2022年03月13日「徴税人を召されるイエス様 세리를 부르시는 예수님」

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徴税人を召されるイエス様 세리를 부르시는 예수님

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 2章13節~17節

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聖句のアイコン聖書の言葉

2:13それからイエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは彼らを教えておられた。
2:14そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
2:15それから、レビの家で食卓に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
2:16ファリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして、彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
2:17イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 2章13節~17節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日は、徴税人レビを弟子として召される記事でございます。イエス様が弟子を召される記事は、1章にも出てまいりました。マルコ1章16~18節には、イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になられ、「わたしについて来なさい。人間ととる漁師にしよう」と語られました。すると二人は網を捨てて従っていきました。この記事と、本日の記事と見比べてみる時に、私たちは次のような共通点に気づかされます。それは第一に、イエス様の方からご覧になられたということです。イエス様の方から弟子たちに目を留めてくださり、近づいて来てくださいました。第二に、「わたしに従いなさい」というイエス様の召しの言葉があり、そして第三に、即座に網を置いて、イエス様に従っていったという点です。徴税人レビも、立ち上がって主イエスに従っていきました。細かい描写はありませんが、一体この時、レビの心の中で何が起こっていたというのでしょうか。本日はそのことについて考えていきたいと思います。

【1】. 主イエスは罪人を解放するために来られた

 2章13をご覧ください。

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。

イエス様がいつものように、湖のほとりで御言葉を語っておられると、群衆が皆集まってきました。「集まって来た」という言葉と「イエスは教えられた」という言葉の時制を見ますと、未完了形が使われています。これは即ち過去の出来事の反復ですとか、現在も引き続き継続している、ということを示しています。ですからイエス様は、いつも湖のほとりで群衆を教えられていたし、そして群衆も決まってその教えを聞くために集まって来たというのであります。イエス様は安息日に会堂で教えられることもしましたが、普段は、山や、ガリラヤ湖の自然を利用しながら、時にはご自身は舟の上に乗って、自然の傾斜を公会堂のように見立てて、そこにゆったりと座ってもらい、多くの人々を集め、御言葉を教え続けていたと思われるのであります。

そんなある日のこと、イエス様は通りすがりにアルファイの子レビに目を留められました。彼は群衆の一人として、イエス様のところに押し寄せたというのではなく、彼の仕事場である収税所に今日も座って黙々と任務を果たしていました。彼の仕事とは徴税人です。恐らく、北東のダマスコと、西側の地中海を結ぶ交通の要所となっている、このカファルナウム近辺では、通行料を徴収しており、また、ガリラヤ湖から陸路で運送される物品に対しても税金を徴収していたと思われます。レビは今日も税金を徴収するために人々の往来に目を光らせていました。当時ローマ帝国は、帝国の建物の建設の費用、或いは戦争の費用を賄うために、支配した地域から税金を取り立てていました。その税金の徴収の仕方ですが、ローマの役人が直接ユダヤ人から徴収するのではなく、まず裕福なユダヤ人に対し徴税権を与え、そのユダヤ人を通して税を集めていました。なぜ、そのような方法を取るのかというと、ユダヤの地方は、反乱の火種が燻っていたからです。ユダヤ人は、自分たちが神の選民であることを信じ、必ず自分たちがローマから解放され、国の主権が回復し、来るべきメシアが速やかにそれらのことを実行してくれるに違いないと考えていました。政治分派もいくつかあり、律法を自分なりに解釈し、徹底的にそれを守ろうとするファリサイ派、そして、神殿の重要な職務を独り占めし、ローマと手を組んででも、ユダヤ人を治めようとするサドカイ派、国の主権回復のため過激な思想を持ち、剣を常に携帯していたと言われている熱心党、それから個人的な宗教活動に専念し、洞窟で修道生活を営んでいたエッセネ派などなどです。このように反乱分子が多いため、ローマがこの地方を治めるには、大変困難だった訳です。そこで同胞のユダヤ人によって、ローマのための仕事をさせる「徴税人」という仕事ができた訳です。ですから徴税人は、大変裕福ではありましたが、同胞のユダヤ人からは異邦人と取引をする裏切り者であり、「罪人」として社会から蔑まれていたのです。ある人は想像を膨らませながら、徴税人レビについて次のように書いています。

