2019年08月25日「エリの家への呪い 엘리의 집에 내려진 저주」

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エリの家への呪い 엘리의 집에 내려진 저주

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 2章27節~36節

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聖句のアイコン聖書の言葉

27神の人がエリのもとに来て告げた。「主はこう言われる。あなたの先祖がエジプトでファラオの家に服従していたとき、わたしは自らをあなたの先祖に明らかに示し、
28わたしのためにイスラエルの全部族の中からあなたの先祖を選んで祭司とし、わたしの祭壇に上って香をたかせ、エフォドを着せてわたしの前に立たせた。また、わたしはあなたの先祖の家に、イスラエルの子らが燃やして主にささげる物をすべて与えた。
29あなたはなぜ、わたしが命じたいけにえと献げ物をわたしの住む所でないがしろにするのか。なぜ、自分の息子をわたしよりも大事にして、わたしの民イスラエルが供えるすべての献げ物の中から最上のものを取って、自分たちの私腹を肥やすのか。
30それゆえ、イスラエルの神、主は言われる。わたしは確かに、あなたの家とあなたの先祖の家はとこしえにわたしの前に歩む、と約束した。主は言われる。だが、今は決してそうはさせない。わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。
31あなたの家に長命の者がいなくなるように、わたしがあなたの腕とあなたの先祖の家の腕を切り落とす日が来る。
32あなたは、わたしの住む所がイスラエルに与える幸いをすべて敵視するようになる。あなたの家には永久に長命の者はいなくなる。
33わたしは、あなたの家の一人だけは、わたしの祭壇から断ち切らないでおく。それはあなたの目をくらまし、命を尽きさせるためだ。あなたの家の男子がどれほど多くとも皆、壮年のうちに死ぬ。
34あなたの二人の息子ホフニとピネハスの身に起こることが、あなたにとってそのしるしとなる。二人は同じ日に死ぬ。
35わたしはわたしの心、わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立て、彼の家を確かなものとしよう。彼は生涯、わたしが油を注いだ者の前を歩む。
36あなたの家の生き残った者は皆、彼のもとに来て身をかがめ、銀一枚、パン一切れを乞い、『一切れのパンでも食べられるように、祭司の仕事の一つに就かせてください』と言うであろう。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 2章27節~36節

原稿のアイコン日本語メッセージ

本日の箇所は、祭司であるエリの家系の更迭について書かれています。背景としては、神様が、イスラエルにおいて、今まさにイスラエルの初めての中央聖所であったシロの時代が幕を閉じようとし、そしてダビデ王朝による神政政治が準備されようとしている中にあって、荒廃と混沌と暗闇がさらに深くなっていく様子を見せています。なぜエリの家が更迭されることになってしまったのかと言うと、エリの息子たちの犯した罪に起因しています。ホフニとピネハスは、ならず者であり、イスラエルの民によって神に捧げられた生贄と献げ物を、祭司の職分を乱用して自分たちのほしいままに掠め取りました。また、宮の入り口で仕える女たちと性的な関係を持ち、さらに本来の神が受けるべき取り分である生贄の脂肪を、自分たちの取り分としてしまいました。祭司の取り分は本来、胸と、ももであったり、肩と頬と胃の部分であると規定されていました。そして、脂肪は、神さまの取り分ですから焼き尽くし御前に香として焚かなければなりませんでした。2:25には、“人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう”とあり、特に、息子たちが祭儀規定を無視した態度に焦点が当てられています。祭司が祭儀規定を破ることが、なぜ大きな問題となるのでしょうか。祭司とは、神と民の間に立ち、仲保者として奉仕する大切な役割を担っています。祭儀規定とは、神と人が和解するための手段であり、神と交わることができる唯一の道でした。しかし、肝心の神の祭司であるエリの息子たちは、2:11を見ると、「主、ヤハウェを知ろうとしなかった」と書いてあります。彼らは罪の赦される儀式、それ自体を軽んじました。旧約の祭りの儀式とは、すべてイエスキリストを象徴しています。唯一、その方を通してのみ、神と和解することが許され、その方を通してのみ、神の御前に進み出ることができますし、その方を通してのみ、祝福と命の恩恵を得ることができるのです。祭儀を軽んじるとは、イエスキリストの働きを軽んじることなのです。

