2019年10月06日「王の要求 왕을 요구하다」

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王の要求 왕을 요구하다

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
サムエル記上 8章1節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1サムエルは年老い、イスラエルのために裁きを行う者として息子たちを任命した。
2長男の名はヨエル、次男の名はアビヤといい、この二人はベエル・シェバで裁きを行った。
3しかし、この息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた。
4イスラエルの長老は全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、
5彼に申し入れた。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」
6裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。
7主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。
8彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。
9今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」
10サムエルは王を要求する民に、主の言葉をことごとく伝えた。
11彼はこう告げた。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、
12千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。
13また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。
14また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。
15また、あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。
16あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。
17また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。
18その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」
19民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った。「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。
20我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」
21サムエルは民の言葉をことごとく聞き、主の耳に入れた。
22主はサムエルに言われた。「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。」サムエルはイスラエルの人々に言った。「それぞれ、自分の町に帰りなさい。」
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記上 8章1節~22節

原稿のアイコン日本語メッセージ

サムエル記上7章の最後の所では、士師サムエルがイスラエルを裁き、理想的な神政政治が成就されているのを確認することができました。ところが気づいてみると、サムエルは年老いて、当時はまだイスラエルは青銅器の武器しか所有していなかったのですが、イスラエルを取り囲むカナンの周辺諸国が鉄製の武器を所有し、しかも王を頭とした中央集権的な体制が確立していました。明らかに時代の変化とともに、イスラエルに変革の波が押し寄せていたのです。昔、モーセはこのことを予見し、申命記17:14~15において次のように語っています。そのままお聞きください。

“あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入って、それを得て、そこに住むようになり、「周囲のすべての国々と同様、わたしを治める王を立てよう」と言うならば、必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい。同胞の中からあなたを治める王を立て、同胞でない外国人をあなたの上に立てることはできない。”

そして、士師ギデオンがミディアン人に見事な勝利を収めた時にも、イスラエルの民はギデオンに対して自分たちの王になってくれるようにとお願いしたことがありました。この時、ギデオンは、たとえ見えないかもしれないけれど、イスラエルを治める王は、ヤハウェなる神であることは歴然としていたために、王になる要請を辞退しました。士師記8:22~23を御覧ください。

“イスラエルの人はギデオンに言った。「ミディアン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください。」ギデオンは彼らに答えた。「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる。」”

しかし、イスラエルに王を立てることは神のご計画の一つであり、理想の王を通して「王の王」であられる、ご自身を現わし、神の啓示を漸進させることは、神の御心でありました。それは、士師記において何度も繰り返されている“そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた”という言葉によっても裏打ちされます。

それにも関わらず、本日の8章では民の王の要求が大変悪しき要求であり、罪深いものとして書かれているのはなぜでしょうか。民は神のご計画を成就させようとしているのに、なぜこのように否定的なのでしょうか。それは、例えば、イエスさまの十字架の死を成就させたイスラエルの民、特に宗教指導者であった祭司長、律法学者、ファリサイ人、或いはイスカリオテのユダの行った罪と同じようなことが言えるでしょう。神さまは、神に対する人間の反逆と罪悪をもお用いになり、ご自身の摂理を不思議に成し遂げられるのです。サムエルは年老いて、息子たちに士師の働きを世襲させます。そしてベエル・シェバを裁くようにさせました。ベエル・シェバと言えば、3章で北はダンから南はベエル・シェバまでサムエルが預言者として認められたという記事がありました。巻末の地図4、地図6を御覧ください。おそらくサムエルは、この時も引き続き7章に書いてありましたように、ベテル-ギルガル-ミツパ-ラマ(ラマタイム=アリマタヤ)の地域を士師として担当していたと思われますから、ベエル・シェバはそこからずいぶん南に離れた地域です。サムエルは息子たちにヨエルとアビヤと名付けましたが、その意味は、ヨエルは「ヤハウェは神である」、アビヤは「ヤハウェは私の(神的)父である」という意味です。名前だけ聞くと、大変敬虔な名前でしたが、息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂を受け取り、裁きを曲げていました。エリの二人の息子たちを思い出してしまいます。サムエルも人間的な弱さをもっていたということです。イスラエルの長老たちは全員集まって、ラマのサムエルのもとに来て言いました。8章5節を御覧ください。

