2022年12月25日「大きな喜びの知らせ 큰 기쁨의 좋은 소식」

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大きな喜びの知らせ 큰 기쁨의 좋은 소식

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ルカによる福音書 2章8節~21節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2:13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
2:15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
2:16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2:17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2:18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2:19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2:20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2:21八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 2章8節~21節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 クリスマスおめでとうございます。本日はようこそせんげん台教会のクリスマス礼拝に来て下さいました。本日の箇所は、教会学校の聖誕劇で引用される有名な箇所でございます。主イエス・キリストがベツレヘムでお生まれになった晩、その地方で野宿をしながら羊の番をしていた羊飼いたちは、天使たちに遭遇し、救い主の誕生を告げられました。羊飼いたちは天使の告げた通り、飼い葉桶に寝かされているイエス様を発見し、讃美をしながら帰っていくという場面です。福音書の中でイエス様のご降誕について記述されているのは、マタイによる福音書とルカによる福音書でありますが、ルカによる福音書では、マリアの出産に際し、宿屋に場所がなかったため、家畜小屋の飼い葉桶にイエス様が寝かされたということが書かれています。イスラエルの救い主であり、私たちの救い主イエス様は、なぜ、飼い葉桶に寝かせられなければならなかったのでしょうか。私なんかは、そのような恥ずかしいことをわざわざ書かなくてもいいのに、と考えてしまいますが、ルカによる福音書では、ことさら弱い姿で、そして低い状態で、イエス様が来られたということが強調されています。これは一体どういう意味でしょうか。この弱さ、低さは、決して「福音というものが、それだけ安っぽいものだ」ということではありません。本日は、弱く、低い姿でこの世に来られたイエス様に想いを寄せて、御言葉の恵みに与りたいと思います。

【1】. 天使のお告げ

 2:1を見ますと、ローマ皇帝アウグストゥスによって、住民登録をせよとの勅令が出ています。アウグストゥスとは誰かと言いますと、オクタヴィアヌスのことで、ジュリアス・シーザーの甥であり、初代ローマ皇帝でございます。因みにジュリアス・シーザーも甥のアウグストゥスもカレンダーの暦の名前になっていまして、7月Julyがジュリアス・シーザーです。8月Augustがアウグストゥスです。アウグストゥスは、力によって全ての反対勢力を平定し、「パクスローマ」と言われる、ローマの平和を打ち立てました。この住民登録のため、ナザレに住んでいたヨセフとマリアも、130km以上離れた、彼らの故郷であるユダヤのベツレヘムまで、はるばる戻って来たのですが、ベツレヘムへ着くや否や、マリアは月が満ち、赤ちゃんを出産したのであります。イエス様がお生まれになったベツレヘムは、実は、ダビデが生まれた町でもありました。そのために、この町はダビデの町と呼ばれたりいたします。また、ベツレヘムは、ヘブライ語で「パンの家」という意味です。レヘムがパンで、ベット(バイトゥ)が家ですから、パンの家となります。しばしば、私たちの信仰生活において、イエス様は、私たちのパンであると言われます。これは御言葉であるイエス様を、私たちは日々、むしゃむしゃと咀嚼しながら、十分に味わいながら聖書を読み、黙想しつつ、御言葉を食べているからです。御言葉は、私たちの魂の糧であります。その糧であり、パンであられるイエス様が、「パンの家」でお生まれになったのです。

イエス様がお生まれになったちょうど同じ時間に、野宿をしている羊飼いたちに、主の天使が近づき、主の栄光があたりをあまねく照らしました。羊飼いたちが野宿していた真っ暗闇の中、まぶしすぎる神の栄光の光によって照らされたのです。羊飼いたちは非常に恐れました。すると天使が10節以下にありますように、

