2022年12月11日「パウロのフィリピ教会への感謝と祈り 바울의 빌립보 교회에 대한 감사와 기도」

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パウロのフィリピ教会への感謝と祈り 바울의 빌립보 교회에 대한 감사와 기도

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
フィリピの信徒への手紙 1章3節~8節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:3わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、
1:4あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
1:5それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
1:6あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
1:7わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。
1:8わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 1章3節~8節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 アドベント第三主日になりました。町はクリスマスを迎えるにあたって大変にぎやかになってまいりました。平和の主であるイエス様のご降誕をお祝いするこのクリスマスを、どうか家族や大切な人と過ごせるように、そして、新しい年も神様の守りと祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

 私たちはフィリピ書の御言葉に耳を傾けています。軍人の町、小ローマと言われるマケドニアのフィリピにある教会に対し、パウロは並々ならぬ信頼を寄せていました。それはフィリピの教会の兄弟姉妹が皆、成熟した信仰を持っていたからということではありません。この書簡を読み進めて行けば分かりますが、フィリピの教会も、普通の教会のようにやはり弱さがあり、普通の教会のようにやはり問題を抱えていました。それにも拘わらず、パウロがフィリピの教会をどれほど信頼していたのか、そのことは、パウロがフィリピ教会からの献金を受け取ったという事実から見て取ることが出来ます。皆様もご存じのようにパウロは普段、あれほど強く献金を貰うことを拒否してきましたが、なぜかフィリピ教会からの献金だけは、受け取っていました。それも一度、二度ではなく、複数回です。テサロニケで二度(4:16)、コリントで一度(Ⅱコリ11:9)、そして、この書簡が書かれている時にもエパフロディトを通して一度受け取っています。フィリピ教会とパウロの関係というのは、与えるにおいても受けるにおいても、働くにおいても喜ぶにおいても、いわばパートナーのような関係だったようです。パウロにとってフィリピ教会とは、霊的な戦いを一緒に戦い、生死を共にしてきた戦友のように、お互いが深い信頼関係によって結ばれていたということなのでしょう。

【1】. パウロの喜びの理由

 3節でフィリピの教会に対する感謝が述べられ、4節では「喜び」という言葉が、この書簡の中で初めて登場します。これから、この書簡の中に「喜び」という言葉が何度も登場するため、この書簡が獄中で書かれたのにも拘わらず「喜びの手紙」と言われるのですが、パウロのこの喜びとは、一体何なのだろうかと不思議でなりません。この喜びは、何か事がうまく行っているから、何か欲しい物が手に入ったから、そういうところから来る喜びではないようです。普通、私たちが感じる喜びというのは、そのようなものが多いのですが、そうではなく、「状況と全く関係のない喜び」であると言えるでしょう。監獄に閉じ込められながら、パウロは少しも、悔しいという思いを持ってはいませんでした。目に見えて、五感で感じられる状況とは関係のない「喜び」、ただただ、天の父から主イエス・キリストを通して注がれる、上からの喜び、信仰によってのみ受けることができる喜びに、満ち溢れていたということだと思います。3~5節をご覧ください。

わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。

パウロの喜びの理由の一つとして、5節に「福音に与っているから」とあります。福音に与ることによって、喜びが与えられるというのであれば、この喜びは、キリスト者であれば誰でも、受けることが出来る喜びに違いありません。実際、私がこのような喜びを持っているだろうかと、自分自身を顧みてみました。救われて間もない頃は、自分の罪が赦されたこと、キリストの義の衣によって正しいとされたこと等などを知り、大変喜んでいました。しかし、クリスチャン生活を長く続けると、その喜びもいつの間にか消えてなくなってしまいました。むしろ、伝道が思い通り展開しなかったり、生活面で色々と困難な面に直面したり、或いは家族の中に不和、或いはある人から、否定的なことを言われたりして、感謝できず、否定的な考えに自分が流されることが、幾度かあったことを思い起こされます。

5節の与るという言葉は、ギリシア語でコイノニアという言葉です。普通、「交わり」と翻訳されますが、「参与する」というふうにも翻訳されます。ですから「福音に与る」とは、救われるという意味と、もう一つ、福音宣教に参与するという意味も含まれていると思います。パウロがフィリピ教会から感じていた喜びとは、フィリピの兄弟姉妹が救われたことに対する喜び、これはもちろなりますが、それともう一つ、フィリピ教会が福音宣教に参与していることの喜びであったのでは、と考えられます。6節では、そのことについて、さらに説明されています。ご覧ください。

あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

ここで突然、パウロの視点が、フィリピの兄弟姉妹から、天の神様へ向けられています。善い業を始められた方とは、神様のことを指していますが、そもそも福音に参与するということは、福音を、イニシアティブを持って導かれている、神様の業に参与するということになります。そのために、フィリピの教会から神様へと、パウロの感謝の視点が移行されているのです。それでは、ここで「善い業」とは具体的には何を指しているのでしょうか。フィリピの人々がパウロに送った献金のことと考えることも出来ますが、もっと広い視野で見るなら、これは神様の救いについて、歴史の中で起こされる神の救済の出来事を言っているのではないかと思います。「善い業」とは、歴史を通してなされる「神様の救いの働き」であるということです。私たちの人生は、イエス・キリストにであって、初めて意味のある人生になるということが言えるでしょう。イエス様を心に迎え入れ、イエス様と志を一つにして、初めてその人生に瑞々しさと潤いが与えられるのです。これは、イエス様を信じる前の人生が、全く無意味だと言っているのではありません。イエス様を信じる前であっても、聖霊によって導かれ、時至り、信仰が与えられて、イエス様を受け入れることができるようになるのであって、最終的には私たちの人生の全てを、信じる前と信じる後に拘わらず、主にあって、全てを益に変えてくださるからです。それにも拘わらず、パウロがイエス様に敵対していた時の人生と、ダマスコの途上でイエス様にお会いしてから、その後の人生とは、やはり違うのであって、同様に私たちの人生においても、イエス様を受け入れる前と後では意味が異なってくるのです。その違いは何かと言えば、意識的に「福音に与かる人生」へと変えられたという点であります。意識的に「神の善き業に参与する人生」へ変えられたという点であります。この点にこそ、瑞々しさの原因があると言えるのではないでしょうか。この善き業は、神様ご自身が始められた働きであり、必ず完成されるという保障がついています。例えば、宅急便を思い起こしてください。宅急便で送る、茶色くて、ごつごつとした荷物、その荷物自体が、私たちであると考えてみましょう。荷物には、必ず送り主と受取人が書かれていますね。この送り主とは父なる神様であられます。そして荷物の受取人はイエス様であられます。そして宅配業者が聖霊なる神様です。この荷物は間違いなく神様のご計画の中で発送され、聖霊によって導かれ、イエス様の御許に到着し、やがて開封されることになるのです。ということは、フィリピの兄弟姉妹の、その瑞々しい、潤いのある営みが、やがて完成される日が来る。やがてイエス様によって開封される日が来る。キリストの再臨の日までに、必ず神様がその善き業を完成させてくださる。そのことを確信しているため、パウロは喜んでいると言うのです。

【2】. 戦友としてのフィリピ教会

 引き続き7-8をご覧ください。

 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。

特に7節のパウロの言葉に注目しますと、フィリピの教会がどのようにパウロの戦友として共に戦って来たのか、私たちに手がかりを提供してくれます。まず第一に、パウロは、監禁されていることも、或いは裁判の中で証言台の席に立ち、福音を弁証し立証していることも、それ自体、福音に与ることであり、恵みの業に参与することであると、断言している点です。自分自身の、この繋がれている状況、これは、恵みであると断言しているのです。なぜなら、自分自身が投獄され、監禁されているのは、福音のためであるという信念が、パウロには明らかにあったからでした。その信念こそ、7節の「恵みに与っている」という言葉となって出て来たのだと思われます。実は、この与るという言葉ですが、前の5節に出て来たコイノニアと親戚のような言葉でありまして、シュンコイノネオーという言葉が使われています。この言葉は「共に」という言葉「シュン」と、「与る」という言葉「コイノネオー」の合成語です。この一言で「共に与る」「共に参与する」という意味になります。