祭司エリは、息子たちに彼らの罪を叱責しますが、一向に聞き入れませんでした。結局、神の人がエリの所に来て、審判を宣言し、エリの家の呪いを宣言します。27~29節を御覧ください。

“神の人がエリのもとに来て告げた。「主はこう言われる。あなたの先祖がエジプトでファラオの家に服従していたとき、わたしは自らをあなたの先祖に明らかに示し、わたしのためにイスラエルの全部族の中からあなたの先祖を選んで祭司とし、わたしの祭壇に上って香をたかせ、エフォドを着せてわたしの前に立たせた。また、わたしはあなたの先祖の家に、イスラエルの子らが燃やして主にささげる物をすべて与えた。あなたはなぜ、わたしが命じたいけにえと献げ物をわたしの住む所でないがしろにするのか。なぜ、自分の息子をわたしよりも大事にして、わたしの民イスラエルが供えるすべての献げ物の中から最上のものを取って、自分たちの私腹を肥やすのか。”

ここでは、突然、無名の「神の人」が出て来ます。聖書の中に「神の人」という言葉は、モーセに使われたり、エリヤに使われたりしました。例えば、申命記33:1です。そのままお聞きください。

“これは神の人モーセが生涯を終えるに先立って、イスラエルの人々に与えた祝福の言葉である。”

或いは、列王上17:18です。そのままお聞きください。

“彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」”

その他にもエリシャ(列王下4:7)、ダビデ(歴代下8:14)、シェマヤ(列王上12:22)、ハナン(エレ35:4)、テモテ(1テモ6:11)に使われました。これは、預言者や説教者を表したり、或いは、恐らく27節のここもそうですが、天使を表していると考えられます。士師記6:8には一人の「預言者」が出て来ますが、この時を最後にして、エリの時代まで、もう、預言者は出ていません。エリの時代がどれほど霊的に暗黒であったのかが伺えるのであります。また、エリ自身も相当、霊的に盲目になっていました。ハンナの祈りをならず者の祈りと見做してしまったり、自分の子たちこそ、ならず者だったのに、イスラエルの民から噂を聞くまでは、気づかなかったというのです。ですから、エリに対して二回に渡り、神の審判が告げられることになりますが、祭司エリは神の審判の言葉を、一回目は、天使を通して、そして二回目は、来週見ることになりますが、3章において自分が世話をしてやっているサムエルを通して聞くことになるのです。それでは、エリの家に下る呪いの具体的な内容について見ていきましょう。三つあります。第一に、31節~32節にあるように、多くの家族が剣で殺されること、第二に、33節にあるように、幸いにしてそれを免れた者も、失業や、災いのために早死にすること、第三に、35~36節にあるように、エリの家系とは別個に忠実な祭司が起こされて、エリの家の特権が奪われるということです。そして、これらの呪いが間違いなく成就するために、二人の息子、ホフニとピネハスが同じ日に死ぬということが、しるしとして与えられるということです。

第一の呪いは、ダビデの時代に、実際に起こりました。サウルが、ノブの家の祭司たち85人を大虐殺した事件です。ノブの家の祭司がダビデを匿ったという廉です。ノブの家の祭司たちは全員エリの子孫であり、さらに遡って、アロンの子イタマルの子孫たちでした。因みにアロンの子は四人いましたが、ナダブとアビフは祭儀規定を破り祭壇の炎が彼らを飲み込み死んでしまいました。従って、残ったエルアザルとイタマルの二人が祭司の家系となります。

第二の呪いは、ノブの大虐殺の際に一人だけ、辛うじて生き延びた者がいました。アビアタルです。アビアタルはダビデの下で祭司として活躍しますが、ダビデ王の後継者としてアドニヤを推薦したために、ソロモン王から祭司の職を罷免されました。命だけは助けてもらい、田舎に帰されました。列王記上2:26~27をご覧ください。