「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

と、このように語るのであります。すると、たちまち多くの天の軍勢が現れて大合唱をしました。所謂、グロリア・イン・エクセルシス・デオの讃美です。讃美歌106番ですね。迫力満点の大合唱であったに違いありません。天使のお告げはイスラエルの先祖たちに約束として与えられていたダビデ契約に関する数々の預言が、ついに実現されるということを、言っているように聞こえてきます。それと同時に、これは大変興味深いことですが、この天使の言葉とは、当時、世界で最高権力者であったアウグストゥスを意識した言葉であるようにも聞こえてきます。そもそもルカによる福音書は、ユダヤ人ではなく異邦人に向けて書かれているのですが、例えば「おおきな喜びを告げる」という言葉があります。ここで動詞は、「良き知らせを告げる」という、エウアンゲリゾーという言葉が使われています。エウアンゲリゾーという言葉は、普通、王様が生まれた時に「良き知らせを告げる」、電報だー!という意味で使われる動詞です。当時の人々がルカ福音書を読んだ時、恐らくエウアンゲリゾーという言葉から、皇帝が生まれたということをイメージしたことでしょう。また、「救い主」という言葉もそうです。当時「救い主」とは、パクスローマをもたらした皇帝アウグストゥスに対し通常、用いられていたフレーズです。皇帝アウグストゥスこそ、自分たちの救い主として人々は考えていました。そのことを真向から否定するかのように、天使のお告げは、絶対権力者ローマ皇帝にとって、決して聞捨てならない宣言でありました。クーデターでも起こすような、そのような宣言です。この、大それた宣言は、果たして嘘やハッタリではなく、本当の宣言だったのでしょうか。そして、この、大それた宣言が、一体なぜ羊飼いたちに告げ知らされたというのでしょうか。

【2】. 弱く、低く来てくださったイエス様

 実際に人々がアウグストゥスの統治によって熱望した幸いを、真の意味で提供してくださるお方は、イエス・キリストであると聖書には書かれています。なぜなら、キリストは誰も解決することのできない罪と死の問題を、解決して下さるからです。そのことは平和を一つ考えてみても、理解することが出来るでしょう。アウグストゥスによってもたらされた平和とは、武力によってもたらされた表面的な平和に過ぎません。真の平和ではなく、見せかけの平和です。しかし人間の内側には依然として、争い、党派心、妬み、高ぶり、あるいは自分を正しいとする自己義認などがありまして、人間が罪びとである以上、戦争の種は常に人々の心の中にくすぶっているのです。救いについても同じことが言えるでしょう。アウグストゥスがしてくれたことは、ローマを繁栄させ、経済的豊かさをもたらしたということでした。しかし、いくらそのような経済的豊かさを手に入れたとしても、その豊かさは表面的なものに過ぎず、どんなに金持ちになったとしても、神の御前に罪深く、惨めな自分を返上することはできないわけです。神の御前に正しい人間としての尊厳は、回復されないまま、依然として惨めで憐れな自分がそこにいるのです。一方、イエス・キリストがもたらしてくださった平和とは何でしょうか。それは、神との和解であります。神と和解され、神の民、神の家族にされるということです。イエス様がもたらしてくださった救いとは何でしょうか。それは、罪の赦しであります。そもそも、アダムとエバが罪を犯したことによって、罪が人間の心に中に入り込み、それによって神と人間との間の平和が失われてしまいました。ひいては神の被造物と人間との間の平和も失われました。種を蒔けば豊かに刈り取ることができた世界が、イバラとアザミの生えるところとなり、また様々な自然災害が起こり、人間に襲い掛かるようになりました。私たちの心に罪が入り込んだために、私たちの生活のあらゆるところに争いがあり、混乱があり、不協和音があり、悲惨があるのです。この問題の只中に、つまり罪の源泉である私たちの心の中に、イエス・キリストが来てくださり、罪の赦しと神との平和を打ち立てて下さったのです。この恵みは、口で、どんなに説明しても決して理解されるようなものではありません。信じて受け入れる時に、その恵みがどれほど大きく、どれほど豊かなものであるのか、日々少しずつでありますけれども、理解することができるのです。日々、新しい観点からイエス様を知ることによって、神様から与えられた恵みを悟るようになるのです。

