2022年02月06日「福音宣教のために来られたイエス 복음선교를 위해서 오신 예수 그리스도」

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福音宣教のために来られたイエス 복음선교를 위해서 오신 예수 그리스도

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
マルコによる福音書 1章35節~45節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:35朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
1:36シモンとその仲間はイエスの後を追い、
1:37見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
1:38イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
1:39そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
1:40さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
1:41イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
1:42たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
1:43イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
1:44言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
1:45しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マルコによる福音書 1章35節~45節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信ぜよ」これが、主イエスの働きにおいて最初の説教であり、第一声でありました。また、その説教はご自身の十字架に至るまで語り続けられ、そして、それは祈りなくしてはあり得ないものでした。安息日が明けた夜、カファルナウム中の病人という病人が群れをなし、イエス様の滞在していたペトロの家に殺到しましたが、イエス様は彼らを全て、お癒しになられました。その翌日、朝早くまだ暗いうちに、人里離れた所へ出て行き、イエス様は祈っておられたのです。何を祈っておられたのでしょうか。父なる神の御心を尋ね求め、ご自身の福音宣教の使命のために祈っていたのでしょうか。これからの福音宣教の働きの上に聖霊の導きを乞い願い、祈っていたのでしょうか。35~38節をご覧ください。

【1】. イエス様を理解できない弟子たち

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」

まだ暗いうちに、イエス様が一人で家を出られると、その後をペトロとその仲間が追って行きました。「先生は、こんな時間にどこへ行くのだろうか」と思ったのでしょう。ようやくイエス様の居所を突き止めると、イエス様はそこで一人で祈っておられました。彼らは、その祈りの意味など考える配慮もせず、「みんなが捜しています」と言いました。この言葉には、「なぜ、こんな所で無駄に時間を過ごしているのですか、癒されるべき病人や、悪霊につかれた者たちが、まだたくさんいるのに、大至急、戻ってくださいますように!」とでも言いたげな雰囲気が漂っています。すると、イエス様は弟子たちに答えられました。「近くのほかの町や村へ行こう」、つまり、カファルナウムを去って、ガリラヤ地方の他の地域に出て行こうと言うのです。この言葉を聞いた時、弟子たちは、「え?何で?」と、意外に思ったに違いありません。イエス様が、このカファルナウムにおいて、その名を馳せるチャンスが到来し、いよいよ地元の人気を不動なものに、と思っていたのに、それを見逃してしまうように思えて、ジレンマを感じたに違いないからです。弟子たちにとっては、イエス様が単に人々の苦痛を取り除く呪術師として来られたのではなく、福音を語り、人々が語られた御言葉を信仰によって受け入れるために、悔い改めに導かれるように来たという事を、まだ理解していなかったのであります。もちろん、イエス様ご自身は、病の者や悪霊につかれた者たちを皆、癒してあげたいという気持ちを持っておられたことでしょう。しかし、イエス様に従ってくる人々が、イエス様のことを、何か呪術師のように考え、自らの利益だけを求めてその力に与ろうと従ってくるのは、イエス様の願われない事でした。