「レビは、湖の横のテーブルに座っていた。彼の周囲には札束や、会計の帳簿、受け取った鮮魚などあったが、友人はほとんどいなかった。」

誰もかれも、徴税人レビに「罪人」というレッテルを張り付け、彼と交わりをしようとはしませんでした。2:15、16節を見ると「徴税人や罪人」、「罪人や徴税人」そして「徴税人や罪人」という言葉が代わる代わる出てまいります。レビは、いくら自分でそのことを打ち消しても、いくらそのことを否定しても、人々から「罪人」として常に白い目で見られていたのです。「罪人」というレッテルが張り付けられ、否が応でも自分が罪人であることを思い知らされました。彼は孤独だったに違いありません。収税所に座っていながらも、内心では自分もイエス様のところに出かけていきたい、人々のように一緒にイエス様の教えを聞ききたい。と思っていたのかもしれません。でも自分は徴税人だ。自分のような者が行っても相手にしてもらえないだろう。『ここはお前のような罪人の来る所ではない』と冷たくあしらわれるだけだ」、そう思ってあきらめていたのかもしれません。彼は、経済的には確かに裕福でありましたが、心は貧しく、切に救いを求めていたのです。

そのような彼に、最近、ガリラヤ中で評判になっている方が近づいてまいりました。病の癒しの奇跡を行い、悪霊を追い出し、神の御言葉を解き明かしている方が、そして、この方の滞在している家に大勢の人々が押し寄せるという、その方が、なんと、自分のような者に目を留めてくださり「わたしに従いなさい」と声をかけてくださったのです。「何で自分なんかに?」と、レビは当惑したことでしょう。しかし、イエス様は、自分のことを軽蔑したり、敵意や嫌悪感を持つこともなく、一切偏見を持たずに、誠実に向き合ってくれました。この時レビは、罪を赦す権威をお持ちである方の御前に、罪からの解放を体験したのかもしれません。彼はそこから立ち上がって、全てを捨てて、イエスに従っていきました。彼は回心し、人生の方向を180度方向転換し、イエス様に従う弟子として歩み始めたのです。罪から来る孤独と虚しさとみじめさから解放され、イエス様の弟子の仲間に加えられ、神の国のために働く者として新しく生まれ変わることが許されたのです。レビはこの限りない大きな恵みに心から感謝したことでしょう。実は、このレビこそ十二弟子の一人であり、マタイの福音書の著者である徴税人マタイであったのです。

【2】. 自分を義とすることへの警告

 さて、イエス様に召されたレビは後日、イエス様を自分の家に食事に招きました。彼は金持ちであり、おそらく大きな祝宴をするのに十分なスペースのある家に住んでいたと思われます。15~16節をご覧ください。

イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

この食事の席に、レビは自分と同じような多くの徴税人の仲間や、罪人までも、同席するように誘いました。そして大変大勢の人々がイエス様に従っていきました。ところで、その食事の席にファリサイ派の律法学者たちもいました。この「ファリサイ」という言葉の由来ですが、「分離された者」という意味だそうです。ファリサイ派はモーセの律法を解釈して、「先祖の言い伝え(ハラハー)」なる規定を作り出しました。そして、その自分たちが作った規定を一生懸命に守っていたのです。例えば、彼らは週に二度断食をしていたとも言われています。この先祖の言い伝え(規定)を一生懸命に守ることによって、世の罪や汚れから自分たちを分離しようと考えたのです。ですから自分たちのことをファリサイ派「分離派」と呼ぶようになったということです。しかし、このように律法を文字的に形式的に捉えていく中で、次第にモーセの律法そのものより、自分たちが作った、律法の解釈である「先祖の言い伝え」の方が、権威を持つようになっていきました。ですから、イエス様がなぜ、罪人から分離せず、むしろ積極的に彼らを探し求めて、親しく食事の交わりをされるのか、そのことにひどく腹を立てたのです。神と自分たちの敬虔さを冒涜していると感じたのです。モーセの律法の中には確かに食物規定というのがあり、食べてよいものと、食べてはならない汚れたものが定められていました。彼らはそれを拡大解釈し、罪人と交わったり、罪びとも一緒に食事をすることも、自分の身に汚れを招くと考えて、ユダヤ人は普通、異邦人と食事を共にすることはありませんでした。また、ユダヤ人の文化の中では「共に食事をすること」は、特別な親しさや、仲間であることの表れでもありましたので、イエス様に対し「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子たちに批判をしたのです。この批判に対しイエス様は17節にありますように“医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。”とお答えになりました。このイエス様のお言葉の中で、罪人とは、徴税人たちを指しています。正しい人とは、ファリサイ派の人々を指しています。イエス様のこの言葉には、実はファリサイ派に対する痛烈な批判が込められていました。それは、ファリサイ人が先祖の言い伝えを守ることによって、自分を義としているということへの批判であり、そしてまた、そのような無駄な規定を民に負わせているということの批判でありました(カルヴァン共観福音書上)。この規定を守ることができない民を彼らは罪人扱いし、差別していたのです。しかし、神さまの目から見るなら、人間はどのような善行を積んでも、決して神の御前に義とされることはありません。自分の力で義とされ、神様との関係を回復することが出来る人間など、どこにもいないのです。人は生まれながら罪人であり、多く罪を犯した人も、少なく罪を犯した人も、それは所詮50歩100歩であり、すべての人が罪人であって、救い主が必要であることには変わりないのです。それなのに、ファリサイ派の人々は自分たちの規定を守ることによって、自分が義人であると考えていました。あるいは徴税人と比べて自分の方が正しいと考えていたのです。このような考え方は、結局、メシアを心に受け入れることが難しくなります。救い主がいなくても、既に自分は義人であると認識しているからです。自分が正しいと思っている人にとって、救い主は必要なくなるのです。「自分は罪人である」「自分は愚かな者である」「自分には神の赦しと救いがどうしても必要である」「主よ、助けてください」と心を貧しくし、切に求める人にこそ、救い主は必要であり、イエス様の招きに正しく応答することが出来るのです。主イエスは、実に罪人を解放するために来られたからです。

【適用】

 私たちは、ファリサイ人がしているように、「自分はこれこれをしているから正しい」、「規定を守っているから義人である」と思ってしまう節はないでしょうか。あるいは御言葉を他人にばかり適用して、「あの人はこの点で罪を犯している」、「この点で汚れている」、「彼は根っからの罪人だ」などと思ってしまう節はないでしょうか。今日、ファリサイ人を反面教師として私たちの信仰生活に適用していきたいと思います。第一に、ファリサイ人のように自分を義人であると考えてはなりません。この世に「義人は一人もいない」という聖書の御言葉を謙虚に受け止めましょう。元来律法とは、それを正しく読むなら、自分を義とするものではなく、自分の罪を映し出してくれる鏡のようなものであることに気づかされます。御言葉を読むときに聖霊が私たちに気づきを与えて下さり、自分自身の罪について、さらに深く認識させてくださり、日々悔い改めへと導いてくださるのです。私たちの罪がいかに多く、私たちがいかに足りない者であるかについて目が開かれるのです。自分が救いようもない罪人であることを知ると同時に、イエス様はそのような私の罪をも、すべてご自身の十字架に引き受けて下さり、清算してくださったことに気づかされるのです。そして、ただ恵みよって罪から解放されたことを確信し、喜びに満ち溢れるのです。第二に、御言葉は他人に適用するために読むものではありません。聖書の御言葉を自分の霊の糧として読まなければならないということです。「私は問題ないけれども、妻は陰険な性格だから教会に通わせなければいけない、聖書を読ませなければならない」などと考えてはなりません。「私は問題ないけれども、子どもたちには、きちんと教会に通ってほしい」ということで、中学生くらいまで教会学校に通わせる親が時々いますが、そのような子どもは、高校生になると大体教会から離れてしまいます。聖書は子供だけのものではなく、全ての人の日々の糧であります。ですから自分は以前、聖書を学んだから、もう聖書の内容を全部知っているから大丈夫というようなものではありません。聖書の御言葉とは荒れ野において天から降ってきたマナのように、それは取り置きのできないものであり、大人であれ、子どもであれ、日々私たちの霊の糧として御言葉を食べなければならないものなのです。主イエスは、ご自身が御言葉として罪人を解放するために来られました。私たち一人ひとりが神の御前に、いかに真っ黒な罪人であるのかを悟らせていただき、それにも拘わらずイエス様の十字架の故に完全に白くされたその恵みの中で、罪の解放を享受する私たちとして歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