そうであるなら、主メシアの誕生の福音が、このように貴重であり、宝のような福音が、なぜ、王室のファンファーレの中で華やかに宣言されるのではなく、誰からも顧みられないで、ひっそり、飼い葉桶の中にお生まれになり、事もあろうに、そのことが、卑しい羊飼いたちに伝えられたのでしょうか。これは私たちの常識から考えるなら大変不思議です。当時、羊飼いという仕事は、社会の底辺の仕事であったと言われています。彼らは主人の羊を世話するように雇われた使用人であり、野宿をしながら羊の番をしていました。安息日を守ることもままならず、人々から汚く、貧しく、卑しい者と見做されていました。ですから、ここで語られている神様のメッセージは、この宝のような、光り輝く高価な福音が、羊飼いたちという土の器に授けられたということです。つりあっていません。このギャップは一体何を意味しているのでしょうか。

その理由は、色々あるかと思いますが、私は、福音というのが、まさに自分自身のために与えられたということを、誰もが認識できるようにするため、ということではないかと思います。社会の底辺の仕事に従事している羊飼いたちに福音が宣言されたことによって、イエス様の福音が届くことのできない場所は、この世にどこにも存在しないということを証しするためではないかということです。また、もう一つ大切なことは羊飼いという仕事は、社会の底辺の仕事であったとしても、それはイスラエルを象徴し、イスラエルのアイデンティティでもありました。アブラハムも羊飼いであり、モーセも羊飼いであり、ダビデも羊飼いであります。ヨセフが兄弟たちをエジプトのゴシェンの地に迎え入れた時には、次のように語っています。創世記46:33-34

ファラオがあなたたちをお召しになって、『仕事は何か』と言われたら、『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください。そうすれば、あなたたちはゴシェンの地域に住むことができるでしょう。」羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。

ですから羊飼いとは、イスラエルそのものを指しているとも考えられるのです。羊飼いとは罪人であるイスラエルを象徴し、罪人である私たちの姿そのものであります。罪によってもたらされた悲惨と貧しさと病と死に怯えている、私たち自身を指しているのではないか、そのような暗闇の中を歩んでいる私の人生に、低く、貧しいところに歩んでいる私の人生に、神の栄光の光が照らされ、罪の赦しと神との和解のメッセージが鮮やかに伝えらえたのではないか、と思わされるのであります。

羊飼いたちは天使が告げた「良き知らせ」が本当なのか、急いで確かめたくなりました。仮にもし、イエス様が大祭司の家や、貴族の家でお生まれになったなら、恐らく身分の低い羊飼いたちは門前払いを食らい、イエス様の誕生を探し当てることを断念せざるを得なかったでしょう。「布にくるまって、飼い葉桶に寝かされている」というしるしを与えられ、彼らは、赤ちゃんのいる家畜小屋を隈なく探したと思われます。ベツレヘムには生まれたばかりの、赤ちゃんは何人もいるかもしれませんが、飼い葉桶に寝かせてある赤ちゃんなんて、他にはないからです。ついに彼らは探し当てることができました。救い主のご降誕は、天使の告げた通りの姿でした。羊飼いたちは、果たして、天使が告げたことが本当であったということを確認し、マリアやヨセフを始め、宿屋にいた人々に出来事の一部始終を知らせ、神を崇めながら、讃美して帰って行きました。イスラエルの先祖たちとイスラエルの全ての民が待ち続けた、あの方がついに、この世に現れたのです。人類の救い主、イエス・キリストがついに、この世に現れたのです。

