2026年02月08日「「わたしはある」ということを信ぜよ 내가 그인 줄 믿으라」

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「わたしはある」ということを信ぜよ 내가 그인 줄 믿으라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 8章21節~30節

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:21そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」
8:22ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、
8:23イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。
8:24だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
8:25彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。
8:26あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」
8:27彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。
8:28そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。
8:29わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
8:30これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 8章21節~30節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(8:12)」と主イエスは言われました。イエス様は御自身こそ、真の光であり、永遠の命の灯であると自己証言なさいました。それと同時に、イエス様はこの世が暗闇であるということも指摘されました。この世はアダムの罪によってもたされた暗闇の中に置かれていて、それは霊的な盲目状態であり、道徳的腐敗、不正、悩みや苦痛や悲惨が常に伴う場所であると言うのです。その上で、今、御自身が父から遣わされた者だということを、人々に正面からはっきりと断言されているのであります。本日も仮庵の祭りで語られたイエス様のメッセージに耳を傾けつつ、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 裁きの警告

8:21をご覧ください。

“そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」”

「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。…」というこの語り口は、以前にも出てまいりました。1ぺージ前の7:34をご覧ください。

“あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。”

ほぼ同じような言い回しですね。違う点は、本日の8:21は、さらに突っ込んで「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉が付け加えられている点です。「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。この言葉は、本日の箇所で実は三回も出てまいります。21節と24節の二回です。大変強い警告がなされていると見ることが出来るでしょう。ところがユダヤ人たちは、この強い言葉を警告としては受け止めず、22節において次のように言っています。「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」

これはどういう意味でしょうか。ユダヤ人たちは、イエス様の「わたしは去って行く」という言葉を、死と結び付けて正確に理解していました。つまりここで語られている内容は、イエスという男の遺言のようなものだと捉えていたということです。それにも拘わらず、この遺言のような言葉を茶化すかのように受け止めながら、「自殺でもするつもりなのだろうか」と言っているのです。「自殺でもするつもりなのだろうか」この言葉は、否定的な答えを期待する疑問文でありまして「え、どういうこと、自殺でもするつもりなのか?まさかそんなことはないでしょう」という感じです。当時、ユダヤ人の間で「自殺者の魂は陰府の中でも、最も暗い所に入れられる」と考えられていました。ユダヤ人社会において自殺とは、大変罪深い行為であると見做されていたのです。彼らは、自分たちは救われている、自分たちは天国に行けると確信していたために、イエス様の「わたしの行く所に、あなたたちは来ることが出来ない」と言われる言葉について、自殺でもして、陰府にでも降るのか?とからかっているのです。そんな彼らに対し、イエス様はビシッと言われました。23節をご覧ください。

“イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。”

ここで「上のもの」「下のもの」という言葉が出てきます。上のものとは天に属している、神に属しているという意味です。一方で、下のものとは、肉に属している、この世に属している、罪と死の支配に属しているという意味です。肉から生まれたこの世の全ての人間は、下のものに属するものとして生まれてきます。罪の奴隷であり、光を憎み、神を知ることができず、神の国を見ることもなく、暗闇の中をさまよう者たちであります。従って、上のものに属するために、神を知り、神の国に入れられるために、新しく生まれ変わらなければならないのです。この生まれ変わりは、まさに聖霊によって、神の力によって新たに生まれることを意味します。ヨハネ3:3をご覧ください。

“イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」”

人は誰でも、新たに生まれなければ自分の罪のうちに死ぬことになるのです。新たに生まれ変わり、上に属する者となるための処方箋がイエス様によって語られていきます。続く8:24節をご覧ください。

“だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」”

もし「わたしはある」ということを信じるなら、闇から光へと移される。もし「わたしはある」ということを信じるなら、下に属する者から上に属する者へと、新たに生まれ変わるとイエス様は語られるのです。

【2】. わたしはある

「わたしはある」とは、ギリシア語で「エゴーエイミー ἐγώ εἰμι」、英語ではI amと訳される言葉です。ギリシア語の文法上、「エゴーエイミー」という言葉は、ない方が意味が分かるので普通は省略されるにも拘わらず、ヨハネによる福音書の中で、この「エゴーエイミー」という言葉が、なんと24回も出てきます。「私がそれである」という表現から始まり、エゴーエイミーという言葉にさらに補語がついて「私はパンである」「私は世の光である」「私は羊の門である」「私は良い牧者である」「私は蘇りである」「私は道である」などなどの表現です。「エゴーエイミー」という言葉を、あえて繰り返し強調しているのが、ヨハネ福音書の特徴だと言えるでしょう。なぜ、このように執拗に繰り返されるのでしょうか。それは皆様も、よく御存知のことと思いますが「エゴーエイミー」という言葉が、主の御名としてモーセに知らされたお名前であるからです。出エジプト3:13~14をご覧ください。

“モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」”

モーセは、イスラエルの人々から「あなたを遣わしたというその神の名は何か?」と質問される度に、「わたしはある」というお方です。そのように答えたというのです。「わたしはある」とは、何とも不思議で、意味不明なお名前です。しかし、よく分からなくとも、イエス様こそモーセに啓示されたお方、主であることを信じることが大切なのだと思います。アウグスティヌスは「わたしはある」という言葉について、次のように言っています。「主イエスには過去はない、いつもあるのは現在だけである」。つまり、主イエスには過去というものはなく、いつまでも変わらないお方、永遠に現在として存在し続けるお方であると解説しています。「わたしはある」このストレートすぎるイエス様の答えを受けて、ユダヤ人たちは次のように質問しました。25節をご覧ください。

彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。

「あなたは、いったい、どなたですか」という質問は、キリスト教信仰の中心的な問いだと思います。「イエス・キリストとは、いったいどなたですか?」この質問に私たち信仰者は何と答えるでしょうか?イエス様はユダヤ人たちの質問に答えられました。「それは初めから話しているではないか」と。「初めから(τὴν ἀρχὴν)」とは、仮庵の祭りの中でイエス様が「初めから」主張しているではないかということではありません。そうではなく、歴史を通してロゴスなる主が、御自身について一貫して主張し続けておられるということです。主は、出エジプト記のモーセの時代から変わることなく「わたしはあるという者」だ。このように主張され続けました。ヤハウェという名において「わたしはある」と主張されました。初めから主張していること、ヨハネ福音書において24回も繰り返し強調されていること、「わたしはある」ということを信じなさい。そう言っているのです。ですからイエス様のお答えは、「わたしがイスラエルを導いて来た主であることを信じなさい」と言われたに等しいのです。

実際のところ、私たちは「わたしはある」という御名について把握すること、或いは理解することは到底、不可能だと思います。なぜなら、主は変わらないお方であるのに対し、私たちは時間の中で刻一刻と変わっていき、いずれ滅びる存在であるからです。誰もが永遠の若さを手に入れているのではありません。誰もが永遠の美しさを手に入れているのではありません。すべての人が移り変わりの中で、はかない、つかの間の命を生きているに過ぎないのです。そのような、はかない存在である私たちが、どのようにして常に現在であられる方、モーセの時から「わたしはある」と主張され続けた方を理解することが出来るでしょうか。しかし幸いにも、イエス様は「『わたしはある』ということを理解しないならば…」とは言われずに、「『わたしはある』ということを信じないならば…」と言われました。ただ、この方が『わたしはある』ということを、この方が主なる神であるということを、信じればいいのです。続いて26~27節をご覧ください。

“あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。”

「あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある」と言うのは、将来の裁きのことを言っています。イエス様がこの世に初臨された目的は、あくまでも人々を救うためでありました。しかし、再びこの世に来られる時がやってきます。主の日です。イエス様が再臨される主の日、救いが完成され、最後の審判が行われることでしょう。究極的な裁きは、この主の日の「最後の審判」まで延期されているのです。イエス様はさらに続けて言われました。28節をご覧ください。

“そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。”

「人の子を上げたとき」とは、十字架刑のことを指しています。ギリシア語を見ますと、受動態になっていまして、直訳しますと、「あなたたちは、人の子が上げられた時に初めて…分かるだろう」となっています。上げられるという言葉が受動態になっているのは、神の摂理によって上げられるという意味合いが込められています(神的受動態)。共観福音書には受難告知という形でイエス様がご自身の受難を何度も予告されたことが書かれていますが、イエス様御自身が十字架に引き渡されることを既に知っておられたということです。そして、御自身が十字架に架けられ、復活し、天に昇られて、聖霊が送られてから、それまで迫害していたユダヤ人たちの中に激しい良心の呵責が生じ、悔い改めがうねりとなって起こるだろうと予告しておられるのです。実際にその悔い改めは、聖霊が下った後に起こりました。そのことが使徒言行録の中に報告されています。聖霊が降臨した日、ペトロが弟子たちを代表して立ち上がり説教を始めると、その日、ペトロの説教を聞いたものの中から三千人もの人々が悔い改めて洗礼を受けました。使徒言行録2:36~38と、2:41をご覧ください。

“だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。”

2:41

“ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。”

激しい良心の呵責の中で、ユダヤ人たちのそれまで持っていた確信が揺らぎ始めました。「自分たちは天国に行ける」、「自分たちは選民だ」という自信が崩れ始め「わたしたちはどうしたらよいのですか」と使徒たちに救いを求め、悔い改めが起こされたのです。このように「わたしはある」と主張されている方を信じ受け入れ、その方の名によって洗礼を受ける時に、聖霊によって古い自分に死んで新しく生まれ変わるという奇跡が起こされるのです。下に属する者から上に属する者へと変えられ、暗闇の中から光の中へ移され、滅びから永遠の命に移され、この方と共に永遠に生きる者とされるようになるのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。主イエスは、御自身が「わたしはある」という者、イスラエルの民を導いて来られた主であるということを人々の前で、正面からはっきりと断言されました。それは即ち、上のものに属する存在であり、天に属する存在であり、いつまでも変わらないお方、永遠に現在として存在し続けられるお方であるということです。私たちはそのことの意味を今ははっきりと理解できないとしても、ただ、信じるならば、生まれ変われるのであり、ただ、信じるならば、このお方と共に上に属する者、天に属する者、光の中で永遠に生きる者とされ、やがてこの世の生を終えて、天国に入れられる時に、「わたしはある」というお方をはっきりと理解できるようになるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

내가 그인 줄 믿으라

2026년 2월 8일 설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 8장 21~30절

서론

「나는 세상의 빛이니 나를 따르는 자는 어둠에 다니지 아니하고 생명의 빛을 얻으리라 (8:12)」라고 주 예수님께서 말씀하셨습니다. 예수님은, 자신이야말로 참 빛이며 영원한 생명의 등불이라고 스스로 증언하셨습니다. 동시에 예수님은, 이 세상이 어둠이라는 점도 지적하셨습니다. 이 세상은 아담의 죄로 인해 들어 온 어둠 속에 놓여 있으며, 그것은 영적인 장님 상태이며, 도덕적 부패, 불의, 고통과 비참이 항상 동반되는 곳이라고 말씀하십니다. 그런 가운데 지금, 자신이 아버지께로부터 보내심을 받은 자임을, 사람들에게 정면으로 분명히 선언하고 계십니다. 오늘도 초막절에 말씀하신 예수님의 메시지에 귀 기울이며, 함께 말씀의 은혜에 참여하고자 바랍니다.

(1) 심판의 경고

8장 21절을 보시기 바랍니다.

21 다시 이르시되 내가 가리니 너희가 나를 찾다가 너희 죄 가운데서 죽겠고 내가 가는 곳에는 너희가 오지 못하리라

「내가 가리니 너희가 나를 찾다가..」라는 이 말투는 이전에도 나왔습니다. 한 페이지 앞의 7:34절을 보시기 바랍니다.

요한복음 7장

34 너희가 나를 찾아도 만나지 못할 터이요 나 있는 곳에 오지도 못하리라 하시니

거의 비슷한 표현이네요. 다른 점은 오늘 8:21에는 더 나아가「너희가... 너희 죄 가운데서 죽겠고」라는 말이 덧붙여져 있다는 점입니다. 「너희가... 너희 죄 가운데서 죽을 것이다」라는 이 말은 오늘 본문에서 사실 세 번이나 나옵니다. 21절과 24절 두 번입니다. 매우 강력한 경고가 내려지고 있다고 볼 수 있겠습니다. 그런데 유대인들은 이 강한 말을 경고로 받아들이지 않고, 22절에서「내가 가는 곳에는 너희가 욎오지 못하리라 하니 그가 자결하려는가」, 이렇게 말하고 있습니다.

