2022年08月28日「共同体に与えられた戒め 공동체에 주어진 계명」

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共同体に与えられた戒め 공동체에 주어진 계명

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 24章6節~22節

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24:6挽き臼あるいはその上石を質に取ってはならない。命そのものを質に取ることになるからである。
24:7同胞であるイスラエルの人々の一人を誘拐して、これを奴隷のように扱うか、人に売るのを見つけたならば、誘拐したその者を殺し、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
24:8重い皮膚病については、細心の注意を払い、すべてレビ人である祭司が指示するとおりに行いなさい。わたしが彼らに命じたとおり忠実に守りなさい。
24:9エジプトから出た後の旅路で、あなたの神、主がミリアムになさったことを思い起こしなさい。
24:10あなたが隣人に何らかの貸し付けをするときは、担保を取るために、その家に入ってはならない。
24:11外にいて、あなたが貸す相手の人があなたのところに担保を持って出て来るのを待ちなさい。
24:12もし、その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない。
24:13日没には必ず担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝ることができ、あなたを祝福するであろう。あなたはあなたの神、主の御前に報いを受けるであろう。
24:14同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。
24:15賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。
24:16父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。
24:17寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。
24:18あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。
24:19畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。
24:20オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。
24:21ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。
24:22あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 24章6節~22節

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【序】

 本日の箇所と、それから来週見ることになる25章には、人道的な諸規定が書かれています。この箇所は、一見すると、とりとめもなく、アトランダムに戒めが羅列されているかのように見えます。何の関連づけもなく、組織化されていないように見えるのです。ところが24章、25章で挙げられている戒めは、おそらく当時のイスラエルの人々が見るときに、どこかで見たような、何か心当たりがあるような戒めばかりであったに違いありません。というのは、24~25章に書かれている戒めとは、イスラエルの民にとって、自分たちの先祖が過去においてやられた悪事であり、或いは相手に対して、イスラエルの民がやらかしてしまった悪事であったからです。神さまの戒めを聞いた時、民は一体何を思ったでしょうか。恐らく先祖たちの罪、或いは先祖たちの無念な思いが、頭をよぎったのではないかと思われます。戒めを聞いた瞬間にドキッとして、とても敏感になったことでしょう。彼らは、自分たちの過去の記憶をしっかりと心に刻みながら、二度と同じ失敗をしないため、何か心当たりのある、これらの戒めをモーセから聞いたのであります。

【1】. 命そのものを質に取ることと、重い皮膚病の対処

 それではどのような戒めが書かれているのか、早速、本文に目を向けてまいりましょう。6、7節をご覧ください。

“挽き臼あるいはその上石を質に取ってはならない。命そのものを質に取ることになるからである。同胞であるイスラエルの人々の一人を誘拐して、これを奴隷のように扱うか、人に売るのを見つけたならば、誘拐したその者を殺し、あなたの中から悪を取り除かねばならない。”

ここでは何が語られているのかと言いますと、人の命に関わるものを担保として質に取ってはならないということです。挽き臼を取ることも、人を誘拐して売買することも、人の命を担保として質入れするような行為であると言っているのです。人を誘拐することは、「人身売買」という言葉もあるほどですから何となく理解できますが、挽き臼を取ることが何故、人の命を担保に入れることになるのでしょうか。この挽き臼というのは、穀物を粉にするものでありまして、当時、イスラエルの家庭で、夕方になり火皿に火が灯されると、食事の支度が始まります。その時にこの家からも、あの家からも挽き臼を挽く音がゴロゴロと聞こえてきました(エレ25:10)。挽き臼とは、家庭の必需品であり、これを質入れするということは、食事を取ることができないことを意味します。つまり、挽き臼を取ることは、命が脅威にさらされる問題であったのです。兄弟であるイスラエルを誘拐し、これを奴隷のように扱ったり、人に売りつけるような事件は、彼らの記憶に新しく、誰もがこの問題に敏感になりました。それは父ヤコブから寵愛を受けたラケルの子ヨセフが、砂漠を行き来するキャラバンに売りつけられた事件であります。ヨセフの兄たちは、なんとかして父親の愛情を自分たちへ向けようとしたんですね。その目的のために手段を選ばず、弟ヨセフの命を質に入れることまでしたのです。従って、6節の“命そのものを質に取ることになるから”「それはだめだよ!」っという戒めは、彼らにとって、大変リアリティを持って迫って来たと思われるのです。続いて8、9節をご覧ください。