세리를 부르시는 예수님

2022년 3월 13일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 2장 13~17절

서론

오늘은 세리 레위를 제자로 부르시는 기사입니다. 예수님이 제자를 부르시는 기사는 1장에도 나왔습니다. 마가복음 1장 16~18절에는 예수님이 갈릴리 해변으로 지나가시다가 시몬과 시몬의 형제 안드레가 바다에 그물 던지는 것을 보시고 「나를 따라오라 내가 너희로 사람을 낚는 어부가 되게 하리라」고 말씀하셨습니다. 그러자 두 사람은 바로 그물을 버리고 예수님을 따라갔습니다. 이 기사와 오늘 기사와 비교해 볼 때 우리는 다음과 같은 공통점을 깨닫게 됩니다. 그것은 첫째, 예수님께서 보셨다는 것입니다. 예수님께서 제자들을 눈여겨 보시고 다가와 주셨습니다. 둘째, 「나를 따라오라」는 예수님의 부르심이 있었고 셋째, 즉시 그물을 놓고 예수님을 따라갔다는 점입니다. 세리인 레위도 일어나 주 예수님을 따라 갔습니다. 세세한 묘사는 없지만, 도대체 이때 레위의 마음속에서 무슨 일이 일어나고 있었다는 것일까요. 오늘은 그 일에 대해서 생각해 보도록 하겠습니다.

(1) 죄인을 해방시키시기 위해 오신 주 예수

2장 13절을 보시기 바랍니다.

13 예수께서 다시 바닷가에 나가시매 큰 무리가 나왔거늘 예수께서 그들을 가르치시니라

예수님이 여느 때처럼 바닷가에서 말씀을 하고 계시니 군중들이 모여들었습니다. 「나왔거늘」이라는 말과 「예수께서 그들을 가르치셨다」라는 말의 시제를 보면 미완료형이 쓰이고 있습니다. 이것은 즉 과거에 있었던 일의 반복이라든가, 현재에도 계속해서 하고 있다는 것을 보여주고 있습니다. 그래서 예수님은 항상 바닷가에서 군중을 가르치셨고 그리고 군중들도 어김없이 그 가르침을 듣기 위해 모여들었습니다. 예수님은 안식일에 회당에서 가르치시기도 하셨는데, 평소에는 산과 갈릴리 바다의 자연을 이용하시면서 때로는 자신이 배 위에 올라 앉으시고 경사진 언덕 위에 편히 앉아 있는 군중을 가르치시기도 하셨습니다. 그런 어느 날의 일입니다. 예수님은 지나가시다가 알패오의 아들 레위에게 눈을 고정하셨습니다. 그는 군중의 한 사람으로서 예수님께 다가온 것이 아니라 그의 일터인 세금 징수소에 오늘도 앉아 묵묵히 자기 일을 하고 있었습니다. 그의 일이란 세금을 걷는 세리입니다. 아마도 북동쪽의 다메섹과 서쪽의 지중해를 연결하는 교통의 요충지가 되어 있는 이 가버나움 부근에서는 통행료를 징수하고 있으며, 또 갈릴리 바다에서 육로로 운송되는 물픔에 대해서도 세금을 징수했을 것으로 보입니다. 레위는 오늘도 세금을 징수 하기 위해 사람들의 왕래를 주시하고 있었습니다. 당시 로마 제국은 제국 건물의 건설 비용, 혹은 전쟁 비용을 충당하기 위해 지배했던 지역에서 세슴을 징수하고 있었습니다. 그 세금을 징수하는 방법입니다만, 로마 관리들이 직접 유대인으로부터 징수하는 것이 아니라 먼저 부유한 유대인에 대해 징세권을 주고 그 유대인을 통해 세금을 징수하고 있었습니다. 왜 그런 방법을 취하느냐 하면 유대 지방은 반란의 불씨가 피어오르는 곳이기 때문입니다. 유대인들은 자신들이 하나님의 선민임을 믿고 반드시 자신들이 로마에서 해방되어 나라의 주권이 회복되고 다가올 메시아가 신속하게 그것들을 실행해 줄 것임에 틀림없다고 생각했습니다. 정치 분파도 여럿 있어 율법을 나름대로 해석하고 철저하게 이를 지키려는 바리새파, 그리고 성전의 중요한 직무를 독차지하고 로마와 손잡고서라도 유대인을 지배하려는 사두개파, 나라의 주권 회복을 위해 과격한 사상을 가지고 항상 검을 휴대했다는 열심당, 그리고 개인적인 종교활동에 전념하며 동굴에서 수도생활을 하던 에세네파 등입니다. 이렇게 반란분자들이 많기 때문에 로마가 이 지방을 다스리기에는 매우 어려웠습니다. 그래서 동포 유대인에 의해 로마를 위한 일을 시키는 세리라는 일이 생긴 셈입니다. 그래서 세리는 매우 부유하기는 했지만 동포 유대인들로부터 이방인과 거래하는 배신자이자 죄인으로 사회의 멸시를 받고 있었던 것입니다. 어떤 사람은 상상을 불러 넣어 세리 레위에 대하여 다음과 같이 쓰고 있습니다.