“王はまた祭司アビアタルにこう言った。「アナトトの自分の耕地に帰るがよい。お前は死に値する者だが、今日、わたしはお前に手を下すのを控える。お前はわたしの父ダビデの前で主なる神の箱を担いだこともあり、いつも父と辛苦を共にしてくれたからだ。」ソロモンはアビアタルが主の祭司であることをやめさせた。こうして主がシロでエリの家についてお告げになったことが実現した。”

第三の呪いは、ダビデ王に仕え、ソロモン王に任職の油を注いだ祭司ツァドクがアロンの子エルアザルの子孫の祭司として、特権を得ることになりました。このようにして大祭司になることができるツァドクの家とツァドクに仕える祭司の間に、身分の格差が生じたのです。ツァドクの子孫は、イエス様の時代のサドカイ派であり大祭司を輩出する派閥です。イタマルの子孫はツァドクの下役にしかなることができず、エリの家の報いとして、貧困を刈り取ることになったのです。

以上、挙げて来ました三つの呪いが成就されるしるしとして、罪の張本人であるエリの息子たちが同じ日に死ぬということです。このことは、間もなくイスラエルとペリシテ人との間に戦争が起こり、イスラエルは完全に打ち負かされ、契約の箱も奪われてしまいますが、その日、エリの二人の息子、ホフニとピネハスも死んで成就しました。このような悲惨な呪いをもたらしたのは、祭司エリが主ヤハウェを侮り、軽んじたためでした。エリの息子たちが祭司規定を軽んじ、無視する行為とは、結局、イエスキリストの罪の赦しの力をないがしろにし、神の取り分を、自分の取り分としてかすめ取る罪を犯したことになるのです。そしてエリについて言えば、息子たちの悪事を放任することによって、祭司として神に栄光を帰すことをしないで、むしろ息子たちに栄光を帰すという罪を犯すことです。2章30節を御覧ください。

“それゆえ、イスラエルの神、主は言われる。わたしは確かに、あなたの家とあなたの先祖の家はとこしえにわたしの前に歩む、と約束した。主は言われる。だが、今は決してそうはさせない。わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。”

ここで改革派神学を勉強してきた私たちは疑問を持ってしまいます。神の約束はそんなにコロコロと変わるものなのでしょうか。そして私たちの救いは、私たちの行いによって左右される条件的なものなのでしょうかという疑問です。そのことを理解するためには、次のことを理解しなければなりません。つまり救いは、常に神の側から一方的な恵みとして与えられますが、救いの獲得と救いの適用は区別さるということです。たとえ、御父と御子と聖霊が本質的に一つであっても、父と子と聖霊の位格は異なるからです。①永遠における救いの予定とご計画は御父と関係があり、②救いの獲得は御子と関係があり、③救いの適用は聖霊と関係があります。これを例えで言うなら、所有権と所有の関係と似たような関係があります。所有権とは、子供が相続で受け取ることになる財産のことを言います。所有権は、まだ子供が母親のおなかから出てきていない状態でも、自分は父の全ての財産に対して権利を持っていますが、実際それを所有するのは、はるか後のことになります。同じように神に選ばれた人は、信じる前からキリストの中にあってキリストが獲得された全ての有益に対してつまり、有効召命、再生、罪の赦し、義認、永遠の命、神の子とされること、聖化、堅忍などに対して所有権を持ちます。しかし、彼が人生を通して、イエスキリストを受け入れて、ただ信仰を通してのみ、キリストが獲得されたその有益を所有することになるのです。

聖霊はこれらの有益を獲得することはありませんでした。聖霊は、決して私たちの救いの功績を立てられたお方ではありません。その功績はただ、人となられ、私たちのために低められ、私たちのために高められたキリストだけに帰されるのです。しかし、五旬節に臨んだ聖霊は全てのものをキリストから受け取ります。御子が御父に栄光を帰すために来られたように、聖霊は御子に栄光を帰すために臨みました。聖霊は教会に臨在し、御子を証しし、ご自身の充満から恵みの上に恵みを分かち合い、人々を御子に導き、そして御子を通して御父に導くのです。このように聖霊の働きは、「救いの適用」の働きとなります。

