2022年07月31日「見ない振りをしてはならない 못 본 체하지 말고」

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見ない振りをしてはならない 못 본 체하지 말고

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 22章1節~4節

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22:1同胞の牛または羊が迷っているのを見て、見ない振りをしてはならない。必ず同胞のもとに連れ返さねばならない。
22:2もしも同胞が近くの人でなく、だれであるかも分からない場合は、それを家に連れ帰り、同胞が捜しに来るまで手もとに置き、捜しに来たとき、その人に返しなさい。
22:3ろばであれ、外套であれ、その他すべて同胞がなくしたものを、あなたが見つけたときは、同じようにしなさい。見ない振りをすることは許されない。
22:4同胞のろばまたは牛が道に倒れているのを見て、見ない振りをしてはならない。その人に力を貸して、必ず助け起こさねばならない。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 22章1節~4節

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【序】

 私がキリスト者になったばかりの頃、旧約聖書を開いても、どうも難しかったことを覚えています。特に旧約の律法と呼ばれているものは、どこまで文字通り実行すべきなのか、或いは全く無視してもいいものなのか、その辺の按配がはっきりしなくて、いつも、もやもやとしていました。そのうちに、旧約聖書に対する姿勢というものが、両極端あるということが分かってきました。一つの極端は、「旧聖書はもう終わったのだから、無視していいんだ」「旧約聖書はほとんど読む必要はない」という極端です。もう一つの極端は、「旧約聖書も神の言葉だから、書かれていることは全て実行しなければならない」という極端です。その後、神学校などで勉強して少しずつ分かったことは、神の聖なる律法とは、永遠なものですが、時代、時代において、その表現の仕方が、その姿が変わっていくということです。例えば、祭壇で献げる犠牲の供え物の規定や、節気に関する規定です。このような律法は、キリストを指し示すものでありますので、イエス様の来臨と共に廃止されました。新約に生きる私たちは、もはや家畜を生贄として神さまに献げなくて良いわけです。それから司法に関する律法があります。例えば申命記21章、22章、23章に出て来る、諸々の規定です。捕虜の女性との結婚の規定、或いは両親に反抗する子どもを長老に突き出して、石打ちにする規定、或いは屋上の屋根に欄干を付けさせる規定などです。このような規定は、そういった律法の精神が時の国家の司法制度に生かされ、継続されているため、国家の誕生と共に廃止されたと考えられるわけです。しかし、十戒のように律法の核となる部分、所謂、道徳律法と呼ばれている部分は、今でも有効であると言うことができます。福音書を見ると、山上の垂訓の中でイエス様が直接、道徳的な教えを弟子たちに説かれました。また書簡を見ると、パウロは「キリストの律法」を行いなさいと勧めています。ですから道徳的な律法に関しては、今でも一貫性のある法であるということができるのです。しかし、そうは言われても、旧約聖書を読んでいて、何が道徳律法であるのか、やはり、解釈するのに難しいという問題にぶつかります。後は信仰を持って読むということ以外にはないのではと思うのです。多少、解釈が間違ってしまっても、信仰を持ってその中から、新約時代に生かされている私たちにも適用できる律法について耳を傾けていきたいと思います。

【1】. 見ない振りをすることは罪

 少し前置きが長くなってしまいましたが、本日の箇所は、牛であれ、羊であれ、或いは、ロバであれ、外套であれ、その他、同胞がなくしたものを見つけた時、それを見ない振りをしてはならないという内容です。この教えは、「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」という、レビ記19:18の教えと通じるものがあると言えるでしょう。最初に「同胞の」という言葉が出てきますが、これは、ヘブライ語のアーハ「兄弟」という言葉であります。当時のユダヤ人において「兄弟」という言葉が、かなり広い意味で用いられていたため、この言葉はある所では、「兄弟(10:9,13:7,23:8等)」と訳され、ある所では「同胞(15:12,17:15,17:20,18:2等)」と訳されたりしています。とにかくユダヤ人にとって、同胞は皆、兄弟姉妹であるという感覚だったということです。そのことは、神の民という面から考えても全く同じことが言えるでしょう。つまり、イスラエルという国は、見ず知らずの人々の集まりではなく、同じ信仰を持ち、アブラハムという同じ祖先を持つ信仰共同体、兄弟姉妹なのであります。その兄弟姉妹が牛や羊やロバや外套などを亡くしてしまったケースです。羊は特に視力が弱いですので、羊飼いから迷い出て、迷子になることもあったのでしょう。遊牧民にとって、牛や羊というのは単なる家畜ではありませんでした。それは彼らの生計を支える財産でもあります。それらを失うということは、彼らの生計の手段を失うという事を意味します。また、彼らにとって、牛や羊やロバは、その顔を見るだけで、「これは誰々さんのところの牛だ」「これは誰々さんのところの羊だ、ロバだ」と判明できたそうです。このように価値あるものでしたので、出エジプト記には、何も兄弟姉妹に限らず、敵の牛やロバが飼い主から迷い出た場合でも、それを飼い主の下に連れ戻すようにと命じられています。出エジプト記23:4~5をご覧ください。

“あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。”

兄弟であれば、助ける気持ちが起こるかもしれませんが、敵だというのであれば、そのまま通り過ぎてしまいたいという思いに駆られるのではないでしょうか。自分を憎み、自分に害を与える敵に対し、あえて、私がその人に迷っている牛まで、届けてあげる必要はないのではないか、重たい荷物によって倒れ伏している家畜を一緒に起こしてやる必要はないのではないかと考えるかもしれません。知らない振りをして、通り過ぎるのも当たり前だと思うのです。

しかし、申命記の御言葉と、出エジプト記の御言葉を勘案すると、神さまにとっては、敵であろうが、兄弟であろうが、関係ないということです。私たちは、一番先に兄弟なのか敵なのかきちんと色分けしようとしますが、神さまにとって善い行いをするのに、敵も味方もないという事です。神は善いお方ですから、私たちは敵見方関係なく、善い業をすべきであります。

この「見ない振りをしてはならない」という言葉は、22章の1~4節の中に三度も繰り返し出てきます。「見ない振りをする」という言葉は、ヘブライ語を見ますと再帰動詞、つまり目的語にoneselfというが使われていて「自分自身を隠す」と直訳することができます。そのような現場に出くわした時、善き業を行うことができないように自分自身を隠してしまうということです。どこから、そのような性質が出て来たのでしょうか。創世記を見ると、アダムとエバが神さまから禁じられた善悪を知る木の実を取って食べた後に、神さまから「アダム、どこにいるのか」と質問されました。その時、アダムは「私は裸でしたので、隠れています。」と答えました。神さまから隠れるように創造されなかったアダムとエバが、むしろ神様と交わるように創造されたアダムとエバが、「隠れる」ということは、その善なる神様から離れてしまい、神さまとの関係が断ち切られた存在になったということを意味しています。「自分自身を隠す」という性質は、まさに、アダムとエバの罪に起因しているのではと思われるのです。私たちは、生まれ持っての罪の故に、善き業から自分を隠すという性質が現れるようになったのではないでしょうか。「見ない振りをするということ」或いは、「無関心であるということ」は、現代の法律に照らし合わせるなら、違反ではありませんが、神の前に、自分自身を隠すことであり、善き業から自分自身を隠す罪なのであります。善に対して消極的な姿勢を取ることは罪であるということです。

【2】. 良き業を備えてくださる神

 神の律法を前にして、見ない振りをし、通り過ぎることについて、私たちは限りなく、自らを合理化しようと致します。さらに言えば、昨今の社会状況は、そのような考え方を後押ししてくれるでしょう。例えば水に溺れた人を助けようとして、水の中に飛び込み、自らも溺れて死んでしまったというニュースが、頻繁に報道されています。人助けをする際に、何らかのリスクや自己犠牲をも伴う場合があるのです。このような状況の中で、私たちは「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」という戒めを、隣人に害を及ばさなければ、悪いことをしないければ、それで良いというふうに縮小して解釈してしまうのです。

