2022年10月09日「風や湖さえも従うではないか 바람과 바다조차도 순종하지 않는가」

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風や湖さえも従うではないか 바람과 바다조차도 순종하지 않는가

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 4章35節~41節

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:35その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 4章35節~41節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日の4章35節から5章43節までは、弟子たちの養育のためのイエス様の奇跡が、四連発で出てまいります。本日は箇所はその第一弾として「風や湖を静める奇跡」ということですが、その背景に、マルコ福音書の4章1~34節まで出てまいります「天国のたとえ話」があります。天国のたとえ話を語り終えた後、ちょうど、その日の夕方の出来事となります。私たちが、この御言葉から教えられている教訓として、「神の摂理への信仰は、自分が何も知らないことをわきまえることから」、という観点からお話しさせていただきます。「自分が何も知らないことをわきまえること」とは即ち、「無知の知」という一言で表現されます。この言葉を残したのは、古代の哲学者ソクラテスです。自分が「無知であることをわきまえること」が、どれほど重要であるかということです。この考え方は、信仰生活を送る私たちにも適用できるのではないかと思うのです。私たちクリスチャンは、日々聖書を読んでいますから、神様のことをよく知っている、神様のことなら、大体よく分かっていると思ってしまいます。しかし、そのような思い込みというか、そのような先入観が、実は信仰の妨げになってしまうということもあるということです。私たちは聖なる神様のことについて実は、ほとんど分かっていない。神様の深淵な摂理について、実際、少しも悟りを持っていない。神様は私たちと共におられる身近な存在であると同時に、私たちには、決して理解することのできないような、超越したお方であること、そのことを認めることこそが「神様の摂理への信仰」の第一歩になるのではと思います。

【1】. 向こう岸に渡ろう

 さて、イエス様は、その日の夕方、まだ疲れが残っていたと思われますが、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われました。弟子たちは群衆を後に残し、イエス様を舟に乗せたまま漕ぎ出しました。一隻だけでなく、他の舟も一緒だったと書かれています。ここで、舟に乗ってイエス様の御言葉に聞き従った何人かの弟子たちと、そして岸に取り残された群衆たちの間に線引きがされていることに気づかされます。実はこれまで、イエス様は「内側の人々」と、「外側の人々」とを、私たちに意識させるような言動を取ってきました。それはどういうことかと言いますと、エルサレムから来た律法学者と、そしてイエス様の母と兄弟たちが、カファルナウムの家の中にいるイエス様を呼びにやった時のことを思い起こしてください。あの時、イエス様のお働きを中断させるため「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と呼びかけられました。その時、イエス様は、3:33-34節で次のようにお答えになりました。

“イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。”

つまり、イエス様の周りに座っている人々を内側の人々、外からイエス様のお働きを中断させようとした人々を外側の人々として線引きをしているように見えるのです。ここで注意していただきたいことは、「内側の人」とは救われた人で、「外側の人」とは救われていない人という意味ではありません。誤解しないでください。また、天国のたとえ話においては、弟子たちに次のように言われました。マルコ4:11をご覧ください。

“あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。”

