2021年10月10日「信実である方に全てを委ねる 신실한 분에게 모든 것을 맡기라」

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信実である方に全てを委ねる 신실한 분에게 모든 것을 맡기라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ヨハネの黙示録 3章14節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:14ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。
3:15「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
3:16熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。
3:17あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。
3:18そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。
3:19わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。
3:20見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
3:21勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。
3:22耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネの黙示録 3章14節~22節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 ヨハネの黙示録の2章から3章にかけて、七つの教会にあてた手紙が記されていますが、最後の七番目の手紙が今読んだ「ラオディキア教会に宛てた手紙」です。この七つの教会のうち、前半の4つの教会は、外的な迫害や、抑圧にさらされていて、自分たちの信仰を守っていくためには嫌でも、信仰の戦いが要求されました。ところが後半の3つの教会は、外的な迫害や抑圧などはありませんが、その代わり、内的に忍び寄ってくる困難や様々な誘惑の中で、それらに妥協することなく、いかにして信仰の戦いをしていくのかが記されています。現代の日本に生きている私たちは、法によって信仰の自由が守られているため、あからさまな迫害など受けることはありませんが、その代わりに、この世から内的に忍び寄ってくる困難や様々な誘惑がございます。本日のラオディキアの教会に宛てた手紙を通して、私たちも多くのことを学ぶことができるかと思います。

さて、3:20には有名な聖句がございます。もしかしたら皆さんの中で、この聖句を暗唱されている方もいらっしゃるかもしれません。

“見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。”

こちらの絵をご覧ください。イエス様は扉の外に立ってノックをしています。中から開けてもらって、初めて中に入ることができます。

私たちは、ともすれば、この有名な黙示録3:20の御言葉を、伝道メッセージ向けの箇所と考えてしまいます。伝道する時に、「今イエス様はあなたの心の扉をたたいておられます。どうぞ、今イエス様を信じ、心に迎え入れてください!」、このように伝道されて、イエス様を信じた方も恐らくいらっしゃるかもしれません。しかし、本日の箇所を文脈から読み取るなら、この御言葉は未信者に対して語られているのではなく、キリスト者に対して語られているということが分かります。それなら、この絵は、どのように解釈すればいいのでしょうか。そのことについて本日は考えてみましょう。

【1】. ラオディキアの背景とイエス様のご指摘

 まず、背景として、ラオディキアという町がどのような町なのかということですが、ラオディキアは小アジアのリュコス川沿いの都市でありまして、金融都市として発展しました。リュコス川流域には、コロサイやヒエラポリスという都市もありましたが、ラオディキアはそれらを凌駕する裕福な都市でした。どれ位、裕福だったのかと言うと、AD.60~61年頃に、この地方に大地震が起こり、三つの都市は崩壊したのですが、この時、コロサイは復興することができず、ラオディキアとヒエラポリスは復興することができました。ただラオディキアの場合、ローマからの支援を全く受けないで、自力で復興することが出来たというのです。ラオディキアは、お金をたくさん持っていたということです。また、黒い羊毛の毛織物が有名で、さらに、町には医療の学校があり、軟膏のような塗り薬タイプの目薬でも有名でした。このように豊かな都市でありましたが、一つ問題点がありました。それは水が不足していたということです。温泉地であるヒエラポリスから熱い水を引くために水道を引いてきましたが、ラオディキアに到着すると、すっかりぬるま湯になってしまいました。またコロサイでは冷たい水が湧き出る水源があったらしく、そこから冷たい水を運搬して来ましたが、ラオディキアに到着すると、やはりぬるくなってしまったのです。

3:16節を見ると「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」とあります。このお言葉は、ぬるい水が、いかに不快なものかを知っていたラオディキアの人々にとって、大変厳しい指摘でありました。しかし、ここで熱いのが良いというのは理解できますが、イエス様に対し、ぬるいより、むしろ冷たい方が良いとはどういう意味でしょうか。それは、もし自分がキリスト者でありながら、イエス様に対し、冷たい感情しかもっていなかったなら、愛の共同体の中で自分だけが浮いていること、自分だけが罪にどっぷりと浸かっていることに恐らく気づくことでしょう。周りと比較して、自分だけが異常であるということに気づき、悔い改めに導かれるに違いありません。しかし、もし、ぬるま湯なら、本人は何が間違っているのか分からないということです。いつまでたっても実は、盲目であることに気づかないということです。イエス様はそのようなラオディキアの人々にはっきりした口調で悔い改めを求めています。17~19節をご覧ください。

“あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。”

イエス様は、裕福なはずのラオディキアの人々に対して、実はあなたは「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」だと言われました。つまり、いくら物質的には富んではいても、神の前には、そうだというのです。そして、本当の意味で裕福になるために三つの処方箋を与えてくださいました。その処方箋とは、第一に、「火で精錬された金をわたしから買うがよい」ということです。ただの金ではありません。火で精錬された、混じりけがなく、不純物のない金です。これは一体何でしょうか。詩編66:10とマラキ3:3には、次のような御言葉があります。

詩編66:10

“神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。”

マラキ3:3

“彼は精錬する者、銀を清める者として座し/レビの子らを清め/金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を/正しくささげる者となるためである。”

つまり、火で精錬された金をイエス様から買いなさいというのは、神様の試練によって、聖められなさいという意味になります。信仰生活の中で苦しみを通して、試練を通して、純金のように練り清められなさいと言う意味です。

第二に、「裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買うがよい」と言われます。これは、一体何でしょうか。白い衣とは私たちの恥を覆うものです。私たちは、根っからの罪人であり、神の光に照らされる時に、御前に立つことのできない、身を隠したくなる、恥ずかしい存在ですね。しかしイエス・キリストの白い衣を私たちが着ることによって、キリストの花嫁とされ、現在、過去、未来における全ての罪の赦しが与えられるのです。白い衣を買いなさいというのは、日々、主の御前に自らの罪を告白し、悔い改め、罪の赦しを得なさいと言う意味です。

第三に、「目に塗る薬を買うがよい」と言われます。これは、一体何でしょうか。霊的な分別力をつけるため、神様が見ているものを、共に見ることができるように、信仰の目が与えられるようにという意味です。真理によって霊の目が開かれなければ、本当の自由を得ることはできません。私たちは自分が一体誰なのか、自分は何のために生きているのか、そのことさえも分からない罪びとなのです。

【2】. アーメンなるお方

 さて、ラオディケアは金融都市であり、黒い毛織物と目薬を全て自前で調達いる豊かな都市でしたが、そのようなラオディキアに対してイエス様は「火で精錬された金」と、「恥をさらさないように身に着ける白い衣」と、「目薬を」私から買うがよいと勧められました。それでは、買うというのは、一体どういう意味でしょうか。「混じりけがなく聖められること」と、「罪の赦し」と、「目が開かれて自由になること」が、私たちに、賜物として与えられるのではなく、それら一切合切は、私たちがお金を出して、買わなければならないものなのでしょうか。もちろんそういうことではありませんね。イザヤ55章1節(聖書協会共同訳)には次のような御言葉がございます。ご覧ください。

“さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。/金のない者も来るがよい。/買って、食べよ。/来て、金を払わず、代価も払わずに/ぶどう酒と乳を買え。”

ここには、「渇いている者は皆、代価を払わないで買いなさい」と書かれています。大変不思議な表現です。恐らく、イエス様が私たちに与えてくださる聖さ、罪の赦し、真理による自由などは、決して安価なものではないということを意味しているのではと思います。いや、むしろそれは、キリストの命の代価であり、大変高価なものですが、それを、金を払わずに買いなさい、ただその方を通して、その方にのみ信頼することによって、手に入れなさいと言っているのです。

なぜ、そんなことができるのでしょうか。それはイエス・キリストがアーメンなるお方として、神の全ての約束が、キリストの中で成就したからです。黙示録3:14節に戻ります。

“ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。”

ここには、イエス・キリストが万物の源であると書かれています。イエス・キリストは、神の御言葉、ロゴスであられ、被造物は全て神の御言葉によって創造されました。それだけではありません。旧約聖書に書かれたすべての神の預言と約束は、アーメンであられるキリストの中で、一つの間違いもなく「然り」「その通りです」と、成就されました。アーメン(ヘブライ語)とは「然り」「その通りです」という意味です。ですから、イエス・キリストこそ、神を証しする、誠実で真実な証人だということになります。イエス様ご自身が、神が不変であるということを証しし、神は決して偽ることのないお方であるということを証ししているのです。