【結論】

 救い主のご降誕の福音は、羊飼いたちに語られたように、今日、クリスマスを迎える私たちにも同じように語られています。イエス様がこの世に来られたのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためでありました。主は、暗闇の中を歩んでいる私たち一人ひとりを、天の栄光で照らしてくださり、罪の赦し、神との平和のメッセージを語ってくださるのです。そして土の器であるこの私に、宝のような光り輝く福音を預けられるのです。この福音は、皇帝アウグストゥスがもたらすような表面的で、見せかけの平和や救いではありません。神の家族として迎え入れられ、低い者を高く引き上げ、悲しみを喜びに変えてくださり、神の栄光をまとわせて下さる、そのような力ある福音です。この福音の恵みに与らせていただき、私たちも心から、讃美と喜びを神様に捧げたいと思います。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

큰 기쁨의 좋은 소식

2022년 12월 25일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

누가복음 2장 8~21절

크리스마스 축하합니다. 오늘 센겐다이교회의 크리스마스 예배에 와 주셨네요. 오늘의 본문은 교회 학교 성탄극에서 자주 인용되는 유명한 부분입니다. 주 예수 그리스도께서 베들레헴에서 태어나신 날 밤, 그 지방에서 노숙을 하면서 양을 지키던 목자들은 천사들을 만나 구주의 탄생의 계시를 들었습니다. 목자들은 천사가 일러준 대로 구유에 뉘어 있는 예수님을 발견하고 찬양을 하며 돌아가는 장면입니다. 복음서에서 예수님의 탄생에 대해 기술하고 있는 것은 마태복음과 누가복음인데 누가복음에서는 마리아가 출산할 때 묵을 수 있는 장소가 없었기 때문에 외양간의 구유에 예수님을 뉘었다는 내용이 적혀 있습니다. 이스라엘의 구세주이자 우리의 구세주 예수님은 왜 구유에 뉘여져야 했을까요? 제가 기록을 한다면 ‘그런 부끄러운 내용을 굳이 쓰지 않아도 되는데..’라고 생각하게 되는데 누가복음에서는 유독 약한 모습으로, 그리고 비천한 상태로 예수님이 오셨다는 것이 강조되고 있습니다. 이게 도대체 무슨 뜻일까요? 이 약함, 비천함은 결코 복음이라는 것이 그만큼 싸구려라는 것이 아닙니다. 오늘은 연약하고 비천한 모습으로 세상에 오신 예수님을 생각하며 말씀의 은혜를 받고자 합니다.

(1) 천사의 계시

2장 1절을 보면 로마 황제 아구스도에 의해 천하로 다 호적하라는 칙령이 내려졌습니다. 아구스도가 누구냐하면 옥타비아누스를 말하는데, 줄리어스 시저의 조카이자 초대 로마 황제입니다. 덧붙여서 줄리어스 시저도 조카 아구스도도 달력의 달 이름으로 되어 있고 7월 July가 줄리어스 시저입니다. 8월 August가 아구스도입니다. 아구스도는 힘으로 모든 반대세력을 평정하고 「팍스로마나」라고 불리는 로마의 평화를 이루었습니다. 이 호적 등록을 위해 나사렛에 살던 요셉과 마리아는 달이 차 아기를 출산한 것입니다. 예수님이 태어나신 베들레헴은 사실 다윗이 태어난 마을이기도 했습니다. 그래서 이 마을은 다윗의 마을이라고 불리기도 합니다. 또 베들레헴은 히브리어로 「떡의 집」이라는 의미입니다. 레헴이 「떡」이고 베들(히브리어: 베트)이 「집」이기 때문에 「떡의 집」이 됩니다. 종종 우리 신앙생활에서 예수님은 우리의 떡이라고 합니다. 이것은 말씀이신 예수님을, 우리는 날마다 오물오물 씹으며 충분히 맛보면서 성경을 읽고 묵상하며 말씀을 먹고 있기 때문입니다. 말씀은 우리의 영혼의 양식입니다. 그 양식이자 떡이신 예수님이 「떡의 집」에서 태어나신 것입니다.