“重い皮膚病については、細心の注意を払い、すべてレビ人である祭司が指示するとおりに行いなさい。わたしが彼らに命じたとおり忠実に守りなさい。エジプトから出た後の旅路で、あなたの神、主がミリアムになさったことを思い起こしなさい。”

重い皮膚病とは、何かと申しますと、ヘブライ語ではツァラアトと書かれています。古い解釈ですと、この病気はハンセン病であると考えられていました。ところがこの症状は、皮膚だけでなく、衣服の布、建物の壁にも現れる症状であって、最近では「少なくともハンセン病それ自体を指しているのではない」と考えられています。ですから聖書協会共同訳には、「規定の病」と改められました。「規定の病」と訳されることによって、さらに何が何だか分からなくなってしまいましたが、とにかくこの病は、汚れを受けることを意味していて、この病と、ミリアムに起こった事件が結び付けられている点に注目してください。ミリアムは、モーセによって語られる御言葉に対し異議を唱え、自分でもモーセのように神さまから御言葉を授かることができると主張しました。その時、ツァラアトの症状が現れ、汚れた者とされてしまいました。ミリアムは聖なる共同体から一週間隔離され、そしてミリアムがモーセの権威に服従し、悔い改めた時に、ようやく、その汚れから清めを受けることが出来ました。その事件は誰もが知っている事件でありました。もし、聖なる共同体を、自らの高慢や、自らの罪によって汚してしまう時、その時は必ず祭司に服従し、悔い改めを持って、教会の権威に従順に遜らなければならないということがここで教えられているのです。教会とは、そのように聖なる群れであり、教会とは私たちが考えている以上に、神の臨在される場所であるということです。

【2】. 担保を取る際の注意事項と、貧しい人への賃金支払い方法と、父と子の咎の仕切り

 10節から13節までは再び、担保を取る際の注意事項が並べられています。担保として上着を取るケースがありましたが、もし負債者が貧しい場合にはその上着を日没までには返さなければならないと規定されていました。なぜなら、パレスチナ地方の夜は、大変冷えるため、上着が布団の代わりになったからです。そして上着を返却された貧しい人は、貸主を祝福し、こうして貧しい人々を共同体が顧みることによって、共同体全体が神の御前に報いを受けることになるのです。続いて14、15節をご覧ください。

“同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。”

15節に指摘されているように、貧しい人は、その日に働いた賃金を当てにしていました。そのような人々には必ず労働が終わる夕方に、賃金を支給しなさい!支払いを滞らせてはならない!と言っているのです。これは、ヤコブと叔父ラバンの物語を想起させたことでしょう。ヤコブは自分の一族から妻を迎え入れるために、叔父のラバンのもとに行き、ラバンの下で7年間、無償で仕え、その報酬として娘のラケルを妻としてもらう事を約束しました。ヤコブはラケルを愛していたので、あっという間に7年間が過ぎました。ところが7年仕えて与えられたのは姉のレアであり、結局、ヤコブはレアとラケルの二人を妻としてもらうことになり、二人の妻の為に14年間ラバンの下で仕えることになりました。その後もラバンは、何度もヤコブに与える報酬を変えながら、最終的にラバンの下で、レアとラケルの為に14年間、ラバンの家畜の為に6年間、合計20年間、仕えることになったのです。ですから、イスラエルの民は「搾取してはならない」「賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。」という戒めが、あのヤコブの無念と共に、やはり彼らにリアリティを持って迫って来たと思われるのです。どこかで聞いたことがあるような、何か心当たりのある戒めとして聞こえてきたのです。続いて16節をご覧ください。

“父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。”

これは、父の咎は、子に負わせてはならず、子の咎は父に負わせてはならない。たとえ親子であろうと、そこは線引きされているということです。これは、ヤコブの子どもであるレビとシメオンの犯した残虐な罪を思い起こされます。レビとシメオンの罪とは何かといいますと、ある日、妹ディナがヒビ人のシケムに辱められてしまいました。そこでヒビ人のシケムと父親のハモルがそのことを詫びるために、ディナとうちの息子シケムとを結婚させてはもらえないかと相談に来ました。その際、イスラエルの民がヒビ人の土地に移り住んでも構わないし、高い結納金でも贈り物でも、お望みどおりに差し上げましょうと申し出てきました。

