2026年01月25日「わたしもあなたを罪に定めない 나도 너를 정죄하지 아니하노니」

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わたしもあなたを罪に定めない 나도 너를 정죄하지 아니하노니

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 7章53節~8章11節

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:53〔人々はおのおの家へ帰って行った。
8:1イエスはオリーブ山へ行かれた。
8:2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8:3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 7章53節~8章11節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

本日の箇所は、大変有名な物語であり、皆様におかれましても心惹かれる聖書箇所の中の一つだと思います。しかし、よく見ますと7:53の始まりから8:11の終わりまで、括弧で括られていることに気づきます。実はこの括弧で括られている部分は、多くの古い写本には見られず、後代の写本にのみ出てきます。おそらく、この物語はよく知られていた言い伝えでありましたが、写本としては伝えられておらず、5世紀頃に西方教会の写本に挿入されるようになって、それから長い年月を経て、12世紀頃から東方教会にも伝えられたというふうに考えられています。また挿入個所についても、必ずしもこの場所ではなく、ルカ福音書に挿入されている写本も出てきます。最終的にヨハネの福音書のこの場所に落ち着いた理由は、7~8章が一貫して「裁き」というテーマで書かれているためであり、例えば1ページ前の7:24では、「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」とイエス様は言われています。さらに、8:15~16では「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」と言われています。このイエス様御自身の裁きについての教えが、本日の箇所において実践されていると読むことが出来るのです。本日もヨハネの福音書から共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

【1】. 悪い動機で告発する者たち

8:1に、イエス様はオリーブに山に行かれたとあります。何のために行かれたのでしょうか。イエス様は朝早く山で祈ることが習慣でした。この時も祈りのためにオリーブ山に行かれたのだと思われます。その後、神殿の境内に入られると、民衆がイエス様のところにやって来たので、イエス様は座って教え始められました。当時のラビたちは、皆このような形で人々の輪の中に座って聖書を教えていたのであります。そんな最中、律法学者たちやファリサイ派の人々が、慌ただしくやって来ました。3~6節途中までご覧ください。

“そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。”

姦通とは、姦淫罪のことです。平たく言えば、浮気をすることと、浮気の相手になることです。これは十戒の第七戒違反に当たる訳です。教会では結婚を大変重要に考えます。なぜなら夫婦の交わりこそ、教会の核心部分であり、その交わりはイエス様と教会の交わりにも当てはまるからです。ですから私たち改革派教会の結婚式において、お二人がこれから夫婦一体となって生きていくに当たり、神と教会の前で、誓約をしていただいています。結婚という契約関係がこれほどまでに重要であるため、その契約関係を脅かす姦淫の罪も当然大変重大な罪であるということになります。この時、告発された女は、おそらく恐怖と恥ずかしさのあまり、激しく震えていたに違いありません。ところで、8:3節の記述はどこか不自然です。というのは、姦淫の罪を犯したのが事実であるなら、相手の男も捕えられるはずですが、男はいません。男だけは逃がしてやったのでしょうか。律法では姦淫の当事者双方を死に定めるとありますので、男なしで女だけを連れてきたということにおいて、既にこの告発者たちは律法を軽んじていると言うことが出来るのです。姦淫の罪については、申命記22:22に書かれていますので、念のため調べてみましょう。

“男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。”

