この平和に与らせるために
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- 説教
- 川栄智章 牧師
- 聖書 コロサイの信徒への手紙 3章12節~17節
3:12あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
3:14これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
3:15また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
3:16キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
3:17そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 3章12節~17節
ハングル語によるメッセージはありません。
【序】
コロナの感染が拡大しております。マスクの着用と手指消毒の徹底をよろしくお願いいたします。ところで、コロナウイルスの感染には潜伏期間というのがありますね。万が一病状が発生した場合、感染時期は、潜伏期間を遡って以前に、もう感染していたということです。この潜伏期間は、最大で2週間位だと言われています。少し不謹慎かもしれませんが、神の国というのも、これに少し似ているなと思いました。神の国は既に到来しておりますが、未だ完成してはいません。どういうことかと申しますと、私たちは洗礼を受けて新しく生まれ変わりましたが、これはつまり、救いに至る信仰が賜物として心に植え付けられたということです。心に植え付けられたこの信仰は、イエス様のことを、より知っていくことによって、日々成長していき、やがてイエス様と顔と顔を見合わせることになり、イエス様の似姿へと変えられていくのですが、やはり潜伏期間のようなものがありまして、中々すぐにはその正体を表すことはないということです。しかし、神様が私たちに与えてくださった救いとは確かなものであり、そして、その救いとは私たちの考えをはるかに超越していて、まだ見たこともなく、まだ聞いたこともないほど素晴らしいものであるということです。ですから私たちは、日々、霊的に成長して行き、キリストの似姿へ聖化されるべきです。聖化とは、何かと言えばイエス様のことを日々新しく知ることによって、イエス様の似姿へと少しずつ変えられて行くということです。
【1】. キリストの品性
本日の聖書箇所の3:12~13節をご覧ください。
“あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。”
先週、見ました前の段落において、パウロはコロサイの人々に「新しい人を着なさい」と語っていました。その新しい人とは具体的に何かと言うと、本日の箇所で五つの徳目が具体的に挙げられています。それは、1つ目が憐れみの心、2つ目が慈愛、3つ目が謙遜、4つ目が柔和、5つ目が寛容です。特に寛容については、補足説明がされておりまして、「たとえ教会の兄弟姉妹の交わりの中で、相手に責めるべきことがあったとしても、互いに忍び合いなさい、赦し合いなさい、主があなた方を赦してくださったではないですか。そうでしょ?」と言っています。これら五つの徳目が素晴らしいことは、誰の目にも一目瞭然であります。確かにパウロの勧めはその通りであると納得することができますが、しかし、実際、その通りに生きられるのかといえば、それは全く別問題になります。私たちは教会の中においても直ちに赦すことの困難さ、相手を忍んで受け入れることの困難さに直面するからです。従ってパウロの五つの勧めは、大変ハードルの高いものとして私たちを圧倒するかもしれません。しかし、見方によればそれもそのはず、この五つの徳目とは、主にイエス様に対して、或いは神様に対して使われてきた言葉だからです。主イエスは、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれたと、マタイ9:36に書かれています。これは一つ目の徳目です。また、主イエスはご自身のくびきが慈悲深い、善良なくびきであり、私の荷は軽いと、マタイ11:30で言われました。これは二つ目の徳目です。また、同じ個所で主イエスは、「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから」と三つ目、四つ目の徳目をこの箇所で言われました。最後の寛容という言葉ですが、これは怒るのに遅いという意味で、旧約聖書において神の品性について語られる時に、よく使用されています(ローマ9:22)。こういった神の品性をあなた方も身につけなさいと勧めているのです。既に新しく生まれ変わったあなた方は、今は工事中であっても、やがての日に、そのようになるために今、完成を目指して成長して行きなさいと、パウロは言っているのだと思います。そして、最も注目してほしいのは、12節の冒頭の言葉であります。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、」と書かれていますね。「選びの民」「聖なる民」「神の愛される民」。この言葉は、旧約聖書の中で主にイスラエルに対して、よく用いられた言葉です。神様はイスラエルの民を他の諸々の国々の民と比較して何かが優れていたからお選びになったのではありませんでした。申命記6:6~7には次のような御言葉がございます。
“あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。”
むしろイスラエルは他の国々より弱く、彼らに選ばれる根拠は一切ありませんでしたが、一方的な神の恵みによって主の聖なる民とされたと書かれています。コロサイ人も同じように、一方的な恵みによって選ばれ、契約の民とされたが故に、神様に愛されているが故に、信仰が賜物として与えられているが故に、その与えられた信仰によって、愛の実を結びなさいとおっしゃっているのです。
【2】. 教会は愛と平和の満ち満ちたところ
続いて3:14~15節をご覧ください。
“これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。”