やはり線引きがされています。本日の箇所でもイエス様は、群衆から弟子たちを取り分けて、彼らに対して訓練を施そうとしていると見ることができるのです。弟子たちは、そのイエス様の御言葉に従って舟をこぎ出しました。ガリラヤ湖は普段は穏やかな湖ですが、海抜が大変低いため、時折、天気が急変し、突風が吹き下ろし、嵐になる湖としても知られていました。この時も思いがけず、嵐に遭遇してしまい、舟は波をかぶって、水浸しになるほどでありました。当時は、電気の明かりなどは当然ありませんから、暗い海の中で、その恐怖と言えば、きっと私たちの想像を絶するものであったと思われます。ここで、特に覚えたいことは、岸辺に留まった群衆たちは、嵐に遭遇することはなかったのに、御言葉に従った弟子たちは、嵐に遭遇したという点です。何か罪を犯した訳でもなく、ただ、イエス様の御言葉に従っただけなのに、主に命じられた通りにしたら、嵐に見舞われてしまったということです。このことが意味することは、私たちの信仰生活においても、御言葉に聞き従って歩んでいく時に、その道のりは決して平坦な道のりだけではないということを意味しているのではないでしょうか。私たちはともすると、正しい信仰の状態であれば、日々の営みはスムーズにいくはずだと考えてしまいます。もし、何か問題が生じるなら、なぜ、こんなことが起こったのか、神様は私のことを、何かの罪の故に、嫌っているのではないかと考えてしまいます。しかし、そのような因果関係は、本日の聖書の箇所で示唆されていません。むしろ主イエスと共に漕ぎ出した信仰者の旅路には、このような苦しみが、しばしば襲い掛かってくるのです。私たちは主日ごとに、礼拝で聖書の御言葉を聞き、神様の恵みと祝福によって派遣され、それぞれの生活の現場へと舟を漕ぎ出して行きます。しかし、その現場はいつも平穏無事ということではありません。この世に吹き荒れる突風や大波に翻弄され、水浸しになり、主イエスと共に漕ぎ出したはずの舟が、沈みそうになるのです。38節をご覧ください。

【2】. 神の顕現

 “しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。”

この時、イエス様は艫の方で眠っておられました。艫というのは舟の後方の部分です。弟子たちは恐らくパニックの中で、イエス様を起こし、“先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか”と言ったのでしょう。この言葉は一見、死に直面した弟子たちが信仰を持ってイエス様に助けを求めているように見えますが、実は、イエス様に対する批判的なニュアンスが込められています。ちょうどヨナ書の中で、舟が嵐に遭遇し、船長たちが舟の積荷を海に投げ捨てながら、何とか嵐を乗り切ろうとしますが、その時に船底に寝ているヨナを見つけて、語った言葉と重なり合います。ヨナ書1:5-6をご覧ください。

“船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。船長はヨナのところに来て言った。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」”

ヨナ書の船長は、ヨナに対し、「この非常時に落ち着き払って寝ているとは何事か、あなたの神に祈るなり、とにかく、我々が生き延びるために何でもしてくれ」という語調だったに違いありません。あるいは「一緒に積荷を投げ捨てるのを手伝ってくれ」ということも含まれていたと思います。弟子たちも同じようにイエス様に要求しているのです。「あなたの神に祈るなり、とにかく、我々が生き延びるために、何でもしてください」ということです。あるいは「舟に浸水した水を、一緒にバケツで水かきしてくださいよ」ということだったかもしれません。弟子たちはイエス様が病をいやし、或いは悪霊を追い出す、様々な奇跡を行うことができる預言者のような方であることを知っていました。また、自分たちがイエス様によって、特別にそばに集められた者たち、つまり内側の人たちであることを知っていました。しかし、そのことが逆に災いし、神を神として認めることができず、イエス様を自分たちの身内のように考えてしまい、疑いと絶望感の中で、イライラをイエス様にぶつけているのです。私たちも人生の嵐に遭遇するなら、「神様、この状況は何故なんでしょうか。」「私を愛しておられると言われたではないですか。しっかりしてくださいよ。」と考えることもあると思います。

イエス様は起き上がり、「黙れ、静まれ」と言われました。ここでは預言者のようにご自分の神に祈るのではなく、直接的に風と湖に語りかけて言われました。すると風はやみ、すっかり凪になりました。恐らく、その姿は、被造物全てをご自身の主権の中に治めているような、創造主としての、ふるまいであったのでしょう。それはちょうど、権威を持って人々から悪霊を追い出したように、権威を持って風と湖に向かって命じられたのです。すると風と湖は、イエス様の言葉を理解し、その言葉に従順するかのように、嵐は完全に収まってしまいました。詩編104:4-9の御言葉を紹介します。そのままお聞きください。

さまざまな風を伝令とし/燃える火を御もとに仕えさせられる。主は地をその基の上に据えられた。地は、世々限りなく、揺らぐことがない。深淵は衣となって地を覆い/水は山々の上にとどまっていたがあなたが叱咤されると散って行き/とどろく御声に驚いて逃げ去った。水は山々を上り、谷を下り/あなたが彼らのために設けられた所に向かった。あなたは境を置き、水に越えることを禁じ/再び地を覆うことを禁じられた。