“레위는 바닷가 옆의 테이블에 앉아 있었다. 그의 주위에는 돈다발과 회계장부, 거둔 신선한 생선 등이 있었지만 친구는 거의 없었다.”

누구도 세리 레위에게 죄인이라는 꼬리표를 붙이고 그와 교제하려고 하지 않았습니다. 2장 15,16절을 보면 「세리와 죄인들」, 「죄인 및 세리들」, 「세리 및 죄인들」이라는 말이 번갈아 나옵니다. 레위는 아무리 스스로 그것을 지우려고 해도, 아무리 그 사실을 부정하려고 해도 사람들로부터 「죄인」이라는 꼬리표가 붙었고 싫어도 자신이 「죄인」이라는 것을 뼈져리게 깨닫고 있었습니다. 그는 고독했음에 틀림이 없었습니다. 세금 징수소에 앉아 있으면서도 속으로는 ‘나도 예수님께 나가고 싶다, 사람들처럼 함께 예수님의 가르침을 듣고 싶다.’라고 생각했을지도 모릅니다. 그런데 자기는 세리고 자신 같은 인간이 가도 사람들이 상대해 주지 않을것이다, ‘『여기는 너 같은 죄인이 올곳이 아니야』라고 차갑게 취급받을 거야’라고 생각하고 포기했는지도 모릅니다. 그는 경제적으로는 확실히 부유했지만 마음은 가난했고 간절히 구원을 청하고 있었습니다.

그런 그에게 최근 갈릴리 안에서 소문이 자자한 분이 다가왔습니다. 병을 고치는 기적을 행하며 더러운 귀신을 쫓아내고 하나님의 말씀을 풀어내는 분이, 그리고 이분이 머물고 있는 집에 많은 사람들이 몰려든다는 그분께서 무려 자신과 같은 자를 눈여겨 보시고 「나를 따르라」고 말씀해 주신 것입니다. ‘왜 나따위에게?’라고 레위는 당황했을 것입니다. 그러나 예수님은 자신을 경멸하거나 적의나 혐오감을 갖지 않고 일체 편견을 갖지 않고 신실하게 대해주셨습니다. 이때 레위는 죄 사함의 권위를 가진 분 앞에서 죄로부터의 해방을 체험했을지도 모릅니다. 그는 거기서 일어나 모든 것을 버리고 예수님을 따라갔습니다. 그는 회심하고 삶의 방향을 180도 방향전환을 해서 예수님을 따르는 제자로 걷기 시작한 것입니다. 죄에서 오는 고독과 허무와 비참함에서 해방되어 예수님 제자의 한무리에 더해 하나님 나라를 위해 일하는 자로 새롭게 태어나는 것이 허락된 것입니다. 레위는 이 무한한 큰 은혜에 진심으로 감사했을 것입니다. 사실 이 레위야말로 열두 제자의 한 사람이자 마태복음의 저자인 세리 마태입니다.

(2) 자신을 의롭게 여기는 것에 대한 경고

자 예수님이 부르신 레위는 훗날 예수님을 자기 집의 식사에 초대했습니다. 그는 부자였고 아마 큰 잔치를 하기에 충분한 공간이 있는 집에서 살았던 것으로 생각됩니다. 15,16절을 보시기 바랍니다.