【2】. 重い皮膚病患者の癒し

さて、カファルナウムを去った後、重い皮膚病に患っている人が、イエス様のところに来て、ひざまずき、清められるように熱心に願い出ました。この状況は弟子たちが周りにいたのかどうかはっきりしませんが、とにかく清めを熱心に求めた男と、イエス様の二人にのみ、スポットが当てられています。「重い皮膚病」と翻訳されているこの言葉は、古い聖書では「らい病」つまり現代のハンセン病として翻訳されていました。実際は、ハンセン病の症状よりも広い皮膚病を意味しているということで「重い皮膚病」に訳が変更されました。一番新しい聖書協会共同訳聖書ではさらに変更されて「規定の病」と訳されています。新改訳聖書では、翻訳が難しかったのでしょうか、和訳せず、ヘブライ語の「ツァラアト」という病名をそのまま記載しています。いずれにしても、この皮膚の病は、イスラエルにおいて大変恐ろしい病として考えられていました。皮膚に神経の感覚がなくなり、次第に腐っていくのです。ですから、万が一この病気と認定されるなら、その人は「汚れている」者として共同体から隔離されなければなりませんでした。普通、病気が治るときに「癒される」という言葉が聖書で使われますが、何故かこの病気が治る時だけは「清められる」という動詞が使われています。この病気は医学的にも病気であり、そればかりでなく、宗教的にも汚れているとされたのであります。当時この病気にかかる者は、神から呪われた者、神の刑罰が下った者と考えられていました(民12:9-10、列王下5:27、歴代下26:16-21)。ですから、この病気に認定されたなら、その人は社会から見捨てられ、死んだも同然として扱われ、ただ、人けのない寂しい所で孤独に死を待つだけの日々を送らなければなりませんでした。ですから、ここで、この病気を患っている男がイエス様の所に来たというのは、カファルナウムの町中ではなく、カファルナウムから出て、次の町や村に入る途中の「人のいない所」、「人里離れた郊外」であったと考えられます。彼はイエス様の御心如何によって、神にしか清めることのできない自分の不治の病が(列王下5:7、マタ11:5)、この方を通してなら、清められることができると信じていました。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」つまり、「あなたがお望みになれば、私を清くすることがおできになります」と言うのです。この言葉はイエス様に対する信仰告白とも取れるような言葉でありました。イエス様はこの汚れた男に手を差し伸べ、危険を一切顧みず、その人に触れてくださいました。「よろしい。清くなれ」、直訳すると「私は望む、清くなれ」と言うと「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」のです。あたかもイエス様の清さがこの男に転嫁されたように、神の御業が起こされたのです。

少し余談になりますが、イエス様は、この人をご覧になられ、41節において「深く憐れんで」とありますが、ここの翻訳は「憤られた、怒られた」と翻訳されている聖書もあります(NIV)。この翻訳の違いは、翻訳したギリシア語の写本の違いから生じているようです。ある写本には「スプランクニゾマイσπλαγχνίζομαι(深く憐れまれた)」という言葉が使われていて、また違う写本には「オルギゾマイὀργίζομαι(怒られた)」という言葉が使われています。最近の批評的な注解書は、より困難な読み方である「怒られて、憤られて」という言葉を支持しています。実際の所、原本がこの世に存在しないため、果たしてどちらの写本が正しいのかは分かりませんが、私たちは「憤られた」という言葉で書かれていたものとして読み進めて行きたいと思います。

そうしますと、イエス様の憤りは、何に対する憤りなのか、ということになります。この憤りは、神様の被造物の本来の姿を壊してしまう、罪と死の力に対する憤りだったのではと思われます。イエス様は同じようにマルタとマリヤの弟、ラザロが死んだ時にも、やはり憤られました(ヨハネ11:33,38)。神の国が到来している中にあって、依然として罪と死の力が病人の中で活動していることに対する聖なる憤りです。ご自身の羊が、このような荒れ野に孤独に放置され、選びの民としての特権を全く享受することができない、その憤りです。共同体に復帰し、共に礼拝を捧げる生活に戻りたいという、その切なる願いが、阻まれていることの憤りです。続いて43~45節をご覧ください。

イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

イエス様は男を癒し、そこから直ちに立ち去らせるようにさせ、また誰にも言い広めず、真っすぐに祭司に体を見せるようにと「厳しく」戒めています。ここにもイエス様の憤りがにじみ出ています。罪びとを支配し、拘束する、死の支配に対して、激しく息巻きながら、「こんな人里離れたところからすぐにでも出て行きなさい!」「早く社会復帰しなさい!」「本来の居場所である礼拝共同体に戻りなさい!」とイエス様は言われるのです。

【3】. モーセが定めた供え物を献げることによって現わされた福音

さて、44節で、イエス様は「モーセが定めたものを清めのために献げ」なさいと言っていますが、これは何のことでしょうか。レビ記14章1~9節に、そのことについて詳しく書かれています。実は、イエス様が荒々しく言い放った言葉の中にも福音が含蓄されていたのであります。レビ記14章1~9をご覧ください。