ここには、主の創造の御業が書かれています。きっと、イエス様の奇跡もまさに罪に支配されてしまったこの世に、再創造の業をはっきりと現している、そのような奇跡だったのだと思われるのです。

【3】. 神を畏れる

 この奇跡を見た弟子たちの反応は、驚きと、恐れと、そして神様に対する賛美に満たされました。マルコ4:41節をご覧ください。

弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

ここに「非常に恐れて」という言葉があります。この恐れ(フォボス)は、「敬虔な畏れ」、「畏怖心」と関連がある言葉で、40節の「怖がる(デイロイ)」「臆病になる」という言葉とは違う単語が使われています。イエス様の奇跡を通して、まさに神ご自身の顕現を垣間見た弟子たちは、これまでの友達のような、親しみのある、人間としてのイエス様から、超自然的な神の子としてのイエス様へと、認識の転換を迫られたのです。預言者としてのイエス様ではなく、創造主として、神の権威を持ったイエス様であります。私は、この神様に対する敬虔な畏れ、畏怖心が、とても大切なものだと思います。神様は私たちと共におられる身近な方であると同時に、私たちには、決して理解することのできないような、超越したお方であることも忘れてならないと思うのです。もし、どちらか一方に偏った信仰になってしまうなら、神様の摂理の信仰を持つことが出来なくなるでしょう。例えば、神様は私たちと共におられる身近なお方、友達のようなお方という信仰だけなら、嵐が来た時に、神様を批判しながら、信仰に立つことが出来なくなるのです。反対に超越された神様だけを信じ、あまりにも神様を恐れるなら、神様の愛を理解することは出来ないでしょう。バランスが大切だということです。神に対する敬虔な畏れを持つときに、私たちは、「神様のなされることは、私たちには決して理解することが出来ない」「神様のなされることは、今、この時点で私にとって謎のように思えるけれど、きっと後になって、すべてのことが神の善しとするお計らいの中にあった」ということに気づかされるのだと思います。必ず私たちの有益のために働かれていたということを後で悟るのだと思います。神様に対する敬虔な畏れは、神の摂理に対する信仰へと私たちを導いてくれるのです。

【結論】

 イエス様を信じている私たちの人生においても、嵐は常にやって来ます。御言葉に従っていた時にもやはり嵐はやって来ます。学校を卒業し、晴れてどこかの会社に就職しても、現代のようなご時世ですので、いつリストラや会社の倒産という憂き目に合うか分かりません。やがて、家庭を持ったなら、それは大きな喜びでありますが、同時に、家族関係における様々な悩みや苦しみが新たに生じることでしょう。そして、事故や、病や、老いの苦しみが私たちの生活を脅かすかもしれません。そのような苦難の重さによって、舟が沈みそうになるのです。また、最後には死の苦しみがあります。自分の死の恐れもそうですが、愛する者、親しい者の死が、まさに私たちの人生の舟を転覆させかねない大波として襲って来ます。そのような人生の嵐の中で、私たちはどのように信仰を守っていったらいいのでしょうか。それはイエス様がそのような嵐の中にあっても、私たちと共におられるということ、したがって、イエス様がすべてご存じであられ、その嵐も神の摂理の中にあるということです。結局、神の摂理を信じる以外にはないと思うのです。その神様の摂理を信じる上で、神様のことなら大体よく分かっているという思い込みや先入観は捨てるべきでしょう。むしろ「私たちは聖なる神様のことについて、ほとんど分かっていないではないか」「神様の深淵な摂理について、少しも悟りを持っていないではないか」と、敬虔な畏れを持つ時に、神様のなされることは、今、この時点で私にとって謎のように思えるけれど、きっと後になってすべてのことが神の善しとするお計らいの中にあったということに気づかされるのだと思います。そのことに希望を持ちながら、私たちは、今週も御言葉に従って、暗闇の中に漕ぎ出して行く者たちとならせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