またギリシャ語ではアーメンという言葉が信実とか誠実(ピスティス)という言葉に翻訳されましたが、キリストの信実とは、神がご自身の名にかけてご自身の民と契約を結ばれた神であられるという意味です。また、神の御言葉が決して地に落ちることなく、ご自身の民を一人もこぼすことなく完全に救ってくださるという意味です。神のすべての約束は、キリストの中で‘然り’であり‘アーメン’なのです。だからこそ、キリストは、私たちの信仰の対象となることができ、岩のような、このお方に、私たちは絶対的に信頼を寄せることができるのです。

【3】. 使命に生きる

 それでは、ここで、もう一度、先ほどの絵の意味について、考えてみましょう。この絵は未信者に対して、イエス様を受け入れなさいという意味ではないと、お話ししました。未信者ではなく、信者に対して何かを訴えているのです。イエス様を扉の外に立たせておいて、自分が必要な時にだけ、「イエス様、そこにいらっしゃるでしょ。」「ちょっと、助けてください。」という図柄です。イエス様は扉の外から答えます。「はい、ご主人様」と言って呼ばれた時に仕えてくださる姿です。信者である私たちが主人となり、アーメンである方、誠実で真実な神の証人である方を、外に立たせてしまっているのです。私たちがまだ、信じて間もないうちは、そのような信仰もあり得るでしょう。しかし、これではアラジンと魔法のランプと何ら変わりません。ご利益宗教だということです。私たちは、ともすれば、ご利益宗教と変わらない、このような「なまぬるい」信仰生活を送り続けてしまうのです。それでは、イエス様は、力づくで中に入って来ることはできないのでしょうか。そんなことはありません。力づくで中に入ってくることもできますが、しかし、あえて外で待っておられるのだと思います。私たちはいつまでも、そのような状態に留まっていてはなりません。イエス様を私たちの心の王座に迎え入れ、イエス・キリストを主の主、王の王として崇め、私たちこそ、このお方に熱心にお仕えするべきです。そして、この世に生かされている間、誘惑に負けず、世と妥協することなく、罪と戦う教会として、私たちに与えられている使命に生きるべきです。

私たちは、ともすれば、自分自身が良い信仰を持ち、健康な教会を形成するなら、この世で祝福されて、不幸や、困難や、病といったものは、なくなるだろうと考えてしまいがちです。今、物質的に豊かで、何不自由なく生きて行くことができるなら、今の信仰を神様は喜ばれているものと錯覚してしまいます。しかし、本日の箇所は、そのような考えを真っ向から否定しているのです。なぜなら、ラオディキアの人々は、表向きはいかにも祝福されているように見えるのですが、イエス様の目からは、「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」と映っていたからです。イエス様は外で扉をたたき続けながら、ひたすら忍耐されておられるからです。ラオディキアの人々は、この世の豊かさに誘惑され、この世と妥協し、罪と戦っていくという、キリスト者の使命を放棄してしまいました。扉を開けて、私たちこそ主に熱心にお仕えするべきです。今日から私たちは日々の祈りの中に、「神様、私はイエス様を心の王座に迎え入れます。あなたに仕える者とさせてください。あなたをお喜ばせすることが出来るように力を与えてください」というお祈りをぜひ加えてみてください。

【結論】

 私たちは、神様によって信仰に導かれ、洗礼を授けられました。しかし、救いがそれによって完成されたわけではありません。霊的には既に救われていますが、私たちの魂がイエス様の御許に引き上げられる、その日まで、この世で生きている限り、御言葉に信頼しながら、罪と戦っていくという使命が与えられています。この使命は、私たちの力では到底全うすることはできませんが、主が私たちと共にいて下さり、聖霊の助けによって、奇跡的に全うすることが出来、勝利を得、天の御座にキリストと共に座らせて下さるのです。そのように約束してくださった信実なる神様に全幅の信頼を寄せて、この世の荒波の中を歩ませていただきましょう。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