ルカ福音書に出てくる、良きサマリア人の譬え話は、皆様も良くご存じの御言葉ですが、「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」という御言葉を縮小させる、よい例であると言えるでしょう。ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中に追いはぎに襲われました。そこに三人が通りかかりました。その中で、最初に通りかかった祭司と、二番目に通りかかったレビ人は、見ない振りをして道の向こう側を通り過ぎました。律法によれば、死体に触れるなら汚れるとあるため、「祭司の職務を一定期間、遂行することができなくなってしまう」と、言い訳をし、自分自身を合理化したのかもしれません。しかし、この祭司とレビ人は、その倒れている人が、本当に死んでいるのか、死んでいないのか確認することさえしませんでした。三人目に、普段、軽蔑され、敵視されていたサマリア人が通りかかります。サマリア人は倒れている人に必要な助けを施してくれました。イエス様は一体なぜこの比喩を、青年に語られたのでしょうか。その理由は、青年が「誰が私の隣人でしょうか?」と質問してきたからです。ルカによる福音書10:25の途中から29節までお読みします。

“「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。”

「わたしの隣人とは誰ですか?」この言葉には、「隣人の定義がはっきりしていないために、具体的に助けを施すことができない」と言っているようです。「誰が私の隣人でしょうか?隣人が誰か分からないため、愛することができない」と、言っているのです。隣人という言葉の範囲を縮小させて、自分を正当化・合理化しているのです。

青年の「誰が私の隣人ですか」という言葉に対し、イエス様は「誰が、隣人になったのですか?」と聞き返しています。もっと言えば、「あなたは誰の隣人になることができるのですか?」と聞き返しているのです。青年の質問が隣人の範囲を最小化する質問であるとするなら、イエス様の逆質問は、隣人の範囲を最大化する質問であるといえるでしょう。

「私たちは誰の隣人になることができるでしょうか?」私たちの日々の生活の中で偶然というものは存在しません。すべての出来事が神さまの必然の中で起きていることを考えるなら、良き業を私たちがすることができるように、神さまが全てを整えていてくださっていると信じるべきであります。もし、そのような状況に出くわしたなら、それも偶然ではなく、神の必然であり、神の導きであります。だからと言って、何も、おぼれた人がいたなら、無条件に水に飛び込みなさいと言っているのではありません。危険ですから絶対にそんなことはしないでください。満塁ホームランを打てということではありません。ただ、神さまは、私たち一人ひとりを通して善き業がなされるように、すべてを整えていてくださっているのです。そして、神さまは「あなたは誰の隣人になることができるのですか?」と私たちに語りかけておられるのです。

第二次世界大戦中に、杉原千畝という人物がいました。2,015年に杉原千畝の生涯について映画化され、脚光を浴びましたが、彼は東洋のシンドラーとも呼ばれていて、私たちの記憶に新しいのではと思われます。杉原がリトアニアの日本領事館で外交官として働いていた時に、当時ナチス・ドイツの迫害によって、ユダヤ人の避難民が一気にリトアニアへ押し寄せて来ました。杉原はユダヤ人たちの窮状に同情しました。しかし本国からは「ユダヤ人の難民に対し日本行きのビザを発給するな」という指示が出ていました。杉原は彼自身の判断により外務省の命令を無視し、勇敢にも、大量のビザを発給し、ユダヤ人を救ったのであります。ソ連のリトアニア進攻によって、日本領事館が閉鎖されるまで、彼はビザを発給し続けました。最後のビザは杉原が乗った汽車の窓から発行されたと言われています。彼が発給したビザの数は2,000以上に上り、6,000人以上のユダヤ人が日本行きの船に乗り込むことが出来ました。杉原が日本に帰って来た時、外務省の命令に背いたということで、すぐに首になり、帰国後、家族は貧しい生活に甘んじなければなりませんでした。1,986年に杉原は亡くなるまで、国賊として罵られますが、彼の死後、14年経ち2,000年になって、ようやく、日本国政府は杉原の勇気ある人道的行為を評価し、それまで彼に対して無礼であったことを謝罪しました。リトアニアには杉原記念館が設立され、彼の名誉が挽回されたのであります。杉原千畝は、リトアニアの領事館での働きにおいて、あの時、あの瞬間に、彼にしかできない、善き業を行ったのであります。