예수님이 태어나신 바로 같은 시간에 노숙을 하고 있는 목자들에게 여호와의 천사가 다가와 여호와의 영광이 주위를 두루 비추었습니다. 목자들이 노숙하던 캄캄한 어둠 속, 너무 눈부신 하나님의 빛이 비추었습니다. 목자들은 매우 무서워했습니다. 그러자 10절 이하에 있듯이

10 천사가 이르되 무서워하지 말라 보라 내가 온 백성에게 미칠 큰 기쁨의 좋은 소식을 너희에게 전하노라

11 오늘 다윗의 동네에 너희를 위하여 구주가 나셨으니 곧 그리스도 주시니라

12 너희가 가서 강보에 싸여 구유에 뉘어 있는 아기를 보리니 이것이 너희에게 표적이니라 하더니

라고 말하는 것입니다. 그러자 홀연히 수많은 천군이 그 천사들과 함게 하나님을 찬송하였습니다. 이른바 「글로리아 인 엑셀시스 데오」의 찬양입니다. 찬송가 106번이네요. 박진감 넘치는 대합창이었음에 틀림없습니다. 천사의 계시는 이스라엘 조상들에게 약속으로 주어졌던 다윗 언약에 관한 수많은 예언들이 마침내 실현된다는 것을 말하는 것처럼 들려옵니다. 동시에 이것은 매우 흥미로운 일이지만, 이 천사의 계시란 당시 세계 최고 권력자였던 아구스도를 의식한 말인 것처럼도 들려옵니다. 원래 누가복음은 유대인이 아니라 이방인을 향해 쓰여졌는데 예를 들어 「큰 기쁨의 좋은 소식을 너희에게 전하노라」는 말이 있습니다. 여기서 동사는 「좋은 소식을 알리다」라고 하는 「유앙겔리온」이라는 말이 쓰이고 있습니다. 유앙겔리온이라는 말은 보통 임금이 태어났을 때의 「좋은 소식을 알린다」 “전보다!” 라고 하는 의미로 사용되어진 동사입니다. 당시 사람들이 누가복음을 읽었을 때 아마 유앙겔리온이라는 말에서 황제가 태어났다는 것을 이미지했을 것입니다. 또 「구주」라는 말도 그렇습니다. 당시 「구주」란 팍스로마나를 가져온 황제 아구스도에게 통상적으로 사용되던 문구입니다. 황제 아구스도야말로 자신들의 구주로 사람들은 생각했습니다. 그 사실을 정면으로 부정하듯 천사의 계시는 절대 권력자 로마 황제에게 결코 그냥 지나칠 수 없는 그런 계시입니다. 이 엄청난 계시는 과연 거짓말이나 과장된 것이 아니라 진짜 계시였을까요? 그리고 이 엄청난 계시가 도대체 왜 목자들에게 전해졌다는 것일까요?