主はモーセに仰せになった。以下は重い皮膚病を患った人が清めを受けるときの指示である。彼が祭司のもとに連れて来られると、祭司は宿営の外に出て来て、調べる。患者の重い皮膚病が治っているならば、祭司は清めの儀式をするため、その人に命じて、生きている清い鳥二羽と、杉の枝、緋糸、ヒソプの枝を用意させる。次に、祭司は新鮮な水を満たした土器の上で鳥の一羽を殺すように命じる。それから、杉の枝、緋糸、ヒソプおよび生きているもう一羽の鳥を取り、さきに新鮮な水の上で殺された鳥の血に浸してから、清めの儀式を受ける者に七度振りかけて清める。その後、この生きている鳥は野に放つ。清めの儀式を受けた者は、衣服を水洗いし、体の毛を全部そって身を洗うと、清くなる。この後、彼は宿営に戻ることができる。しかし、七日間は自分の天幕の外にいなければならない。彼は七日目に体の毛を全部、すなわち、頭髪、ひげ、まゆ毛、その他の毛もすべてそる。そして、衣服を水洗いし、身を洗う。こうして、彼は清くなる。

この男は重い皮膚病が癒された後、イエス様の厳しい言いつけを守ることが出来ませんでした。自分が癒されたことについて、ただ黙っていることはできなかったのです。荒れ野において孤独だった彼が、祭司に認められ、無事に、共同体生活に復帰できたのですから無理もありません。男は神殿に上り、モーセの律法に定められた清めの供え物を献げました。おそらくその時点では、まだ気づいていなかったと思われますが、その後ゴルゴタの丘でイエス様が十字架に掛けられたという事件が起こり、そして使徒たちからイエス様が復活されたということを聞かされた時に、「そう言えば、あの時・・・このようにしたんだ、このようにして自分は清められたんだ」と記憶が思い起こされたに違いありません。そして使徒たちの証しを、そのまま信じ受け入れることが出来たに違いありません。

あの時、彼は、清い鳥二羽を準備して神殿に上りました。そして水を満たした器の上で一羽を殺し、そこに血を注ぎ、もう一羽の鳥をその血が入った器に浸し、そして自分自身にもその血を7回振りかけてもらった後に、この血に浸された鳥は野に放たれたのです。主イエスが自分の代わりに病を負ってくださり、自分の代わりに血を流し、自分の代わりに死んでくださったことによって、自由にされた鳥のように、自分は解放された。後で振り返った時に、あの時、野に放たれた鳥こそまさに自分であったということが思い出され、深い感謝に包まれたに違いないのです。あの時、自分は、とにかく重い皮膚病が治ったことが、うれしくて、多くの人々に、奇跡を起こしてくれた方のことを触れ回り、言い広めたけれども、このお方は単に、奇跡を起こす呪術師ではなく、私の罪の問題をも清めてくださった救い主であったと、喜びと感謝の気持ちが止めどなく溢れて来たのです。あの時、男が清められ、社会復帰した一方で、イエス様はどうなってしまったのでしょうか。45節を見ると、イエス様は、「もはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた」と書かれています。「人のいない所」、つまり荒れ野であり、汚れた男がこれまで強いられていた生活の現場でありました。つまり、イエス様の奇跡には、象徴的な意味が含まれていたということです。主イエスが彼を清める一方で、彼の罪と汚れと、それによる孤独や苦しみや悲しみの一切を、イエス・キリストが引き受けてくださったという意味です。汚れた男に臨んだ奇跡それ自体が、神の救いの啓示でありました。血を注ぎ、その血によって男は清められ、神さまの御前に出て礼拝をすることが出来る神の民の一人として回復されたのです。モーセによって定められた神殿で殺された鳥の血には、そのように恵み深い意味が含まれていたのです。そして、十字架上で流された主イエスの血には、そのように恵み深い意味が含まれていたのです。

【結論】

時は満ち、救い主イエス様が遣わされ、今まさに神の国が到来いたしました。イエス様は私たちの罪と病の一切をその身に引き受けられ、私たちの代わりに十字架にかかられました。それはキリストの内にある者を、ご自身の血によって贖い、清めるためであったのです。血を振りかけられ空に飛び立った鳥とは、私たちを指しています。私たちは自由にされた者として、この自由を自分中心に用いるのではなく、主イエスを心から愛し、今も生きて働いておられる神を広く伝えていく者とならせていただきましょう。「悔い改めて、福音を信ぜよ」このメッセージを、主イエスが生涯に渡って宣言されたように、私たちもこのメッセージを世に生涯をかけて大胆に語っていく者とさせていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