【結論】

 「あなたは誰の隣人になることができるのですか?」と神さまは私たちに日々問いかけておられます。私たちは欠けが多く、足りない者であります。実際、日々、見て見ない振りをし、通り過ぎることもあるかもしれません。しかし、神様はそんな私たちのことを十分に理解してくださり、私たちの行う事ができる程度の、善き業を備えてくださり、私たちの信仰を通して、神の憐れみが、隣人に豊かに注がれるように導いてくださるのです。満塁ホームランを打てということではありません。「~さん、お元気ですか?」と声掛けからでも始められるのではないでしょうか。「あなたは誰の隣人になることができるのですか?」この言葉を心に留めて、日々周りの一人ひとりに関心を向けつつ、歩ませていただきましょう。

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못 본 체하지 말고

2022년 7월 31일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

신명기 22장 1~4절

서론

제가 그리스도인이 된 지 얼마 되지 않았을 때 구약성경을 펴도 너무 어려웠던 기억이 납니다. 특히 구약의 율법이라고 불리우는 것들은 어디까지 문자 그대로 실행해야 하는지 아니면 완전 무시해도 되는지 그 부분의 안배가 분명치 않아 항상 답답했습니다. 그러다 보니 구약성경을 대하는 자세가 양극단이 있다는 것을 알게 되었습니다. 하나의 극단은 “구약성경은 이제 끝났으니 무시해도 된다”, “구약성경은 대부분 읽을 필요가 없다”는 극단입니다. 또 다른 극단은 구약성경도 하나님의 말씀이니 적혀 있는 것은 모두 실행해야 한다는 극단입니다. 그 후 신학교 등에서 공부하면서 조금씩 알게 된 것은 하나님의 거룩한 율법이란 영원한 것이지만, 그 시대에 따라서 그 표현 방식이 그 모습이 달라진다는 것입니다. 예를 들어 제단에서 바칠 수 있는 희생 제물 규정이나 절기에 관한 규정입니다. 이러한 율법은 그리스도를 가리키는 것이므로 예수님의 오심과 함께 폐지되었습니다. 신약에 사는 우리는 더 이상 가축을 제물로 하나님께 바치지 않아도 되는 것입니다. 그리고 사법에 관한 율법이 있습니다. 예를들면 신명기 21장 22장 23장에 나오는 여러 규정들입니다. 포로 여성과의 결혼 규정, 혹은 부모에게 반항하는 자녀를 장로에게 내어주어 돌팔매질을 하는 규정, 혹은 옥상 지붕에 난간을 달게 하는 규정 등입니다. 이러한 규정은 그러한 율법의 정신이 시대 국가의 사법제도에 활용되고 계속되고 있기 때문에 국가의 탄생과 함께 폐지되었다고 생각하는 것입니다. 그러나 십계명과 같이 율법의 핵심이 되는 부분, 이른바 도덕율법이라고 불리우는 부분은 지금까지도 유호하다고 할 수 있습니다. 복음서를 보면 산상수훈 가운데 예수님께서 직접 도덕적 가르침을 제자들에게 말씀하셨습니다. 또 서신서를 보면 바울은 「그리스도의 율법」을 행하라고 권하고 있습니다. 그렇기 때문에 도덕적인 율법에 관해서는 지금도 일관성이 있는 법이라고 할 수 있는 것입니다. 하지만 그렇게 해도 구약성경을 읽다가 무엇이 도덕율법인지 역시 해석하기 어렵다는 문제에 부딪힙니다. 나중에는 믿음을 가지고 읽는 것 이외에는 없지 않을까하는 생각이 듭니다. 다소 해석이 틀리더라도 믿음을 가지고 그 안에서 신약시대에 살고 있는 우리에게도 적용될 수 있는 율법에 대해서 귀담아 듣고자 합니다.