聖書には、至るところで、キリスト者の受ける苦しみとは、キリストと無関係な苦しみではなく、キリストと共に苦しみを受けていると書かれています。私たちの苦しみ、例えば経済的な苦しみや、人間関係における苦しみや、或いは家族内の不和など、色々ありますが、私たちキリスト者の受ける苦しみは、キリストと無関係ではないということです。もっと言えば、この世において、キリストの十字架の苦難に共に与る者は、キリストの復活の栄光に共に与るだろうということも聖書に書かれています。主にあって、私たちが受ける苦難は、それはどのような苦難であろうと、福音のために苦難に参与することとして見做され、天において大きな報いが積まれているのであります。ですから、パウロは次から次へと自分の身に降りかかって来る艱難を、恵みであると捉えているのです。第二に、パウロはその恵みに一人で与っているのではないと言います。シュンコイノネオー、「シュン」という言葉がついていますから、一人ではなく常にフィリピの教会が、パウロと共に立ってくれた、フィリピの教会が共に担ってくれたというのです。フィリピの兄弟姉妹は、パウロが投獄されている時も、或いは裁判の証言台で、福音を弁証し、立証している時も、パウロと関わることを恥ずかしい事とは考えずに、そして、危険や災いが降りかかってくることを顧みず、常にパウロの側に共に立ち続けてくれました。獄中の中にあっても献金をもって、公然とパウロを支援し、或いは、とりなしの祈りをもってパウロを霊的に支え続けました。このような行動は、場合によっては、鎖につながれた囚人パウロと同罪と見なされ、投獄される可能性が十分にあったに違いありません。それにも拘わらず共に苦難に参与してくれたのです。パウロは、フィリピの兄弟姉妹が共にいてくれたため、決して一人ではありませんでした。パウロはそのことを感謝しているのです。

【適用】

 本日の個所を私たちに適用しようとするなら、福音に参与する教会の姿勢を、フィリピの教会を通して学ぶことができるのでは、と思わされました。教会が献金をするということは、ただ、お金を送るということではありません。それは福音に参与することであり、神の善き業に参与することであります。教会の献金とは、単なるお金のやり取りではないということです。もっと霊的なものであります。教会の献金とは伝道者パウロの苦難を共にすること、伝道者パウロの弁証と立証に共に立つということまで含まれているのです。確かに、教会に対し、献金を要請するということは、教会にある負担が強いられることになりますが、しかし、それは、伝道者と同じ苦しみに参与すること、同じ働きに参与することであり、ひいてはキリストの苦難に与ることとして、光栄ある働きなのであります。もちろん、無理をしてでも献金しなさいと言うのではありませんが、福音宣教の任務を主イエスから任されている教会の、その献金には、そのように深くて重要な意味が含まれているということを本日は覚えていただければと思います。また、8節において「キリスト・イエスの愛の心」という言葉が出て来ますが、この言葉は直訳すると、「キリスト・イエスの内臓」とか「キリスト・イエスの心臓」という意味です。パウロはキリスト・イエスの心臓によって、福音のために共に戦い、参与してくれているフィリピの兄弟姉妹をどれほど慕っているのか、神がご存じですと、語っているのです。福音に参与する教会を主イエス様は、心の底から、はらわたから、切に慕っておられるのです。

パウロが五感で感じている状況は、獄中に閉じ込められたみじめな自分の姿でありました。それにも拘わらず喜ぶことができたのは、福音のために自分一人で戦っているのではなく、背後に戦友のフィリピ教会がいてくれたから、そしてイエス・キリストが指揮官として導いてくださっているからであります。私たち教会もイエス様が再び来られる日まで、見えない神の国の建設のために、共に戦う戦友であります。教会が共に戦うということは、何も献金だけではなく、一人ひとりが苦難の状況に置かれても、神様に信頼を持ち続けること、そして、主日には共に集まって礼拝を捧げることなども含まれていると思います。今日、このようにして私たちは共に礼拝を捧げていますが、このことは、まさに福音に参与し、神の善き業に参与する、尊い働きであるということも併せて覚えていただければと思います。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

바울의 빌립보 교회에 대한 감사와 기도 카와에 토모아키목사

빌립보서 1장 3-8절

3 내가 너희를 생각할 때마다 나의 하나님께 감사하며

4 구할 때마다 너희 무리를 위하여 기쁨으로 항상 간구함은

5 너희가 첫날부터 이제까지 복음을 위한 일에 참여하고 있기 때문이라

6 너희 안에서 착한 일을 시작하신 이가 그리스도 에수의 날까지 이루실 줄을 우리는 확신하노라

7 내가 너희 무리를 위하여 이와 같이 생각하는 것이 마탕하니 이는 너희가 내 마음에 있음이며 나의 매임과 복음을 변명함과 확정함에 너희가 다 나와 함께 은혜에 참여한 자가 됨이라