바람과 바다조차도 순종하지 않는가

2022년 10월 9일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 4장 35~41절

서론

오늘 살펴 볼 4장 35절부터 5장 43절까지는 제자들의 양육을 위한 예수님의 기적이 4번 계속해서 나옵니다. 오늘의 부분은 기적의 제 1탄으로 「바람과 바다를 잔잔하게 하시는 기적」이라고 하는데, 그 배경으로 마가복음 4장 1~34절까지 나옵니다. 「천국의 비유 이야기」가 있습니다. 천국의 비유 이야기를 말씀하신 후, 정확히 그날 저녁에 일어난 일입니다. 우리가 이 말씀에서 배울 수 있는 교훈으로서 「하나님의 섭리에 대한 믿음은 자신이 아무것도 모른다는 것을 분별하는 데서」라는 관점에서 말씀드리겠습니다. 「자신이 아무것도 모른다는 것을 분별하는 것」은 즉, 「무지의 지식」이라는 한마디로 표현됩니다. 이 말을 남긴 것은 고대 철학자 소크라테스입니다. 자신이 「무지하다는 것을 분별한다는 것」이 얼마나 중요한가 하는 것입니다. 이 사고방식은 믿음생활을 하는 우리에게도 적용될 수 있지 않을까 생각합니다. 우리 크리스챤은 날마다 성경을 읽으니까 하나님을 잘 안다, 하나님에 대해서라면 대체로 잘 안다고 생각하게 됩니다. 그러나 그렇게 단정짓는 것이라고나 할까요, 쉽게 단정짓는 그런 선입견이 사실 믿음에 방해가 되어 버리는 경우도 있다는 것입니다. 우리는 거룩한 하나님에 대해 사실 거의 알지 못한다, 하나님의 깊고 심오한 섭리에 대해 사실 조금도 깨달음을 갖고 있지 않다는 것, 하나님은 우리와 함께 계신 친근한 존재이심과 동시에 우리에게는 결코 이해할 수 없는 초월적인 분이심을 인정하는 것이야말로 「하나님의 섭리에 대한 믿음」의 첫 걸음이 되지 않을까 생각합니다.

(1) 저편으로 건너가자

자, 예수님은 그날 저녁 아직 피로가 풀리지 않으셨다고 생각되지만 제자들에게 「저편으로 건너가자」 하십니다. 제자들은 무리를 뒤에 남겨두고 예수님을 배에 태운채 노를 저었습니다. 한 척 뿐만 아니라 다른 배도 함께 있었다고 적혀 있습니다. 여기서 배를 타고 예수님의 말씀에 순종한 몇몇 제자들과, 그리고 기슭에 남겨진 무리들 사이에 줄이 그어져 있음을 깨닫게 됩니다. 사실 지금까지 예수님은 「내부 사람들」과 「외부 사람들」을 우리에게 인식시키는 말씀과 행동을 취해 오셨습니다. 그게 무슨 말이냐면 예루살렘에서 온 율법학자와 그리고 예수님의 어머니와 형제들이 가버나움의 집 안에 있는 예수님을 부르러 갔을 때를 상기해 보세요. 그때 예수님의 사역을 중단 시키기 위해 「보소서 당신의 어머니와 동생들과 누이들이 밖에서 찾나이다」라고 사람을 시켜 예수님을 불렀습니다. 그때 예수님은 3장 33,34절에서 다음과 같이 대답하셨습니다.

33 대답하시되 누가 내 어머니이며 동생들이냐 하시고

34 둘러 앉은 자들을 보시며 이르시되 내 어머니와 내 동생들을 보라

즉 예수님 주위에 둘러 앉은 사람들을 내부 사람들, 밖에서 예수님의 사역을 중단 시키려는 사람들을 외부 사람들로서 선긋기를 하시는 것처럼 보이는 것입니다. 여기에서 주의해 주셨으면 하는 것은 「내부의 사람」이란 구원받은 사람이고 「외부의 사람」이란 구원받지 못한 사람이라는 뜻이 아닙니다. 오해하지 마십시오. 또한 천국의 비유의 이야기에 있어서는 제자들에게 다음과 같이 말씀하셨습니다. 마가복음 4장 11절을 보시기 바랍니다.