したがって、私たちから出る質問は「救いを得るために人は何をすべきでしょうか?」という質問ではなく、「教会がキリストの獲得された完全な救いを得るために、神は恵みの中で何をなされるのでしょうか?」という質問にならなければいけません。救いの獲得は御子によって全て成し遂げられ人間の功は少しも入ることがなかったように、救いの適用も人間から出るのではなく、神から出るのです。

しかし、救済の適用が神から出ると言いましても、それは聖霊の働きであって、決して人間に対して強硬的に圧力をかけて、人間をロボットのように、或いは木偶の棒のように扱い、支配することではありません。聖霊は、常に、私たちの人格を認め、愛らしく、優しく、柔らかく、理性的存在として扱ってくださり、説得し、悟らせ、引き寄せて、意思を曲げて、恵みによって罪の権勢に対抗し、人間の暗闇に光を照らされます。フィリピ2:12~13をご覧ください。

“だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。”

聖霊が私たちの内に働きかけてくださり、私たちに臨んでくださり、私たちに、願いと、信仰と、神に対する敬虔と恐れとを起こし、そして悔い改めに導いて下さるのです。だからこそ、私たちの口からガラテヤ書2:20の告白が出るのです。

“生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。”

ですから、神の一方的な救いの適用によって、人間の権利が無視されるのではなく、恵みは、常に罪と対照に置かれるということです。聖霊による救いの適用によって、私たちは罪に対し放縦になり、貪欲が助長されるのではなく、かえって恵みによって罪の権勢を打ち破り、恵みによって悔い改めと信仰と従順に導かれるのです。もし私たちが神の恵みを無視し、かえって人間の行いや理性を尊重し、人間の権利を高く掲げ、そこに救いの根拠を置いて、神の働きを足で踏みにじるなら、サムエル記上2:30の御言葉が適用されるのです。

“それゆえ、イスラエルの神、主は言われる。わたしは確かに、あなたの家とあなたの先祖の家はとこしえにわたしの前に歩む、と約束した。主は言われる。だが、今は決してそうはさせない。わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる。”

ですから、改革派神学の救いとは、神様100%ではありますが、これは、聖霊が人間を機械のように支配することではなく、そのままの人間の個性を用いられる訳ですから、神様100%と同時に人間100%になるのです。100%神の恵みであり、100%神の救いの適用ですが、そこには私たちに愛をもって人格的に扱い、人間の個性をそのままお用いになられる聖霊の働きがあるのです。ですから、神さまから出発する時に初めて人間が人間らしく理性的で道徳的被造物として正当に扱われることができますが、エリの家のように、人間から出発し、人間の権力と自由を先に追求する者は、常に神の力と恵みを制限してしまい、呪いを自分自身に招いてしまうのです。お祈りしましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