신실한 분에게 모든 것을 맡기라

2021년 10월 10일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키목사

요한계시록 3장 14~22절

서론

요한계시록 2장에서부터 3장에 걸쳐서, 일곱 개의 교회에 보내진 편지가 기록되어 있는데 마지막 일곱 번째 편지가 지금 읽은 「라오디게아 교회에 보낸 편지」입니다. 이 일곱 교회 중 전반부의 네 교회는 외적인 박해나 억압에 노출되어 있어 자신들의 믿음을 지켜나가기 위해서는 싫어도 믿음의 전투가 요구되었습니다. 그런데 후반의 세 교회는 외적인 박해나 억압 같은 것은 없지만, 대신 내적으로 슬그머니 다가오는 어려움이나 여러 유혹 속에서 그것들에 타협하지 않고 어떻게 믿음의 싸움을 해 나갈 것인지가 적혀 있습니다. 오늘날 일본에 살고 있는 우리들은, 법에 의해서 믿음의 자유가 지켜지고 있기 때문에 노골적인 박해 등은 받지 않습니다만, 그 대신에 이 세상으로부터 내적으로 슬그머니 다가오는 곤란이나 여러가지 유혹이 있습니다. 오늘 라오디게아 교회에 보낸 편지를 통해 우리도 많은 것을 배울 수 있을 거라고 생각합니다.

자 3장 20절에는 유명한 성구가 있습니다. 어쩌면 여러분 중에 이 성구를 암송하시는 분도 계실지도 모릅니다.

볼지어다 내가 문 밖에 서서 두드리노니 누구든지 내 음성을 듣고 문을 열면 내가 그에게로 들어가 그와 더불어 먹고 그는 나와 더불어 먹으리라

여기 그림을 봐 주시기 바랍니다. 예수님은 문 밖에 서서 노크를 하고 계십니다. 안에서 열어주어야 비로소 안으로 들어갈 수 있습니다.

우리는 자칫하면 이 유명한 계시록 3장 20절 말씀을 전도 메시지를 위한 성구로 생각하게 됩니다. 전도할 때 “지금 예수님은 당신의 마음의 문을 두드리고 계십니다. 부디 지금 예수님을 믿고 마음으로 맞아들이세요!”이렇게 전도 받고 예수님을 믿게 되신 분이 아마 계실지 모릅니다. 그러나 오늘날 그 부분을 문맥에서 읽어낸다면 이 말씀은 미신자가 아닌 그리스도인에 대해 말씀하신다는 것을 알 수 있습니다. 그렇다면 이 그림은 어떻게 해석하면 좋을까요? 그것에 대해 오늘은 생각해 봅시다.

(1) 라오디게아의 배경과 예수님의 지적

먼저, 배경으로 라오디게아라고 하는 도시가 어떤 도시인가 하는 것인데 라오디게아는 소아시아의 류코스 강변의 도시로 금융도시로서 발전했습니다. 류코스 강 유역에는 골로새와 히에라폴리스라는 도시도 있었지만, 라오디게아는 그 도시들을 능가하는 부유한 도시였습니다. 얼마나 부유했냐면 AD.60~61년 경에 이 지방에서 대지진이 일어나 세 도시는 붕괴되었는데 이때 골로새는 부흥하지 못했고, 라오디게아와 히에라폴리스는 부흥할 수 있었습니다. 다만 라오디게아의 경우 로마로부터의 지원을 전혀 받지 않고 자력으로 부흥할 수 있었다는 것입니다. 라오디게아는 돈을 많이 가지고 있었다는 것입니다. 또 검은 양모의 모직물이 유명하고, 게다가 시내에는 의료 학교가 있어서 연고와 같은 바르는 약 타입의 안약으로도 유명했습니다. 이렇게 풍요로운 도시였지만 한 가지 문제점이 있었습니다. 그것은 물이 부족했다는 것입니다. 온천지인 히에라폴리스에서 뜨거운 물을 끌어오기 위해 수도를 끌어 왔습니다만, 라오디게아에 도착하면 완전히 미지근한 물이 되어 버렸습니다. 또 골로새에서는 차가운 물이 솟아나는 수원이 있었던 것 같아 거기에서 차가운 물을 운반해 왔습니다만, 라오디게아에 도착하면 역시 미지근해져 버렸습니다.

