2021年09月19日「神の国は幼子たちのもの 아이들이야 말로 들어갈 수 있는 하나님 나라」

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神の国は幼子たちのもの 아이들이야 말로 들어갈 수 있는 하나님 나라

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
申命記 1章34節~2章1節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:34主はあなたたちの不平の声を聞いて憤り、誓って言われた。
1:35「この悪い世代の人々のうちで、わたしが与えると先祖に誓った良い土地を見る者はない。
1:36ただし、エフネの子カレブは例外である。彼だけはそれを見るであろう。わたしは、彼が足を踏み入れた土地を彼に与え、その子孫のものとする。彼は主に従いとおしたからである。」
1:37主は、あなたたちのゆえにわたしに対しても激しく憤って言われた。「あなたもそこに入ることはできない。
1:38あなたに仕えているヌンの子ヨシュアだけはそこに入ることができる。彼を力づけなさい。イスラエルに嗣業の土地を継がせるのは彼である。
1:39あなたたちが略奪されてしまうと言っている乳飲み子や、まだ善悪をわきまえていない子供たちは、そこに入ることができる。彼らにわたしはその土地を与える。彼らがそれを取るであろう。
1:40あなたたちは向きを変え、葦の海の道を通って荒れ野に向けて出発しなさい。」
1:41あなたたちは、わたしに答えて、「我々は主に対して罪を犯しました。我々は攻め上って、我々の神、主が命じられたように戦います」と言い、めいめい武器を携え、安易に考えて山地へ上って行こうとしたが、
1:42主はわたしに言われた。「彼らに言いなさい。攻め上って戦ってはならない。わたしはあなたたちのうちにいない。敵に撃ち破られてはならない。」
1:43わたしはそう伝えたが、あなたたちは耳を貸さず、主の命令に背き、傲慢にも山地へ上って行った。
1:44山地に住むアモリ人たちはあなたたちを迎え撃ち、蜂が襲うようにホルマまで追撃し、セイルであなたたちを撃ち破った。
1:45あなたたちは戻って来て、主の前で泣いたが、主はあなたたちの声に耳を傾けず、聞こうとされなかった。
1:46あなたたちは、長い間、すなわちあなたたちが滞在した日数だけカデシュに滞在した。
2:1我々は向きを変え、主がわたしに告げられたように、葦の海の道を通って荒れ野に向かって行き、長い間セイルの山地を巡った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
申命記 1章34節~2章1節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 モーセは、イスラエルの民に過去の回想を通して、彼らがどのようにして荒れ野で失敗したのかを説明しています。それは、二度と同じような失敗を繰り返してはならないと、警告をしているかのようであります。現代に生きる私たちも過去に学ぶことは大変重要なことですね。歴史を学び、過去に学び、現代をよりよく生きて行くことが出来ます。イスラエルの民にとっては、民族の歴史というのが、神が介入された救済の歴史であるために、特に重要でありました。彼らにとって歴史を学ぶことは、自分たちの信仰を形成することであったのです。

多くの神学者によると、イスラエルの信仰とは、彼らの歴史神学に基礎づけられており、従って彼らが持っている信仰というのは、短期的に、一朝一夕に形成されたものではなく、イスラエルの民族の歴史に、神が働かれた、その神の業、神の啓示を、祭りを通して、節気を通して、伝統を通して、語り継がれることによって、信仰が培われていったと主張します。つまり彼らの祭りが、彼らの節気が、彼らの伝統が、それ自体が彼らの信仰告白であるということです。例えば現在でも、ユダヤ人は秋の仮庵祭が近づくと、一週間ほど、子供たちを連れて外に出て、テントを張って生活します。大変不便です。子供たちは親に質問します。「なぜ、突然テント生活をしなければならないの?」「こんな食事、とてもまずくて食べられないんだけど」そのような子供たちの質問に両親たちは、自分たちの先祖たちがどのように荒れ野生活したのか、どのような失敗をしたのか、どのような恵みに与ったのかを話してくれるのです。これが祭りであり、信仰教育でありました。本日の申命記の箇所も、やはりモーセがイスラエルの民に、38年前に失敗した過去について言い聞かせています。特に本日のテーマは、神の御言葉に従順だった者がカナンの地に入り、不従順だった者がカナンの地に入れなかったという話であります。この箇所を通して、従順とか何か、不従順とは何かについて考えて行きたいと思います。また、併せて神様がイスラエルに求められた信仰とは、一体何なのかについて、考えてみたいと思います。1:34~38節をご覧ください。