(1) 못 본 체 하는 것은 죄

조금 서론이 길어졌지만 오늘 부분은 소든 양이든 아니면 당나귀든 외투든 그 밖에 동포들이 잃어버린 것을 발견 했을 때 그것을 못 본 체하면 안 된다는 내용입니다. 이 가르침은 「네 이웃 사랑하기를 네 자신과 같이 사랑하라」는 레위기 19장 18절의 가르침과 통하는 것이 있다고 할 수 있습니다. 처음에 「동포를」이라는 말이 나오는데 이것은 히브리어의 아흐 「형제」라는 말입니다. 당시의 유대인들에게 형제라는 말이 상당히 넓은 의미로 쓰였기 때문에 이 말은 어떤 곳에서는 형제(신명기 10장 9절, 13장 6절, 23장 7절)로 번역되고 어떤 곳에서는 동포(한국어 성경은 신명기 15장 12절은 동족으로, 17장 15절, 17장 20절, 18장 2절은 형제로)로 번역되기도 했습니다(일본성경 기준). 어쨌든 유대인에게 동포는 모두 형제자매라는 감각이었다는 것입니다. 그 일은 하나님의 백성이라는 면에서 생각해도 똑 같은 말을 할 수 있을 것입니다. 즉 이스라엘이라는 나라는 생면부지의 사람들의 모임이 아니라 같은 신앙을 갖고 아브라함이라는 같은 조상을 가진 신앙공동체, 형제자매입니다. 그 형제자매가 소나 양이나 당나귀나 외투 등을 잃어버린 경우입니다. 양은 특히 시력이 약하기 때문에 양치기에서 떨어져 헤매어 미아가 되는 경우도 있었을 것입니다. 유목민에게 소나 양이라는 것은 단순한 가축이 아니었습니다. 그것은 그들의 생계를 지탱하는 재산이기도 합니다. 그것들을 잃는다는 것은 그들의 생계 수단을 잃는다는 것을 의미합니다. 또 그들에게 소나 양이나 당나귀는 그 얼굴을 보는 것만으로 “이건 누구누구네 소다” “이건 누구누구네 양이다”라고 알아차릴 수 있었기 때문입니다. 이처럼 가치 있는 것이었기 때문에 출애굽기에는 무려 형제자매에 국한하지 말고 원수의 소나 당나귀가 주인에게서 길을 잃었을 경우에도 그것을 주인에게 돌려 주라는 명령이 있습니다. 출애굽기 23장 4,5절을 참조하십시오.

4 네가 만일 네 원수의 길 잃은 소나 나귀를 보거든 반드시 그 사람에게로 돌릴지며

5 네가 만일 너를 미워하는 자의 나귀가 짐을 싣고 엎드러짐을 보거든 그것을 버려두지 말고 그것을 도와 그 짐을 부릴지니라

형제라면 돕고 싶은 마음이 생길지 모르지만 원수라면 그냥 지나쳐 버리고 싶은 생각이 들지 않을까요? 자신을 미워하고 자신에게 해를 끼치는 원수에게 굳이 내가 그 사람의 헤매고 있는 소까지 가져다 줄 필요는 없지 않을까? 무거운 짐으로 엎드러져 있는 가축을 함께 일으켜 줄 필요는 없지 않을까 생각할지도 모릅니다. 모른 체하고 지나가는 것도 당연하다고 생각하는 거죠.

그러나 신명기의 말씀과 출애굽기의 말씀을 감안하면 하나님에게는 원수든 형제든 상관이 없다는 것입니다. 우리는 가장 먼저 형제인지 원수인지 확실히 구분하려고 하지만 하나님께는 선한 일을 하는 데는 적도 아군도 없다는 것입니다. 하나님은 선한 분이시니 우리는 적대감에 관계없이 선한 일을 해야 합니다.

이 「못 본 체하지 말고」라는 말은 22장의 14절 중에 세 번이나 반복해서 나옵니다. 「못 본 체한다」라는 단어는 히브리어를 보면 재귀동사, 즉 목적어에 oneself라는 단어가 사용되어 있어 「자신을 숨긴다」라고 직역할 수가 있습니다. 그런 현장에 마주쳤을 때 선한 일을 하지 못하도록 자기 자신을 숨겨버린다는 것입니다. 어디서 그런 성질이 나왔을까요? 창세기를 보면 아담과 하와가 하나님으로부터 금지된 선악을 아는 나무 열매를 따서 먹은 후에 하나님께서 「아담아 네가 어디 있느냐」고 질문하셨습니다. 그때 아담은 「내가 벗었으므로 두려워하여 숨었나이다」라고 대답했습니다. 하나님으로부터 숨도록 창조되지 않고 오히려 하나님과 교제하도록 창조된 아담과 하와가 「숨는다」는 것은 그 선하신 하나님으로부터 떠나버렸고 하나님과의 관계가 단절된 존재가 되었다는 것을 의미합니다. 「자신을 숨긴다」는 본질은 바로 아담과 하와의 죄에 기인한 것이 아닐까 생각됩니다. 우리는 타고난 죄 때문에 선한 행실에서 자신을 숨기는 본성이 나타난 것이 아닐까요? 못 본 체한다는 것, 혹은 「무관심하다」는 것은 현대 법에 비추어 보면 위법은 아니지만 하나님 앞에 자기 자신을 숨기는 것이고, 선한 행실에서 자기 자신을 숨기는 죄입니다. 선에 대해 소극적인 자세를 취하는 것은 죄라는 것입니다.