3장 16절을 보면「뜨겁지도 아니하고 차지도 아니하니 내 입에서 너를 토하여 버리리라」고 쓰여져 있습니다. 이 단어는 미지근한 물이 얼마나 불쾌한 것인지를 알고 있던 라오디게아 사람들에게 있어서 매우 냉엄한 지적이었습니다. 그러나 여기서 뜨거운 것이 좋다는 것은 이해하지만 예수님에게 미지근한 것보다 차라리 차가운 것이 낫다는 것은 무슨 뜻일까요. 그것은 만약 자신이 그리스도인이면서 예수님에 대해 차가운 감정밖에 가지고 있지 않았다면 사랑의 공동체 안에서 자신만 떠 있는 것, 자신만 죄에 흠뻑 젖어 있음을 아마 깨닫게 될 것입니다. 주변과 비교하여 자신만이 비정상이라는 것을 깨닫고 회개에 이끌릴 것이 틀림없습니다. 그런데 만약에 미지근한 물이라면 본인은 뭐가 잘못됐는지 모른다는 거죠. 아무리 시간이 지나도 실은 눈이 멀었다라는 것을 깨닫지 못한다는 것입니다. 예수님은 그런 라오디게아 사람들에게 분명한 어조로 회개를 요구하고 있습니다. 17~19절을 보시기 바랍니다.

17 네가 말하기를 나는 부자라 부요하여 부족한 것이 없다 하나 네 곤고한 것과 가련한 것과 가난한 것과 눈 먼 것과 벌거벗은 것을 알지 못하는도다

18 내가 너를 권하노니 네게서 불로 연단한 금을 사서 부요하게 하고 흰 옷을 사서 입어 벌거벗은 수치를 보이지 않게 하고 안약을 사서 눈에 발라 보게 하라

19 무릇 내가 사랑하는 자를 책망하여 징계하노니 그러므로 네가 열심을 내라 회개하라

예수님은 부유한 라오디게아 사람들에게 “사실 너는 곤고한 자, 가련한 자, 가난한 자, 눈 먼 자, 벌거벗은 자”라고 말씀하십니다. 즉, 아무리 물질적으로는 부유하지만 하나님 앞에서는 그렇다는 것입니다. 그리고 진정한 의미에서 부유해지기 위해 세 가지 처방전을 주셨습니다. 그 처방전이란 첫째, 「불로 연단한 금을 사라」는 것입니다. 그냥 금이 아닙니다. 불로 연단된, 섞인 게 없고, 불순물이 없는 금입니다. 이게 대체 뭘까요? 시편 66편10절과 말라기 3장 3절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

시편 66편

10 하나님이여 주께서 우리를 시험하시되 우리를 단련하시기를 은을 단련함 같이 하셨으며

말라기 3장

3 그가 은을 연단하여 깨끗하게 하는 자 같이 앉아서 레위 자손을 깨끗하게 하되 금, 은 같이 그들을 연단하리니 그들이 공의로운 제물을 나 여호와께 바칠 것이라

즉, 불로 연단한 금을 사라는 것은 하나님의 시련에 의해 거룩해지라는 뜻입니다. 믿음 생활 속에서 괴로움을 통해, 시련을 통해, 순금처럼 다져지라는 것입니다.

둘째, 「흰 옷을 사서 입어 벌거벗은 수치를 보이지 않게하라」는 것입니다. 이게 대체 뭘까요? 흰 옷이란 우리의 부끄러움을 덮은 것입니다. 우리들은 뿌리부터 죄인이며 하나님의 빛에 비춰질 때, 하나님 앞에 설 수 없는, 몸을 숨기고 싶은 부끄러운 존재입니다. 그러나 예수 그리스도의 흰 옷을 우리가 입음으로써 그리스도의 신부로 여겨지며 현재, 과거, 미래의 모든 죄에 대한 용서가 주어집니다. 흰 옷을 사라는 것은 날마다 주님 앞에 스스로의 죄를 고백하고 회개하며 죄의 용서를 받으라는 뜻입니다.