(2) 연약하고 비천한 모습으로 오신 예수님

실제로 사람들이 아구스도의 통치로 열망했던 행복을 진정한 의미로 제공해 주시는 분은 예수 그리스도라고 성경에는 적혀 있습니다. 왜냐하면 그리스도는 아무도 해결 할 수 없는 죄와 죽음의 문제를 해결해 주시기 때문입니다. 그 일은 평화를 하나 생각해봐도 이해할 수 있을 것입니다. 아구스도에 의해 초래된 평화란 무력에 의해 초래된 표면적인 평화에 불과합니다. 진정한 평화가 아니라 겉치레의 평화입니다. 그러나 인간의 내면에는 여전히 다툼, 당파심, 질투, 높고 낮음, 혹은 자신을 옳다고 하는 자기 의 등이 있고, 인간이 죄인인 이상 전쟁의 씨앗은 항상 사람들의 마음속에 맺혀 있습니다. 구원에 대해서도 같은 말을 할 수 있을 것입니다. 아구스도가 해준 것은 로마를 번영시키고 경제적 풍요를 가져다 주었다는 것이었습니다. 그러나 아무리 그런 경제적 풍요를 손에 넣었다 하더라도 그 풍요는 표면적인 것일 뿐, 아무리 부자가 되었다고 해도 하나님 앞에 죄 많고 비참한 자신을 죄 없는 자로 돌려 놓을 수는 없는 것입니다. 하나님 앞에서 바른 인간으로서의 존엄성은 회복되지 못한 채 여전히 비참하고 가련한 자신이 거기에 있는 것입니다. 한편 예수 그리스도가 가져다 주신 평화란 무엇일까요? 그것은 하나님과의 화해입니다. 하나님과 화해하고 하나님의 백성, 하나님의 가족이 된다는 것입니다. 예수님이 가져다 주신 구원이란 무엇일까요? 그것은 죄의 용서입니다. 애초 아담과 하와가 죄를 지으면서 죄가 인간의 마음 속에 파고 들었고 그로 인해 하나님과 인간 사이의 평화가 상실되고 말았습니다. 나아가 하나님의 피조물과 인간 사이의 평화도 상실되었습니다. 씨를 뿌리면 풍요롭게 거두어 들일 수 있었던 세계가 가시나무와 엉겅퀴가 자라는 곳이 되었고 또 여러 자연재해가 일어나 인간을 덮치게 되었습니다. 우리 마음에 죄가 스며들었기 때문에 우리 생활 곳곳에 다툼이 있고 혼란이 있고 불협화음이 있고 비참함이 있는 것입니다. 이 문제의 한 가운데, 즉 죄의 원천인 우리 마음속에 예수 그리스도께서 오셔서 죄의 용서와 하나님과의 평화를 이루셨습니다. 이 은혜는 입으로 아무리 설명해도 결코 이해되는 것이 아닙니다. 믿고 받아들일 때 그 은혜가 얼마나 크고 얼마나 풍요로운 것인지 날마다 조금씩이지만 이해할 수 있는 것입니다. 날마다 새로운 관점에서 예수님을 알게 됨으로써 하나님께서 주신 은혜를 깨닫게 되는 것입니다.

그렇다면 주 메시아의 탄생의 복음이 이처럼 귀하고, 보물 같은 복음이 왜 왕실의 팡파레가 울리는 가운데 화려하게 선언되는 것이 아니라 누구도 돌아보지 않게 조용히 태어나 구유속에 뉘어져 하필이면 제일 먼저 천한 목자들에게 알려졌을까요? 이건 우리 상식으로 생각하면 굉장히 신기합니다. 당시 목자라는 일은 사회 저변의 일이었다고 알려져 있습니다. 그들은 주인의 양을 돌보도록 고용된 하인들이었고 노숙을 하면서 양을 지키고 있었습니다. 안식일을 지키는 것도 여의치 않았고, 사람들로부터 더럽고 가난하고 천한 자로 여겨졌습니다. 그래서 여기서 말씀하시는 하나님의 메시지는 이 보물과 같은 빛나는 값비싼 복음이 목자들이라는 흙그릇에 담겨졌다는 것입니다. 어울리지 않습니다. 이 갭은 도대체 무엇을 의미하는 것일까요?

그 이유는 여러 가지가 있겠지만 저는, 복음이라는 것이 바로 자기 자신을 위해 주어졌다는 것을 누구나 인식할 수 있도록 하기 위해서가 아닐까 생각합니다. 사회 저변의 일에 종사하는 목자들에게 복음이 선포됨에 따라 예수님의 복음이 닿을 수 없는 곳은 이 세상 어디에도 존재 하지 않는다는 것을 증명하기 위한 것이 아니냐는 것입니다. 또 하나 중요한 것은 목자라는 일은 사회 저변의 일이었다고 해도 그것은 이스라엘을 상징하고 이스라엘의 정체성이기도 했습니다. 아브라함도 목자이고 모세도 목자이며 다윗도 목자입니다. 요셉이 형제들을 애굽의 고센 땅으로 맞아들였을 때는 다음과 같이 말하고 있습니다. 창세기 46장 33,34절을 보시죠.