ところがレビとシメオンは、悪巧みを働かせ、割礼を受けていない者に、妹を出すことなどできないと言いながら、ヒビ人全員に割礼を受けさせ、痛みにもがいているヒビ人の男子をレビとシメオンが二人で全員殺し、町ごと奪ってしまったのです。つまり、シケムの犯した罪を、その父ハモルと、そしてヒビ人の男子全員に負わせているのです。レビとシメオンは、とんでもない罪をやらかしてしまいました。「父は子のゆえに死に定められず、」という戒めを聞いた時に、イスラエルの民はドキッとしたに違いなかったことでしょう。最後に、17、18節をご覧ください。

【3】. 社会的弱者の権利を歪めてはならない

 “寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。”

17節以降に「寄留者、孤児、寡婦(未亡人)」という言葉が繰り返し出てまいりますが、つまり社会的弱者のことを指しています。社会的弱者は、人々から無視されたり、彼らの権利が歪められたりすることが度々ありました。これは現代でもそうですね。イスラエルの民にとって、再びヨセフのことが思い起こされたことでしょう。ヨセフはキャラバンによって、エジプトに連れられて、ポティファルに仕える奴隷として売り飛ばされました。エジプトの国の中でヘブライ人のヨセフは、まさに寄留者であります。ある日、ポティファルの妻がヨセフに「私と一緒に寝ておくれ」と迫って来ました。ヨセフはすぐにその場から逃げましたが、ポティファルの妻はヨセフの服を取って、「キャー」と大声で叫びました。家の者たちがやって来ると、彼女はヨセフの服を見せて、「あのヘブライ人の奴隷が私を弄ぼうとした」とでっち上げを言いました。これによってヨセフの正しさが歪められ、不当な罪を着せられてしまいました。直ちにヨセフはすぐに捕らえられ、監獄に入れられてしまいました。このように寄留者、孤児、未亡人とは立場的に弱いために、裁判という公正な場においても不利な判決が下されてしまうのです。「寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない」という戒めは、このヨセフの無念さと共にイスラエルに民に、大変リアリティを持って迫って来た戒めであったと思われるのです。

ところで、モーセの後の時代になって、社会的弱者である「寄留者、孤児、寡婦」が大切にされたという事件が起こります。それはモアブ人のルツに対してです。ルツという女性は、イスラエルの地で、寄留者であり、同時に、身寄りのない孤児でもあり、未亡人でもありました。この三つの単語、全てルツに当てはまります。しかし、そのような弱い立場のルツに対し、格別の注意を払い、落ち穂拾いをさせてくれるよう、配慮してくれたのが、ボアズでありました。ボアズがルツを憐れみ、顧みることによって、神さまが彼らに報いてくださり、ボアズとルツを通してオベドが生まれ、オベドからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれて来たのであります。このダビデを通して、イスラエルの信仰が回復されることになります。このように、社会的な弱者である寄留者、孤児、寡婦の権利は決して歪められてはならず、そのような弱者に対して特にイスラエルは顧みを与えるべきなのです。

【適用】

 申命記の24章と、次回見ることになる25章では、人道的な諸規定が与えられていると申し上げましたが、それらの規定は、どれもイスラエルの民が過去にやられた悪事であり、或いは、相手にやらかしてしまった悪事でありました。どれも心当たりのある戒めであったということです。彼らは、自分たちの過去の記憶を思い起こし、このような自分たちでさえ、神さまは依然として愛して下さり、宝の民のように顧みてくださり、御言葉によって養ってくださっているということを改めて感謝することができたのだと思います。

本日の箇所を、私たちにどのように適用することが出来るでしょうか。皆さんは、幼い頃だったり、過去において、他人から何らかの被害を被って悲しい思いをした経験はないでしょうか?例えば、いじめにあったとか、差別されたりとか、恥ずかしい思いをさせられたり、などです。そのような思い出は忘れようと思っても、中々忘れられるものではありませんね。反対に、自分が加害者として害を与えた経験はないでしょうか?例えば、人に傷を与えてしまったり、幼心に万引きをしてしまったり、まだ交通ICカードが導入される前に電車のキセルを意図的にしてしまったり、或いは男女の交際において相手を傷つけたことなどです。そのような経験は忘れようとしても、中々忘れられるものではありません。何故かその悪事をした決定的瞬間を、今でもはっきりと覚えていて、記憶から消去できないものであります。私たちはたとえ、キリスト者であろうと、年を重ねるごとに、多くの罪を重ねて生きていくものです。そのような過去の記憶は、すべて、イエス・キリストにあって赦されている。イエス・キリストにあって全てのことが益とされている。もうこれからは罪を犯さないように!ということを本日の箇所は教えてくれているのだと思います。私たちもこれまでの生きてきた人生を振り返る時に、イスラエルの民と同じく、その歩みは、罪にまみれた歩みであり、忘れ去ろうとしても決して忘れることの出来ない、恥ずかしい記憶に満ち溢れています。しかし、神さまは御子、主イエス・キリストの故に、全ての罪を赦してくださり、もう、罪を犯してはならないと戒めを与えてくださり、なお、私たちを御言葉によって、養っていてくださるのです。この神さまに感謝しつつ、悔い改めを持って、一週間の歩みを始めさせていただきましょう。