셋째, 「안약을 사서 눈에 발라 보게 하라」입니다. 이게 대체 뭘까요? 영적 분별력을 기르기 위해 하나님이 보시는 것을 함게 볼 수 있도록 믿음의 눈이 주어지라는 뜻입니다. 진리에 의해 영의 눈이 열리지 않으면 진정한 자유를 얻을 수 없습니다. 우리는 내가 도대체 누구인지, 나는 무엇 때문에 살고 있는지 그 일조차 알 수 없는 죄인인 것입니다.

(2) 아멘이신 분

그런데 라오디게아는 금융도시였고, 검은 모직물과 안약을 모두 시 자체의 돈으로 조달하는 풍요로운 도시였습니다. 그런 라오디게아에 대해 예수님은 「불로 연단된 금」과 「벌거벗은 수치를 보이지 않게 할 흰 옷」과 「안약」을 예수님으로부터 사는 것이 좋다고 권하셨습니다. 그럼 산다는 것은 무슨 뜻일까요? 「불순물이 섞이지 않은, 거룩해 지는 것」과 「죄의 용서」와 「눈이 열려 자유로워지는 것」이, 그저 우리에게 선물로 주어지는 것이 아니라 그것들 일체는 우리가 돈을 내고 사야 하는 것일까요? 물론 그런 건 아니죠. 이사야 55장 1절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다. 보시죠.

오호라 너희 모든 목마른 자들아 물로 나아오라 돈 없는 자도 오라 너희는 와서 사 먹되 돈 없이, 값 없이 와서 포도주와 젖을 사라

여기에는 「목마른 자들은 모두 돈 없이, 값 없이 사라」고 쓰여 있습니다. 매우 희안한 표현입니다. 아마도 예수님이 우리에게 주시는 거룩함, 죄의 용서, 진리에 의한 자유 등은 결코 값싼 것이 아니라는 것을, 의미하고 있지 않을까 생각합니다. 아니, 오히려 그것은 그리스도의 생명의 대가이며 매우 비싼 것인데, 그것을 돈을 내지 말고 사라, 오직 그분을 통해 그분에게만 신뢰함으로써 얻으라는 것입니다.

어떻게 그럴 수 있을까요? 그것은 예수 그리스도께서 아멘이신 분으로서 하나님의 모든 약속이 그리스도 안에서 성취되었기 때문입니다. 요한계시록 3장 14절로 돌아갑니다.

라오디게아 교회의 사자에게 편지하라 아멘이시요 충성되고 참된 증인이시요 하나님의 창조의 근본이신 이가 이르시되

여기에는 예수 그리스도가 만물의 근원이라고 적혀 있습니다. 예수 그리스도는 하나님의 말씀, 로고스로 여겨졌고 피조물은 모두 하나님의 말씀에 의해 창조되었습니다. 그뿐만이 아닙니다. 구약성경에 적힌 모든 하나님의 예언과 약속은 아멘이신 그리스도 안에서 한 가지 실수 없이 「그렇습니다」「맞습니다」로 성취되었습니다. 아멘(히브리어)은 「그렇습니다」

「맞습니다」라는 의미입니다. 그러므로 예수 그리스도야 말로 하나님을 증명하는 신실하고 진실한 증인이라는 말이 됩니다. 예수님 자신이 하나님이 불변하신다는 것을 증명하고 하나님은 결코 거짓이 없는 분이라는 것을 증명하고 있는 것입니다.

또 헬라어로는 아멘이라는 말이 신실이라든가 성실(피스티스)이라는 말로 번역되었는데, 그리스도의 신실이란 하나님이 자신의 이름을 걸고 자신의 백성과 언약을 맺은 하나님이시라는 뜻입니다. 또한 하나님의 말씀이 결코 땅에 떨어지지 않고, 자신의 백성을 한 사람도 흘리지 않고 온전히 구원해 주신다는 뜻입니다. 하나님의 모든 약속은 그리스도 안에서 「그렇습니다」이며 「아멘」입니다. 그렇기 때문에 그리스도는 우리 믿음의 대상이 될 수 있고, 반석같은 이 분에게 우리는 절대적으로 믿음을 둘 수 있는 것입니다.