엘리의 집에 내려진 저주

2019년 8월 25일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

사무엘상 2장 27~36절

오늘의 본문은 제사장인 엘리의 가계의 경질에 대해 쓰여져 있습니다. 배경으로는 하나님께서 이스라엘에 있어서 지금이 바로 이스라엘의 첫 중앙성소였던 실로의 시대가 막을 내리려고 하고 그리고 다윗 왕조에 의한 신정정치가 준비되려는 가운데 황폐와 혼돈과 어둠이 더욱 깊어가는 모습을 보여주고 있습니다. 왜 엘리의 집이 경질되어 버렸냐면 엘리의 아들들이 저지른 죄에 기인합니다. 홉니와 비느하스는 행실이 나쁘며 이스라엘 백성들이 하나님께 바친 제물과 헌물을 제사장이라는 직분을 남용하여 자신들이 원하는 대로 가로챘습니다. 또한 회막 입구에서 섬기는 여인들과 동침을 하였고 나아가 본래 하나님이 받으셔야 할 몫인 제물의 기름을 자신들의 몫으로 삼았습니다. 제사장의 몫은 원래 앞다리와 두 볼과 위 부분이라고 규정되어 있습니다. 그리고 기름은 하나님의 몫이기 때문에 다 태워서 하나님 앞에서 향으로 피워야 했습니다. 2장 25절에는 「사람이 사람에게 범죄하면 하나님이 심판하시려니와 만일 사람이 여호와께 범죄하면 누가 그를 위해 간구하겠느냐」라며 특히 아들들이 제사 규정을 무시한 태도에 초점이 맞춰져 있습니다. 제사는 하나님과 백성 사이에 서서 중보자로서 봉사하는 중요한 역할을 담당하고 있습니다. 제사 규정이란 하나님과 사람이 화해하기 위한 수단이었고 하나님과 교제할 수 있는 유일한 길이었습니다. 그러나 정작 하나님의 제사장인 엘리의 아들들은 2장 12절에 보면 「여호와를 알지 못하더라」라고 적혀 있습니다. 그들은 죄가 용서되는 의식, 그 자체를 가볍게 여겼습니다. 구약 축제의 절기 의식이란 모두 예수 그리스도를 상징합니다. 유일하게 그분을 통해서만 하나님과 화해할 수 있고 그분을 통해서만 하나님 앞에 나아갈 수 있고 그분을 통해서만 복과 생명의 혜택을 얻을 수 있는 것입니다. 제사를 가볍게 여긴다는 것은 예수 그리스도의 일을 가볍게 여기는 것입니다.

제사장 엘리는 아들들에게 그들의 죄를 질책하지만 전혀 듣지 않습니다. 결국 하나님의 사람이 엘리에게 와서 심판을 선언하고 엘리 집안에 내려진 저주를 선언합니다. 27~29절을 보시기 바랍니다.

27 하나님의 사람이 엘리에게 와서 그에게 이르되 여호와의 말씀에 너희 조상의 집이 애굽에서 바로의 집에 속하였을 때에 내가 그들에게 나타나지 아니하였느냐

28 이스라엘 모든 지파 중에서 내가 그를 택하여 내 제사장으로 삼아 그가 내 제단에 올라 분향하며 내 앞에서 에봇을 입게 하지 아니하였느냐 이스라엘 자손이 드리는 모든 화제를 내가 네 조상의 집에 주지 아니하였느냐

29 너희는 어찌하여 내가 내 처소에서 명령한 내 제물과 예물을 밟으며 네 아들들을 나보다 더 중히 여겨 내 백성 이스라엘이 드리는 가장 좋은 것으로 너희들을 살지게 하느냐

여기서는 갑자기 무명의 「하나님의 사람」이 나옵니다. 성경 가운데 「하나님의 사람」이라고 하는 단어는 모세에게 쓰이기도 하고 엘리야에게 쓰이기도 했습니다. 예를 들면 신명기 33장 1절입니다. 그대로 들으셔도 됩니다.

하나님의 사람 모세가 죽기 전에 이스라엘 자손을 위하여 축복함이 이러하니라

또는 열왕기상 17장 18절입니다. 그대로 들어보세요.

여인이 엘리야에게 이르되 하나님의 사람이여 당신이 나와 더불어 무슨 상관이 있기로 내 죄를 생각나게 하고 또 내 아들을 죽게 하려고 내게 오셨나이까

