2026年02月01日「世の光であるイエス 나는 세상의 빛이니」

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世の光であるイエス 나는 세상의 빛이니

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 8章12節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:12イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
8:13それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」
8:14イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。
8:15あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。
8:16しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。
8:17あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。
8:18わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」
8:19彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」
8:20イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 8章12節~20節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

今朝、お読みした聖書個所は、7章52節からの続きであります。先週の7:53~8:11までは、括弧で括られておりまして、後代に加筆された挿入文であるということを見てきました。ですから12節の冒頭に「イエスは再び言われた。」とありますが、これは仮庵祭の最後の日に、大声で語られたイエス様のメッセージの続きということになります。そして本日の箇所の最後の8:20節を見ますと、「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された」とあります。「宝物殿」とは、「婦人の庭」にあるラッパの形をした献金箱がいくつも置かれている場所のことを指しています。献金箱が置かれた婦人の庭には、四つの金の燭台があり、仮庵祭の時にはその金の燭台に火が灯され、神殿の境内が明るく照らされました。夜になると、その婦人の庭の灯の下で人々は松明を持ち、歌い踊りました。エルサレム神殿は、地理的に小高い丘の上に建てられていたため、仮庵祭の照り輝く光は、境内を超えてエルサレムの街々全体をも照らし出したと言われています。そのような背景の中で、イエス様は「わたしは世の光である。」と言われたのであります。本日も仮庵の祭りで語られたイエス様のメッセージに耳を傾けつつ、共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 主は光

仮庵祭とは収穫感謝祭として、現代の暦で9~10月頃に一週間お祝いされました。祭りの間、人々は屋外に仮小屋を立て、その仮小屋で過ごしながら、昔モーセによって導かれた先祖たちが、エジプトの奴隷状態から解放され約束の地を目指して、荒れ野で40年間天幕生活をしたことを覚えるための祭りであります。先々週の説教の箇所の7:37~38において、イエス様は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われました。イエス様は、私こそ荒れ野で水を飲ませた岩であり、荒れ野で渇きを癒した泉であると主張されたのであります。私こそ生ける水の源であると主張されたのです。つまり、仮庵祭の水汲みの儀式に表されたイスラエルの信仰と希望が、イエス様御自身によって成就されたことを意味していました。本日の箇所も、これと全く同様でありまして、仮庵祭の燭台に火を灯す行為に表されたイスラエルの信仰と希望が、イエス様御自身によって成就されたことを意味しています。すなわち、イエス様が「わたしは世の光である。」と言われたのは、かつて荒れ野において、雲の柱、火の柱によって守り導かれた主ヤハウェとは、私であると主張されているのです。詩編36編は、主の僕ダビデによるものですが、9~10節を見ますと、仮庵の祭りに表されている終末論的な喜びが見事に描写されていると思います。詩編36:9~10節をご覧ください。聖書協会共同訳でお読みします。

“彼らはあなたの家の豊かさによって満ち足り/あなたの喜びの川に渇きを癒やします。命の泉はあなたのもとにあり/あなたの光によって、私たちは光を見ます。”

ところで、主が「光」であられるという描写は、旧約聖書に繰り返し出てきています。この他にも例を挙げますと詩編27:1をご覧ください。

“主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。”

また、イザヤ10:17をご覧ください。

“イスラエルの光である方は火となり/聖なる方は炎となって/一日のうちに茨とおどろを焼き尽くされる。”

このように光の輝くイメージが、炎の燃えるイメージが、主ヤハウェを描写する上で用いられました。イスラエルの人々は勿論、これらの御言葉が比喩的な表現であることを自覚していました。なぜなら主は光であると書かれているのと同時に、主は目には見えないお方であるとも書かれているからです。従いまして、イスラエルの民にとって、火そのものを神として拝んだり、或いは太陽を「太陽神」として拝むことはありませんでした。自然界の光というものが、知識、純潔、喜びを象徴しているように、主なる神とは、霊的世界における「光」であるということを理解していたのであります。その反対に、聖書で暗闇とは何かと言いますと、霊的な盲目状態を現しています。それは単に無知や誤謬だけを象徴するのではありません。さらに突っ込んで言えば、不正、道徳的腐敗、苦痛と悲惨であり、人間の罪によってもたらされた呪いと、人生における悩みや苦しみ、苦難を指し示すものであります。詩編82:5とイザヤ8:22をご覧ください。

詩編82:5

“彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。”

イザヤ書8:22

“地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。”