(2) 선한 일을 준비해 주시는 하나님

하나님의 율법 앞에서 몬 본 체하고 지나가는 것에 대해 우리는 한 없이 스스로를 합리화하고자 합니다. 한 걸음 더 나가서 말하자면 요즘의 사회 상황은 그러한 사고방식을 뒷받침해 줄 것입니다. 예를 들어 물에 빠진 사람을 구하려고 물속으로 뛰어들었다가 자신도 빠져 죽었다는 뉴스가 자주 보도되고 있습니다. 남을 도울 때 어떤 위험이나 자기 희생을 동반하는 경우가 있는 것입니다. 이런 상황에서 우리는 「네 이웃을 네 몸처럼 사랑하라」는 훈계를 이웃에게 해를 끼치지 않으면 나쁜 짓을 하지 않으면 그만이라는 식으로 축소해서 해석해 버리는 것입니다.

누가복음서에 나오는 선한 사마리아인의 비유는 여러분도 잘 아시는 말씀이지만 「네 이웃을 네 몸처럼 사랑하라」는 말씀을 축소시킨 좋은 비유라고 할 수 잇습니다. 어떤 사람이 예루살렘에서 여리고로 내려가던 중에 강도에게 습격당했습니다. 거기에 세 부류의 사람이 지나갔습니다. 그 중 처음 지나간 제사장과 두 번째로 지나간 레위인은 못 본 체하고 지나갔습니다. 율법에 따르면 시체를 만지면 부정해지기 때문에 “제사의 직무를 일정 기간 수행할 수 없게 되어 버린다”고 변명하며 자기 자신을 합리화했는지도 모릅니다. 그러나 이 제사장과 레위인은 그 쓰러져 있는 사람이 정말 죽었는지 죽지 않고 살아 있는지 확인조차 하지 않았습니다. 세 번째로 평소 경멸받고 적대시되던 사마리아인이 지나갑니다. 사마리아인은 쓰러져 있는 사람에게 필요한 도움을 베풀어 주었습니다. 예수님은 도대체 왜 이 비유를 청년에게 말씀하셨을까요? 그 이유는 청년이 「내 이웃이 누구니이까」라고 질문해왔기 때문입니다. 누가복음 10장 25절 중간부터 29절까지 읽겠습니다.

25 … 선생님 내가 무엇을 하여야 영생을 얻으리이까

26 예수께서 이르시되 율법에 무엇이라 기록되었으며 네가 어떻게 읽느냐

27대답하여 이르되 네 마음을 다하며 목숨을 다하며 힘을 다하며 뜻을 다하여 주 너의 하나님을 사랑하고 또한 네 이웃을 네 자신 같이 사랑하라 하였나이다

28예수계서 이르시되 네 대답이 옳도다 이를 행하라 그러면 살리라 하시니

29 그 사람이 자기를 옳게 보이려고 예수께 여짜오되 그러면 내 이웃이 누구니이까

「내 이웃이 누구니이까」이 말에는 “이웃의 정의가 명확하지 않기 때문에 구체적으로 도움을 줄 수 없다”라고 말하는 것 같습니다. 누가 내 이웃입니까? 누군지 모르기 때문에 사랑할 수 없다고 말하는 것입니다. 이웃이라는 말의 범위를 축소시켜 자신을 정당화하고 합리화하고 있는 것입니다.