律法学者たちやファリサイ派の人々は、イエス様に「あなたはどうお考えになりますか」と質問しています。モーセの律法の「解釈」について質問しているということです。当時は男性優位の社会でありまして、女性に人権などありませんでしたから、律法の解釈においても、そういった男性優位の文化的背景が反映されていました。たとえば、一例を挙げますと、離婚というものが律法の中で許されています。離婚をする際、離縁状を出して成立するわけですが、どのようなケースで離縁状を出すことが出来るのか、ラビ・アキバの解釈では、「今の妻より、もっといい女ができたら、それだけで離縁状を出して離婚することが出来る」と主張しています。今回の告発においても、女の人権を無視し、ただ「イエスという男を試して、訴える口実を得るために」、この女が用いられているのです。イエス様を罠にはめるため、この女の罪が、恰好の道具として利用されているのです。何と卑劣な告発者たちでしょうか。従って、イエス様がどのように答えても、訴える口実を得ることが出来るようになっていました。もしイエス様が「女を殺してはならない。」と言えば、この男は、モーセの律法に背く者だと訴えることができますし、或いは、もし「女を石で打ち殺しなさい」と言えばどうでしょうか。これまでイエス様は罪人と共に食事をされ、貧しい人たちや徴税人たちに、神の国の到来を告げ知らせていました。人々から強い支持を受けていました。もし「女を石で打ち殺しなさい」と言えば、確かに愛国心があり、律法の原理主義者として、人々の目に映りますが、何より、彼には「憐みの心がない」、「人の心というものがない」という噂が立ち、たちまちイエス様を信じようとしていた人々に歯止めをかけることになったでしょう。さらに言えば、ローマ帝国は、当時ユダヤ人に死刑の執行権を与えていませんでしたから(18:31)、ローマへの反逆罪として訴えられる可能性もあった訳です。

【2】. わたしもあなたを罪に定めない

さて、イエス様は彼らの悪い動機をすぐに見抜かれました。そして彼らに即座に答えることはせず、かがみ込み、地面に指で何かを書き始められました。この時、イエス様が何を地面に書いたのか、これ迄多くの注解者たちによって推測がなされて来ました。私もとても興味があります。そもそも聖書の御言葉とは、すべて弟子たちがイエス様から聞いた内容を、後日、彼らの手によって文書として保存されたものであって、勿論その際、聖霊の霊感の中で聖書が成立していく訳ですが、いずれにしてもイエス様が直接書き残した文章、イエス様直筆の御言葉というのは、この世に存在しません。従ってこの時、イエス様は何をお書きになったのか大変興味を掻き立てられるのです。イエス様が何を書かれたのか、その一例として三つの解釈を紹介させていただきます。アウグスティヌスは、「指で書き始められた」という言葉に注目し、神が直接、指で書かれたものといえば、シナイ山であの二つの石板に書かれた十戒である。ですからこの時も神の律法を書かれたのではないか、と推測します。カルヴァンは、これは単に時間稼ぎのために書いているだけであって、いたずら書きをするようにただ、アルファベットを書いているだけではないか、と推測します。或いは、他の注解者は女を告発している者たちの罪を一つ一つ箇条書きしているのではないだろうか。その地面に書かれた文字を見て、人々はドキッとさせられたに違いない、と推測します。果たしてイエス様が何を地面に書かれたのかは、私たちには分かりませんが、イエス様の次の言葉によって事態が変化しました。7~9節をご覧ください。

“しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。”

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」これはどういう意味でしょうか。まず第一に言えることは、イエス様は決して律法に背くことはなかったということです。姦淫の女に対する石打ちをイエス様も認めておられるのです。しかし、イエス様の内には、罪は憎むべきであるが、罪人たちはキリストにおいて受け入れられるべきだというお考えがありました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」という言葉の中に、「罪は憎んでも罪人は憎むな」という無骨な真理が深く刻まれているのであります。ヨハネ3:17にもイエス様がこの世に遣わされた目的について具体的に書かれています。ご覧ください。

“神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。”

イエス様が世に遣わされた目的とは、世を裁くためではなく、罪人をご自身のもとに招くことでありました。それは御自身が十字架に掛けられることにより、罪人に救いを得させることが出来るからです。イエス・キリストが罪を贖う犠牲の子羊となって、多くの人々のために御自身の血を流してくださるからです。第二に、告発者たちに自分たちの心を省みるように促していると理解することができます。告発者の心には明らかにイエス様を陥れようとする悪い動機がありました。その悪い動機をここで見事に暴露させているのです。イエス様は告発者たちの偽善を暴き、相手の男がいない不公平な裁判が行われることがないように未然に防いだのであります。イエス様の言葉を聞くと、年長者から始まって、一人また一人とそこを立ち去って行きました。ここで「年長者から」と書かれていることは、大変感慨深いと思います。人生経験の長い年長者であるほど、自らが罪を犯したことをよく知っていたということです。