【1】. 幼子こそ神の国に入る

 “主はあなたたちの不平の声を聞いて憤り、誓って言われた。「この悪い世代の人々のうちで、わたしが与えると先祖に誓った良い土地を見る者はない。ただし、エフネの子カレブは例外である。彼だけはそれを見るであろう。わたしは、彼が足を踏み入れた土地を彼に与え、その子孫のものとする。彼は主に従いとおしたからである。」主は、あなたたちのゆえにわたしに対しても激しく憤って言われた。「あなたもそこに入ることはできない。あなたに仕えているヌンの子ヨシュアだけはそこに入ることができる。彼を力づけなさい。イスラエルに嗣業の土地を継がせるのは彼である。”

イスラエルの民は、神様に不従順な態度を取り続けていました。これまで忍耐してこられた神様も、彼らが偵察隊の報告を聞いて、天幕の中でひそひそと不平をこぼしている、その声を聴いた時に、とうとう、憤りが頂点に達しました。1ページ前の申命記1:27には民の不平が書かれています。

“主は我々を憎んで、エジプトの国から導き出し、アモリ人の手に渡し、我々を滅ぼそうとしておられるのだ。”

そして、民数記14:2-3には次のような民の言葉が書かれています。ご覧ください。

“エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。”

彼らはこの言葉通り荒れ野で死ぬことになります。私たちも言葉にはよくよく注意しなければなりません。ところで、「妻子は奪われてしまうだろう」という言葉がありますが、これは神様の命令であったとしても、弱い者たちを守るために、カナンの地へ攻め入ることは、あきらめざるを得なかったという空気が伝わってきますね。致し方ないといった感じです。しかし、神様はそのような民の態度を不従順と見做し、彼らに対し34節から裁きの御言葉を宣告されました。ただ例外的に、エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアだけは、主に従い通したためにカナンの地に入ることが許されたというのです。

余談ですが、カレブという名前の意味は「犬」という意味です。なぜ犬と名付けられたのでしょうか。不思議です。それで、ある神学者は、カレブとは出エジプトした時にイスラエルの成人男性の60万人の他に、種々雑多な寄留者があったと聖書に書いてありますから(出12:38)、おそらくカレブはその寄留していた異邦人だったのではと推論します。その根拠としてヨシュア記に、「カレブがケナズ人だった」と書かれているからです。ちょっと調べてみましょう。ヨシュア記14:6をご覧ください。

“そのころ、ギルガルのヨシュアのもとにユダの人々が来た。その一人ケナズ人エフネの子カレブがこう言った。…”

もし、カレブが血統的にイスラエルの子孫ではなく、異邦人だったとしたら、荒れ野においてイスラエル民族であろうと、種々雑多な寄留者たちであろうと、皆が同じように割礼を受けたためにイスラエル民族に見做されたということです。それゆえに、カレブも、れっきとしたイスラエル人であり、ユダ族を代表する偵察隊として選ばれたということになります。カレブはその名の通り、主人に仕える犬でありましたが、彼にとって主人とは神様であり、神に仕える忠実な犬だったのです。

話は戻りますが、34節からの神の裁きの宣告を聞いて、私たちは、御言葉に従順だった者がカナンの地に入ることができ、不従順だったものがカナンの地に入ることができなかったと理解することでしょう。それはその通りでありますが、これは、従順の「報酬」としてカナンの地に入ることができた、不従順の「罰」としてカナンの地に入ることができなかったということではありません。微妙な違いですが、つまり、従順というのが、まるで一つの条件として捉えられ、その条件をクリアした場合に、カナンの地に入ることができたということではないということです。なぜなら続く39節を見ますと、乳飲み子や、善悪をわきまえていない子供たちがカナンに入ることができると書かれているからです。39節をご覧ください。

“あなたたちが略奪されてしまうと言っている乳飲み子や、まだ善悪をわきまえていない子供たちは、そこに入ることができる。彼らにわたしはその土地を与える。彼らがそれを取るであろう。”