11 이르시되 하나님 나라의 비밀을 너희에게는 주었으나 외인에게는 모든 것을 비유로 하나니

역시 선긋기가 되어 있습니다. 오늘날에도 예수님은 무리로부터 제자들을 나누어 그들에 대해서 훈련을 시키시려고 한다는 것을 볼 수 있습니다. 제자들은 그 예수님의 말씀에 따라 배를 저어 나갔습니다. 갈릴리 바다는 평소에는 잔잔한 바다이지만 해발이 매우 낮기 때문에 가끔 날씨가 급변하고 돌풍이 불어 광풍이 몰아치는 바다로도 알려져 있습니다. 이때도 뜻밖에 광풍을 만나 배는 파도를 뒤집어쓰고 물바다가 될 정도였습니다. 당시에는 전기 불빛 같은 것은 당연히 없었기 때문에 어두운 바다 가운데서 맞이한 그 공포라는 것은 분명 우리의 상상을 초월한 것이라고 생각됩니다. 여기서 특히 기억해보고 싶은 것은 물가에 머문 무리들은 광풍을 만나지 않았는데, 말씀을 따른 제자들은 광풍을 만났다는 점입니다. 무슨 죄를 지은 것도 아니고 그저 예수님의 말씀을 따랐을 뿐인데, 주님께서 명하신 대로 했더니 광풍이 몰아치고 있다는 것입니다. 이것이 의미하는 것은 우리의 믿음생활에 있어서도 말씀에 따라 걸어갈 때 그 길은 결코 평탄한 길만은 아니라는 것을 의미하지 않을까요? 우리는 걸핏하면 자신이 옳바른 신앙상태라면 일상이 평탄 할 것이라고 생각하게 됩니다. 만약 어떤 문제가 생긴다면 왜 이런 일이 벌어졌는지 하나님은 나를 어떤 죄 때문에 싫어하시는 게 아닐까 생각하게 됩니다. 그러나 그러한 인과관계는 오늘 성경 부분에서 시사되지 않았습니다. 오히려 주 예수님과 함게 노를 저어나온 신앙인의 여정에는 이런 고통이 종종 엄습하는 것입니다. 우리는 주일마다 예배를 드리고 성경의 말씀에 귀를 기울이고 하나님의 은혜와 축복으로 파견되어 각자의 생활 현장으로 배를 저어 갑니다. 하지만 그 현장이 항상 평탄하고 순조로운 것은 아닙니다. 이 세상에 휘몰아치는 돌풍과 큰 파도에 힙쓸려 물바다가 되고 주 예수님과 함께 저어 나왔을 배가 가라앉는 것처럼 보일 것입니다. 38절을 보시기 바랍니다.

(2) 하나님의 나타나심

38 예수께서 고물에서 베개를 베고 주무시더니 제자들이 깨우며 이르되 선생님이여 우리가 죽게 된 것을 돌보지 아니하시나이까 하니

이때 예수님은 고물에서 잠들어 계셨습니다. 고물은 배 뒤쪽 부분입니다. 제자들은 아마 패닉 상태에서 예수님을 깨우며 “스승님, 저희가 물에 빠져도 괜찮습니까?”라고 말했을 것입니다. 이 말은 언뜻 죽음에 직면한 제자들이 믿음을 가지고 예수님께 도움을 청하는 것처럼 보이지만 사실은 예수님에 대한 비판적 뉘앙스가 담겨 있습니다. 마침 요나서 가운데 배가 풍랑을 만나 선장들이 배의 적하물을 바다에 던져버리면서 어떻게든 광풍을 이겨내려 하는데 그때 배 밑층에서 누워 있는 요나를 발견하고 한 말과 겹칩니다. 요나서 1장 5,6절을 참조하시기 바랍니다.