33 바로가 당신들을 불러서 너희의 직업이 무엇이냐 묻거든

34 당신들은 이르기를 주의 종들은 어렸을 때부터 지금까지 목축하는 자들이온데 우리와 우리 선조가 다 그러하니이다 하소서 애굽 사람은 다 목축을 가증히 여기나니 당신들이 고센 땅에 살게 되리이다

그래서 목자란 이스라엘 그 자체를 가리키는 것이라고도 생각할 수 있습니다. 목자란 죄인인 이스라엘을 상징하고 죄인인 우리 모습 그 자체입니다. 죄로 말미암아 빚어진 비참과 가난과 병과 죽음에 겁을 먹고 있는 우리들 자신을 가리키는 것은 아닌지, 그런 어둠 속을 걷고 있는 우리의 삶에, 낮고 가나한 곳에 살고 있는 우리의 삶에 하나님의 영광의 빛이 비춰지고 죄의 용서와 하나님과의 화해의 메시지가 선명하게 전달되지 않았나 하는 생각이 듭니다.

목자들은 천사가 전한 「큰 좋은 소식」이 사실인지 서둘러 확인하고 싶어졌습니다. 만일 예수님이 대제사장의 집이나 귀족의 집에서 태어났다면 아마도 신분이 비천한 목자들은 문전박대를 당하고 예수님의 탄생을 확인하는 것을 단념하지 않을 수 없었을 것입니다. 「강보에 싸여 구유에 뉘어 있는」그 표적을 찾아 그들은 아기가 있을 외양간을 샅샅이 뒤졌을 것으로 보입니다. 베들레헴에는 갓 태어난 아기가 몇 명이나 있을지도 모르지만, 구유에 뉘어 있는 아기는 다른 곳에는 없기 때문입니다. 드디어 그들은 찾아낼 수 있었습니다. 구주의 탄생은 천사의 계시대로의 모습이었습니다. 목자들은 과연 천사의 계시가 사실이었다는 것을 확인하고 그 모든 것으로 인하여 하나님께 영광을 돌리고 찬송하며 돌아갔습니다. 이스라엘의 선조들과 이스라엘의 모든 백성들이 기다렸던 그분이 마침내 세상에 나타나신 것입니다. 인류의 구주 예수 그리스도가 마침내 세상에 모습을 드러내신 것입니다.

결론

구주의 탄생 복음은 목자들에게 계시되어졌듯이 오늘날 크리스마스를 맞이하는 우리에게도 똑같이 계시되고 있습니다. 예수님이 세상에 오신 것은 옳바른 사람을 초대하기 위해서가 아니라 죄인을 초대하기 위해서였습니다. 주님은 어둠 속을 걷고 있는 우리 한 사람 한 사람을 하늘의 영광으로 비춰주시고 죄를 용서하며 하나님과의 평화의 메시지를 말씀해 주시는 것입니다. 그리고 흙그릇인 우리에게 보물 같은 빛나는 복음을 맡겨 주시는 것입니다. 이 복음은 황제 아구스도가 가져오는 것과 같은 표면적이자 겉치레의 평화나 구원이 아닙니다. 하나님의 가족으로 맞아들여져 낮은 자를 높이 끌어올리고 슬픔을 기쁨으로 바꿔 주시고 하나님의 영광을 이루게 해 주시는 그런 능력의 복음입니다. 이 복음의 은혜를 받고 우리들도 마음으로부터 찬양과 기븜을 하나님께 올려 드리고 싶다고 생각합니다.

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