最後にイエス様と女だけが残されました。イエス様は女に話しかけられます。恐らく彼女を安心させ、話す勇気を持たせるためであったと考えられます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」と、イエス様が言われると、女は「主よ、だれも」と答えました。女が答えた言葉数は、ほんのわずかでありましたが、イエス様は、姦通の現場で捕らえられた女に対し、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われました。女は恐ろしい裁判から解放されたのであります。私たちが女の立場に置かれていたと想像しますと、このことを、諸手を挙げて喜ぶことは出来ないのだと思います。と言いますのは、イエス様は「行きなさい。好きなように生きなさい。どのような罪も私のゆえに赦されるから」と、言われた訳ではなかったからです。そうではなく「これからはもう罪を犯してはならない」と、女に律法を与えられました。つまりここで起こっている出来事とは、キリストの福音が語られ、裁きが一旦保留にされたということです。イエス様が語られた言葉とは、無条件の「赦しの宣告」というより、「招きの言葉」であって、あなたはこれからどのように生きるのか?と問われているのです。申命記30:2~3の御言葉をご覧ください。

“あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。”

「悔い改めて主に立ち帰ることをためらってはならない。神の怒りは突然やって来るのであろう。そして神の復讐の時にあなたを滅ぼし尽くすかもしれない。今、直ちに悔い改めて、主と共に歩みなさい」と促しているのであります。ですからここには、罪の裁きが保留されたことを、手放しに喜ぶことができない緊張感が隠されているのであります。

一方で、万一、女が深い絶望感に打ちのめされている場合には、キリストという避難所が提供されていると解釈することもできるでしょう。イザヤ1:18をご覧ください。

“論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。”

イエス様による解放によって、過度な希望を見出す者には警告が与えられますが、過度な絶望に陥っている者には、避難所が招きの言葉として提供されているのだと思います。どんなに取り返しのつかない罪を犯してしまったとしても、どんなに罪の大きさに苛まれて、押しつぶされそうになっても、イエス・キリストの十字架によって贖うことができない罪などないと仰ってくださるのです。いずれにしても、主は、今日、私たちが悔い改めて、くびすを返し、イエス様を救い主として信じ、御言葉に従って歩みなさいと語られるのであります。

【結論】

本日の内容をまとめます。イエス様は姦淫の罪を犯した女を罪に定めることなく、石打で死ななければならない刑罰から女を解放してくださいました。今日、私たちに対しても同じように罪に定められることはなく、「これからは、もう罪を犯してはならない」と、仰ってくださっています。私たちは本来、自らの罪のために滅ぶべき存在であり、呪われた者たちでありました。神の律法に照らしてみればそのことがよく分かります。しかし、恐ろしい裁きが延期され、招きの言葉が与えられているのです。そうであるなら、私たちは、今日という日に悔い改めて、イエス様を救い主として信じ、御言葉に従う者とならせていただきましょう。主の日がいつ来るか分かりません。勿論、私たちは罪人ですから、今後、一切罪を犯さないで生きることは不可能でありますけれども、聖霊に依り頼み、悪魔の誘惑を退け、血を流すほどまでに罪と戦い、キリストにある新しい人として歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