15 그의 집에 앉아 잡수실 때에 많은 세리와 죄인들이 예수와 그의 제자들과 함께 앉았으니 이는 그러한 사람들이 많이 있어서 예수를 따름이러라

16 바리새인의 서기관들이 예수께서 죄인 및 세리들과 함께 잡수시는 것을 보고 그의 제자들에게 이르되 어찌하여 세리 및 죄인들과 함께 먹는가

이 식사 자리에 레위는 자신과 같은 처지인 세리 동료들과 죄인들까지도 동석하도록 권유했습니다. 그리고 매우 많은 사람들이 예수님을 따라갔습니다. 그런데 그 식사 자리에 바리새파 율법학자들도 있었습니다. 이 「바리새파」라는 단어의 유래입니다만 「분리된 자」라는 의미라고 합니다. 바리새파는 모세의 율법을 해석해 「조상의 전승(할라카: 유대교 관례 법규집)」이라는 규정을 만들어 냈습니다. 그리고 자신들이 만든 규정을 열심히 지키고 있었던 것입니다. 예를 들어 그들은 일주일에 두 번 단식을 했다고 합니다. 이 조상의 전승을 열심히 지킴으로써 새상의 죄와 부정함으로부터 자신들을 분리하고자 생각했습니다. 그래서 자신들을 바리새파 「분리파」라고 부르게 되었다는 것입니다. 그러나 이처럼 율법을 문자적으로 형식적으로 파악하면서 점차 모세의 율법 자체보다 자신들이 만든 율법의 해석인 「조상의 전승」이 권위를 갖게 되었습니다. 그래서 예수님이 왜 죄인으로부터 분리하지 않고 오히려 적극적으로 그들을 찾아 가서 정답게 식사를 나누시는지 그 일에 몹시 화가 난 것입니다. 하나님과 자신들의 경건함을 모독하고 있다고 느낀 것입니다. 모세의 율법 중에는 확실히 음식에 규정이 있었고 먹어도 좋은 것과 먹어서는 안 되는 부정한 것이 정해져 있었습니다. 그들은 그것을 확대 해석하여 죄인과 어울리거나 죄인들과 함께 식사를 하는 것도 자신을 부정하게 만든다고 생각하여 유대인들은 보통 이방인과 식사를 함께 하지 않았습니다. 또 유대인의 문화 속에서 「함께 식사하는 것」은 특별한 친함과 동료임을 나타내는 표현이기도 했기 때문에 예수님에 대해 “왜 그는 세리나 죄인과 함께 식사를 하느냐”고 제자들에게 비판을 한 것입니다. 이 비판에 대해 예수님은 17절에 나와 있듯이 「건강한 자에게는 의사가 쓸 데 없고 병든 자에게라야 쓸 데 있느니라 나는 의인을 부르러 온 것이 아니요 죄인을 부르러 왔노라」라고 대답하셨습니다. 이 예수님의 말씀에서 죄인이란 세리를 지칭하고 계십니다. 의인이란 바리새파 사람들을 가리킵니다. 예수님의 이 말씀에는 사실 바리새파에 대한 통렬한 비판이 담겨 있었습니다. 그것은 바리새인들이 조상들의 전승을 지킴으로써 자신을 의롭게 여기는 것에 대한 비판이었고 또 그런 쓸데없는 규정을 백성에게 지우려 한다는 비판이었습니다 (칼빈 공관복음서上). 이 규정을 지키지 못하는 백성들을 죄인 취급하고 차별하고 있었던 것입니다. 그러나 하나님의 눈으로 본다면 인간은 어떤 선행을 쌓아도 결코 하나님 앞에 의롭게 될 수 없습니다. 자신의 힘으로 의롭게 여김을 받고 하나님과의 관계를 회복할 수 있는 인간은 어디에도 없는 것입니다. 사람은 태어나면서부터 죄인이고 죄를 많이 지은 사람도, 적게 지은 사람도 그것은 결국 50보 100보의 차이일 뿐이며 모든 사람이 죄인이고 구원자가 필요한 것에는 변함이 없는 것입니다. 그런데도 바리새파 사람들은 자신들의 규정을 지킴으로써 자신들이 의인이라고 생각했습니다. 또는 세리와 비교해서 자신이 옳다고 생각했습니다. 이러한 사고방식은 결국 메시아를 마음에 받아들이기 어렵게 만듭니다. 구원자가 없어도 이미 자신을 의인으로 인식하기 때문입니다. 자신이 옳다고 생각하는 사람에게 구원자는 필요 없게 되는 것입니다. “나는 죄인이다” “나는 어리석은 자이다” “나는 하나님의 용서와 구원이 꼭 필요하다” “주님 도와 주세요”라고 마음을 가난하게 하고 간절히 구하는 사람에게 구원자는 필요하며 예수님의 초대에 바르게 응답할 수 있는 것입니다. 주 예수님은 실로 죄인을 해방시키기 위해 오셨기 때문입니다.