幼子や善悪をわきまえていない子供たちにとっては、恐らく、従順とか、不従順などという、概念自体、分からなかったに違いありません。39節のヘブライ語の聖書を見てみますと、「乳飲み子」という言葉が一番最初に置かれていて強調されています。「乳飲み子(幼子)こそ、カナンに入ることができる」という意味になります。さきほど、民数記14章で民の不平を調べましたが、「妻子は奪われてしまうだろう」という、いかにも分別があり、賢明そうに見える彼らの意見に対し、主なる神は、むしろ幼子こそ、善悪をわきまえていない子供たちこそ、カナンの地に入ることができるのだ!と言っているのです。神様がイスラエルの民の不従順な言葉に、断固として反論しているように見えるのです。これは一体どういうことでしょうか。マタイによる福音書18:1~3をご覧ください。

【2】. 信仰とは神様に依存的になること

 “そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。”

ここで、弟子たちの質問の言葉の中に、「どのような条件をクリアすれば、どういった功績を立てれば、どのような善行を積めば、天国で、より偉い者として認められるのか」という考えが見え隠れしているように思われます。イエス様はそんな弟子たちの質問には直接答えずに、子供を一人呼び寄せて、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と言われました。

イエス様が子供を通して言わんとしたメッセージは何だったのでしょうか。「子供のようにならなければ」というのは、信仰が無邪気になり、素直になれば、神の国に入ることができるということなのでしょうか。イエス様の時代、子供たちが、かわいい天使のように偶像視されることはありませんでした。子供たちの持っている無邪気さ、素直さなどは、当時、美徳とは見做されていませんでした。「子供のようになる」とは、そういうところに焦点が置かれているのではなく、親に対し全く依存的であるということです。子供は親がいなくては生存することができませんね。徹底的に親に依存的であります。天国に入るためには子供のように徹底的に依存的にならなければならないということです。つまり天国とは、条件をクリアすることによって、功績を立てることによって、善行を積むことによって、入れるのではなく、ただ恵みによって入ることができるとイエス様は言われたのです。イスラエルの民がカナンに入るのも、これと全く同じです。神様に絶対的に依存的になり、ただ恵みが与えられるかのようにして、カナンの地に入ることが出来るのです。

最近、ユーチューブで動物の動画を見ていましたら、柴犬が注射を打つ前と注射を打った後の顔の表情の違いがアップされていました。注射を打つ前はいつものように散歩にいくものと勘違いしたのか、車の中で舌を出しながら物凄く喜んでいるのですが、病院に入って注射を受けた後は、車の中でドローンと物凄く落ち込んでいて、そのギャップがとても面白かったのを覚えています。犬はたとえ注射が嫌いであっても、注射を打たせる主人を疑ったり、主人に依存して生きていくことを辞めたりすることはありません。つまり、注射を打たせる主人は、きっと自分のことが嫌いで、自分を滅ぼすために病院に連れて行くに違いない、などとは、考えないものです。その注射が自分にとって善いものかどうか、犬には分かりませんが、たとえ良くても悪くとも、本能的に主人に依存的に生きて行き、主人に仕え続けます。私たちは犬ではなく、人間ですから、単純に比較することはできませんが、子供のようになるというのは、たとえ、今、目の前にある現実が、私たちには理解できなくとも、そこに神の支配を認めること、私たちの考えにはるかに優った、神の知恵が統治していることを認めること、それが神様から求められている信仰であると思うのであります。カレブとヨシュアはそのような信仰を持っていたのであります。申命記に戻りまして、1:40~46をご覧ください。

【3】. 善悪をわきまえていない幼子としての信仰

 “あなたたちは向きを変え、葦の海の道を通って荒れ野に向けて出発しなさい。」あなたたちは、わたしに答えて、「我々は主に対して罪を犯しました。我々は攻め上って、我々の神、主が命じられたように戦います」と言い、めいめい武器を携え、安易に考えて山地へ上って行こうとしたが、主はわたしに言われた。「彼らに言いなさい。攻め上って戦ってはならない。わたしはあなたたちのうちにいない。敵に撃ち破られてはならない。」わたしはそう伝えたが、あなたたちは耳を貸さず、主の命令に背き、傲慢にも山地へ上って行った。山地に住むアモリ人たちはあなたたちを迎え撃ち、蜂が襲うようにホルマまで追撃し、セイルであなたたちを撃ち破った。あなたたちは戻って来て、主の前で泣いたが、主はあなたたちの声に耳を傾けず、聞こうとされなかった。あなたたちは、長い間、すなわちあなたたちが滞在した日数だけカデシュに滞在した。”