8 내가 예수 그리스도의 심장으로 너희 무리를 얼마나 사모하는지 하나님이 내 증인이시니라

어드밴트(강림절) 제 3주일을 맞이했습니다. 거리는 크리스마스를 맞이하기 위해서 화려하게 장식을 하고 있습니다. 평화의 왕이신 예수님의 탄생을 축하하는 크리스마스를 아무쪼록 가족, 소중한 사람들과 보내시고 새로운 해에도 하나님의 돌보심과 복이 풍성하게 임하시기를 기도드립니다.

우리들은 빌립보서의 말씀에 귀를 기울이고 있습니다. 군인의 도시 작은 로마라고 불리워지는 마케도냐의 빌립보 교회에 대해서 바울은 더 할 수 없는 신뢰를 두고 있었습니다. 그것은 빌립보 교회의 형제자매가 모두 성숙한 신앙을 가지고 있기 때문은 아니었습니다. 이 서간을 읽어 나가다 보면 알게 됩니다만, 빌립보 교회도 보통의 교회처럼 역시 약한 부분이 있고 보통의 교회처럼 여러 문제를 가지고 있었습니다. 그럼에도 불구하고 바울이 빌립보 교회를 어느 정도 신뢰하고 있었는지는 바울이 빌립보 교회로부터 헌금을 받은 것에서 알수 있습니다. 여러분도 아시다시피 바울은 평소 헌금을 받는 것을 강하게 거절을 해 왔습니다만, 웬지 빌립보 교회로부터의 헌금만은 받고 있었습니다. 그것도 한 번 두 번이 아니라 여러 번이나 말입니다. 데살로니가에서 두 번 (4장 16절). 고린도에서 한 번 (고후11장 9절) 그리고 이 편지가 쓰여지고 있을 때에도 에바브로디데를 통해 한 번 더 받습니다. 빌립보 교회와 바울의 관계라는 것은 주는 것에 있어서도 받는 것에 있어서도 사역하는 것에 있어서도 기쁨에 있어서도 말하자면 파트너와 같은 관계였던 것 같습니다. 바울에게 빌립보 교회란 영적인 싸움을 함께 싸우고 생사를 함께 해 온 전우처럼 서로가 깊은 신뢰 관계에 의해 연결되어 있었다는 점입니다.

(1) 바울이 기뻐하는 이유

3장에서 빌립보 교회에 대한 「감사」가 나열되고 4절에서는 「기쁨」이라고 하는 단어가 이 편지 가운데 처음으로 등장합니다. 이제부터 이 서간에 기쁨이라고 하는 단어가 몇 번이나 등장하기 때문에 이 편지가 옥중에서 쓰여졌음에도 불구하고 「기쁨의 편지」라고 불리워집니다만, 바울의 이 「기쁨」이라고 하는 것은 도대체 무엇이었을까가 신기할 정도입니다. 이 「기쁨」은 뭔가 일이 순조롭게 잘 풀리기 때문에, 뭔가 원하는 것이 손에 들어왔기 때문에 그러한 상황에서 오는 「기쁨」이 아닌 것 같습니다. 보통 우리가 느끼는「기쁨」이라고 하는 것은 그런 것이 많습니다만, 그렇지 않고 상황과 전혀 관게가 없는 「기쁨」이라고 말할 수 있을 것입니다. 감옥에 갇히면서 바울은 조금도 억울하다는 생각을 갖지 않았습니다. 눈에 보이고 오감으로 느껴지는 상황과는 관계 없는 「기쁨」 단지 하나님 아버지로부터 주 에수 그리스도를 통해 부어지는 위로부터의 「기쁨」, 믿음으로만 받을 수 있는 「기쁨」으로 가득 넘치고 있었다는 것이라고 생각합니다. 3-5절을 참조하십시오.