이것은 무슨 뜻일까요? 유대인들은 예수님의「내가 가리니」라는 말씀을 죽음과 연결하여 정확히 이해하고 있었습니다. 즉 여기서 말해지고 있는 내용은, 예수라는 남자의 유언과 같은 것이라고 받아들였다는 것입니다. 그럼에도 불구하고, 이 유언과 같은 말씀을 비웃듯이 받아들이면서「자살이라도 할 생각인가?」라고 말하고 있는 것입니다. 「자결하려는가」 이 말은 부정적인 답을 기대하는 의문문으로, 「어, 무슨 말이야, 자살이라도 하려는 거야? 설마 그럴 리가 없지」라는 느낌입니다. 당시 유대인들 사이에서는 「자살자의 영혼은 음부에서도 가장 어두운 곳에 던져진다」고 여겨졌습니다. 유대인 사회에서 자살은 매우 죄악된 행위로 여겨졌습니다. 그들은 자신들이 구원받았으며 천국에 갈 수 있다고 확신했기 때문에, 예수님께서「내가 가는 곳에는 너희가 오지 못하리라」라고 하신 말씀을 두고, 「자결이라도 해서 음부에라도 내려가겠다는 건가?」 하고 조롱하고 있는 것입니다. 그런 그들에게 예수님은 단호히 말씀하셨습니다. 23절을 보십시오.

23 예수께서 이르시되 너희는 아래에서 났고 나는 위에서 났으며 너희는 이 세상에 속하였고 나는 이 세상에 속하지 아니하였느니라

여기서「위에서 났으며」와 「아래에서 났고」라는 말이 나옵니다. 위에서 난 것은 하늘에 속한, 하나님께 속한 것을 의미합니다. 반면 아래에서 난 것은 육신에 속한, 이 세상에 속한, 죄와 죽음의 지배에 속한 것을 의미합니다. 육으로 태어난 이 세상의 모든 인간은 아래 것에 속한 자로 태어납니다. 죄의 종이며, 빛을 미워하고, 하나님을 알지 못하며, 하나님의 나라를 보지도 못하고, 어둠 속에서 방황하는 자들입니다. 그러므로 위의 것에 속하기 위해, 하나님을 알고 하나님의 나라에 들어가기 위해, 새롭게 태어나야 합니다. 이 거듭남은 바로 성령으로, 하나님의 능력으로 새롭게 태어나는 것을 의미합니다. 요한복음 3:3을 보십시오.

요한복음 3장

3 예수께서 대답하여 이르시되 진실로 진실로 네게 이르노니 사람이 거듭나지 아니하면 하나님의 나라를 볼 수 없느니라

사람은 누구나 새롭게 태어나지 않으면 자신의 죄 가운데서 죽게 됩니다. 새롭게 태어나 위를 속한 자가 되기 위한 처방전을 예수님께서 말씀하십니다. 이어지는 8:24절을 보십시오.

24 그러므로 내가 너희에게 말하기를 너희가 너희 죄 가운데서 죽으리라 하였노라 너희가 만일 내가 그인 줄 믿지 아니하면 너희 죄 가운데서 죽으리라

만약「내가 그인 줄」을 믿는다면, 어둠에서 빛으로 옮겨진다. 만약 「내가 그」라는 것을 믿는다면, 아래에 속한 자에서 위에 속한 자로 새롭게 태어난다고 예수님께서 말씀하시는 것입니다.

(2) 나는 스스로 있는 자이니라

「나는 스스로 있는 자이니라」는 헬라어로 「에고에이미 ἐγώ εἰμι」, 영어로는 I am으로 번역되는 말입니다. 헬라어 문법상 「에고에이미」라는 말은, 생략하는 편이 의미가 더 명확해지므로 보통 생략되지만, 요한복음에서는 이 「에고에이미」라는 말이 무려 24번이나 등장합니다. 「내가 그이다」라는 표현으로 시작하여, 에고 에이미라는 말에 더해 보어(補語)가 붙어「나는 떡이다」, 「나는 세상의 빛이다」, 「나는 양의 문이다」, 「나는 선한 목자이다」, 「나는 부활이다」, 「나는 길이다」 등의 표현입니다. 「에고 에이미」라는 말을 의도적으로 반복 강조하는 것이 요한복음서의 특징이라 할 수 있습니다. 왜 이렇게 집요하게 반복될까요? 여러분도 잘 아시다시피 「에고 에이미」라는 말이 주님의 이름으로서 모세에게 알려주신 이름이기 때문입니다. 출애굽기 3:13~14을 보십시오.