나도 너를 정죄하지 아니하노니

2026년 1월 25일 설교 카와에 토모아키 목사

요한복음 7장 53~8장 11절

서론

오늘의 본문은 매우 유명한 이야기이며, 여러분들의 마음을 사로잡는 성경 구절 중 하나라고 생각합니다. 그러나 자세히 보면 7:53의 시작부터 8:11의 끝까지 괄호로 묶여 있음을 알 수 있습니다. 사실 이 괄호로 묶인 부분은, 많은 고대 사본에서는 발견되지 않고, 후대의 사본에만 나타납니다. 아마도 이 이야기는 잘 알려진 구전이었지만, 사본으로는 전해지지 않았고, 5세기경 서방 교회의 사본에 삽입되기 시작하여 오랜 세월이 지난 후 12세기경 동방 교회에도 전해졌다고 생각됩니다. 또한 삽입 위치에 대해서도 반드시 이 자리가 아니라, 누가복음에 삽입된 사본도 있습니다. 결국 요한복음의 이 위치에 정착된 이유는 7~8장이 일관되게「심판」이라는 주제로 쓰여졌기 때문입니다. 예를 들어 한 페이지 앞인 7:24에서는 「외모로 판단하지 말고 공의롭게 판단하라」고 예수님께서 말씀하셨습니다. 또한 8:15~16에서는 「너희는 육체를 따라 판단하나 나는 아무도 판단하지 아니하노라 만일 내가 판단하여도 내 판단이 참되니 이는 내가 혼자 있는 것이 아니요 나를 보내신 이가 나와 함께 계심이라」라고 말씀하셨습니다. 이 예수님 자신의 심판에 관한 가르침이, 오늘 본문에서 실천되고 있다고 읽을 수 있습니다. 오늘도 요한복음에서 함께 말씀의 은혜를 나누고자 합니다.

(1) 악한 동기로 고발하는 자들

8:1에 예수님께서 감람 산에 가셨다고 기록되어 있습니다. 무슨 일로 가셨을까요? 예수님께서는 이른 아침에 산에서 기도하시는 것이 습관이셨습니다. 이때도 기도를 위해 감람 산에 가신 것으로 생각됩니다. 그 후 성전으로 들어가시자, 백성들이 예수님께로 다 나아왔으므로 예수님께서는 앉아서 가르치기 시작하셨습니다. 당시 랍비들은 모두 이와 같은 방식으로 사람들의 가운데에 앉아 성경을 가르치고 있었습니다. 그런 와중에 서기관들과 바리새인들이 급히 다가왔습니다. 3~6절 중간까지 살펴보십시오.

3 서기관들과 바리새인들이 음행중에 잡힌 여자를 끌고 와서 가운데 세우고

4 예수께 말하되 선생이여 이 여자가 간음하다가 현장에서 잡혔나이다

5 모세는 율법에 이러한 여자를 돌로 치라 명하였거니와 선생은 어떻게 말하겠나이까

6 그들이 이렇게 말함은 고발할 조건을 얻고자 하여 예수를 시험함이러라 예수께서 몸을 굽히사 손가락으로 땅에 쓰시니

음행이란 간음죄를 말합니다. 쉽게 말해 바람을 피우는 행위와 바람 상대가 되는 것을 의미합니다. 이는 십계명의 일곱째 계명을 위반하는 것입니다. 교회에서는 결혼을 매우 중요하게 생각합니다. 왜냐하면 부부의 교제야말로 교회의 핵심 부분이며, 그 교제는 예수님과 교회의 교제에도 적용되기 때문입니다. 그래서 우리 개혁교회 결혼식에서 두 사람이 앞으로 부부 일체가 되어 살아갈 때, 하나님과 교회 앞에서 서약을 합니다. 결혼이라는 계약 관계가 이토록 중요하기 때문에, 그 계약 관계를 위협하는 간음의 죄 역시 당연히 매우 중대한 죄가 됩니다. 이때 고발당한 여자는 아마도 공포와 수치심에 사로잡혀 심하게 떨고 있었을 것입니다. 그런데 8:3절의 기록은 어딘가 부자연스럽습니다. 간음의 죄를 범한 것이 사실이라면 상대 남자도 잡혀야 마땅한데, 남자는 없습니다. 남자만은 놓아준 것일까요? 율법에서는 간음의 당사자 양쪽을 죽음으로 정하고 있으므로, 남자 없이 여자만 데려왔다는 점에서 이미 이 고발자들은 율법을 경시하고 있다고 말할 수 있습니다. 음행의 죄에 대해서는 신명기 22:22에 기록되어 있으니, 혹시 모르니 한번 살펴보도록 하겠습니다.