복음선교를 위해서 오신 예수 그리스도

2022년 2월 6일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

마가복음 1장 35 ~45절

서론

「때가 찼고 하나님의 나라가 가까이 왔으니 회개하고 복음을 믿으라」이것이 주 예수의 공생애 사역의 첫 설교이며 첫 마디였습니다. 또한 그 설교는 자신의 십자가에 이르기까지 계속해서 말씀하셨고 그것은 기도 없이는 있을 수 없는 것이었습니다. 안식일이 밝았던 밤, 가버나움의 병자라는 병자들이 무리를 지어 예수님이 머물던 베드로의 집으로 쇄도 했는데, 예수님은 그들 모두를 치유해 주셨습니다. 그 다음날 아침 일찍 아직 어두울 때 외딴 곳으로 나가 예수님은 기도하셨습니다. 무엇을 기도하셨을까요? 아버지의 마음을 묻고 자신의 복음선교의 사명을 위해 기도하고 있었던 것일까요. 앞으로의 복음선교의 사역 위에 성령의 인도하심을 청하는 기도를 하셨을까요? 35~38절을 보시기 바랍니다.

(1) 예수님을 이해할 수 없는 제자들

35 새벽 아직도 밝기 전에 예수께서 일어나 나가 한적한 곳으로 가사 거기서 기도하시더니

36 시몬과 및 그와 함께 있는 자들이 예수의 뒤를 따라가

37 만나서 이르되 모든 사람이 주를 찾나이다

38 이르시되 우리가 다른 가까운 마을들로 가자 거기서도 전도하리니 내가 이를 위하여 왔노라 하시고

아직 어두울 때 예수님이 혼자 집을 나가시고 그 뒤를 베드로와 그와 함께 있는 자들이 쫓아갔습니다. ‘선생님은 이런 시간에 어디로 가시는 걸까?’라고 생각했겠죠. 겨우 예수님이 계신 곳을 찾아내자 예수님은 그곳에서 혼자 기도하고 계셨습니다. 그들은 그 기도의 의미를 생각하는 배려는 하지 않고 「모든 사람이 주를 찾나이다」라고 말했습니다. 이 말속에는 “왜 이런 곳에서 헛되이 시간을 보내고 있습니까? 치유받아야 할 병자나 악령에 잡힌 자들이 아직도 많은데 시급히 돌아와 주십시오!”이라는 듯한 분위기가 감돌고 있습니다. 그러자 예수님은 제자들에게 대답하셨습니다. 「다른 가까운 마을들로 가자」즉 가버나움을 떠나 갈릴리 지방의 다른 지역으로 가자는 것입니다. 이 말을 들었을 때 제자들은 ‘어, 왜?’라고 의외라고 생각했을 것이 틀림없습니다. 예수님이 이 가버나움에서 그 이름을 떨칠 기회가 도래하면서 드디어 지역에서의 인기를 부동한 것으로 만들 절호의 기회라고 생각했는데 그걸 놓치는 것 같아 딜레마를 느꼈을 것이 틀림없었기 때문입니다. 제자들에게는 예수님이 단순히 사람들의 고통을 덜어주는 주술사로 오신 것이 아니라 복음을 말씀하시고 사람들이 예수님의 말씀을 믿음으로 받아들이고 회개함으로 인도하시기 위해 오셨다는 것을 아직 이해하지 못했습니다. 물론 예수님 자신은 병든 자나 악령에 시달리는 자들을 모두 치유해 주고 싶은 마음을 가지고 계셨을 것입니다. 그러나 예수님을 따라오는 사람들이 예수님을 무슨 주술사처럼 생각하고 자신들의 이익만을 구하고 그 힘을 얻으려고 따라오는 것은 예수님이 원치 않는 일이었습니다.