그 밖에도 엘리사(열왕기하 4장 7절), 다윗(역대하 8장 14절), 스마야(열왕기상 12장 22절), 하난(예레미야 35장 4절), 디모데(디모데전서 6장 11절)도 하나님의 사람으로 불리웠습니다. 이것은 선지자나 설교자를 나타낸다거나 아니면 아마 27절에 이곳도 그렇지만 천사를 나타내는 것으로 생각됩니다. 사사기 6장 8절에는 한 사람의 선지자가 나오는데 이때를 끝으로 엘리의 시대까지 더 이상 선지자는 나오지 않았습니다. 엘리의 시대가 얼마나 영적으로 암흑이었는지 알 수 있는 것입니다. 또 엘리 자신도 상당히 영적으로 장님이 되어 있었습니다. 한나의 기도를 악한 여자의 행위로 간주해 버리거나 자신의 자식들이야말고 행실이 나빴는데도 이스라엘 백성들로부터 소문을 듣기 전까지는 깨닫지 못했다는 것입니다. 그래서 엘리에게 두 번에 걸쳐 하나님의 심판이 전해지게 되는데, 첫 번째는 천사를 통해서 그리고 두 번째는 다음 주에 보게 되는데 3장에서 자신이 훈련시키고 있는 사무엘을 통해서 듣게 되는 거죠. 이제 엘리의 집에 내려지는 저주의 구체적인 내용에 대해 알아보겠습니다. 세 가지가 있습니다. 첫째, 31,32절에 있듯이 많은 가족이 죽임을 당하는 것, 둘째 33절에 있듯이 다행히 그것을 면한 자도 실직이나 재앙 때문에 젊어서 죽는 것, 셋째 35,36절에 있듯이 엘리 집안과는 별개로 충실한 제사장이 일어나 엘리 집안의 특권을 빼앗긴다는 것입니다. 그리고 이 저주들이 틀림없이 성취되기 위해 두 아들 홉니와 비느하스가 같은 날 죽는다는 것이 표징으로 주어진다는 것입니다.

첫 번째 저주는 다윗의 시대에 실제로 일어났습니다. 사울이 놉 땅의 제사장들 85명을 대학살한 사건입니다. 놉의 땅 제사장이 다윗을 숨겼다는 이유입니다. 놉의 제사장들은 모두 엘리의 후손들이었고 더 거슬러 올라가 아론의 아들 이다말의 후손들이었습니다. 덧붙여서 아론의 아들은 네 명이었는데 나답과 아비후는 제사 규정을 어겨서 제단의 불길에 삼켜져 죽고 말았습니다. 따라서 남은 엘르아살과 이다말 두 사람이 제사장의 가계가 됩니다.

두 번째 저주는 놉의 대학살 때 한 사람만 간신히 살아남은 자가 있었습니다. 아비아달(이다말의 후손인 엘리의 후손)입니다. 아비아달은 다윗 밑에서 제사장으로 활약했지만 다윗 왕의 후계자로 아도니아를 추천했기 때문에 솔로몬 왕으로부터 제사장직에서 파면되었습니다. 목숨만은 구하고 고향으로 돌아갔습니다. 열왕기상 2장 26,27절을 참조하십시오.

26 왕이 제사장 아비아달에게 이르되 네 고향 아나돗으로 가라 너는 마땅히 죽을 자이로되 네가 내 아버지 다윗 앞에서 주 여호와의 궤를 메었고 또 내 아버지가 모든 환난을 받을 때에 너도 환난을 받았은즉 내가 오늘 너를 죽이지 아니하노라 하고

27 아비아달을 쫓아내어 여호와의 제사장 직분을 파면하니 여호와께서 실로에서 엘리의 집에 대하여 하신 말씀을 응하게 함이더라

세 번째 저주는 다윗 왕을 섬기고 솔로몬 왕에게 임직의 기름을 부은 제사장 사독이 아론의 세 번째 아들 엘르아살의 후손으로 제사장의 특권을 얻게 되었습니다. 이렇게 해서 대제상이 될 수 있는 사독의 집과 사독을 섬기는 제사장의 사이에 신분의 격차가 생겼습니다. 사독의 후손은 예수님 시대의 사두개파이며 대제사장을 배출하는 파벌입니다. 아론의 네 번째 아들 이다말의 후손은 사독의 말단밖에 되지 못했고 엘리(이다말의 후손)의 집안에 대한 보답으로 가난을 거두게 된 것입니다.