「向きを変えて、葦の海の道を通って」とは、カデシュ・バルネアから紅海のある南方に向きを変えて、荒れ野へ出発しなさいという意味です。この言葉を聞いた民は、突然、前言を取り消しし、自分たちの言葉を翻しました。

「我々は主に対して罪を犯しました。我々は攻め上って、我々の神、主が命じられたように戦います!」荒れ野に向けて出発せよというのが、彼らにとって、まるで監獄に入るかのように思われたのでしょうか。あの荒れ野に戻るくらいなら、むしろ敵陣に突撃をかけた方がいいと、消去法のように考えて突撃しました。しかし主は、モーセを通して民を引き止めます。その声に民は耳を貸さずに、傲慢にも戦いに出てゆき、敵に敗北を喫しました。ホルマという場所は一体どこだかわかりませんが、ヘブライ語のヘレム、つまり「絶滅させられた」ということを想起させるような言葉であります。敵に大敗北を喫し、散々な目に遭ったということです。民は主の前で泣きましたが、主は民の声に耳を傾けてくださいませんでした。46節に「長い間、カデシュに滞在した」とありますが、結局、この時の不従順によって、カデシュ・バルネア近辺に、これから後、38年間、イスラエルの民は滞在するはめになったのです。

ここから分かることは、神を信じて悔い改めるということは、右の道が間違えたので、左の道に進みますということではないということです。信仰とは、御言葉の支配に依存すること、神様の統治の下に留まるということですから、たとえ、私たちにとって望ましくないことが目の前に起こったとしても、たとえ、自分の願った通りでなかったとしても、神の御言葉の故に、神の約束の故に、信頼し続け、注射を受けた柴犬のように、主人に依存し続け、御言葉の内に留まらなければなりません。神様は愛なるお方ですから、きっと最終的にはご自身の民を乳と蜜の流れる地に導いてくださり豊かに祝福してくださることでしょう。しかし、もし、自分の満足の行く結果を得ようと、自分が利するようにしようと、神の御言葉を手段として考え、自分の考える祝福だけを追求するなら、それはご利益宗教であり、偶像礼拝であります。このような考え方は、神様を信頼しているのではなく、自分の価値観、自分のものの考え方を信頼し、自分が主人となって、神を利用しようとしているのです。私たちの中にも、もしかしたら自分が賢い者と考えているところはないでしょうか。今日悔い改めて、私たちは善悪をわきまえていない幼子であると考えるようにしてください。神の国は幼子こそ、善悪をわきまえていない子供たちこそ、入ることができるからです。

【結論】

 神様が私たちに求めておられる信仰というのは、御言葉の支配に徹底的に依存することです。たとえ、自分の願った通りでなかったとしても、神様の統治の下に留まるということです。そのようにして、私たちが日々主を知っていくことを神様は願っておられるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

아이들이야 말로 들어갈 수 있는 하나님 나라

2021년 9월 19일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키목사

서론

모세는 이스라엘 백성들에게 과거 회상을 통해 어떻게 광야에서 실패했는지 설명하고 있습니다. 그것은 두 번 다시 같은 실패를 반복해서는 안 된다고 경고를 하는 것 같습니다. 현대에 사는 우리들도 과거를 배우는 것은 매우 중요한 일이라고 생각합니다. 역사를 배우고, 과거를 배우면 현대를 보다 더 잘 살아갈 수 있습니다. 이스라엘의 백성에게 있어서는 민족의 역사라고 하는 것이 하나님이 개입하신 구출의 역사였기 때문에 특히 중요했습니다. 그들에게 있어서는 역사를 배운다는 것은, 자신들의 신앙을 형성하는 것이었습니다.