神様ご自身が霊的な光であり、神の中には暗闇は全くありません。神は光の中に住まわれ、すべての光の根源なのであります。そして、神様は旧約聖書に約束された通り、イエス・キリストにおいて「光」として顕現してくださったのです。仮庵の祭りにおいて伝統的になされていた行事の一つ一つは、来るべき救い主メシアを予表していました。そして、この旧約聖書が語るメシア像は、イスラエルの民が考えていた政治的なメシア像とはかけ離れていました。つまりローマの支配から解放するというような武力を背景とした王ではなく、罪と死の力から解放してくださり、神様との交わりを回復させてくださるメシアであったのです。

【2】. 闇の中に現れた光

さて、ファリサイ派の人々はイエス様の証しを聞いて、それを素直に受け入れたのでしょうか。13~14節をご覧ください。

“それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。”

ここにありますようにファリサイ派の人々はイエス様の証しは真実ではないと反論しました。律法によると、二人の証言によって初めてその証しが受け入れられると書かれているからです(民35:30申17:6)。彼らはイエス様の自己証言は真実ではないと言うのであります。それに対しイエス様は、たとえ他のいかなる人も、御自身のことを一緒に証言してくれなかったとしても、御自身の御言葉は真実であると主張されました。なぜなら、イエス様は御自身がどこから来て、どこへ行くのかを知っておられるからだと言うのです。これは一体どういう意味でしょうか。恐らくイエス様はここでご自身の特異性を語っているのだと思います。普通の人とは異なるという「特異性」です。この特異性はイエス様御自身の起源と身分においてはっきりと現れていました。すなわち、ファリサイ派の人々はイエス様がガリラヤのナザレから来たと考えていましたが、イエス様は天の御父のもとから来たと主張されるのです。ファリサイ派の人々はイエス様を大工ヨセフの子であると考えていましたが、イエス様は御自身の身分を神の御子だと主張されるのです。このイエス様の主張されている内容は、客観的に証明することなど不可能でしょう。いかなる人もイエス様が御父から遣わされた神の子であることを証明することなど出来ないのです。ですから、これは証明する事柄ではなく、信じる事柄なのだと思います。しかし、イエス様のこの特異性のゆえに、18節のお言葉が結論として導かれる訳です。18節をご覧ください。

“わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。”

これが結局、イエス様の言わんとする最終的な結論です。どういう事かと言いますと、イエス様は神である父を知っておられ、イエス様が語られた御言葉は御自身が勝手に語っているのではなく、父から出たものでありました。従ってイエス様が語られた時、それは神の言葉を代理人として客観的に伝えているために、イエス様ご自身が一人目の証人として御言葉の真実性を証ししているということになります。そして、同時に父なる神もイエス様の御言葉について真実であると証ししてくださるのです。このようにして二人の証言が担保されているということです。この説明を聞いたファリサイ派の人々は、ぶち切れたに違いありません。19節をご覧ください。

“彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」”

ファリサイ派の人々の「あなたの父はどこにいるのか」という質問は、「あなたの父は大工のヨセフではないか。何を言っているのか!」ということです。しかしそれに対しても、イエス様は、御自身の起源と身分について再び明らかにされました。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」イエス様の言われる、「わたしの父」とは父なる神様のことですが、「もし、わたしのことを知っていたなら、わたしを遣わした父をも知っていたはずだ」と言われました。実際、この仮庵祭においてイエス様の語られたメッセージを信じた人々は、群衆を二分するほど大勢いたのであります。イエス様の仰る内容は、信じる時に初めて理解することができるのであり、信じなければ理解できないのであります。もしイエス様の御言葉を理解できず、イエス様の御言葉を信じることができないのなら、それは、語られた御言葉の真実性に問題があるからではなく、光を受け入れようとしない、彼らの心の中の頑なさに起因しているのです。私たちは、ここでもう一度イエス様の語られた12節の御言葉に耳を傾けてみたいと思います。

“わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。”

イエス様を信じ、イエス様を灯の光として受け入れるなら、その人は暗闇の中を歩まず、命の光を持つと言われました。「命」とは何のことでしょうか。命とは霊的な命です。罪人が神様との関係を断絶されてしまい、神様が分からなくなってしまったことが、霊的死でありましたから、ここで言う「命」とは、神様との交わりの回復、神様を知る知識を意味しています。父なる神は、イエス・キリストをご自身の啓示として送ってくださり、御子によって、私たち罪人が、父なる神がどのようなお方であるのかを知ることができるようにしてくださいました。イエス様はある時、弟子のフィリポに次のようにおっしゃったことがあります。「わたしを見た者は、父を見たのだ(ヨハネ14:9)」。このイエス様こそ、神様と人間の唯一の仲保者であり、私たちはイエス様を通して初めて父なる神様との交わりを回復されるのです。先ほど引用しましたイザヤ書8:22からの下りの部分をもう一度見てみましょう。8:22~9:1迄お読みします。