이상 꼽아온 세 가지 저주가 성취되는 표징으로 죄의 장본인 엘리의 아들들이 같은 날 죽는다는 것입니다. 이 일은 곧 이스라엘과 블레셋 사람 사이에 전쟁이 일어나 이스라엘은 완전히 패배하고 언약궤도 빼앗기고 말지만 그날 엘리의 두 아들 홉니와 비느하스가 죽음으로 성취되었습니다. 이런 비참한 저주를 초래한 것은 제사장 엘리가 주 여호와를 멸시하고 경멸했기 때문입니다. 엘리의 아들들이 제사 규정을 얕보고 무시하는 행위란 결국 예수 그리스도의 죄 용서의 힘을 업신여기고 하나님의 몫을 자기 몫으로 차지하는 죄를 지은 것입니다. 그리고 엘리에 대해서 말하자면 아들들의 악행을 방임함으로써 제사장으로서 하나님께 영광을 돌리는 일을 하지 않고 오히려 아들들에게 영광을 돌려주는 죄를 짓는 것입니다. 2장 30절을 참조하시기 바랍니다.

그러므로 이스라엘의 하나님 나 여호와가 말하노라 내가 전에 네 집과 네 조상의 집이 내 앞에 영원히 행하리라 하였으나 이제 나 여호와가 말하노니 결단코 그렇게 하지 아니하리라 나를 존종히 여기는 자를 내가 존중히 여기고 나를 멸시하는 자를 내가 경멸하리라

여기서 개혁파 신학을 공부해 온 우리는 의문을 갖게 됩니다. 하나님의 약속은 그렇게 이랬다 저랬다 바뀌는 것일까요? 그리고 우리의 구원은 우리의 행동에 의해 좌우되는 조건적인 것일까 하는 의문입니다. 그것을 이해하기 위해서는 다음을 일을 이해해야 합니다. 즉 구원이란 항상 하나님 편에서의 일방적인 은혜로 주어지지만 구원의 획득과 구원의 적용은 구별된다는 것입니다. 비록 아버지와 아들과 성령이 본질적으로 하나일지라도 아버지와 아들과 성령의 위격은 다르기 때문입니다. ① 영원한 구원의 예정과 계획은 아버지와 관계가 있고 ② 구원의 획득은 아들과 관계가 있으며, ③ 구원의 적용은 성령과 관계가 있습니다. 이것을 예를 들자면 소유권과 소유의 관계와 비슷한 관계가 있습니다. 소유권이란 자녀가 상속으로 받게 되는 재산을 말합니다. 소유권은 아직 자녀가 어머니의 배에게 나오지 않은 상태에서도 자신은 아버지의 모든 재산에 대해 권리를 가지고 있지만 실제로 그것을 소유하는 것은 훨씬 후의 일입니다. 마찬가지로 하나님께 선택받은 사람은 믿기 전부터 그리스도안에 있어 그리스도가 획득한 모든 유익에 대해서 즉, 유효소명, 거듭남, 죄의 용서, 의인, 영원한 생명, 하나님의 자녀로 여겨지는 것, 성화, 견인 등에 대해 소유권을 가집니다. 그러나 그가 인생을 통해 예수 그리스도를 받아들이고 오직 믿음을 통해서만 그리스도가 획득한 그 유익을 소유하게 되는 것입니다.

성령은 이러한 유익을 획득하시지 못했습니다. 성령은 결코 우리 구원의 공적을 세우신 분이 아닙니다. 그 공적은 오직 사람이 되고 우리를 위해 낮추고 우리를 위해 높이 올려진 그리스도에게만 돌아가는 것입니다. 그러나 오순절에 임한 성령은 모든 것을 그리스도로부터 받습니다. 성자가 성부에게 영광을 돌리기 위해 오신것처럼 성령은 성자에게 영광을 돌리기 위해 임하셨습니다. 성령은 교회에 임재하시고 성자를 증거하시고 자신의 충만함에서 은혜 위에 은혜를 나누고 사람들을 성자에게로 인도하고 성자를 통해 성부에게로 인도하는 것입니다. 이처럼 성령의 사역은 「구원의 적용」의 사역이 됩니다.

따라서 우리에게서 나오는 질문은 “구원을 얻기 위해 사람은 무엇을 해야합니까?”가 아니라 “교회가 그리스도가 획득한 완전한 구원을 얻기 위하여 하나님은 은혜 가운데 무엇을 하실까요?”라는 질문이 되어야 합니다. 구원의 획득은 성자에 의해 완전히 이루어지며 인간의 공은 조금도 들어가지 않았듯이 구원의 적용도 인간에게서 나오는 것이 아니라 하나님에게서 나오는 것입니다.