많은 신학자들에 따르면 이스라엘의 신앙이란 그들의 역사신학에 기초를 두고 있으며 따라서 그들이 가지고 있는 신앙이라는 것은 단기적으로 하루아침에 형성된 것이 아니라 이스라엘 민족의 역사에서 하나님이 일하신 그 하나님의 역사와 하나님의 계시를 통해서, 축제를 통해서 절기를 통해서 전통을 통해 전승됨으로써 신앙이 배양되었다고 주장합니다. 즉 그들의 축제가 그들의 절기가 그들의 전통이 그 자체가 그들의 신앙고백이었다는 것입니다. 예를 들어 현재에도 유대인들은 가을의 초막절이 다가오면 일주일 정도 아이들을 데리고 밖으로 나가 텐트를 치고 생활합니다. 매우 불편합니다. 아이들은 부모에게 질문합니다. “왜 갑자기 텐트생활을 해야만 해요?” “이런 밥 너무 맛없어서 못 먹겠는데..” 그러한 아이들의 질문에 부모들은 자신들의 조상들이 어떻게 광야 생활을 했는지 어떤 실패를 했는지 어떤 은혜를 받았는지에 대해서 이야기를 해 줍니다. 이것이 축제이자 신앙교육이었습니다. 오늘의 신명기 부분 역시 모세가 이스라엘 백성들에게 38년 전 실패했던 과거에 대해 들려주고 있습니다. 특히 오늘의 주제는 하나님의 말씀에 순종한 자가 가나안 땅에 들어가고 순종하지 않은 자가 가나안 땅에 들어가지 못했다는 이야기입니다. 이 부분을 통해서 순종이 뭔지 불순종이 뭔지에 대해서 생각해보도록 하겠습니다. 또한 아울러 하나님께서 이스라엘에게 요구하신 신앙이 도대체 무엇인지 생각해 보고 싶습니다. 1장 34-38절을 참조하시기 바랍니다.

34 여호와께서 너희의 말소리를 들으시고 노하사 맹세하여 가라사대

35 이 악한 세대 사람들 중에는 내가 그들의 열조에게 주기로 맹세한 좋은 땅을 볼 자가 하나도 없으리라

36 오직 여분네의 아들 갈렙은 온전히 여호와를 순종하였은즉 그는 그것을 볼 것이요 그가 밟은 땅을 내가 그와 그의 자손에게 주리라 하시고

37 여호와께서 너희의 연고로 내게도 진노하사 가라사대 너도 그리로 들어가지 못하리라

38 너의 종자 눈의 아들 여호수아는 그리로 들어갈 것이니 너는 그를 담대케 하라 그가 이스라엘에게 그 땅을 기업으로 얻게 하리라

(1) 아이들이야 말로 들어갈 수 있는 하나님 나라

이스라엘 백성들은 하나님께 순종하지 않았습니다. 그동안 인내해 오셨던 하나님도 그들이 정탐대의 보고를 듣고 천막 안에서 수군거리는 그 목소리를 들었을 때 마침내 분노가 극에 달하셨습니다. 한 페이지 앞의 신명기 1장 27절에는 백성들의 불평이 적혀 있습니다.

27 장막 중에서 원망하여 이르기를 여호와께서 우리를 미워하시므로 아모리 족속의 손에 넘겨 멸하시려고 우리를 애굽 땅에서 인도하여 내셨도다

그리고 민수기 14장 2-3절에는 다음과 같은 백성들의 말의 쓰여져 있습니다. 보시기 바랍니다.

2이스라엘 자손이 다 모세와 아론을 원망하며 온 회중이 그들에게 이르되 우리가 애굽 땅에서 죽었거나 이 광야에서 죽었으면 좋았을 것을

3 어찌하여 여호와가 우리를 그 땅으로 인도하여 칼에 쓰러지게 하려 하는가 우리 처자가 사로잡히리니 애굽으로 돌아가는 것이 낫지 아니하랴

그들은 이 말대로 광야에서 죽게 됩니다. 우리도 말은 하나님이 듣고 계시기 때문에 조심하지 않으면 안됩니다. 그런데 「처자가 사로잡히리니」라는 말이 있는데 이것은 하나님의 명령이라 하더라도 약한 자들을 지키기 위해 가나안 땅으로 쳐들어가는 것은 포기할 수밖에 없었다는 분위기가 전해집니다. 어쩔 수 없었다는 느낌입니다. 그러나 하나님은 그런 백성들의 태도를 불순하게 여겨 그들에게 34절부터 심판의 말씀을 선고 하셨습니다. 다만 예외적으로 여분네의 아들 갈렙과 눈의 아들 여호수아만은 주님께 순종했기 때문에 가나안 땅에 들어가는 것이 허락되었다는 것입니다.