신명기 22장

22 어떤 남자가 유부녀와 동침한 것이 드러나거든 그 동침한 남자와 그 여자를 둘 다 죽여 이스라엘 중에 악을 제할지니라

서기관들과 바리새인들은 예수님께「선생은 어떻게 말하겠나이까」라고 질문하고 있습니다. 모세의 율법에 대한「해석」에 대해 묻고 있다는 뜻입니다. 당시에는 남성 우위의 사회였으며, 여성에게 인권 같은 것은 없었기에, 율법 해석에도 그러한 남성 우위의 문화적 배경이 반영되어 있었습니다. 예를 들어 한 가지 사례를 들자면, 이혼이라는 것이 율법 안에서 허용되고 있습니다. 이혼을 할 때 이혼 증서를 내어 성립되는데, 어떤 경우에 이혼 증서를 낼 수 있는지에 대해 랍비 아키바의 해석은, 「지금의 아내보다 더 좋은 여자가 생기면, 그것만으로 이혼 증서를 내어 이혼할 수 있다」고 주장하고 있습니다. 이번 고발에서도 여성의 인권을 무시하고, 단지 「고발할 조건을 얻기 우하여 예수를 시험하기위해」이 여자가 이용되고 있습니다. 예수님을 함정에 빠뜨리기 위해, 이 여자의 죄가 안성맞춤의 도구로 이용되고 있는 것입니다. 얼마나 비열한 고발자들입니까. 따라서 예수님께서 어떻게 대답하든 고소할 구실을 얻을 수 있게 되어 있었습니다. 만약 예수님께서 「여자를 죽여서는 안 된다.」고 말씀하셨다면, 이 사람들은 모세의 율법을 어긴 자라고 고소할 수 있었을 것입니다. 혹은 만약 「여자를 돌로 쳐 죽이라.」고 말씀하셨다면 어땠을까요? 지금까지 예수님은 죄인들과 함께 식사하시며 가난한 자들과 세리들에게 하나님의 나라가 임했음을 선포하셨습니다. 사람들로부터 강한 지지를 받고 계셨습니다. 만약 「여자를 돌로 쳐 죽이라」고 말씀하셨다면, 확실히 애국심이 있고 율법의 근본주의자로 사람들의 눈에 비쳤겠지만, 무엇보다도 그에게는 「자비심이 없다」, 「인정이 없다」는 소문이 퍼져, 곧바로 예수님을 믿으려 하던 사람들에게 제동을 걸게 되었을 것입니다. 더 나아가 말하자면, 로마 제국은 당시 유대인에게 사형 집행권을 부여하지 않았기 때문에(18:31), 로마에 대한 반역죄로 고소될 가능성도 있었던 것입니다.

(2) 나도 너를 정죄하지 아니하노니

자, 예수님께서는 그들의 악한 동기를 즉시 간파하셨습니다. 그리고 그들에게 즉각 대답하지 않으시고, 몸을 굽혀 땅에 손가락으로 무언가를 쓰기 시작하셨습니다. 이때 예수님께서 땅에 무엇을 쓰셨는지, 지금까지 많은 주석가들에 의해 추측이 이루어져 왔습니다. 저도 매우 흥미롭습니다. 근본적으로 성경 말씀은 모두 제자들이 예수님께 들은 내용을 후에 그들의 손으로 문서로 보존한 것이며, 물론 그 과정에서 성령의 영감 안에서 성경이 성립해 갔습니다. 어쨌든 예수님께서 직접 남기신 글, 예수님 친필의 말씀은 이 세상에 존재하지 않습니다. 따라서 이때 예수님께서 무엇을 쓰셨는지 매우 궁금증을 자아냅니다. 예수님께서 무엇을 쓰셨는지, 그 한 예로 세 가지 해석을 소개해 드리겠습니다. 아우구스티누스는「손가락으로 쓰기 시작하셨다」는 말에 주목하여, 하나님이 직접 손가락으로 쓰신 것이라면, 시내 산에서 그 두 돌판에 쓰신 십계명이라고 합니다. 그러므로 이때도 하나님의 율법을 쓰신 것이 아니겠느냐고 추측합니다. 칼뱅은, 이는 단순히 시간을 벌기 위해 쓰고 있을 뿐이며, 장난으로 글씨를 쓰듯이 단지 알파벳을 쓰고 있는 것이 아닐까, 라고 추측합니다. 혹은, 다른 주석가는, 여자를 고발하는 자들의 죄를 하나하나 항목별로 열거하고 있는 것이 아닐까. 그 땅에 쓰인 글자를 보고, 사람들은 깜짝 놀랐을 것이다, 라고 추측합니다. 과연 예수님께서 땅에 무엇을 쓰셨는지는 우리로서는 알 수 없지만, 예수님의 다음 말씀으로 상황이 바뀌었습니다. 7~9절을 보십시오.