그러나 구원의 적용이 하나님에게서 나온다고 해도 그것은 성령의 사역이지 결코 인간에 대해서 강경하게 압력을 가해서 인간을 로봇처럼, 혹은 목각인형처럼 취급하고 지배하는 것이 아닙니다. 성령께서는 항상 우리의 인격을 인정하시고, 사랑스럽고, 상냥하고, 부드럽고 이성적 존재로 대해주시고 설득하시고 깨우쳐주시고 곁으로 끌어 당겨 주시고 우리의 인간적인 생각을 굽게하며 은혜로 죄의 권세에 대항해서 인간의 어둠에 빛을 비춰주십니다. 빌립보서 2장 12,13절을 읽어 보시기 바랍니다.

12 그러므로 나의 사랑하는 자들아 너희가 나 있을 때뿐 아니라 더욱 지금 나 없을 땡에도 항상 복종하여 두렵고 떨림으로 너희 구원을 이루라

13 너희 안에서 행하시는 이는 하나님이시니 자기의 기쁘신 뜻을 위하여 너희에게 소원을 두고 행하게 하시나니

성령께서 우리들 안에서 행하시고 우리들에게 임재해 주시고 우리들에게 소원과 믿음과 하나님께 대한 경건과 두려움을 일으키고 그리고 회개로 인도해 주시는 것입니다. 그렇기 때문에 우리 입에서 갈라디아서 2장 20절의 고백이 나오는 것입니다.

내가 그리스도와 함께 십자가에 못 박혔나니 그런즉 이제는 내가 사는 것이 아니요 오직 내 안에 그리스도께서 사시는 것이라 이제 내가 육체 가운데 사는 것은 나를 사랑하사 나를 위하여 자기 자신을 버리신 하나님의 아들을 믿는 믿음 안에서 사는 것이라

그러므로 하나님의 일방적인 구원의 적용에 의해서 인간의 권리가 무시되는 것이 아니라 은혜는 항상 죄와 대조된다는 것입니다. 성령에 의한 구원의 적용으로 우리는 죄에 대해 방종되어 탐욕이 조장되는 것이 아니라 오히려 은혜에 의해 죄의 권세를 무찌르고 은혜에 의해 회개와 믿음과 순종으로 인도되는 것입니다. 만약 우리들이 하나님의 은혜를 무시하고 오히려 인간의 행함과 이성을 존중하고 인간의 권리를 높이 내세우며 거기에 구원의 근거를 두고 하나님의 역사를 발로 짓밟는다면 사무엘상 2장 30절 말씀이 적용되는 것입니다.

그러므로 이스라엘의 하나님 나 여호와가 말하노라 내가 전에 네 집과 네 조상의 집이 내 앞에 영원히 행하리라 하였으나 이제 나 여호와가 말하노니 결단코 그렇게 하지 아니하리라 나를 존종히 여기는 자를 내가 존중히 여기고 나를 멸시하는 자를 내가 경멸하리라

그래서 개혁파 신학의 구원이란 하나님 편의 100%이긴 하지만 이는 성령이 인간을 기계처럼 조종하는 것이 아니라 그대로 인간의 개성을 사용하시는 것이기 때문에 하나님 편의 100%와 인간의 편의 100%가 되는 것입니다. 100% 하나님의 은혜요, 100% 하나님의 구원의 적용인데, 거기에는 우리를 사랑으로, 인격적으로 다루며 인간의 개성을 그대로 사용하시는 성령의 작용이 있는 것입니다. 그러므로 하나님으로부터 출발할 때 처음으로 인간이 인간답게 이성적이며 도덕적 피조물로서 정당하게 대우받을 수 있지만 엘리의 집처럼 인간에게서 출발하여 인간의 권력과 자유를 먼저 추구하는 자는 항상 하나님의 힘과 은혜를 제한해 버리고 저주를 자기 자신에게 초래하게 됩니다. 기도하겠습니다.

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