청년의「내 이웃이 누구니이까」라는 말에 예수님은 「누가 이웃이 되었느냐」라고 되묻고 계십니다. 더 말하자면 「너는 누구의 이웃이 될 수 있느냐」라고 되묻고 계시는 것입니다. 청년의 질문이 이웃의 범위를 최소화하는 질문이라면 예수님의 역질문은 이웃의 범위를 극대화하는 질문이라고 할 수 있을 것입니다.

「우리는 누구의 이웃이 될 수 있을까요? 」우리의 일상생활 속에서 우연이란 존재하지 않습니다. 모든 일이 하나님의 필연 속에서 일어나고 있음을 생각한다면, 선한 일을 우리가 할 수 있도록 하나님께서 모든 것을 준비하고 계신다고 믿어야 합니다. 만약 그런 상황에 맞닥뜨렸다면 그것도 우연이 아니라 하나님의 필연이요 하나님의 인도입니다. 그렇다고 아무 것도 따지지 말고 물에 빠진 사람이 있다면 무조건 물에 뛰어들라고 말하는 것은 아닙니다. 위험하니까 함부로 그러지 마세요. 만루홈런을 치듯이 뭔가 큰 일을 하라는 게 아니에요. 다만 하나님께서는 우리 한 사람 한 사람을 통해 선한 일이 이루어지도록 모든 것을 준비하고 계십니다. 그리고 하나님께서는 「너는 누구의 이웃이 될 수 있느냐」고 우리에게 말씀을 하고 계십니다.

제 2차 세계대전 중에 스기하라 치우네라는 인물이 있었습니다. 2015년에 스기하라 치우네의 생애가 영화화 되어 각광을 받았는데 그는 동양의 쉰들러라고도 불리며 우리의 기억에 새롭지 않을까 생각됩니다. 스기하라가 리투아니아의 일본 영사관에서 외교관으로 일하고 있을 때 당시 나치 독일의 박해로 유대인 피난민들이 한꺼번에 리투아니아로 몰려왔습니다. 스기하라는 유대인들의 처지에 동정했습니다. 그러나 본국에서는 「유대인 난민에 대새 일본행 비자를 발급하지 말라」는 지시가 내려졌습니다. 스기하라는 자신의 판단에 따라 외무성의 명령을 무시하고 용감하게도 대량의 비자를 발급하여 유대인을 구한 것입니다. 소련의 리투아니아 침공에 의해 일본 영사관이 페쇄될 때까지 그는 비자를 계속 발급했습니다. 마지막 비자는 스기하라가 탄 기차 창문에서 발급되었다고 합니다. 그가 발급한 비자의 수는 2000개 이상에 달했고 6000명 이상의 유대인이 일본행 배에 오를 수 있었습니다. 스기하라가 일본으로 돌아왔을 때 외무성의 명령을 어겼다고 해서 바로 해고되었고 귀국 후 가족들은 가난한 생활을 감수해야 했습니다. 1986년 스기하라는 죽기 전까지 나라의 적이라고 욕을 먹었지만 그가 죽은 지 14년이 된 2000년이 되어서야 일본 정부는 스기하라의 용기 있는 인도적 행위를 평가하고 그동안 그에게 무례했던 것을 사과했습니다. 리투아니아에는 스리하라 기념관이 설립되어 그의 명예가 만회된 것입니다. 스기하라 치우네는 리투아니아 영사관에서 일할 때 그 때, 그 순간에 자신이 할 수 있는 선한 일을 한 것입니다.

결론

「너는 누구의 이웃이 될 수 있느냐」고 하나님께서는 우리에게 날마다 묻고 계십니다. 우리는 결핍이 많고 부족한 자입니다. 실제로 매일 못 본 체하고 지나칠 수도 있습니다. 그러나 하나님께서는 그런 우리를 충분히 이해해주시고 우리가 행할 수 있는 정도의 선한 일을 준비해 주시고 우리의 믿음을 통해 하나님의 연민이 이웃에게 풍성히 쏟아지도록 인도해 주시는 것입니다. 만루홈런을 치라는 게 아닙니다. “〇〇씨, 잘 지내시죠?”라고 말을 거는 것부터 시작할 수 있지 않을까요? 「너는 누구의 이웃이 될 수 있느냐」이 말씀을 잘 명심하고 날마다 주위의 한 사람 한 사람에게 관심을 가지며 살아가는 자가 되도록 합시다.

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