7 그들이 묻기를 마지 아니하는지라 이에 일어나 이르시되 너희 중에 죄 없는 자가 먼저 돌로 치라 하시고

8 다시 몸을 굽혀 손가락으로 땅에 쓰시니

9 그들이 이 말씀을 듣고 양심에 가책을 느껴 어른으로 시작하여 젊은이까지 하나씩 하나씩 나가고 오직 예수와 그 가운데 섰는 여자만 남았더라

「너희 중에 죄 없는 자가 먼저 돌로 치라」 이것은 무슨 뜻일까요? 무엇보다 먼저 말씀드릴 수 있는 것은 예수님께서 결코 율법을 어기신 적이 없다는 점입니다. 간음한 여자를 돌로 치는 것을 예수님도 인정하셨습니다. 그러나 예수님 안에는 죄는 미워해야 하지만, 죄인들은 그리스도 안에서 받아들여져야 한다는 생각이 있었습니다. 「너희 중에 죄 없는 자가 먼저 돌로 치라」라는 말씀 속에 「죄는 미워하되 죄인은 미워하지 말라」는 투박한 진리가 깊이 새겨져 있습니다. 요한복음 3:17에도 예수님께서 이 세상에 보내심을 받은 목적에 대해 구체적으로 기록되어 있습니다. 보십시오.

요한복음 3장

17 하나님이 그 아들을 세상에 보내신 것은 세상을 심판하려 하심이 아니요 그로 말미암아 세상이 구원을 받게 하려 하심이라

예수님께서 세상에 보내심을 받은 목적은 세상을 심판하기 위함이 아니라 죄인들을 자기에게로 부르시기 위함이었습니다. 이는 그분 자신이 십자가에 달리심으로써 죄인들이 구원을 얻을 수 있게 하시기 위함입니다. 예수 그리스도께서 죄를 속죄하는 희생의 어린 양이 되어 많은 사람들을 위하여 자신의 피를 흘려 주시기 때문입니다. 둘째로, 고발자들에게 자신의 마음을 돌아보도록 촉구하신 것으로 이해할 수 있습니다. 고발자들의 마음에는 분명히 예수님을 함정에 빠뜨리려는 악한 동기가 있었습니다. 그 악한 동기를 여기서 훌륭히 드러내 보이신 것입니다. 예수님은 고발자들의 위선을 폭로하시고, 상대방이 없는 불공정한 재판이 이루어지지 않도록 미리 막으신 것입니다. 예수님의 말씀을 들으니, 어른으로 시작하여 하나둘씩 그 자리를 떠나갔습니다. 여기서 「어른으로 시작하여」라고 기록된 것은 매우 감회가 깊습니다. 인생 경험이 많은 나이 든 자일수록 자신이 죄를 지은 것을 잘 알고 있었다는 뜻입니다.

마지막으로 예수님과 여자만 남았습니다. 예수님은 여자에게 말을 거십니다. 아마도 그녀를 안심시키고 말할 용기를 갖게 하기 위해서였다고 생각됩니다. 「여자여 너를 고발하던 그들이 어디 있느냐 너를 정죄한 자가 없느냐」라고 예수님이 말씀하시자 여자는 「주여 없나이다」라고 대답했습니다. 여자가 대답한 말의 수는, 아주 적었지만 예수님은 음행 현장에서 붙잡힌 여자에게 「나도 너를 정죄하지 아니하노니 가서 다시는 죄를 범하지 말라」고 말씀하셨습니다. 여자는 무서운 재판에서 해방된 것입니다. 우리가 여자의 입장에 놓여 있었다고 상상하면, 이 일을 쌍수를 들고 기뻐할 수는 없다고 생각합니다. 이렇게 말하는 것은, 예수님께로부터 「가거라. 가서 좋을 대로 살아라. 어떤 죄도 나로 인해 용서되니」라는 말을 들은 것이 아니었기 때문입니다. 그게 아니라 「이제부터는 더 이상 죄를 짓지 말아야 한다」고 여자에게 율법을 주셨습니다. 즉 여기서 일어나는 일이란 그리스도의 복음이 회자되고 심판이 일단 보류되었다는 것입니다. 예수님이 하신 말씀이란 무조건적인 용서의 선고라기보다 초청의 말씀이며, 「너는 앞으로 어떻게 살 것인가?」 라고 질문을 받았다는 것입니다. 신명기 30:2~3의 말씀을 봐주세요.