(2) 한 나병 환자의 치유

자, 가버나움을 떠난 후 한 나병 환자가 예수님께 와서 무릎을 꿇고 정결하게 해 달라고 열심히 청했습니다. 이 상황은 제자들이 주변에 있었는지 확실하지 않지만 어쨌든 정결케함을 열심히 청한 남자와 예수님 두 사람에게만 스포트라이트가 비춰지고 있습니다. 한국 성경 개역개정에는 나병이라고 번역된 이 말은 오래된 성경에서는 나병 즉 현대의 한센병으로 번역되었습니다. 일본 공동번역에는 실제로는 한센병 증상보다 더 넓은 피부병을 의미한다고 해서 「무거운 피부병」이라고 번역이 변경되었습니다. 또한 일본의 가장 새로운 성경협회 공동역 성경에서는 더욱 변경되어 「규정의 병」으로 번역되고 있습니다. 신개역성경에서는 번역이 어려웠을까요. 일본어로 번역하지 않고 히브리어의 「차라아트」라는 병명을 그대로 기재하고 있습니다. 어쨌든 이 피부병은 이스라엘에서 매우 무서운 병으로 여겨졌습니다. 피부에 신경의 감각이 없어지고 점차 썩어가는 것입니다. 그래서 만일 이 빌병으로 인정된다면 그 사람은 「불결한 자」로서 공동체로부터 격리되어야 했습니다. 보통 병이 나을 때 「치유되다」라는 말이 성경에서 쓰이는데 왜 그런지 이 병이 나을 때 만큼은 「정결해지다」라는 동사가 쓰이고 있습니다. 이 병은 의학적으로도 질병이며, 뿐만 아니라 종교적으로도 불결하다고 여겨졌던 것입니다. 당시 이 병에 걸린 자는 하나님의 저주를 받은 자, 하나님이 형벌을 내린 자로 여겨졌습니다. (민수기 12장 9,10절, 열왕기하 5장 27절, 역대하 26장 16~21절). 그러므로 이 병으로 인정된다면 그 사람은 사회로부터 버림받고 죽은 것이나 다름없이 외롭고 쓸쓸한 곳에서 고독하게 죽음을 기다리는 나날을 보내야 했습니다. 그래서 여기서 이 병을 앓고 있는 남자가 예수님께 왔다는 것은 가버나움의 동네 한 가운데가 아니라 거버나움에서 나와서 다음 마을이나 마을로 들어가는 입구의 사람이 없는 곳, 외딴 교외였다고 생각됩니다. 그는 예수님의 마음 여하에 따라 하나님만이 정결케 할 수 있는 자신의 불치병이 (열왕기하 5장 7절, 마태복음 11장 5절) 이분을 통해서라면 치유될 수 있다고 믿었기에 「원하시면 저를 깨끗하게 하실 수 있나이다」라고 말하는 것입니다. 이 말은 예수님에 대한 신앙고백으로 여결질 수 있는 말이었습니다. 예수님은 이 부정한 남자에게 손을 내밀어 부정하게 될 위험을 일절 무릅쓰고 그 사람을 만졌습니다. 그러자 금세 나병이 사라지고 그 사람은 정결해 졌습니다. 마치 예수님의 정결함이 이 남자에게 전가된 것처럼 하나님의 역사가 일어난 것입니다.

조금 여담이지만 예수님은 이 사람을 보시고 41절에서 「불쌍히 여기사」라고 하셨다고 쓰여 있는데 이 부분의 번역을 「분노하셨다, 화났다」라고 번역한 성경도 있습니다(NIV). 이 번역의 차이는 번역한 그리스어 사본의 차이에서 비롯된 것 같습니다. 어떤 사본에는 「스플랑크니조마이σπλαγχνίζομαι(애간장이 끊어지도록 불쌍히 여기시다)」라는 말이 사용되고 있고, 또 다른 사본에는 「오르기조마이 ὀργίζομαι(분노하셨다)」라는 말이 사용되고 있습니다. 최근의 비평적인 주해서는「분노하시고 화나셨다」라는 단어를 지지하고 있습니다. 사실 원본이 이 세상에 존재하지 않기 때문에 과연 어느 사본이 맞는지는 모르겠지만, 우리는 「분노하셨다」라는 말로 쓰여져 있는 것으로 읽어나가도록 하겠습니다.