“彼に申し入れた。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」”

サムエルは、長老たちのこの提案に大変プライドが傷ついたと思われます。第一に、自分の老化がストレートに指摘されたことです。第二に、今まで士師として裁きを行って、イスラエルのほんの一時の間でも平安とをもたらすことができたのは、サムエルの裁きの故であったと考えられるのですが、ところが長老たちが要求していることは、サムエルに対する評価はなく、むしろ地域を治めている士師を廃止し、イスラエルの国全体を裁く王を立ててくださいと言っているからです。たとえ、後継者である息子たちが不甲斐ないことは分かっていましたが、それを面と向かって言われればやはり癇に障るわけです。そして第三に、長老たちは、カナンの異教の国々のようになりたいと言っています。そもそも、イスラエルにはヤハウェなる神様以外には王など考えられなかったし、イスラエルを特別に愛し、守ってくださるお方はこれまでもこれからもヤハウェなる神様以外には、ないからです。聖なる戦い、主の戦いにおいてイスラエルの先頭に立って敵と戦ってくださったのは誰だったでしょうか。主なる神さまでした。イスラエルがしたことといえば、残党を、追いかけて背後から掃討するだけでした。イスラエルのように神に祝福された民は、この世にどこにも存在しないのです。出エジプト記19:5~6を御覧ください。

“今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」”

神様は初めからイスラエルを周辺の国々とは区別し、独自性を持たせ、信仰によって御言葉を守り行い、世が決して持つことができない、真理と命と勝利を持っているのです。ですから国々と同じようになろうとする民の欲望は、イスラエルに与えられた使命とアイデンティティに逆行し、それは世俗化へ向かうことなのです。レビ18:1-4を御覧ください。

“主はモーセにこう仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。”

現在イスラエルの上に神さまが王として君臨されて神政政治を行っておられ、イスラエルに対しては神の民として、地の塩、世の光としての使命とアイデンティティをお与えになりました。しかしもしそのアイデンティティを放棄し、国々のようになって、塩気をなくすなら、その塩は捨てられるのです。ですから、キリスト者はいつでも信仰の民として、神の統治を喜び、愛に生き、世に対し聖なる影響を及ぼす存在であって、神の栄光を飾る存在であることを覚えましょう。世にはなく、キリスト者にしか持っていないものがあります。それは神の特別な愛と、罪の許しと、永遠の命と、死に対する勝利です。だからこそキリスト者は喜ぶことができますし、目が輝き、世の塩として、世の光として、世に影響を及ぼすことができるのです。これこそ国々が持っていないイスラエルの独自性であると言えるでしょう

長老たちの提案によってサムエルと長老の間に緊張が走りました。サムエルとしてはこの提案をまったく承認することはできませんでした。サムエルはやはり、伝統的なイスラエルのスタイルを高く評価していましたし、カナン人の王政を取り入れたところで、何の益にもならないだろうと考えていました。それでも主に祈ってお伺いを立てることにしました。7節~8節を御覧ください。

“主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。”

ここで主は、サムエルの考えに同調されますが、意外にも、それでも「彼らの声に従うがよい」と言われます。王制はサムエルの好き嫌いを超えて、この時代と国際情勢の中において天の意思でありました。イスラエルにおいて繰り返される忘恩と無礼の罪は神の摂理を覆すものではありえないということです。そして、ここで本当の問題はサムエルによる神政政治か、新しい王による王政政治かの選択ではなく、王政政治を通した神政政治の実現であったということです。王を立てるのは神ですから、究極的に神の支配から出ることはできないのです。

主はサムエルに、彼らの上に君臨することになる、神ではない「王の権能」を教えておきなさいと言われます。その「王の権能」について11~17節まで書かれています。この中で、徴用するとか、没収すると訳されているヘブル語のラカク(取る、略奪する)という動詞が頻繁に出てきます。御覧ください。