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공동체에 주어진 계명

2022년 8월 28일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

신명기 24장 6~22절

서론

오늘의 본문과 그리고 다음 주에 살펴 보게 될 25장에는 인도적인 규정들이 적혀 있습니다. 이 부분은 얼핏 보면 정리되지 않은 무작위의 계명이 나열되어 있는 것처럼 보입니다. 아무런 관련 없이 조직화 되지 않은 것처럼 보입니다. 그런데 24장, 25장에서 언급하고 있는 계명은 아마도 당시 이스라엘 사람들이 볼 때 어디선가 본 것과 같은 무언가 짚이는 것뿐이었을 것입니다. 왜냐하면 24,25장에 적혀있는 계명은 이스라엘 백성들에게 자신들의 조상이 과거에 행한 악행이었기 때문입니다. 하나님의 계명을 들었을 때 백성들은 도대체 무슨 생각을 했을까요? 아마도 조상들의 죄, 혹은 조상들이 저지른 어리석음이 머리를 스친 것이 아닐까 생각됩니다. 계명을 듣든 순간 가슴이 철렁 내려 앉았고 굉장히 예민해졌을 것입니다. 그들은 자신들의 과거의 기억을 단단히 마음에 새기면서 다시는 같은 실수를 하지 않기 위해 무언가 마음에 짚이는 이 계명들을 모세로부터 들은 것입니다.

(1) 생명 그 자체를 전당 잡는 것과 심각한 피부병에 대한 대처

그럼 어떤 계명이 적혀 있는지 바로 본문으로 눈을 돌려 보도록 하겠습니다. 6,7절을 보시기 바랍니다.

6 사람이 맷돌이나 그 위짝을 전당 잡지 말지니 이는 그 생명을 전당 잡음이니라

7 사람이 자기 형제 곧 이스라엘 자손 중 한 사람을 유인하여 종으로 삼거나 판 것이 발견되면 그 유인한 자를 죽일지니 이같이 하여 너희 중에서 악을 제할지니라

여기서는 무엇이 이야기 되고 있는가 하면, 사람의 생명과 관련된 것을 전당 잡아서는 안된다는 것입니다. 맷돌을 잡는 것도, 사람을 유괴해서 사고 파는 것도 사람의 목숨을 전당 잡는 것과 마찬가지 행위라고 말하고 있는 것입니다. 사람을 유괴하는 것은 「인신매매」라고 하는 단어가 있을 정도이니 어느 정도 이해가 갑니다만 왜 맷돌을 전당 잡는 것이 사람의 생명을 전당 잡는 것이 됩니까? 이 맷돌이라고 하는 것은 곡물을 가루로 만들 때 사용하는 것입니다. 당시 이스라엘의 가정에서 저녁이 되어 화덕에 불이 켜지면 식사 준비가 시작됩니다. 그때 이집에서도 저집에서도 맷돌 가는 소리가 덜그럭 덜그럭하고 들렸습니다(예레미야 25장 10절). 맷돌은 가정의 필수품이며 이를 담보로 잡는다는 것은 생명이 위협받는 문제였던 것입니다. 형제인 이스라엘을 유괴해 이를 노예처럼 취급하거나 남에게 팔아 넘기는 사건은 그들의 기억에 새롭고 누구나가 이 문제에 민감해졌습니다. 그것은 아버지 야곱의 편애를 받았던 라헬의 아들 요셉이 사막을 횡단하는 카라반에게 팔린 사건이었습니다. 요셉의 형들은 어떻게든 아버지의 애정을 자신들에게 돌리려고 했습니다. 그 목적을 위해 수단을 가리지 않고 동생 요셉의 목숨을 전당잡기까지 한 것입니다. 따라서 6절의 「그 생명을 전당 잡음이니라」에 따라 “그것은 안 된다!”라고 하는 계명은 그들에게 있어서 매우 리얼리티 있게 다가왔다고 생각되는 것입니다. 이어서 8,9절을 읽어보시겠습니다.