5 사공들이 두려워하여 각각 자기의 신을 부르고 또 배를 가볍게 하려고 그 가운데 물건들을 바다에 던지니라 그러나 요나는 배 밑층에 내려가서 누워 깊이 잠이 든지라

6 선장이 그에게 가서 이르되 자는 자여 어찌함이냐 일어나서 네 하나님께 구하라 혹시 하나님이 우리를 생각하사 망하지 아니하게 하시리라 하니라

요나서에 나오는 선장은 요나에게 “이 비상시에 침착하게 자고 있다니 무슨 일인가? 당신의 신께 기도하든지 어쨌든 우리들이 살아남기 위해서 무엇이든 해 봐라”는 어조 였을 것입니다. 혹은 “같이 물건들을 바다에 버리는 것을 도와 달라”는 것도 포함되어 있었다고 생각합니다. 제자들도 마찬가지로 예수님께 요구하고 있는 것입니다. 혹은 “배에 들이찬 물을 양동이로 함께 퍼주세요”라는 것이었을지도 모릅니다. 제자들은 예수님이 병을 낫게 하거나 더러운 귀신을 쫓아내는 여러 기적을 행할 수 있는 예언자 같은 분임을 알고 있었습니다. 또한 자신들이 예수님에 의해 특별히 곁으로 모으심을 받은 자들, 즉 내부의 사람들이라는 것을 알고 있었습니다. 그러나 그 일이 반대로 재앙이 되어 하나님을 하나님으로 인식하지 못하고 예수님을 자신들의 집안 사람처럼 생각해 버리고 의심과 절망감 가운데 짜증을 예수님께 부딪치고 있는 것입니다. 우리도 인생의 광풍을 만나면 “하나님, 이 상황은 무엇 때문입니까?” “저를 사랑한다고 하셨잖아요. 이게 뭐예요”라고 생각할 수도 있을 것 같아요.

예수님은 깨어 나시고 「잠잠하라 고요하라」고 말씀하셨습니다. 여기서는 예언자처럼 자신의 신에게 기도하는 것이 아니라 직접적으로 바람과 바다를 향해 말씀하셨습니다. 그러자 바람은 그치고 완전히 고요해졌습니다. 아마도 그 모습은 피조물 모두를 자신의 주권 안에 다스리고 있는 창조주로서의 행동이었을 것입니다. 그것은 마치 권위를 가지고 사람들로부터 귀신을 쫓아낸 것처럼 권위 있게 바람과 바다를 향해 명령하신 것입니다. 그러자 바람과 바다는 예수님의 말씀을 이해하고 그 말씀에 순종하듯 광풍은 완전히 가라앉아 버렸습니다. 시편 104편 4~9절의 말씀을 소개하겠습니다. 보시기 바랍니다.

4 바람을 자기 사신으로 삼으시고 불꽃으로 자기 사역자를 삼으시며

5 땅에 기초를 놓으사 영원히 흔들리지 아니하게 하셨나이다

6 옷으로 덮음 같이 주께서 땅을 깊은 바다로 덮으시매 물이 산들 위로 솟아올랐으나

7 주께서 꾸짖으시니 물은 도망하여 주의 우렛소리로 말미암아 빨리 가며

8 주께서 물의 경계를 정하여 넘치지 못하게 하시며 다시 돌아와 땅을 덮지 못하게 하셨나이다

9 주께서 물의 경계를 정하여 넘치지 못하게 하시며 다시 돌아와 땅을 덮지 못하게 하셨나이다

여기에는 주님의 창조의 사역이 쓰여져 있습니다. 분명 예수님의 기적도 바로 죄에 지배되어 버린 이 세상에 재창조의 역사를 뚜렷이 드러내고 있는 그런 기적이었을 것이라고 생각합니다.

(3) 하나님을 경외하다

이 기적을 본 제자들의 반응은 놀라움과 두려움과 그리고 하나님에 대한 찬미로 채워졌습니다. 마가복음 4장 41절을 참조하십시오.