“彼はこう告げた。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。また、あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。”

ちょうど、10月から消費税が引き上げられましたが、イスラエルの民は、今まで税金に関しては自由人であり、税の義務から無縁でありましたが、王の権能によって1/10の税を課せられることになります。女たちも王の略奪から例外ではありません。女は、香料作り、料理女、パン焼き女として奪われます。そして軍事目的のために、或いは、側近たちに褒美として与える土地のために、民の自分たちの所有物に対する自由が、厳しく制約されて、負担が重くのしかかり、最終的に王の奴隷とさせられるのです。これが王の権能です。恐ろしいですね。この「王の権能」という言葉ですが、ヘブル語で「ミシュパート・ハ・メレク」という言葉です。よくミシュパート・ヤハウェ(アドナイ)となれば、「主の正義」とか、「主の公正」という意味で使われます。3節にもミシュパートが出てきました。裁きを曲げるの「裁き・正義」という言葉です。イスラエルの上に立つものが神さまから王に代わることによって、正義が、王の正当性とか、王のやり方という意味に代わってくるのです。神さまのやり方は即ち、正義ですが、王のやり方とは11~17節に書かれている内容です。これは罪や違反ではないので、文句の付けようがありません。ですから、今までイスラエルの叫びに応えてくださった神さまでしたが、「王の権能」、「王の正義」に対して泣き叫んでも、それに関しては答えてはくださらないのです。

さらに、主が君主である時は、イスラエルは主の奴隷ですが、王が君主である時は、イスラエルは王の奴隷となります。皆さん、「神さまの奴隷」と「王の奴隷」とどちらがいいでしょうか。神さまの本質は愛であり、支配するよりも仕えるリーダーシップです。当然、神さまの奴隷の方がいいのです。

このような警告の言葉に対してもイスラエルは頑なになり、是が非でも自分たちの考えを押し通そうとします。しかも今度は長老だけでなく、民がイスラエルの総意として答えています。19-20節を御覧ください。

“民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った。「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。”

三点で民の主張が要約されています。①他のすべての国民と同じようになること、②王が裁きを行うこと、③王が陣頭に立って進み我々の戦いを戦うことです。サムエルは民の主張をことごとく聞き、神さまに伝えました。たとえ、王政が神のご計画にあったとしても、イスラエルの民が望んだその動機は罪深いものであり、そして自分たちの考えにあまりにも一方的で頑な態度でした。このことから、神さまは時に民の要求が誤ったものであってもそれを許されることがあるということです。民の誤った要求にこたえられる理由はその頑なさのためであり、したがって必ずしも神さまが道を開いてくださったからと言ってそれが私たちの有益な祈りの答えではないときもあるということです。重要なことは、私たちが神さまの御心にかなう要求を祈らなければならないということです。主の御前に頑なで強情な態度をしていないか、もう一度私たちの信仰生活を吟味してみなければなりません。もう一つは、イスラエルが見えない神のリーダーシップより、目に見える王のリーダーシップを望んだということです。私たち教会も牧師に対してカリスマ的で強力なリーダーシップを望んでしまうことがあるでしょう。しかし、教会政治において、頭はイエス様です。目に見える強力なリーダーシップを望むことは、そこにやはり偶像崇拝というか、頭なるイエス様の拒絶が隠されていることを覚えなければなりません。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

왕을 요구하다

2019년 10월 6일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

사무엘상 8장 1~22절

사무엘상 7장 마지막 부분에서는 사사 사무엘이 이스라엘을 다시리고 이상적인 신정정치가 성취된 것을 확인 할 수 있었습니다. 그런데 알고보니 사무엘은 늙어서 당시에는 아직 이스라엘은 청동기 무기밖에 소유하지 않았는데 이스라엘을 둘러싼 가나안 주변 국가들이 철제 무기를 소유하고 게다가 왕을 머리로 한 중앙집권적인 체제가 확립되어 있었습니다. 분명히 시대의 변화와 함께 이스라엘에 변혁의 물결이 몰아치고 있었습니다. 옛날 모세는 이를 예견하고 신명기 17장 14,15절에서 다음과 같이 말했습니다. 읽을테니 그대로 들어보세요.