(3) 사명에 살다

자, 그러면 여기서 다시 한번 아까 그 그림의 의미에 대해서 생각을 해보도록 하겠습니다. 이 그림은 미신자에게 예수님을 받아들이라는 뜻이 아니라고 말씀 드렸습니다. 미신자가 아니라 믿는자들에게 무언가를 호소하고 있는 것입니다. 예수님을 문 밖에 세워놓고 자기 필요할 때만 “예수님, 거기 계시지요?” “좀 도와주세요”라는 그림입니다. 예수님은 문 밖에서 대답하십니다. “네, 주인님”이라고 말씀하시면서 신자에게 불리웠을 때 섬겨주시는 모습이 이 그림이라는 것입니다. 신자인 우리가 주인이 되고 아멘이신 분, 성실하고 진실한 하나님의 증인이신 분을 밖에 세워버리고 있는 것입니다. 우리가 아직 믿고 얼마 지나지 않았다면 그런 믿음도 있을 수 있을 것입니다. 그러나 이것으로는 알라딘의 마법램프와 아무런 차이가 없습니다. 기복신앙이라는 것입니다. 우리는 자칫하면, 기복신앙과 다름없는 이러한 「미온적인」신앙생활을 계속해 버리고 말것입니다. 그렇다면 예수님은 힘을써서 안으로 들어오실수는 없으실까요? 그럴수는 없습니다. 힘을 사용하셔서 안으로 들어오실도 있으시지만, 굳이 밖에서 기다리고 계실 거라고 생각합니다. 우리는 언제까지나 그런 상태에 머물러 있어서는 안 됩니다. 예수님을 우리 마음의 왕좌로 모시고, 예수 그리스도를 주의 주, 왕의 왕으로 받들며, 우리들이야말로 이 분을 열심히 섬겨야 합니다. 그리고 이 세상에 사는 동안 유혹에 넘어가지 않고 세상과 타협하지 않고 죄와 싸우는 교회로서 우리에게 주어진 사명에 살아야 합니다.

우리는 자칫 우리 자신이 좋은 믿음을 가지고 건강한 교회를 형성한다면 이 세상에서 복을 받고 불행이나 어려움이나 병 같은 것은 없어질 것이라고 생각하기 쉽습니다. 지금 물질적으로 풍요롭고 무엇 하나 불편함없이 살아갈 수 있다면 지금의 믿음을 하나님은 기뻐하고 계신다고 착각하고 맙니다. 그러나 오늘의 말씀은 그런 생각을 정면에서 부정하고 있습니다. 왜냐하면 라오디게아 사람들은 겉으로는 자뭇 복을 받은 것처럼 보이지만 예수님의 눈에는「곤고한 자, 가련한 자, 가난한 자, 눈 먼 자, 벌거벗은 자」로 비쳤기 때문입니다. 예수님은 밖에서 계속 문을 두드리시면서 오로지 인내하고 계시기 때문입니다. 라오디게아 사람들은 이 세상의 풍요로움에 유혹되어 이 세상과 타협하고 죄와 싸워나가는 그리스도인의 사명을 포기하고 말았습니다. 문을 열고 우리들이야말로 주님을 열심히 모셔야 합니다. 오늘부터 우리는 날마다 기도하는 가운데 “하나님, 저는 예수님을 마음의 왕좌에 모십니다. 당신을 섬기는 자로 삼아 주십시오. 당신을 기쁘시게 할 수 있도록 힘을 주세요”라는 기도를 꼭 더해 보시기 바랍니다.

결론

우리들은 하나님에 의해 믿음으로 인도되고, 세례를 받았습니다. 그러나 구원이 그것으로 완성된 것은 아닙니다. 영적으로는 이미 구원받았지만, 우리의 영혼이 예수님의 곁으로 끌어올림을 받는 그날까지, 이 세상에 살고 있는 한 말씀을 신뢰하며 죄와 싸워 나가야 하는 사명이 주어져 있습니다. 이 사명은 우리 힘으로는 도저히 해 낼 수 없지만 주님께서 우리와 함께 해주시고 성령의 도움으로 기적적으로 완수할 수 있어 승리를 얻고 하늘 보좌에 그리스도와 함께 앉혀 주시는 것입니다. 그렇게 약속하신 신실하신 하나님께 전폭적인 믿음을 가지고 이 세상의 거친 파도 속을 걸어가도록 합시다.

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