그들이 심히 두려워하여 서로 말하되 그가 누구이기에 바람과 바다도 순종하는가 하였더라

여기 「심히 두려워하여」라는 말이 있습니다. 이 두려움(포보스)은 「경건한 경외심」과 관련이 있는 단어로, 40절의 「무서워하다(데이로이)」「겁쟁이가 되다」와는 다른 단어가 사용되어 있습니다. 예수님이 행하시는 기적을 통해서 바로 하나님 자신의 나타나심을 엿볼 수 있었던 제자들에게, 지금까지의 친구와 같은 친근하고 인간으로서의 예수님에서 초자연적인 하나님의 아들로서의 예수님에로 인식의 전환이 강렬하게 다가 온 것입니다. 예언자로서의 예수가 아닌 창조주로서 하나님의 권위를 가진 예수님이신 것입니다. 저는 이 하나님에 대한 경건한 경외심이 매우 중요하다고 생각합니다. 하나님은 우리와 함께 계신 가까운 분이심과 동시에 우리는 결코 이해할 수 없는 초월적인 분이심도 잊어서는 안된다고 생각합니다. 만약 어느 한쪽으로 치우친 믿음이 되어버린다면 하나님의 섭리에 대한 믿음을 가질 수 없게 될 것입니다. 예를 들면 하나님은 우리와 함께 계시는 친근한 분, 친구 같은 분이라는 믿음뿐이라면 광풍이 일었을 때 하나님을 비판하며서 믿음에 서 있을 수가 없게 되는 것입니다. 반대로 초월자이신 하나님만을 믿고 너무 하나님을 두려워한다면 하나님의 사랑을 이해할 수 없을 것입니다. 균형이 중요하다는 것입니다. 하나님께 대한 경건한 경외감을 가질 때 우리는 “하나님이 하시는 일은 우리는 결코 이해할 수가 없다” “하나님께서 하시는 일은 지금 이 시점에서 나에게 수수께끼 같지만, 분명 나중에 가면 모든 것이 하나님의 선하신 계획 가운데 있었다”는 것을 깨닫게 될 것이라고 생각합니다. 반드시 우리의 유익을 위해 일하셨다는 것을 나중에 깨닫게 될 것입니다. 하나님께 대한 경건한 경외심은 하나님의 섭리에 대한 믿음으로 우리를 인도해 주는 것입니다.

결론

예수님을 믿는 우리의 삶에도 광풍은 항상 찾아옵니다. 말씀을 따르고 있을 때에도 역시 광풍은 찾아옵니다. 학교를 졸업하고 전망이 밝은 어느 회사에 취직해도 현대와 같은 시대는 언제 해고를 당할지, 회사가 도산을 해 버리는 쓰라린 체험을 할지 모릅니다. 드디어 가정을 가지게 되었다면 그것은 큰 기쁨이지만 동시에 가족관계에서 오는 다양한 고민과 고통이 새롭게 생길 것입니다. 그리고 사고나, 병이나, 늙음의 고통이 우리 생활을 위협할지도 모릅니다. 그런 고난의 무게 때문에 배가 가라앉을 것 같은 거죠. 또 마지막에는 죽음의 고통이 있습니다. 자신의 죽음에 대한 두려움도 그렇지만 사랑하는 사람, 친한 사람의 죽음이 바로 우리 삶의 배를 전복시킬 수 있는 큰 파도로 덥쳐 옵니다. 그런 인생의 광풍 가운데 우리는 어떻게 믿음을 지켜나가면 좋을까요? 그것은 예수님이 그러한 광풍 가운데 있더라도 우리와 함께 계신다는 것, 따라서 예수님이 다 알고 계시며 그 광풍도 하나님의 섭리 안에 있다는 것입니다. 결국 하나님의 섭리를 믿는 수밖에 없다고 생각합니다. 그 하나님의 섭리를 믿는데 있어서 하나님에 관한 것이라면 대체로 잘 알고 있다는 믿음이나 선입견을 버려야 할 것입니다. 오히려 “우리는 거룩한 하나님에 관하여 거의 알지 못하고 있지 않은가”, “하나님의 심연한 섭리에 대해 조금도 깨달음을 가지고 있지 않은 것은 아닌가”라는 경건한 경외심을 가질 때 하나님께서 하시는 일이 지금 이 시점에서 나에게 수수께끼 같지만 분명 나중에는 모든 것이 하나님의 선하신 계획 안에 있었다는 것을 깨닫게 될 것입니다. 그 일에 희망을 가지면서 우리는 이번 주도 말씀을 따라 어둠 속으로 노를 저어 나가는 자들이 되도록 합시다.

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