14 네가 네 하나님 여호와께서 네게 주시는 땅에 이르러 그 땅을 차지하고 거주할 때에 만일 우리도 우리 주의의 모든 민족들 같이 우리 위에 왕을 세워야겠다는 생각이 나거든

15 반드시 네 하나님 여호와께서 택하신 자를 네 위에 왕으로 세울 것이며 네 위에 왕을 세우려면 네 형제 중에서 한 사람을 할 것이요 네 형제 아닌 타국인을 네 위에 세우지 말 것이며

그리고 사사 기드온이 미디안인들에게 훌륭한 승리를 거두었을 때에도 이스라엘 백성들은 기드온에게 자신들의 왕이 되어 달라고 부탁한 적이 있었습니다. 이때 기드온은 비록 보이지 않을지 모르지만 이스라엘을 다스리는 왕은 여호와이심이 역력했기 때문에 왕이 되 달라는 요청을 거절했습니다. 사사기 8장 22,23절을 참조하시기 바랍니다.

22 그 때에 이스라엘 사람들이 기드온에게 이르되 당신이 우리를 미디안의 손에서 구원하셨으니 당신과 당신의 아들과 당신의 손자가 우리를 다스리소서 하는지라

23 기드온이 그들에게 이르되 내가 너희를 다스리지 아니하겠고 나의 아들도 너희를 다스리지 아니할 것이요 여호와께서 너희를 다스리시리라 하니라

그러나 이스라엘에 왕을 세우는 것은 하나님의 계획 중 하나이며, 이상적인 왕을 통해 「왕의 왕」인 자신을 나타내고 하나님의 계시를 점진시키는 것은 하나님의 뜻이셨습니다. 그것은 사사기에 있어서 몇번이나 반복되고 있는 「그 때에 이스라엘에 왕이 없으므로 사람이 각기 자기의 소견에 옳은 대로 행하였더라」는 말씀에 의해서도 뒷받침됩니다.

그럼에도 불구하고 오늘 8장에서는 백성들이 왕을 요구하는 것이 매우 나쁜 요구이며 죄가 많은 것으로 기록되어 있는 이유가 무엇일까요? 백성들은 하나님의 계획을 성취하려고 하는데 왜 이렇게 부정적일까요? 그것은 예를 들어 예수님의 십자가의 죽음을 성취시킨 이스라엘 백성들, 특히 종교지도자였던 제사장, 서기관, 바리새인, 혹은 가롯 유다가 저지른 죄와 같은 것을 말할 수 있을 것입니다. 하나님은 하나님에 대한 인간의 반역과 죄악을 이용하셔서 자신의 섭리를 오묘하게 이루시는 것입니다. 사무엘은 늙어서 아들들에게 사사의 일을 세습시킵니다. 그리고 브엘세바를 다스리게 합니다. 브엘세바하면 3장에서 북쪽은 단에서 남쪽은 브엘세바까지 사무엘이 선지자로 세우심을 입은 줄을 알았다는 기사가 있습니다. 성경의 권말 지도 4, 지도 6을 보세요. 아마 사무엘은 이때도 계속 7장에 쓰여져 있었듯이 벧엘-길갈-미스바-라마(라마타임=아리마대)의 지역을 사사로 담당했던 것으로 생각되기 때문에 브엘세바는 거기서 한참 남쪽으로 떨어진 지역입니다. 사무엘은 아들들에게 요엘과 아비야라고 이름을 붙였는데, 그 뜻은 요엘은 「여호와는 하나님이시다」, 아비야는 「여호와는 나의 (神的)아버지시다」라는 뜻입니다. 이름만 들으면 매우 경건한 이름이었지만 아들들은 아버지의 길을 걷지 않고 부정한 이익을 추구하며 뇌물을 받고 판결을 굽게 했습니다. 엘리의 두 아들들이 생각나네요. 사무엘도 인간적인 약점을 가지고 있었다는 것이죠. 이스라엘 장로들은 모두 모여 라마에 있는 사무엘에게로 와서 말했습니다. 8장 5절을 보세요.