“地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。”

苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。私たちが置かれている状況とはまさにこのような状況であります。罪によって引き起こされたこのような悲惨な現実の中にありながら、闇の中を歩む民は、大いなる光を見ると預言されています。罪と死の力によって捕らわれの身にある民の上に、光が輝くと預言されています。この光とは、まさにイスラエルの民に神様との交わりを回復させてくださるイエス・キリストなのです。それは、この方が私たちの罪の代わりに、十字架に架けられたという事実を抜きにしては語ることができません。イエス様が私たちの罪を贖ってくださり、私たちに神様との交わりを回復させてくださったので、私たちは目を上げて光を仰ぐことができるようになったのです。私たちの盲目であった目を開いてくださり、見えるようにしてくださり、命を与えてくださいました。死から命へと移される奇跡が、信じる全ての人々の上に起こされたのです。仮庵祭の八日目には、既に婦人の庭の灯は消されていたと考えられていますが、イエス・キリストの光は、決して消えることはありません。永遠に照らし続ける光なのであります。そして永遠に輝き続けるお方が、私たち教会と共におられるのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。イエス様は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。その光とはイエス・キリストであり、天から降りてきた祝福、喜ばしい恵みであります。この世はなお暗い闇に満ちていて、私たちはその混沌の世界の中で、人生の荒れ野のように厳しい旅路を歩んで行きますが、この命の光が共におられるので、どんなに厳しい苦難や試練の中にあっても、光によって守り導かれ、光によって希望を持ち、光によって私たちは約束された嗣業の地へと導かれるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

나는 세상의 빛이니

2026년 2월 1일 설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 8장 12~20절

서론

오늘 아침에 읽은 성경 구절은 7장 52절부터 이어지는 부분입니다. 지난주에 다룬 7:53~8:11까지는 괄호로 표시되어 있으며, 후대에 추가된 삽입문임을 살펴보았습니다. 따라서 12절 첫머리에「예수께서 또 말씀하여 이르시되」라고 기록된 것은 초막절 마지막 날에 큰 소리로 전하신 예수님의 말씀의 연속임을 알 수 있습니다. 그리고 오늘 본문의 마지막 8:20절을 보면, 「성전에서 가르치실 때에 헌금함 앞에서 하셨으나」라고 기록되어 있습니다. 「헌금함」이란 「여인의 뜰」에 있는 나팔 모양의 헌금함이 여러 개 놓여 있는 장소를 가리킵니다. 헌금함이 놓인 여인의 뜰에는 네 개의 금촛대가 있었는데, 초막절에는 그 금촛대에 불이 켜져 성전 경내가 환히 비춰졌습니다. 밤이 되면 그 여인의 뜰의 등불 아래에서 사람들은 횃불을 들고 노래하며 춤추었습니다. 예루살렘 성전은 지리적으로 작은 언덕 위에 세워져 있었기 때문에, 초막절의 빛나는 불빛은 경내를 넘어 예루살렘의 거리 전체를 비추었다고 전해집니다. 그러한 배경 속에서 예수님께서는 「나는 세상의 빛이니」라고 말씀하셨습니다. 오늘도 초막절에 말씀하신 예수님의 메시지에 귀 기울이며, 함께 말씀의 은혜를 나누고자 합니다.