그러면 예수님의 분노는 무엇에 대한 분노인가 하는 것이 됩니다. 이 분노는 하나님의 피조물의 본래의 모습을 무너뜨리는 죄와 죽음의 힘에 대한 분노였던 것으로 보입니다. 예수님은 마찬가지로 마르다와 마리아의 동생 나사로가 죽었을 때에도 역시 분노하셨습니다. (요한복음 11장 33,38절). 하나님의 나라가 도래하는 가운데 여전히 죄와 죽음의 힘이 병자 안에서 활동하고 있는 것에 대한 거룩한 분노입니다. 자신의 양이 이런 광야에서 고독하게 방치되어 선민으로서의 특권을 전혀 누리지 못하는 것에 대한 분노입니다. 공동체로 복귀해 함께 예배를 드리는 삶으로 돌아가고 싶은 그 간절한 소망이 막혀 있는 것에 대한 분노입니다. 43 ~45절을 보시겠습니다.

43 곧 보내시며 엄히 경고하사

44 이르시되 삼가 아무에게도 아무 말도 하지 말고 가서 네 몸을 제사장에게 보이고 네가 깨끗하게 되었으니 모세가 명한 것을 드려 그들에게 입증하라 하셨더라

45 그러나 그 사람이 나가서 이 일을 많이 전파하여 널리 퍼지게 하니 그러므로 예수께서 다시는 드러나게 동네에 들어가지 못하시고 오직 바깥 한적한 곳에 계셨으나 사방에서 사람들이 그에게로 나아오더라

예수님은 남자를 치유하시고 그곳에서 즉시 떠나게 하시고, 또 아무에게도 아무 말도 하지 말고 곧장 제사장에게 몸을 보여주라고 「엄히」 경고 하십니다. 여기에도 예수님의 분노가 묻어납니다. 죄들을 지배하고 구속하는 죽음의 지배에 대해 격렬하게 분노하시며, “이런 외딴 곳에서 당장이라도 떠나라!” “빨리 사회로 복구하라!” “원래 있던 예배 공동체로 빨리 돌아가라!”라고 예수님은 말씀하십니다.

(3) 모세가 명한 제물을 드림으로 나타난 복음

자 그럼, 44절에서 예수님은 「모세가 명한 것을 드려 그들에게 입증하라」고 하시는데 이게 무슨 말일까요? 레위기 14장 1~9절에 그것에 대해서 자세히 나와있습니다. 사실 예수님이 엄히 경고하신 말씀 속에도 복음이 함축되어 있었던 것입니다. 레위기 14장 1~9절을 참조하십시오.

1 여호와께서 모세에게 말씀하여 이르시되

2 나병 환자가 정결하게 되는 날의 규레는 이러하니 곧 그 사람을 제사장에게로 데려갈 것이요

3 제사장은 진영에서 나가 진찰할지니 그 환자에게 있던 나병 환부가 나았으면

4 제사장은 그 정결함을 받을 자를 위하여 명령하여 살아 있는 정결한 새 두 마리와 백향목과 홍색 실과 우슬초를 가져오게 하고

5 제사장은 또 명령하여 그 새 하나는 흐르는 물 위 질그릇 안에서 잡게 하고

6 다른 새는 산 채로 가져다가 백향목과 홍색 실과 우슬초와 함께 가져다가 흐르는 물 위에서 잡은 새의 피를 찍어

7 나병에서 정결함을 받을 자에게 일곱 번 뿌려 정하다 하고 그 살아 있는 새는 들에 놓을지며

8 정결함을 받은 자는 그의 옷을 빨고 모든 털을 밀고 물로 몸을 씻을 것이라 그리하면 정하리니 그 후에 진영에 들어올 것이나 자기 잠막 밖에 이레를 머물 것이요