그에게 이르되 보소서 당신은 늙고 당신의 아들들은 당신의 행위를 따르지 아니하니 모든 나라와 같이 우리에게 왕을 세워 우리를 다스리게 하소서 한지라

사무엘은 장로들의 이 제안에 매우 자존심이 상했다고 생각합니다. 첫째, 자신의 노화가 직설적으로 지적된 것입니다. 둘째 지금까지 이스라엘에 잠시나마 평안을 가져다 줄 수 있었던 것은 사무엘이 사사로서 다스렸기 때문이라고 생각되는데 그런데 장로들이 요구하는 것은 사무엘에 대한 평가가 없고 오히려 지역을 다스리고 있는 사사를 폐지하고 나라 전체를 다스리는 왕을 세우라고 하기 때문입니다. 비록 후계자인 아들들이 한심스러운 것은 알수 있지만 그것을 면전에서 말하면 역시 불쾌할 수 밖에 없을 것입니다. 그리고 셋째 장로들은 가나안의 이교 국가들처럼 되고 싶다고 말합니다. 애당초 이스라엘에는 여호와이신 하나님 외에는 왕은 생각할 수 없었고 이스라엘을 특별히 사랑하고 지켜주실 분은 지금까지도 앞으로도 여호와이신 하나님 외에는 없기 때문입니다. 거룩한 싸움, 주님의 싸움에서 이스라엘에 앞장서서 적과 싸워주신 분은 누구였을까요? 여호와이셨습니다. 이스라엘이 한 일이라고는 잔당을 뒤쫓자 배후에서 소탕할 뿐이었습니다. 이스라엘 처럼 신에게 축복받은 백성은 이 세상 어디에도 존재하지 않습니다. 출애굽기 19장 5,6절을 참조하십시오.

5 세계가 다 내게 속하였나니 너희가 내 말을 잘 듣고 내 언약을 지키면 너희는 모든 민족 중에서 내 소유가 되겠고

6 너희가 내게 대하여 제사장 나라가 되며 거룩한 백성이 되리라 너는 이 말을 이스라엘 자손에게 전할지니라

하나님은 처음부터 이스라엘을 주변 나라들과 구별하시고 독자성을 갖게 하시고 믿음으로 말씀을 지키고 행하게 하시며, 세상이 결코 가질 수 없는 진리와 생명과 승리를 갖게 하십니다. 그래서 주변 나라들과 똑같이 되려는 백성들의 욕망은 이스라엘에 주어진 사명과 정체성에 역행하고 그것을 세속화로 가는 것입니다. 레위기 18장 1~4를 참조하십시오.

1 여호와께서 모세에게 말씀하여 이르시되

2 너는 이스라엘 자손에게 말하여 이르라 나는 여호와 너희의 하나님이니라

3 너희는 너희가 거주하던 애굽 땅의 풍속을 따르지 말며 내가 너희를 인도할 가나안 땅의 풍속과 규레도 행하지 말고

4 너희는 내 법도를 따르며 내 규레를 지켜 그래도 행하라 나는 너희의 하나님 여호와이니라

현재 이스라엘 위에 왕으로 군림하시며 신정 정치를 하고 계시고 이스라엘에 대해서는 하나님의 백성으로 땅의 소금, 세상의 빛으로서의 사명과 정체성을 주셨습니다. 하지만 만약 그 정체성을 포기하고 세상 나라들처럼 되어 소금기를 잃는다면 그 소금은 버려지는 것입니다. 그러므로 그리스도인은 언제나 믿음의 백성으로서 하나님의 통치를 기뻐하고 사랑에 살고 세상에 대하여서는 거룩한 영향을 미치는 존재이며 하나님의 영광을 장식하는 존재임을 기억합시다. 세상에는 없고 그리스도인에게만 있는 것이 있습니다. 그것은 하나님의 특별한 사랑과 죄의 용서와 영원한 생명과 죽음에 대한 승리입니다. 그렇기 때문에 그리스도인은 기뻐할 수 있고 눈이 빛나고 세상의 소금으로 세상의 빛으로 세상에 영향을 미칠 수 있는 것입니다. 이것이야말로 세상 나라들이 가지고 있지 않은 이스라엘의 독자성이라고 할 수 있습니다.