(1) 주님은 빛이시라

초막절은 추수감사절로서 현대력으로 9~10월경 일주일간 기념되었습니다. 축제 기간 동안 사람들은 야외에 임시 초막을 세우고 그곳에서 지내며, 옛날 모세가 인도한 조상들이, 이집트 노예 상태에서 해방되어, 약속의 땅을 향해 광야에서 40년간 천막 생활을 했던 것을 기억하기 위한 축제입니다. 지난주 설교 본문인 요한복음 7:37~38에서 예수님은「누구든지 목마르거든 네게로 와서 마시라 나를 믿는 자는 성경에 이름과 같이 그 배에서 생수의 강이 흘러나오리라」라고 말씀하셨습니다. 예수님은 바로 자신이 광야에서 물을 마시게 한 반석이며, 광야에서 갈증을 해소한 샘이라고 주장하신 것입니다. 바로 내가 생수의 근원이라고 주장하신 것입니다. 즉, 초막절의 물 긷는 의식에 나타난 이스라엘의 믿음과 소망이, 예수님 자신에 의해 성취되었음을 의미했습니다. 오늘 본문도 이와 완전히 동일하여, 초막절 등대에 불을 밝히는 행위에 나타난 이스라엘의 믿음과 소망이, 예수님 자신에 의해 성취되었음을 의미합니다. 즉, 예수님께서 「나는 세상의 빛이니」라고 말씀하신 것은, 한때 광야에서 구름 기둥과 불 기둥으로 보호하시고 인도하신 주 여호와께서, 바로 자신임을 주장하시는 것입니다. 시편 36편은 주의 종 다윗의 시이지만, 9~10절을 보면 초막절에 나타난 종말론적 기쁨이 훌륭하게 묘사되어 있다고 생각합니다. 시편 36:9~10절을 보십시오.

시편 36편

9 진실로 생명의 원천이 주께 있사오니 주의 빛 안에서 우리가 빛을 보리이다

10 주를 아는 자들에게 주의 인자하심을 계속 베푸시며 마음이 정직한 자에게 주의 공의를 베푸소서

그런데 주님이「빛」이시라는 묘사는 구약성경에 반복해서 등장합니다. 이 외에도 예를 들자면 시편 27:1을 보십시오.

시편 27편

1 여호와는 나의 빛이요 나의 구원이시니 내가 누구를 두려워하리요 여호와는 내 생명의 능력이시니 내가 누구를 두려워하리요

또 이사야 10:17절을 보시기 바랍니다.

이사야 10장

17 이스라엘의 빛은 불이 되고 그의 거룩하신 이는 불꽃이 되실 것이니라 하루 사이에 그의 가시와 찔레가 소멸되며

이처럼 빛이, 비추는 이미지와 불꽃이 타오르는 이미지가 주 여호와를 묘사하는 데 사용되었습니다. 이스라엘 백성들은 물론, 이 말씀들이 비유적인 표현임을 잘 알고 있었습니다. 주님이 빛이시라고 기록된 동시에, 주님은 눈에 보이지 않는 분이시라고도 기록되어 있기 때문입니다. 따라서 이스라엘 백성들은 불 자체를 신으로 숭배하거나, 태양을 「태양신」으로 숭배하지 않았습니다. 자연계의 빛이 지식, 순결, 기쁨을 상징하듯이, 주 하나님은 영적 세계에서의 「빛」임을 이해하고 있었습니다. 반대로 성경에서 어둠이 무엇을 의미하느냐 하면, 영적 장님 상태를 나타냅니다. 그것은 단순히 무지나 오류만을 상징하는 것이 아닙니다. 더 깊이 들어가 말하자면, 그것은 불의, 도덕적 타락, 고통과 비참이며, 인간의 죄로 인해 초래된 저주와 인생의 근심과 고통, 고난을 가리키는 것입니다. 시편 82:5과 이사야 8:22을 보십시오.

시편 82편

5 그들은 알지도 못하고 깨닫지도 못하여 흑암 중에 왕래하니 땅의 모든 터가 흔들리도다

이사야 8장

22 땅을 굽어보아도 환난과 흑암과 고통의 흑암뿐이리니 그들이 심한 흑암 가운데로 쫓겨 들어가리라

하나님 자신이 영적인 빛이시며, 하나님 안에는 어둠이 전혀 없습니다. 하나님은 빛 가운데 거하시며 모든 빛의 근원이십니다. 그리고 하나님께서는 구약성경에 약속하신 대로 예수 그리스도 안에서 「빛」으로 나타나셨습니다. 초막절에 전통적으로 행해지던 행사 하나하나가 오실 구세주 메시아를 예표하고 있었습니다. 그리고 이 구약성경이 말하는 메시아의 모습은 이스라엘 백성이 생각하던 정치적인 메시아의 모습과 거리가 멀었습니다. 즉 로마의 지배로부터 해방시킨다는 식의 무력을 배경으로 한 왕이 아니라, 죄와 죽음의 권세로부터 해방시켜 주시고 하나님과의 교제를 회복시켜 주시는 메시아였던 것입니다.

(2) 어둠 속에 나타난 빛

자, 바리새인들은 예수님의 증언을 듣고 그것을 순순히 받아들였을까요? 13~14절을 보십시오.