3 내가 너희를 생각할 때마다 나의 하나님께 감사하며

4 구할 때마다 너희 무리를 위하여 기쁨으로 항상 간구함은

5 너희가 첫날부터 이제까지 복음을 위한 일에 참여하고 있기 때문이라

바울이 기뻐한 이유의 하나로서 5절에 「복음을 위한 일에 참여하고 있기 때문」이라고 쓰여져 있습니다. 복음을 위한 일에 참여하는 것에 기쁨이 주어진다면 틀림없이 이 기쁨은 그리스도인이라면 누구나 받을 수 있는 기쁨일 것입니다. 실제로 ‘나는 이런 기쁨을 가지고 있을까?’하고 스스로에게 질문을 해 보았습니다. 구원받고 얼마지나지 않아서는 자신의 죄가 용서 받은 것, 그리스도의 의의 옷이 입혀진 것 등을 알고 나서 매우 기뻤습니다. 그러나 오랫동안 신앙생활을 계속 해 오면서 그 기쁨도 어느샌가 사라져 없어져버렸다는 것을 깨닫게 되었습니다. 오히려 전도가 생각대로 전개되지 않게나 생활면에서 여러가지 궁핍한 상황에 직면하거나 혹은 가족과의 불화, 혹은 어떤 사람으로부터 부정적인 말을 들은 것에 대해서 감사할 수 없어 부정적인 생각에 자신이 휩쓸려 가버리는 것과 같은 적이 여러번 있었던 기억이 떠 올랐습니다.

5절의 「참여한다」고 하는 단어는 헬라어로 「코이노니아」라고 하는 말입니다. 보통 「교제」라고 번역됩니다만 「참여한다」라고도 번역이 됩니다. 그러므로 「복음을 위한 일에 참여한다」라고 하는 것은 「구원을 받는다」는 의미와 또 한가지는 「복음선교에 참여한다」는 의미도 포함되어 있다고 생각합니다. 바울이 빌립보 교회에서 느꼈던 기쁨은 빌립보의 형제 자매가 구원 받은 것에 대한 기쁨인 것은 물론이지만 빌립보 교회가 「복음 선교에 참여하고 있다는 것에 대한 기쁨」이라고도 말할 수 있겠습니다. 6절에서는 이것에 관해서 더 자세히 설명하고 있습니다. 참조해 주십시오.

6 너희 안에서 착한 일을 시작하신 이가 그리스도 에수의 날까지 이루실 줄을 우리는 확신하노라

여기에서 갑자기 바울의 시점이 빌립보 교회의 형제자매에서 하늘의 하나님으로 바뀝니다. 「착한 일을 시작하신 이」라는 것은 하나님을 가르키고 있으나 원래 복음선교에 참여한다는 것은 복음의 주도권을 가지고 인도하시는 하나님의 역사에 참여한다는 뜻입니다. 그런 이유로 빌립보 교회에서 하나님께로 바울의 감사의 시점이 이동된 것입니다. 그러면 여기서 「착한 일」이라는 것은 구체적으로 무엇을 말하고 있는 것일까요? 빌립보의 사람들이 바울에게 보낸 헌금이라고도 생각할 수가 있지만 좀더 넓은 관점에서 본다면 이것은 하나님의 구원에 대해서, 역사 속에서 일어나는 하나님의 구원의 사건을 말하고 있는 것은 아닐까 생각합니다. 착한 일이라는 것은 역사를 통해 이루어지는 하나님의 구원의 역사의 선한사업 이라는 것입니다. 우리들의 인생은 에수 그리스도를 만나고 나서야 비로서 참된 의미의 인생이 시작 된다고 말할 수 있겠습니다.