장로들의 제안에 의해서 사무엘과 장로 사이에 긴장이 고조 되었습니다. 사무엘로서는 이 제안을 전혀 승인할 수 없었습니다. 사무엘은 역시 전통적인 이스라엘 스타일을 높이 평가했고 가나안식의 왕정을 도입한다고 해서 아무런 이득도 되지 않을 것이라고 생각했습니다. 그래도 여호와께 기도하고 만나기로 했습니다. 7,8절을 보시기 바랍니다.

7 여호와께서 사무엘에게 이르시되 백성이 네게 한 말을 다 들으라 이는 그들이 너를 버림이 아니요 나를 버려 자기들의 왕이 되지 못하게 함이니라

8 내가 그들을 애굽에서 인도하여 낸 날부터 오늘까지 그들이 모든 행사로 나를 버리고 다른 신들을 섬김 같이 네게도 그리하는도다

여기서 여호와는 사무엘의 생각에 동조하시는데 뜻밖에도 「백성이 네게 한 말을 들으라」라고 말씀하십니다. 왕제는 사무엘의 호불호를 넘어 이 시대와 국제 정세 속에서 하늘의 뜻이었습니다. 이스라엘에서 반복되는 망은과 무례의 죄는 하나님의 섭리를 뒤집을 수 없다는 것입니다. 그리고 여기서 진짜 문제는 사무엘에 의한 신정정치냐, 새로운 왕에 의한 왕정정치냐의 선택이 아니라 왕정정치를 통한 신정정치의 실현이었다는 것입니다. 왕을 세우는 것은 하나님이시기 때문에 궁극적으로 하나님의 다스림에서 벗어날 수 없는 것입니다.

여호와는 사무엘에게 하나님이 아닌 그들 위에 군림하게 될, 「왕의 제도」를 가르쳐 두라고 하십니다. 그 「왕의 제도」에 대해서 11~17절까지 적혀 있는데요. 이 중에서 「데려다가」라거나「가져다가」라고 하는 히브리어 라카흐(탈취하다, 약탈하다)라는 동사가 빈번하게 나옵니다. 보시기 바랍니다.

11 이르되 너희를 다스릴 왕의 제도는 이러하니라 그가 너희 아들들을 데려다가 그의 병거와 말을 어거하게 하리니

12 그가 또 너희의 아들들을 천부장과 오십부장을 삼을 것이며 자기 밭을 갈게 하고 자기 추수를 하게 할 것이며 자기 무기와 병거의 장비도 만들게 할 것이며