13 바리새인들이 이르되 네가 너를 위하여 증언하니 네 증언은 참되지 아니하도다

14 예수께서 대답하여 이르시되 내가 나를 위하여 증언하여도 내 증언이 참되니 나는 내가 어디서 오며 어디로 가는 것을 알거니와 너희는 내가 어디서 오며 어디로 가는 것을 알지 못하느니라

여기에서 보듯이 바리새인들은, 예수님의 증언이 진실이 아니라고 반박했습니다. 율법에 따르면 두 사람의 증언에 의해서만 그 증언이 받아들여진다고 기록되어 있기 때문입니다(민 35:30, 신 17:6). 그들은 예수님의 자기 증언은 진실이 아니라고 말합니다. 이에 대해 예수님은, 비록 다른 어떤 사람도 자신에 대해 함께 증언해 주지 않더라도, 자신의 말씀은 진실하다고 주장하셨습니다. 왜냐하면 예수님은 자신이 어디서 왔고 어디로 가는지 알고 계시기 때문이라고 말씀하셨습니다. 이것은 대체 무슨 뜻일까요? 아마도 예수님은 여기서 자신의 독특성을 말씀하시는 것 같습니다. 보통 사람과는 다르다는「독특성」입니다. 이 독특함은 예수님 자신의 기원과 신분에서 분명히 드러났습니다. 즉, 바리새인들은 예수님이 갈릴리 나사렛에서 왔다고 생각했지만, 예수님은 하늘에 계신 아버지께로부터 왔다고 주장하셨습니다. 바리새인들은 예수님을 목수 요셉의 아들이라고 생각했지만, 예수님은 자신의 신분을, 하나님의 아들이라고 주장하셨습니다. 예수님이 주장하신 이 내용은 객관적으로 증명하는 것은 불가능할 것입니다. 어떤 사람도 예수님이 아버지께로부터 보내심을 받은 하나님의 아들이심을 증명할 수 없습니다. 그러므로 이것은 증명할 일이 아니라, 믿을 일이라고 생각합니다. 그러나 예수님의 이 독특함 때문에 18절의 말씀이 결론으로 이끌어지는 것입니다. 18절을 보십시오.

18 내가 나를 위하여 증언하는 자가 되고 나를 보내신 아버지도 나를 위하여 증언하시느니라

이것이 결국 예수님께서 말씀하시려는 최종적인 결론입니다. 무슨 뜻이냐 하면, 예수님은 하나님이신 아버지를 알고 계셨으며, 예수님께서 말씀하신 말씀은, 그분 스스로 마음대로 하신 것이 아니라 아버지께로부터 나온 것이었습니다. 그러므로 예수님께서 말씀하실 때, 그것은 하나님의 말씀을 대리인으로서 객관적으로 전하고 있기 때문에, 예수님 자신이 첫 번째 증인으로서 말씀의 진실성을 증언하고 계신다는 뜻이 됩니다. 그리고 동시에 아버지 하나님도 예수님의 말씀에 대해 진실하다고 증언해 주시는 것입니다. 이렇게 해서 두 명의 증인이 보증되고 있다는 것입니다. 이 설명을 들은 바리새인들은 분명히 격분했을 것입니다. 19절을 보십시오.

19 이에 그들이 묻되 네 아버지가 어디 있느냐 예수께서 대답하시되 너희는 나를 알지 못하고 내 어버지도 알지 못하는도다 나를 알았더라면 내 아버지도 알았으리라

바리새인들의「네 아버지가 어디 있느냐」라는 질문은 「네 아버지는 목수 요셉이 아니냐. 무슨 말을 하는 거냐!」라는 뜻입니다. 그러나 이에 대해서도 예수님께서는 자신의 기원과 신분에 대해「너희는 나를 알지 못하고 내 아버지도 알지 못하는도다 나를 알았더라면 내 아버지도 알았으리라」라고 다시 한번 분명히 밝히셨습니다. 예수님께서 말씀하신「내 아버지」는 아버지 하나님을 가리키시지만, 「나를 알았더라면 내 아버지도 알았으리라」라고 말씀하셨습니다. 실제로 이 초막절에 예수님께서 전하신 메시지를 믿은 사람들은 무리를 둘로 갈라놓을 만큼 많았습니다. 예수님께서 말씀하신 내용은, 믿을 때에야 비로소 이해할 수 있는 것이며, 믿지 않으면 이해할 수 없는 것입니다. 만약 예수님의 말씀을 이해하지 못하고, 예수님의 말씀을 믿을 수 없다면, 그것은 예수님이 말씀하신 말씀의 진실성에 문제가 있어서가 아니라, 빛을 받아들이려 하지 않는 그들의 마음속 완고함에서 비롯된 것입니다. 우리는 여기서 다시 한번 예수님께서 말씀하신 12절의 말씀에 귀 기울여 보고자 합니다.