8 너는 나병에 대하여 삼가서 레위 사람 제사장들이 너희에게 가르치는 대로 네가 힘써 다 지켜 행하되 너희는 내가 그들에게 명령한 대로 지켜 행하라

9 너희는 애굽에서 나오는 길에서 네 하나님 여호와께서 미리암에게 행하신 일을 기억할지니라

나병(일본어 성경에는 중한 피부병이라 번역되어 있음)이란 히브리어로는 차라아트라고 쓰여져 있습니다. 오래된 해석에 따르면 이 병은 한센병이라고 생각되었습니다. 그런데 이 증상은 피부뿐만 아니라 옷감, 건물 벽에도 나타나는 증상으로 최근에는 「적어도 한센병 그 자체를 가르키는 것은 아니다」라고 생각하고 있습니다. 그래서 성경협회 공동역(일본성경)에는 「규정의 병」으로 고쳐졌습니다. 「규정의 병」으로 번역됨에 따라 더욱 뭐가 뭔지 모르게 되었지만 어쨌든 이 병은 부정해진 다는 것을 의미하고 있으며 이 병과 미리암에게 일어난 사건이 연결되어 있다는 점에 주목해 주시기 바랍니다. 미리암은 모세가 하는 말에 이의를 제기하며 스스로도 모세처럼 하나님의 말씀을 받을 수 있다고 주장했습니다. 그때 차라아트 증상이 나타나 부정한 사람으로 여겨져 버렸습니다. 미리암은 거룩한 공동체로부터 일주일간 격리되었고 그리고 미리암이 모세의 권위에 복종하고 회개했을 때 비로소 그 더러움으로부터 정결케 함을 받았습니다. 그 사건은 누구나 알고 있는 사건이었습니다. 만약 거룩한 공동체를 스스로의 교만이나 자신의 죄로 더럽힐 때 그때는 반드시 제사장에게 복종하고 회개함으로 교회의 권위에 순종해야 한다는 것을 여기서 가르치고 있는 것입니다. 교회란 그렇게 거룩한 무리이고 교회란 우리가 생각하는 것 이상으로 하나님이 임재하시는 곳입니다.

(2) 전당을 잡을 때의 주의사항과 가난한 사람에 대한 삯의 지불 방법과 아버지와 자녀의 책임의 구분

10절부터 13절까지는 다시 전당을 잡을 때의 주의사항이 나열되어 있습니다. 전당물을 겉옷을 취하는 경우가 있었는데, 만약 부채자가 가난한 경우에는 그 겉옷을 일몰까지는 돌려줘야 한다고 규정되어 있습니다. 왜냐하면 팔레스타인 지방의 밤에는 날씨가 매우 추워 겉옷이 이불을 대신했기 때문입니다. 그리고 겉옷을 돌려 받은 가난한 사람은 돌려준 전당주를 축복하고 이렇게 가난한 사람들을 공동체가 돌아봄으로써 공동체 전체가 하나님 앞에서 상을 받게 되는 것입니다. 이어서 14,15절을 읽어보시기 바랍니다.

14 곤궁하고 빈한한 품꾼은 너희 형제든지 네 땅 성문 안에 우거하는 객이든지 그를 학대하지 말며

15 그 품삯을 당일에 주고 해 진 후까지 미루지 말하 이는 그가 가난하므로 그 품삯을 간절히 바람이라 그가 너를 여호와께 호소하지 않게 하라 그렇지 않으면 그것이 네게 죄가 될 것임이라