출애굽기 3장

13 모세가 하나님께 아뢰되 내가 이스라엘 자손에게 가서 이르기를 너희의 조상의 하나님이 나를 너희에게 보내셨다 하면 그들이 내게 묻기를 그의 이름이 무엇이냐 하리니 내가 무엇이라고 그들에게 말하리이까

14 하나님이 모세에게 이르시되 나는 스스로 있는 자이니라 또 이르시되 너는 이스라엘 자손에게 이같이 이르기를 스스로 있는 자가 나를 너희에게 보내셨다 하라

모세는, 이스라엘 백성들에게「당신을 보내셨다는 그의 이름이 무엇이냐」고 질문받을 때마다「그의 이름은 스스로 있는 자이니라」라고 그렇게 대답했다는 것입니다. 「나는 스스로 있는 자이니라」는 참으로 신비롭고, 의미를 알 수 없는 이름입니다. 그러나 잘 이해되지 않더라도, 예수님이야말로 모세에게 계시된 분, 주님이심을 믿는 것이 중요하다고 생각합니다. 아우구스티누스는 「나는 스스로 있는 자이니라」라는 말씀에 대해 이렇게 말했습니다. 「주 예수께는 과거가 없다. 항상 있는 것은 현재뿐이다.」 즉, 주 예수께는 과거라는 것이 없으며, 영원히 변하지 않으시는 분, 영원히 현재로 존재하시는 분이라고 설명하고 있습니다. 「나는 스스로 자이니라」라는 이 직설적인 예수님의 대답을 듣고 유대인들은 이렇게 물었습니다. 25절을 보십시오.

25그들이 말하되 네가 누구냐 예수께서 이르시되 나는 처음부터 너희에게 말하여 온 자니라

「네가 누구냐」라는 질문은 기독교 신앙의 핵심적인 질문이라고 생각합니다. 「예수 그리스도는 대체 누구십니까?」 이 질문에 우리 신자들은 어떻게 대답할까요? 예수님은 유대인들의 질문에 이렇게 대답하셨습니다. 「처음부터 너희에게 말하여 온 자니라」라고 말씀하셨습니다. 「처음부터(τὴν ἀρχὴν)」란, 초막절 가운데 예수님께서 「처음부터」 주장하고 계신다는 뜻이 아닙니다. 그렇지 않고, 역사를 통해 로고스이신 주님께서 자신에 대해 일관되게 주장해 오셨다는 것입니다. 주님은, 출애굽기 모세의 시대부터 변함없이 「나는 스스로 있는 자이니라」라고 하셨습니다. 이렇게 계속 주장해 오셨습니다. 야훼라는 이름으로 「나는 스스로 있는 자이니라」고 주장하셨습니다. 처음부터 말씀하여 오신 것, 요한복음에서 24번이나 반복 강조된 것, 「나는 스스로 있는 자이니라」는 것을 믿으라. 그렇게 말씀하시는 것입니다. 그러므로 예수님의 대답은 「내가 이스라엘을 인도해 온 주라는 것을 믿으라」고 말씀하신 것과 같습니다.

사실 우리는「나는 스스로 있다」라는 그 이름을 파악하거나 이해하는 것이 결코 불가능하다고 생각합니다. 주님은 변하지 않으시는 분이신 반면, 우리는 시간 속에서 순간순간 변해가며 결국 멸망할 존재이기 때문입니다. 누구도 영원한 젊음을 소유한 것이 아닙니다. 누구도 영원한 아름다움을 소유한 것이 아닙니다. 모든 사람은 변해가는 가운데 덧없고 잠깐의 생명을 살고 있을 뿐입니다. 그처럼 덧없는 존재인 우리가 어떻게 항상 현재이신 분, 모세 때부터 「나는 스스로 있는 자이니라」라고 주장해 오신 분을 이해할 수 있겠습니까? 그러나 다행히도 예수님은 「내가 그인 줄 이해하지 못한다면…」이라고 말씀하시지 않고, 「내가 그인 줄 믿지 아니하면…」이라고 말씀하셨습니다. 단지 이분이 「나는 스스로 있는 자이니라」라는 것, 이분이 주 하나님이심을 믿기만 하면 됩니다. 이어서 26~27절을 보십시오.

26 내가 너희에게 대하여 말하고 판단할 것이 많으나 나를 보내신 이가 참되시매 내가 그에게 들은 그것을 세상에 말하노라 하시되

27 그들은 아버지를 가리켜 말씀하신 줄을 깨닫지 못하더라

「너희에 대해여 말하고 판단할 것이 많으나」라는 말은 장래의 심판을 가리킵니다. 예수님께서 이 세상에 처음 오신 목적은, 어디까지나 사람들을 구원하기 위함이었습니다. 그러나 다시 이 세상에 오실 때가 다가옵니다. 주님의 날입니다. 예수님께서 재림하시는 주님의 날, 구원이 완성되고 마지막 심판이 이루어질 것입니다. 궁극적인 심판은 이 주님의 날의「마지막 심판」까지 연기되어 있는 것입니다. 예수님께서는 더 나아가 말씀하셨습니다. 28절을 보십시오.