12 예수께서 또 말씀하여 이르시되 나는 세상의 빛이니 나를 따르는 자는 어둠에 다니지 아니하고 생명의 빛을 얻으리라

예수님을 믿고 예수님을 등불의 빛으로 받아들이면, 그 사람은 어둠에 다니지 아니하고 생명의 빛을 얻었다고 말씀하셨습니다.「생명」이란 무엇일까요? 생명은 영적인 생명입니다. 죄인이 하나님과의 관계를 단절당하고 하나님을 알 수 없게 된 것이 영적 죽음이었기에, 여기서 말하는 「'생명」은 하나님과의 교제의 회복, 하나님을 아는 지식을 의미합니다. 아버지 하나님께서는 예수 그리스도를 자신의 계시로 보내 주셨고, 그 아들을 통해 우리 죄인들이 아버지 하나님이 어떤 분이신지 알 수 있게 하셨습니다. 예수님은 한때「나를 본 자는 아버지를 보았거늘(요14:9)」라고 제자 빌립에게 말씀하신 적이 있습니다. 이 예수님이야말로 하나님과 인간 사이의 유일한 중보자가 되시며, 우리는 예수님을 통해서만 비로소 아버지 하나님과의 교제를 회복하게 됩니다. 아까 인용했던 이사야서 8:22부터 이어지는 부분을 다시 한번 살펴보겠습니다. 8:22절부터 9:1절까지 읽어보겠습니다.

이사야 8장

22 땅을 굽어보아도 환난과 흑암과 고통의 흑암뿐이리니 그들이 심한 흑암 가운데로 쫓겨 들어가리라

9장

1 전에 고통 받던 자들에게는 흑암이 없으리로다 옛적에는 여호와께서 스불론 땅과 납달리 땅이 멸시를 당하게 하셨더니 후에는 해변 길과 요단 저쪽 이방의 갈릴리를 영화롭게 하셨느니라

환난과 어둠, 고통, 흑암 가운데로 쫓겨 들어감, 우리가 처한 상황은 바로 이와 같습니다. 죄로 인해 초래된 이 비참한 현실 속에 있으면서도, 어둠에 다니는 백성은, 큰 빛을 보리라 예언되었습니다. 죄와 죽음의 권세에 사로잡힌 백성 위에 빛이 비치리라 예언되었습니다. 이 빛은 바로, 이스라엘 백성에게 하나님과의 교제를 회복시켜 주시는 예수 그리스도이십니다. 이는 이분이 우리의 죄 대신 십자가에 달리셨다는 사실을 빼놓고는 말할 수 없습니다. 예수님께서 우리의 죄를 속량해 주시고, 우리에게 하나님과의 교제를 회복시켜 주셨기에 우리는 눈을 들어 빛을 바라볼 수 있게 된 것입니다. 우리의 눈먼 눈을 뜨게 하시고 보게 하시고 생명을 주셨습니다. 죽음에서 생명으로 옮겨지는 기적이, 믿는 모든 사람 위에 일어났습니다. 초막절 여덟째 날에는 이미 여인의 뜰 등불은, 꺼져 있었을 것으로 생각되지만, 예수 그리스도의 빛은 결코 꺼지지 않습니다. 영원히 비추는 빛이십니다. 그리고 영원히 빛이신 분이 우리 교회와 함께 계십니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 예수님께서는 「나는 세상의 빛이니 나를 따르는 자는 어둠 에 다니지 아니하고 생명의 빛을 얻으리라」라고 말씀하셨습니다. 그 빛은 예수 그리스도이시며, 하늘에서 내려온 축복, 기쁜 은혜입니다. 이 세상은 여전히 어두운 암흑으로 가득 차 있으며, 우리는 그 혼돈의 세계 속에서, 광야 같은 인생의 가혹한 여정을 걸어가고 있습니다. 그러나 이 생명의 빛이 함께 하시기 때문에, 아무리 혹독한 고난과 시련 속에서도 빛으로 보호받고 인도되며, 빛 가운데 희망을 갖고, 빛으로 인해, 우리는 약속된 상속의 땅으로 인도되는 것입니다.

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