15절에 지적된 것처럼 곤궁하고 빈한한 품꾼은 그 날 일한 품삯을 간절히 바랬습니다. 그러한 사람들에게는 반드시 노동이 끝나는 저녁에 삯을 지불하라! 지불을 지체해서는 안 된다!라고 말하는 것입니다. 이것은 야곱과 삼촌 라반의 이야기를 상기시켰을 것입니다. 야곱의 자신의 가문에서 아내를 맞아들이기 위해 삼촌 라반에게 가서 라반 밑에서 7년 동안 무상으로 섬기고 그 보상으로 딸 라헬을 아내로 받겠다고 약속했습니다. 그런데 7년을 섬기고 주어진 것은 언니 레아였고 결국 야곱은 레아와 라헬 두 사람을 아내로 받게 되었고 그 후에도 라반은 여러 번 야곱에게 주는 삯을 바꾸면서 결국 라반 밑에서 레아와 라헬을 위해 14년, 라반의 가축을 위해 6년, 총 20년을 섬기게 된 것입니다. 그러므로「착취해서는 안 된다」「그 품삯을 당일에 주고 해 진 후까지 미루지 말라」는 계명은 이스라엘 백성에게 선조 야곱의 억울함과 함께 그들에게 생생하게 다가왔다고 생각되는 것입니다. 어디선가 들어 본 것 같은 뭔가 짚히는 것이 있는 계명으로 들리는 것입니다. 계속해서 16절을 읽어보시겠습니다.

16 아버지는 그 자식들로 말미암아 죽임을 당하지 않을 것이요 자식들은 그 아버지로 말미암아 죽임을 당하지 않을 것이니 각 사람은 자기 죄로 말미암아 죽임을 당할 것이니라

이는 아버지의 잘못을 자식에게 지워서는 안 되며, 자식의 잘못은 아버지에게 지워서는 안 된다는 계명은 비록 부모와 자식일지라도 그 관계에 대해서 선긋기가 되어 있다는 것입니다. 이것은 야곱의 아들인 레위와 시므온이 저지른 잔학한 죄를 떠올리게 합니다. 레위와 시므온의 죄가 뭐냐 하면, 어느 날 여동생 디나가 히위 족속의 추장 세겜에게 강간을 당하고 맙니다. 그래서 추장인 세겜과 그 아버지 하몰이 그 일을 사과하기 위해 디나와 자신의 아들 세겜을 결혼시켜 줄 수 있는지 청하러 왔습니다. 그때 이스라엘 백성들이 히위 족속의 땅으로 이주해서 살아도 좋고

매매하며 그곳에서 기업을 얻으라 하였습니다.

그런데 레위와 시므온은 흉계를 부려 할례를 받지 않은 자에게는 여동생을 보낼 수 없다고 말하면서 히위 족속 전원에게 할례를 받게 하고 그 후에 그들이 아파할 때에 히위 족속 남자를 레위와 시므온이 둘이서 기습하여 모두 죽이고 마을을 노략했습니다. 즉 세겜이 저지른 죄를 그 아버지 하몰과 그리고 그 부족 남자들 모두에게 뒤집어 씌우고 있는 것입니다. 레위와 시므온은 터무니없는 죄를 저지르고 말았습니다. 「아버지는 그 자식들로 말미암아 죽임을 당하지 않을 것이요」라는 계명을 들었을 때 이스라엘 백성들은 가슴이 철렁 내려 앉았을 것입니다. 마지막으로 17,18절을 보시기 바랍니다.

(3) 사회적 약자의 권리를 왜곡해서는 안 된다

17 너는 객이나 고아의 송사를 억울하게 하지 말며 과부의 옷을 전당 잡지 말라

18 너는 애굽에서 종 되었던 일과 네 하나님 여호와께서 너를 거기서 속량하신 것을 기억하라 이러므로 내가 네게 이 일을 행하라 명령하노라

17절 이후에 「객, 고아 과부」라는 말이 반복적으로 나오는데, 즉 사회적 약자를 말합니다. 사회적 약자들은 사람들로부터 무시당하거나 그들의 권리가 왜곡되는 경우가 종종 있었습니다. 이건 오늘날에도 그렇죠. 이스라엘 백성들에게 요셉이 다시 떠올랐을 겁니다. 요셉은 카라반에 의해 애굽으로 끌려가 보디발을 섬기는 노례로 팔려갔습니다. 애굽이라는 나라에서 히브리인인 요셉은 객입니다. 어느 날 보디발의 아내가 요셉에게 「나와 동침하자」고 다가왔습니다. 요셉은 곧바로 그 자리에서 도망쳤지만 보디발의 아내는 요셉의 옷을 집어들고 소리를 질렀습니다. 집안 사람들이 오자 그녀는 요셉의 옷을 보여 주며 「그가 나와 동침하고자 내게로 들어오므로」라고 꾸며댔습니다. 이로 인해 요셉의 옳바름이 왜곡되고 부당한 죄를 뒤집어쓰고 말았습니다. 즉시 요셉은 붙잡혀 감옥에 갇히고 말았습니다. 이처럼 객, 고아, 과부는 입장적으로 약자의 위치이기 때문에 재판이라는 공정한 장소에서도 불리한 판결이 내려지게 되는 것입니다. 「객이나 고아의 송사를 억울하게 해서는 안 된다」는 계명은 이 요셉의 억울함과 함께 이스라엘 백성들에게 매우 생생하게 다가온 계명이었다고 생각됩니다.