신명기 30장

2 너와 네 자손이 네 하나님 여호와께로 돌아와 내가 오늘 네게 명령한 것을 온전히 따라 마음을 다하고 뜻을 다하여 여호와의 말씀을 청종하면

3 네 하나님 여호와께서 마음을 돌이키시고 너를 긍휼히 여기사 포로에서 돌아오게 하시되 네 하나님 여호와께서 흩으신 그 모든 백성 중에서 너를 모으시리니

「회개하고 주님께 돌아가는 것을 주저해서는 안 된다. 하나님의 노여움은 갑자기 오는 것이다. 그리고 하나님의 복수 때 당신을 멸망시킬지도 모른다. 지금 당장 회개하고 주님과 함께 하라」고 촉구하고 있는 것입니다. 그래서 여기에는 죄의 심판이 보류된 것을 마냥 기뻐할 수 없는 긴장감이 숨겨져 있는 것입니다.

한편, 만일 여자가 깊은 절망감에 빠져 있을 경우에는 그리스도라는 피난처가 제공되고 있다고 해석할 수도 있을 것입니다. 이사야 1:18을 보세요.

이사야 1장

18 여호와께서 말씀하시되 오라 우리가 서로 변론하자 너희의 죄가 주홍 같을지라도 눈과 같이 희어질 것이요 진홍 같이 붉을지라도 양털 같이 희게 되리라

예수님에 의한 해방으로 과도한 희망을 찾는 자에게는 경고가 주어지지만, 과도한 절망에 빠져 있는 자에게는 피난처가 되는, 초청의 말씀으로 제공되고 있다고 생각합니다. 아무리 돌이킬 수 없는 죄를 지었더라도, 아무리 큰 죄에 시달려, 짓눌릴 것 같아도 예수 그리스도의 십자가에 의해 속죄할 수 없는 죄는 없다고 말씀해 주시는 것입니다. 어찌 되었든, 주님께서는 오늘 우리가 회개하고 목을 돌려, 예수님을 구원자로 믿고 말씀에 따라 걸어가라고 말씀하시는 것입니다.

결론

오늘의 내용을 정리하겠습니다. 예수님은 간음의 죄를 지은 여자를, 죄로 정죄하지 않으시고, 돌로 쳐서 죽어야 하는 형벌에서 여자를 해방시켜 주셨습니다. 오늘날 우리에 대해서도 마찬가지로 죄로 정죄하시지 않고 용서하여 주시고,「이제부터는 다시는 죄를 범하지 말라」고 말씀해 주시고 계십니다. 우리는 본래 스스로의 죄 때문에 망해야 할 존재이자 저주받은 자들이었습니다. 하나님의 율법에 비춰보면 그것을 잘 알 수 있습니다. 그러나 무서운 심판이 연기되고 초청의 말씀이 주어지고 있는 것입니다. 그렇다면 우리는 오늘 회개하여, 예수님을 구원자로 믿고 말씀을 따르는 자가 되도록 합시다. 주님의 날이 언제 올지 모릅니다. 물론 우리는 옛 본성을 지니고 있는, 용서받은 죄인이기 때문에 앞으로 일체 죄를 짓지 않고 사는 것은 불가능하지만, 성령께 의지하여 사탄의 유혹을 물리치고 피를 흘릴 정도까지 죄와 싸우고 그리스도와 연합된 새사람으로 걸어가도록 합시다.

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