわ れているようでしたら、すぐに解き放って自由にしてください。」そう言って、執り成して くださる主イエスの祈りを聞きながら、もう一度、信仰の歩みを整えていただくのです。 お祈りをいたします。

 救いの道を切り拓いてくださった主イエスが、私どもの兄弟となってくださいました。 肉体を持っているがゆえの苦しみを、私どもと共にしてくださったばかりでなく、主御自 身の十字架で死んでくださり、死ぬことの恐ろしさを私どもよりも深いところで味わって くだいました。私どももやがて死を迎えます。しかし、悪魔ではなく、あなたのいのちの 御手の中で死ぬことができます。死においてさえ、あなたの恵みによって解き放たれた自 由の中に立つことができます。感謝をいたします。いのちの主を仰ぎつつ、あなたが与え てくださる祝福の中を歩み抜くことができますように。主イエス・キリストの御名によっ て、感謝し祈り願います。アーメン。