예수님을 진심으로 맞이하고 예수님과 뜻을 하나로 함으로 인하여 비로서 참된 의미의 풍성하고 윤택한 인생을 살 수 있게 되는 것입니다. 이것은 에수님을 믿기 전의 인생은 완전히 무의미하다고 말하는 것이 아닙니다. 예수님을 믿기 전이라도 성령에 의해 인도되고 때가 되어 믿음이 주어져 예수님을 받아 들일 수 있게 되는 것이며, 결국 우리의 삶의 모든 것을 믿기 전과 믿는 후에라도 관계 없이 주님께서 유익하게 바꿔 주시기 때문입니다. 그럼에도 불구하고 바울이 예수님을 대적했을 때의 인생과 다마스코의 도상에서 에수님을 만나고 난 후의 인생은 엄연히 다른 것이고 마찬가지로 우리의 인생에서도 에수님을 만나기 전과 만난 후에는 의미가 다른 것입니다. 그 차이가 무엇인가 하면 의식적으로 복음을 위한 일에 참여하는 인생으로 바뀌었다는 점입니다. 의식적으로 하나님의 선한 사업에 참여하는 인생으로 바뀌었다는 점입니다. 이 바뀐 점이야말로 인생이 풍성해지고 윤택해진 원인이라고 말할 수 있지 않을까요? 이 선한 사업은 하나님 자신이 시작하신 역사이며 반드시 완성 된다는 보장이 되어 있습니다. 예를 들어 택배를 생각해 보십시오. 택배로 보내는 갈색 상자에 꽉꽉 채워진 짐, 그 짐 자체가 우리라고 가정 해 봅시다. 짐에는 반드시 발송인과 수취인이 적혀 있죠. 이 발송자가 아버지 하나님이십니다. 그리고 그 짐의 수취인은 예수님이십니다. 그리고 택배업자가 성령 하나님이십니다. 이 짐은 확실히 하나님의 계획 안에서 발송되어 성령에 의해 인도되고 예수님의 용서에 도착하여 곧 개봉되게 되는 것입니다. 그렇다고 하는 것은 빌립보의 형제 자매의 그 풍성하고 윤택한 생활이 이윽고 에수님에 의해 개봉되는 날이 오고 그리스도의 재림의 날까지 반드시 하나님이 그 선한 사업을 완성시켜 주신다는 것을 확신하기 때문에 바울은 기뻐한다고 말합니다.

(2) 전우로서의 빌립보 교회

게속해서 7-8절을 보시기 바랍니다.

7 내가 너희 무리를 위하여 이와 같이 생각하는 것이 마탕하니 이는 너희가 내 마음에 있음이며 나의 매임과 복음을 변명함과 확정함에 너희가 다 나와 함께 은혜에 참여한 자가 됨이라

8 내가 예수 그리스도의 심장으로 너희 무리를 얼마나 사모하는지 하나님이 내 증인이시니라

특히 7절의 바울의 말에 주목해보면, 빌립보 교회가 어떻게 바울의 전우로서 함께 싸워왔는지 우리에게 단서를 제공해줍니다. 첫째, 바울은 감금을 당하거나 재판의 증언대의 자리에 서서 복음을 변증하고 입증하는 것 그 자체가 복음을 위한 일에 참여하는 것이고 은혜에 참여하는 것이라고 단언하고 있다는 점입니다. 자신이 묶여 있는 이 상황이 은혜에 참여하는 것이라고 단언하고 있는 것입니다. 왜냐하면 자신이 투옥되고 감금 당한 것은 복음 때문이라는 신념이 바울에게 분명히 있었기 때문입니다. 이 신념이야말로 7절의 은혜에 참여한다라고 하는 말로 표현되어 나온 것이라 생각합니다. 실은 이 참여한다는 말입니다만, 5절에 나오는 코이노니아라는 단어와 친척과 같은 단어이므로 순코이노네오라는 말이 사용되고 있습니다. 이 말은 「함께」라는 말 「순」과 「참여하다」라는 말인 「코이노네오」의 합성어입니다. 한마디로 “함께 참여한다”라는 의미가 됩니다.