여담이지만 갈렙이라는 이름은 “개”라는 뜻입니다. 왜 개라는 이름이 붙었을까요? 희안합니다. 그래서 어떤 신학자는 갈렙이란 출애굽 때 이스라엘 성인 남성 60만명 외에 여러가지 잡족의 기류자가 있었다고 성경에 있으니까 (출애굽 12장 38절) 아마 갈렙은 그 기류하던 이방인이었을 거라고 추론합니다. 그 근거로 여호수아기에 갈렙은 그니스 사람이었다고 쓰여져 있습니다. 좀 살펴보겠습니다. 여호수아서 14장 6절을 보시기 바랍니다.

그 때에 유다 자손이 길갈에 있는 여호수아에게 나아오고 그니스 사람 여분네의 아들 갈렙이 여호수아에게 말하되 …

만약 갈렙이 혈통적으로 이스라엘 자손이 아니라 이방인 이었다면 광야에서 이스라엘 민족이든 여러 가지 잡족의 기류자들이든 모두가 똑같이 할례를 받았기 때문에 이스라엘 민족으로 간주되었다는 것입니다. 그래서 갈렙도 분명한 이스라엘인이자 유다족을 대표하는 정탐대로 뽑혔다는 얘기가 됩니다. 갈렙은 이름 그대로 주인을 섬기는 개였지만, 그에게 주인이란 하나님이요 하나님을 섬기는 충실한 개였던 것입니다.

다시 돌아와 말하자면 34절부터의 하나님의 심판 선고를 듣고 우리는 말씀에 순종하는 자가 가나안 땅에 들어갈 수 있고 불순종하는 자는 가나안에 들어가지 못했다고 이해할 것입니다. 그것은 맞는 말입니다. 이것은 순종에 따른 “보수”로서 가나안 땅에 들어갈 수 있었고 불순종에 대한 “벌”로서 가나안 땅에 들어갈 수 없었다는 것은 아닙니다. 미묘한 차이지만, 즉 순종이라는 것이 마치 하나의 조건으로 여겨져서 그 조건을 클리어했을 경우 가나안 땅에 들어 갈 수 있었다는 것은 아니라는 것입니다. 왜냐하면 이어지는 39절을 보면 선악을 분변치 못하던 아이들이 가나안에 들어갈 수 있다고 적혀 있기 때문입니다. 39절을 보세요.

39 또 너희가 사로잡히리라 하던 너희의 아이들과 당일에 선악을 분변치 못하던 너의 자녀들 그들은 그리로 들어갈 것이라 내가 그 땅을 그들에게 주어 산업이 되게 하리라

선악을 분변치 못하는 아이들에게는 아마 순종이라든가 불순종이라든가 하는 개념 자체를 알지 못했을 것입니다. 39절을 히브리어 성경으로 보면 “아이들”라는 말이 가장 먼저 놓여 있고 강조되어 있습니다. “아이들이야말로 가나안에 들어갈 수 있다”는 뜻이 됩니다. 아까 민수기 14장에서 백성들의 불평을 살펴보았는데 「처자가 사로잡히리니」것 이라는, 사뭇 분별 있고 현명해 보이는 그들의 의견에 대해 주 하나님은 오히려 선악을 분변치 못하는 아이들이야말로 가나안 땅으로 들어갈 수 있는 것이라고 말씀하셨습니다. 하나님께서 이스라엘 백성들의 불순종의 말에 단호하게 반박하시는 것처럼 보이는 것입니다. 이게 도대체 무슨 일일까요? 마태복음 18장 1-3절을 보시기 바랍니다.

(2) 신앙이라는 것은 하나님께 의존적이 되는 것

1 그 때에 제자들이 예수께 나아와 이르되 천국에서는 누가 크나이까

2 예수께서 한 어린 아이를 불러 그들 가운데 세우시고

3 이르시되 진실로 너희에게 이르노니 너희가 돌이켜 어린 아이들과 같이 되지 아니하면 결단코 천국에 들어가지 못하리라

여기서 제자들의 질문 속에는 “어떤 조건을 충족시키면, 어떤 공적을 세우면, 어떤 선행을 쌓아야 천국에서 더 위대한 자로 인정받을 수 있을까”하는 생각이 숨어있는 것 같습니다. 예수님은 그런 제자들의 질문에는 직접 대답하지 않고 아이를 한 명 불러 세워 「진실로 너희에게 이르노니 너희가 돌이켜 어린 아이들과 같이 되지 아니하면 결단코 천국에 들어가지 못하리라」라고 말씀하셨습니다.