13 그가 또 너희의 딸들을 데려다가 향료 만드는 자와 요리하는 자와 떡 굽는 자로 삼을 것이며

14 그가 또 너희의 밭과 포도원과 감람원에서 제일 좋은 것을 가져다가 자기의 신하들에게 줄 것이며

15 그가 또 너희의 곡식과 포도원 소산의 십일조를 거두어 자기의 관리와 신하에게 줄 것이며

16 그가 또 너희의 노비와 가장 아름다운 소년과 나귀들을 끌어다가 자기 일을 시킬 것이며

17 너희의 양 떼의 십분의 일을 거두어 가리니 너희가 그의 종이 될 것이라

마침 10월부터 소비세가 인상되었는데, 이스라엘 백성들은 지금까지 세금에 관해서는 자유인이며 세금의 의무와 무관했지만 왕의 제도에 따라 10분의 1을 세금으로 물게 됩니다. 여자들도 왕의 약탈에서 예외는 아닙니다. 여자는 향료 만들기, 요리하는 자, 떡 굽는 자로 삼아집니다. 그리고 군사적 목적을 위해서 혹은 측근들에게 보상으로 주는 땅 때문에 백성들의 자신들의 소유물에 대한 자유가 엄격히 제약되고 부담이 가중되어 결국 왕의 종이 되는 것입니다. 이것이 「왕의 제도」입니다. 무섭네요. 이 「왕의 제도」라는 말인데 히브리어로 「미쉬파트 하 메렉」이라는 말입니다. 흔히 미쉬파트 여호와(아도나니)가 되면 「주의 정의」라든가, 「주의 공정」이라고 하는 의미로 사용됩니다. 3절에도 미쉬파트가 나왔습니다.「판결을 굽게 하니라」의 판결과 같은 말입니다. 즉 판결과 정의는 동전의 양면과 같은 뜻입니다. 이스라엘의 위에 서는 것이 하나님으로부터 왕으로 바뀌는 것에 의해 정의가 왕의 정당성이라든가 왕의 방식이라는 의미로 바뀌는 것입니다. 하나님의 방식은 곧 정의이지만 왕의 방식이란 11~17절에 적혀 있는 내용입니다. 이것은 죄나 위반이 아니기 때문에 불평할 방법이 없습니다. 그래서 지금까지 이스라엘의 부르짖음에 응해주신 하나님이셨지만 「왕의 제도」 「왕의 정의」에 대해 울부짖어도 그에 관해서는 대답해 주지 않으시는 것입니다.

더욱이 하나님이 군주일 때는 이스라엘은 하나님의 종이지만 왕이 군주일 때는 이스라엘은 왕의 종이 됩니다. 여러분, 「하나님의 종」과 「왕의 종」중 어느 쪽이 좋을까요? 하나님의 본질은 사랑이며 지배하기보다는 섬기는 리더십입니다. 당연히 하나님의 종이 더 좋습니다.

이러한 경고의 말에 대해서도 이스라엘은 막무가내가 되어 무슨 일이 있어도 자신들의 생각을 밀고 나가려고 합니다. 게다가 이번에는 장로뿐만이 아니라 백성들이 이스라엘의 총 의견으로 대답하고 있습니다. 19,20절을 보시기 바랍니다.

19 백성들이 사무엘의 말 듣기를 거절하여 이르되 아니로소이다 우리도 우리 왕이 있어야 하리니

20 우리도 다른 나라들 같이 되어 우리의 왕이 우리를 다스리며 우리 앞에 나가서 우리의 싸움을 싸워야 할 것이니이다 하는지라

세 가지로 백성들의 주장이 요약되어 있습니다. ① 다른 나라의 백성들과 똑같이 되는 것 ②왕이 다스리는 것 ③ 왕이 진두에 서서 백성들의 싸움을 하는 것입니다. 사무엘은 백성의 주장을 전부 듣고 하나님께 전했습니다. 비록 왕정이 하나님의 계획에 있었다고 해도 이스라엘 백성들이 원했던 그 동기는 죄가 깊었고 그리고 자신들의 생각에 너무나도 일방적이고 완강한 태도였습니다. 이 때문에 하나님은 때로 백성들의 요구가 잘못된 것일지라도 그것을 허락하실 때가 있다는 것입니다. 백성들의 잘못된 요구에 답하시는 이유는 그 완고함 때문이며, 따라서 반드시 하나님께서 길을 열어주셨다고 해서 그것이 우리의 기도에 대한 유익한 응답이 아닐 때도 있다는 것입니다. 중요한 것은 우리가 하나님의 마음에 맞는 요구를 기도해야 한다는 것입니다. 하나님 앞에서 완고하고 고집스러운 태도를 하고 있지 않은지 다시 한번 우리의 믿음생활을 음미해 보아야 합니다. 또 하나는 이스라엘이 보이지 않는 하나님의 리더십보다 눈에 보이는 왕의 리더십을 원했다는 것입니다. 우리 교회도 목사에 대해 카리스마적이고 강력한 리더십을 원할 수 있을 것입니다. 그러나 교회 정치에서 머리는 예수님이십니다. 눈에 보이는 강력한 리더십을 바라는 것은 거기에 역시 우상숭배라고나 할까, 머리되시는 예수님에 대한 거절이 숨겨져 있음을 기억해야 합니다.

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