성경에는 여러 곳에서 그리스도인이 받는 고난은 그리스도와 무관한 고난이 아니며 그리스도의 고난에 동참하는 것이라 말하고 있습니다. 우리의 고난, 예를 들어 경제적인 고난, 인간관계의 고난, 혹은 가족간의 불화등 여러가지가 있습니다만 우리 그리스도인이 받는 고난은 그리스도와 무관하지 않다는 것입니다. 더 말하자면 이 세상에서 그리스도의 고난에 함께 참여하는 자는 그리스도의 부활의 영광에 함께 참여할 것이라는 점도 성경에 기록되어 있습니다. 주안에서 우리가 받는 고난은 그것이 어떠한 고난이던 상관없이 복음을 위한 고난에 참여하는 것으로 간주되어 하늘에서 큰 상급이 쌓여지는 것입니다. 그러므로 바울은 계속해서 자신을 엄습하는 고난을 은혜라고 받아들이고 있는 것입니다. 두 번째로 바울은 그 은혜에 혼자서 참여하고 있지 않다고 말합니다. 순코이노네오, 「순」이라는 말이 붙어 있기 때문에 혼자가 아니라 항상 빌립보 교회가 바울과 함께 싸워 줬다, 부담해 주었다라는 것입니다. 빌립보의 형제 자매는 바울이 투옥 되었을때, 또는 재판의 증언대에서 복음을 변증하고 입증할 때에도 바울과 관련된 것을 부끄러운 일이라고 생각하지 않고 그래서 위험과 재앙이 다가오는 것을 고민하지 않고 항상의 바울의 옆에 함께 서 있어 주었습니다. 옥중에 있어도 헌금을 가지고 공공연하게 바울을 지원하거나 또는 중보기도로 바울을 영적으로 지원해 주었습니다. 이러한 행동은 경우에 따라서 착고에 채워진 죄수 바울과 같은 죄명으로 간주되어 투옥될 가능성이 충분했을 것입니다. 그럼에도 불구하고 함께 고난에 참여 해 준 것입니다. 바울은 빌립보의 형제 자매가 함께 있었기 때문에 결코 혼자가 아니었습니다. 바울은 그 일에 감사 하고 있는 것입니다.

(3) 적용

오늘의 본문을 우리들에게 적용해보고자 한다면, 복음선교에 참여하는 교회의 자세를 빌립보 교회를 통해서 배울 수가 있지 않을까 생각해 보았습니다. 교회가 헌금을 보낸 것은 그저 돈을 보내는 것이 아닙니다. 그것은 복음선교에 참여하는 것이며 하나님의 선한사업에 참여하는 것입니다. 교회의 헌금이라고 하는 것은 단순히 돈을 내는 것이 아니라는 것입니다. 영적인 것입니다. 교회의 헌금은 전도자 바울의 고난을 함께 하는 것, 전도자 바울의 변증과 입증에 함께 서 있다는 것까지 포함되어 있습니다.

확실히 교회에 헌금을 요청한다는 것은 교회의 부담히 되는 일이지만 그것은 전도자와 같은 고난에 참여하는 것, 같은 복음선교의 사역에 함께 참여하는 것입니다. 나아가 그리스도의 고난에 함께 참여하는 것으로 영광스러운 일입니다. 물론 무리를 해서 헌금을 하라고 말하는 것은 아니지만 복음선교의 임무를 주 예수로부터 맡겨진 교회의 그 헌금은 이런 깊고 중요한 의미가 포함되어 있다라는 것을 오늘은 기억해 주시면 좋겠습니다. 또 8절에는 그리스도 예수의 심장이라는 말이 나옵니다. 바울은 그리스도 예수의 심장으로 복음선교를 위해서 함께 싸우고 참여해주는 빌립보 교회의 형제 자매를 어느 정도 사모 하고 있는지 하나님이 알고 계신다고 합니다. 복음선교에 참여하는 교회를 주 예수님은 소중히 여겨주고 계시는 것입니다.

바울이 오감으로 느끼고 있는 상황은 옥중에 갇힌 초라한 자신의 모습이었습니다. 그럼에도 불구하고 기뻐할 수 있었던 것은 복음을 위해 자기 혼자서 싸우고 있는 것이 아니라 배후에 전우인 빌립보 교회가 있었고 예수 그리스도가 지휘관으로 인도해 주고 계시기 때문이었습니다. 우리 교회도 예수님이 다시 오시는 날까지 보이지 않는 하나님의 나라의 건설을 위해 함께 싸우는 전우입니다. 교회가 함께 싸운다는 것은 헌금뿐만이 아니라 한 사람 한 사람이 고난의 상황에 놓여져있어도 하나님께 신뢰를 계속 두는 것, 그리고 주일에는 함께 모여서 예배를 드리는 것도 복음선교를 위해서 함께 싸우는 것이라고 생각합니다. 오늘 이렇게 우리들은 함께 예배를 드리고 있습니다. 이것이 바로 복음선교에 참여하고 하나님의 선한 사업에 참여하는 귀한 일이라는 것을 함께 기억하여 주셨으면 합니다.

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