예수님께서 어린 아이를 통해 하시고자 한 메시지는 무엇이었을까요? 아이처럼 된다는 것은 신앙이 천진난만해지고 솔직해지면 하나님 나라로 들어갈 수 있다는 것일까요? 예수님의 시대에 어린 아이들이 귀여운 천사처럼 우상시 되는 일은 없었습니다. 아이들이 가지고 있는 순진함, 솔직함등은 당시 미덕으로 간주되지 않았습니다. “아이처럼 된다”는 것은 그런 부분에 초점을 두는 것이 아니라 부모에게 전적으로 의존적이라는 것을 말하는 것입니다. 어린 아이는 부모 없이는 생존할 수 없죠. 철저하게 부모에게 의존적입니다. 천국에 들어가기 위해서는 어린 아이처럼 하나님께 철저히 의존적이어야 한다는 것입니다. 즉 천국이란 조건을 충족함으로써 공적을 세우고 선행을 쌓음으로써 들어갈 수 있는 것이 아니라 오직 은혜로 들어갈 수 있다고 예수님은 말씀하셨습니다. 이스라엘 백성들이 가나안에 들어가는 것도 이와 똑같습니다. 하나님께 절대적으로 의존적이 되어야 하고 오직 은혜로만 가나안 땅에 들어갈 수 있는 것입니다.

최근 유튜브에서 동물에 관한 동영상을 보고 있는데 시바견이 주사를 맞기 전과 주사를 맞은 후 얼굴 표정의 차이가 올라와 있었습니다. 주사를 맞기 전에는 평소처럼 산책을 가는 것으로 착각했는지 차 안에서 혀를 내밀며 굉장히 기뻐하고 있는데 병원에 들어가서 주사를 맞은 후에는 차 안에서 시무룩하게 우울한 표정이었고 그 차이가 너무 재미있었던 기억이 납니다. 개는 비록 주사를 싫어하더라도 주사를 맞게 하는 주인을 의심하거나 주인에게 의존하여 생존하는 것을 포기 하지 않습니다. 즉, 주사를 맞게하는 주인은 분명 자신을 싫어하고 자신을 망하게 하기 위해서 병원에 데려가는 것이 틀림이 없을 것이다라고 생각하지 않는 다는 것입니다. 그 주사가 자신에게 좋은 것인지 아닌지 개는 모르지만 설령 좋든 나쁘든 본능적으로 주인에게 의존하며 살아가며 주인을 계속 따릅니다. 우리는 개가 아니고 인간이기 때문에 단순히 비교할 수는 없지만 어린 아이처럼 된다는 것은 비록 지금 눈앞에 있는 현실을 우리가 이해할 수 없더라도 거기에 있는 하나님의 섭리를 인정하는 것 우리들의 생각보다 훨씬 뛰어나신 하나님의 지혜에 의해서 통치되고 있다는 것을 인정하는 것, 그것이 하나님이 우리에게 요구하시는 믿음이라고 생각합니다. 갈렙과 여호수아는 그런 믿음을 가지고 있었던 것입니다. 신명기로 돌아가서 1장 40-46절을 보시기 바랍니다.

(3) 선악을 분변치 못하는 어린 아이로서의 신앙

40 너희는 회정하여 홍해 길로하여 광야로 들어갈찌니라 하시매

41 너희가 대답하여 내게 이르기를 우리가 여호와께 범죄하였사오니 우리 하나님께서 우리에게 명하신대로 우리가 올라가서 싸우리이다 하고 너희가 각각 병기를 띠고 경솔히 산지로 올라가려 할 때에

42 여호와께서 내게 이르시되 너는 그들에게 이르기를 너희는 올라가지 말라 싸우지도 말라 내가 너희 중에 있지 아니하니 너희가 대적에게 패할까 하노라 하셨다 하라 하시기로