28 이에 에수께서 이르시되 너희가 인자를 든 후에 내가 그인 줄을 알고 또 내가 스스로 아무 것도 하지 아니하고 오직 아버지께서 가르치신 대로 이런 것을 말하는 줄도 알리라

「인자를 든 후에」란 십자가 처형을 가리킵니다. 헬라어 원문을 보면 수동태로 되어 있어 직역하면 「너희는 인자가 들리신 후에야 비로소… 알게 되리라」가 됩니다.「들리시다」라는 말이 수동태로 된 것은 하나님의 섭리에 의해 들리신다는 의미가 담겨 있습니다(신적 수동태). 공관복음서에는, 수난 예고라는 형태로 예수님께서 자신의 수난을 여러 번 예고하신 내용이 기록되어 있습니다. 이는 예수님 자신이, 십자가에 넘겨지실 것을 이미 알고 계셨음을 의미합니다. 그리고 자신이 십자가에 못 박히시고 부활하시며 하늘로 승천하신 후, 성령이 보내진 뒤에야 그때까지 박해하던 유대인들 가운데 격렬한 양심의 가책이 생겨, 회개가 물결처럼 일어날 것이라고 예고하신 것입니다. 실제로 그 회개는 성령이 내리신 후에 일어났습니다. 그 일이 사도행전 안에 보고되어 있습니다. 성령이 강림하신 날, 베드로가 제자들을 대표하여 일어나 설교를 시작하자, 그날 베드로의 설교를 들은 사람들 가운데서 삼천 명이나 되는 사람들이 회개하여 세례를 받았습니다. 사도행전 2:36~38과 2:41을 보십시오.

사도행전 2장

36 그런즉 이스라엘 온 집은 확실히 알지니 너희가 십자가에 못 받은 이 예수를 하나님이 주와 그리스도가 되게 하셨느니라 하니라

37 그들이 이 말을 듣고 마음에 찔려 베드로와 다른 사도들에게 물어 이르되 형제들아 우리가 어찌할꼬 하거늘

38 베드로가 이르되 너희가 회개하여 각각 예수 그리스도의 이름으로 세례를 받고 죄 사함을 받으라 그리하면 성령의 선물을 받으리니

41 그 말은 받은 사람들은 세례를 받으매 이 날에 신도의 수가 삼천이나 더하더라

격렬한 양심의 가책 속에서 유대인들이 그간 가지고 있던 확신이 흔들리기 시작했습니다. 「우리는 천국에 갈 수 있다」, 「우리는 선택받은 백성이다」라는 자신감이 무너지기 시작하며 「우리가 어찌할꼬」라고 사도들에게 구원을 구하고 회개가 일어났습니다. 이처럼 「나는 스스로 있는 자이니라」라고 주장하시는 분을 믿고 받아들여 그분의 이름으로 세례를 받을 때, 성령으로 인해 옛 사람에 대해서 죽고 새 사람으로 다시 태어나는 기적이 일어나는 것입니다. 아래에 속한 자에서 위에 속한 자로 변화되고, 어둠 속에서 빛 속으로 옮겨지며, 멸망에서 영생으로 옮겨져, 이 분과 함께 영원히 살게 되는 자로 만들어지는 것입니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 주 예수께서는 자신이 「나는 스스로 있는 자이니라」라고 하신 분, 이스라엘 백성을 인도해 오신 주이심을 사람들 앞에서 정면으로 분명히 선언하셨습니다. 그것은 곧 위에 속한 존재이시며, 하늘에 속한 존재이시며, 영원히 변하지 않으시는 분, 영원히 현재로 존재하시는 분이심을 의미합니다. 우리는 그 의미를 지금 당장 분명히 이해하지 못할지라도, 단지 믿기만 하면 거듭날 수 있으며, 단지 믿기만 하면 이 분과 함께 위에 속한 자, 하늘에 속한 자, 빛 가운데서 영원히 사는 자가 되어, 마침내 이 세상 생을 마치고 천국에 들어갈 때에야 비로소 「나는 스스로 있는 자이니라」 하시는 분을 분명히 이해할 수 있게 될 것입니다.

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