9 일곱째 날에 그는 모든 털을 밀되 머리털과 수염과 눈썹을 다 밀고 그의 옷을 빨고 몸을 물에 씻을 것이라 그리하면 정하리라

이 남자는 나병이 치유된 후 예수님의 엄한 경고의 말씀을 지키지 못했습니다. 자신이 치유된 것에 대해 그저 가만히 있을 수는 없었던 것입니다. 광야에서 고독했던 그가 제사장에세 인정받아 무사히 공동체 생활로 복귀할 수 있었으니 무리도 아닙니다. 남자는 성전에 올라 모세가 명한 정결한 제물을 바쳤습니다. 아마 그 시점에서는 아직 깨닫지 못했을것으로 생각되지만, 그 후 골고다 언덕에서 예수님이 십자가에 못박힌 사건이 일어났고, 그리고 사도들로 부터 예수님이 부활하셨다는 말을 들었을 때 “그러고 보니 그때.. 이렇게 했구나, 이렇게 해서 나는 정결함을 받았구나”라는 기억이 떠올랐을 것입니다. 그리고 사도들의 간증을 그대로 믿고 받아들일 수 있었음을 추측해 볼 수 있습니다.

그때 그는 정결한 새 두 마리를 준비해서 성전에 올라갔습니다. 그리고 물을 채운 그릇 위에서 한 마리를 죽이고 거기에 피를 붓고, 다른 한 마리의 새를 그 피가 담긴 그릇에 담갔으며, 그리고 자기 자신에게도 그 피를 일곱 번 뿌림 받은 후에 그 피에 담겼던 새는 들로 놓아졌습니다. 주 예수님께서 자신을 대신하여 병을 짊어져 주시고 자신을 대신하여 피를 흘리며 자신을 대신하여 죽어주심으로써 자유롭게 된 새처럼 자신은 해방되었다. 나중에 돌이켜 돌아봤을 때 그때 들에 놓아졌던 새야말로 바로 자신이었다는 것이 생각나 깊은 감사에 휩싸였을 것입니다. 그때 자신은 어쨌든 나병이 정결하게 된 사실이 기뻐서 많은 사람들에게 기적을 일으키신 분을 언급하며 퍼뜨렸지만, 이 분은 단순히 기적을 일으키는 주술사가 아니라 자신의 죄의 문제도 씻어주신 구원자 였다며 기쁨과 감사의 마음이 끝없이 쏟아졌을 것입니다. 그때 남자가 정결해져서 사회로 복귀한 반면 예수님은 어떻게 되어 버렸을까요. 45절을 보면 예수님은「드러나게 동네에 들어가지 못하시고 오직 바깥 한적한 곳에 계셨으나」라고 기록되어 있습니다. 「바깥 한적한 곳」즉 광야이며 부정한 남자가 그동안 강요당했던 생활의 현장이었습니다. 즉 예수님의 기적에는 상징적인 의미가 담겨 있었다는 것입니다. 주 예수께서 그를 정결케 하시면서 그의 죄와 부정함과 그로 인한 고독과 괴로움과 슬픔 일체를 예수 그리스도께서 짊어 주셨다는 뜻입니다. 부정한 남자에게 임한 기적 그 자체가 하나님의 구원의 계시였습니다. 피흘림이 있고, 그 피에 의해 남자는 정결함을 받고 하나님 앞에 나가서 예배를 드릴 수 있는 하나님의 백성 중 한 사람으로 회복된 것입니다. 모세에 의해 명해진 성전에서 죽음 당한 새의 피는 그렇게 은혜로운 의미를 담고 있었던 것입니다. 그리고 십자가 위에서 흘러내린 주 예수님의 피는 그렇게 은혜로운 의미가 담겨져 있었던 것입니다.

결론

때가 찼고 구원자 예수님이 오셨고 이제 그야말로 하나님의 나라가 도래했습니다. 예수님은 우리의 죄와 병의 일체를 그 몸에 짊어지시고 우리 대신 십자가에 못 박혔습니다. 그것은 그리스도 안에 있는 자를 자신의 피로 속죄하고 정결하게 하기 위함이었습니다. 피 뿌림을 받고 하늘로 날아 오른 새란 우리를 가리킵니다. 우리는 자유롭게 된 자로서 이 자유를 자기 중심으로 사용하지 말고 주 예수님을 진심으로 사랑하며 지금고 살아서 역사하시는 하나님을 널리 전파하는 자가 되도록 합시다. 「회개하고 복음을 믿으라」는 이 메세지를 주 예수님께서 평생 선포하셨듯이 우리도 이 메시지를 남은 생애 동안 세상에 담대히 이야기하는 자가 됩시다.

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