적용

우리는 바리새파인이 하는 것처럼 ‘나는 이것을 저것을 하고 있으니까 옳다’, ‘규정을 지키고 있기 때문에 의인이다’라고 생각하고 있는 것은 아닐까요? 혹은 말씀을 남에게만 적용해서 저 사람은 ‘이런 점에서 죄를 짓고 있다’, ‘저런 점에서 부정하다’, ‘그는 근본부터 죄인이다’라고 쉽게 생각해버리고 있지는 않을까요? 오늘날 바리새인을 반면교사로 삼고 우리의 신앙생활에 적용해 나가고자 합니다. 첫째, 바리새인처럼 자신을 의롭다 여기면 안됩니다. 이 세상에 의인은 한 사람도 없다는 성경 말씀을 겸허히 받아들입시다. 원래 율법이란 그것을 옳바르게 이해한다면 자신이 의롭게 되는 것이 아니라 자신의 죄를 비춰주는 거울과 같은 것임을 깨닫게 됩니다. 말씀을 읽을 때 성령께서 우리에게 깨달음을 주시고 자기 자신의 죄에 대해 더욱 깊이 인식하게 해 주시고 날마다 회개로 이끌어 주시는 것입니다. 우리의 죄가 얼마나 많고 우리가 얼마나 부족한지에 대해 눈이 떠집니다. 자신이 구원받을 수 없는 죄인임을 알게 됨과 동시에 예수님께서는 그런 나의 죄도 모두 자신의 십자가에서 짊어 주시고 청산해 주셨음을 깨닫게 되는 것입니다. 그리고 오직 은혜로 죄에서 해방되었음을 확신하고 기쁨으로 가득 차게 되는 것입니다. 둘째, 말씀은 다른 사람에게 적용하기 위해 읽는 것이 아닙니다. 성경 말씀을 자기 영혼의 양식으로 읽어야 한다는 것입니다. ‘나는 문제가 없지만 아내는 성격에 문제가 있으니까 교회를 다녀야 한다, 성경을 읽고 자기 문제점을 깨달아야 한다’라는 생각을 해서는 안됩니다. ‘나는 문제 없지만 아이들이 교회를 잘 다녔으면 좋겠다’라고 중학생 정도까지 교회학교에 보내는 부모가 가끔 있는데, 그런 아이들은 고등학생이 되면 대부분 교회를 떠나게 됩니다. 성경은 어린아이만의 것이 아니라 모든 사람의 일상적인 영혼의 양식입니다. 그러니까 나는 예전에 성경을 배웠기 때문에, 이제 성경 내용을 다 알고 있으니까 괜찮다는 것이 아닙니다. 성경 말씀이란 광야에서 하늘로부터 내려온 만나처럼 그것은 간직할 수 없는 것이며 어른이든 아이든 날마다 주워서 우리 영혼의 양식으로 말씀을 먹어야 합니다. 주 예수님은 말씀이 육신이 되신 말씀자체입니다. 말씀으로서 죄인을 해방시켜 주시기 위해 이 땅에 오셨습니다. 우리들 한 사람 한 사람이 하나님 앞에서 얼마나 시커먼 죄인인지 깨닫게 해 주시고 그럼에도 불구하고 예수님의 십자가 때문에 완전히 하얗게 된 그 은혜 속에서 죄의 해방을 누리며 걸어가는 자가 됩시다.

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