43 내가 너희에게 고하였으나 너희가 듣지 아니하고 여호와의 명을 거역하고 천자히 산지로 올라가매

44 그 산지에 거하는 아모리 족속이 너희를 마주 나와서 벌떼 같이 너희를 쫓아 세일산에서 쳐서 호르마까지 미친지라

45 너희가 돌아와서 여호와 앞에서 통곡하나 여호와께서 너희의 소리를 듣지 아니하시며 너희에게 귀를 기울이지 아니하셨으므로

46 너희가 가데스에 여러날 동안 거하였었나니 곧 너희가 그곳에 거하던 날 수대로니라

「회정하여 홍해 길로하여」는 가데스 바네아에서 홍해가 있는 남쪽으로 방향을 돌려 광야로 출발하라는 뜻입니다. 이 말을 들은 백성들은 갑자기 앞에서 한말을 취소하고 자신들의 말을 번복했습니다.

「우리가 여호와께 범죄하였사오니 우리 하나님께서 우리에게 명하신대로 우리가 올라가서 싸우리이다」광야를 향해서 떠나라는 것이 그들에게 마치 감옥에 들어가는 것처럼 여겨졌을까요? 그 광야로 돌아갈 바에야 차라리 적진으로 돌격해 가는 것이 낫다고 생각하고 돌격했습니다. 그러나 주님은 모세를 통해 백성을 만류하십니다. 그 소리에도 백성들은 귀를 기울이지 않고 교만한 마음으로 싸우다가 적에게 패배를 당했습니다. 호르마라는 곳이 도대체 어딘지는 모르지만 히브리어의 헤렘, 즉 “절멸되었다, 근절되었다”것을 상기시키는 말입니다. 적에게 대패배를 당했고 낭패를 봤다는 것입니다. 백성들은 주님 앞에서 통곡했지만 주님은 백성들의 목소리에 귀를 기울여 주시지 않았습니다. 46절에 「가데스에 여러날 동안 거하였었나니」라고 되어 있는데, 결국 이때의 불순종으로 가데스 바네아 부근에서 앞으로 38년간 이스라엘 백성들이 머물게 된 것입니다.

여기서 알 수 있는 것은 하나님을 믿고 회개한다는 것은 오른쪽 길이 틀렸기 때문에 왼쪽 길로 간다는 것이 아니라는 것입니다. 믿음이란 말씀에 의존하는 것, 하나님의 통치하에 머무른다는 것이기 때문에 비록 우리에게 원하지 않는 일이 눈 앞에 일어났더라도 설령 자신이 바라던 대로 되지 않았다고 하더라도 하나님의 말씀 때문에 하나님의 약속 때문에 계속 신뢰하고, 주사를 맞은 시바견처럼 주인에게 계속 의존하고 말씀 안에 머물러야 합니다. 하나님은 사랑이시니 분명 최종적으로는 자신의 백성을 젖과 꿀이 흐르는 땅으로 인도하여 풍요로운 복을 주실 것입니다. 그러나 만일 자신이 만족할 수 있는 결과를 얻기 위해서 자신이 이롭게 되려고 하나님의 말씀을 수단으로 삼고 자신이 생각하는 축복만을 추구한다면 그것은 기복신앙이자 우상숭배입니다. 이러한 사고방식은 하나님을 신뢰하는 것이 아니라 자신의 가치관, 자신의 사고방식을 더 신뢰하고 자신이 자기 인생의 주인이 되어서 하나님을 이용하려고 하는 것입니다. 우리들 가운데도 혹시 자신이 현명하다고 생각하고 있으신 분은 안계실까요? 혹시 그런 생각을 가지고 계신 분이 있다면 오늘 그것을 회개하고 우리는 선악을 분변치 못하는 어린 아이라고 생각하고 하나님께 의존 하시길 바랍니다. 하나님의 나라는 어린 아이야말로, 선악을 분별하지 못하는 아이들이야말로 들어갈 수 있기 때문입니다.

결론

하나님께서 우리에게 원하시는 믿음이란 말씀의 가르침에 철저히 의존하는 것입니다. 비록 자신의 원하는 대로 되지는 않더라도 하나님의 통치 아래 머무르겠다는 마음입니다. 그렇게 해서 우리가 날마다 주님을 알아가기를 하나님은 바라고 계신 것입니다.

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