그런데 모세의 후대에 이르러 사회적 약자인 「객, 고아, 과부」가 소중히 여겨졌던 사건이 일어납니다. 그것은 모압 여인 룻에 대해서입니다. 룻이라는 여성은 이스라엘 땅에서 객이자 친척이 없는 고아이기도 했고 과부이기도 했습니다. 이 세 단어 모두 룻에 해당됩니다. 그러나 그런 약한 처지의 룻에 대해 각별한 주의를 기울여 이삭줍기를 하도록 배려해 준 사람이 보아스였습니다. 보아스가 룻을 긍휼히 여기고 돌아봄으로써 하나님이 그들에게 보답해 주셨고 보아스와 룻을 통해 오벳이 태어나고 오벳에게서 이새가 태어나고 이 이새로부터 다윗이 태어나게 된 것입니다. 이 다윗을 통해 이스라엘의 믿음이 회복될 것입니다. 이처럼 사회적 약자인 객, 고아, 과부의 권리는 결코 왜곡되어서는 안 되며, 그러한 약자에 대해 특히 이스라엘은 배려해야 합니다.

적용

신명기 24장과 다음 주에 살펴 보게 될 25장에서는 인도적인 규정들이 주어져 있다고 말씀드렸지만, 그 규정들은 모두 이스라엘 백성들이 과거에 당한 악행이었으며 또는 상대에게 행했던 악행이었습니다. 어느 쪽이든 모두 짐작되는 계명이었다는 것입니다. 그들은 자신들의 과거 기억을 떠올렸고 이러한 자신들조차 하나님은 여전히 사랑해 주시고 보물의 백성처럼 보살펴 주시고 말씀으로 양육해 주신다는 것에 다시 한번 감사할 수 있었던 것 같습니다.

오늘의 구절을 우리들은 어떻게 적용할 수 있을까요? 여러분은 어렸을 때나 과거에 다른 사람들에게 어떤 피해를 입고 슬퍼했던 경험은 없으신가요? 예를 들어 왕따를 당했다든가, 차별을 당했다든가, 부끄러운 일을 당했다든가 하는 일 등입니다. 그런 기억은 잊으려고 해도 좀처럼 잊혀지지가 않지요. 반대로 자신이 가해자로서 해를 끼친 경험은 없을까요? 예를 들어 사람에게 상처를 주거나 어린 마음에 도둑질을 해 버리거나 아직 교통 IC카드가 도입되기 전에 전철을 의도적으로 부정승차하거나 또는 남녀의 교제에 있어서 상대방에게 상처를 준 것 등입니다. 그런 경험은 잊으려고 해도 좀처럼 잊혀지는 것이 아닙니다. 어째서인지 그 나쁜 짓을 한 결정적 순간을 지금도 분명히 기억하고 있어 기억으로부터 지울 수 없는 것입니다. 우리는 비록 그리스도인일지라도 해를 거듭할수록 많은 죄를 쌓아가며 살고 있습니다. 그런 과거의 기억은 모두 예수 그리스도께 용서받았다. 예수 그리스도 안에서 모든 것이 합력하여 선을 이루고 있다. 이제부터는 죄를 짓지 않도록 유의하자!라는 것을 오늘의 구절은 가르쳐 주고 있다고 생각합니다. 우리도 지금까지 살아온 삶을 뒤 돌아볼 때 이스라엘 백성들과 마찬가지로 그 삶의 걸음은 죄로 얼룩진 걸음이며 잊으려 해도 결코 잊을 수 없는 부끄러운 기억으로 가득합니다. 그러나 하나님께서는 독생자 주 예수 그리스도 때문에 우리의 모든 죄를 용서해 주시고 더 이상 죄를 짓지 말라고 계명을 주시며 또한 말씀으로 우리를 양육해 주시는 것입니다. 이 하나님께 감사드리며 회개하는 마음으로 일주일간의 걸음을 시작하고자 합니다.

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