愛は最高の徳であります(1コリ13章)。なぜなら、愛は先ほど挙げた五つの徳目を全てその中に含んでいるからです。そういう意味で愛(アガペー)とは、すべてを完成させる「きずな、とか帯」であるとパウロは言います。ところで少し余談になりますが、ギリシア語には、「愛」と言うときに、アガペーという言葉があったり、フィリアという言葉があったり、エロスという言葉があったりします。普通、アガペーとは、自己犠牲的な愛を指しており、フィリアとは友愛とか隣人愛を指しており、エロスとは情欲の愛を指しています。聖書の中には、エロスという言葉は使われていません。聖書にアガペーとフィリアという言葉は出てきますが、それでは聖書でアガペーではなく、フィリアが使われる時、それはどのような愛を指しているのか、どういった使い分けがされているのかと疑問を持つかも知れません。例えばアガペーが特に神の愛を指す時に使われて、フィリアが特に人間的な愛を指す時に使われているのではないかということです。実は聖書の中で「アガペー」と「フィリア」は、相互に交換して使われていて、ほぼ同じ意味であると考えられています。つまり聖書は、アガペーとフィリアとエロスの三種類の愛が存在すると教えているのではなく、愛は、ただ一つしか存在しないと主張しているのです。ただし、この聖書の教える愛とは、神から来る愛であって、人間の中には元来、存在しないもの、人間には持ち合わせていないものであると言います。従ってノンクリスチャンの人たちにあって、本当の意味で「愛に生きる」ことは不可能だと言えるでしょう。「神は愛である」と聖書に書かれていますが、神の愛が私たちに注がれて、十字架の愛を悟った時に、初めて神が愛であることを知り、神の愛を知った者は、愛に生き、愛を実践していくことが出来るのです。
同じように平和も、元来私たち罪びとの中には存在しないもの、持ち合わせていないものであります。平和は贖いの御業を成し遂げたイエス様の中にのみ存在します。私たちは元来、自己中心的だからです。ヨハネの福音書14:27には次のような御言葉がございます。
“わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。…”
イエス様ご自身が平和そのものであると言ってもいいでしょう。キリストの十字架によって、敵意が取り除けられ、平和、つまり神のシャロームが実現されました。教会は、一つの体として、このような平和に与らせるために、この神の深い平安に与らせるために、神様から呼ばれ、集められました。神の救いとは、聖徒の交わりの中に「平和」、「シャローム」が訪れることだということです。ですから、たとえ、この世に完全な教会はなく、交わりの中で相手に責めるべき点があり、不平不満は尽きないかもしれませんが、それにも拘わらず、コロサイ人は、神と和解され、神との間に平和を得て、キリストの体に建てあげられるようにと召されているのです。こういう訳ですから、この世にはない愛と平和が満ち満ちているこのキリストの教会を通して、コロサイ人も、そして私たちも、天国の前味を既に味わっていると言うことができるのではないでしょうか。この世にあって教会とは、神の国の予型、予表であるということです。天の都エルサレムとは、私たち聖徒の交わりを通して既にこの地に具現化されているのです。教会は神様を証しする群れであり、この世に対して、「天国は本当にある!」ということのメッセージなのです。
【3】. キリストを新しく知ることによって
続きまして3:16~17節をご覧ください。
“キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。”
この書簡の初めに、パウロがまだ会ったこともないコロサイ人にどれだけ感謝しているのかが綴られていました。御言葉を通してイエス・キリストにお会いする時に、或いは、イエス・キリストについて新しく目が開かれる時に、私たちは喜びに満たされ、感謝する他ありません。自分の力で自分自身を変えようと努力しても、自己啓発に努め、一生懸命励んでも、どうしても自分の習慣や自分の悪癖を変えることが出来なかったのに、神の御前に悔い改めることによって、止めることができた、180度変わることができたというのはよく聞く話でございます。「煙草をやめることが出来た。」「酒をやめることが出来た。」「自分の性格が全く変わった。」などなどです。私たちは御言葉を通して、霊の目が開かれ、神を知り、或いは自分自身の罪を悟ることによって、キリストの似姿へと少しずつ変えられるのです。ですから、キリストの言葉を心に豊かに宿るようにさせることは大変重要なことです。私は救われて間もない頃は、好きな御言葉を紙に印刷して自分の部屋にペタペタ貼り付けて、その御言葉を暗記するようにしていました。私たちの教会員である、ある方から、毎日聖書の写経に励んでいるということをお聞きしました。そうすることで御言葉が豊かに宿るようになるんだと思います。また、キリストの御言葉は、賛美を通しても私たちに直接働きかけ、私たちに影響を与えてくれることでしょう。ある先生は讃美の歌詞に神経を注ぎつつ、その歌詞がキリストを褒めたたえている内容なのか、聖書の御言葉の内容がきちんと現れているのかを入念にチェックします。それは、讃美を通して、御言葉が私たちに宿り、働きかけてくれるということを体験し、知っているからだと思われます。讃美と言えば、コロサイ書1:15~20にもキリスト賛歌の断片が保存されていたことを思い起こされますが、初代教会は私たちが想像する以上に讃美する群れであったようです。16節の「詩編と賛歌と霊的な歌」とは、具体的に何なのか、神学者によって諸説ありますが、この三つの言葉に区別をもうけることはできないようです。「詩編」とは、旧約聖書の詩編のことを言っていると思われますが、自発的な賛歌もこれに含まれていたようですし、或いは賛歌とは特定の詩編も含まれていた一方で、また新しい歌を指す場合もありました。ですから賛歌とは広い意味での讃美歌ということになります。従って「詩編と賛歌と霊的な歌」が意味するところは、それぞれをはっきり区別することはできませんが「旧約聖書から受け継がれ歌われた詩編」と、「最近の若い方々が歌う新しいコンテンポラリーな讃美」と、「自発的な讃美」まで、全部を含んでいると理解してください。キリスト教会は、まさに歌いつつ時代を歩んできたのです。
私たちが、御言葉を通して、そして讃美を通して、キリストについて新しく目が開かれる時に、私たちの口からは、ただただ神を褒めたたえる讃美しか出て来ないのであり、神の目的もまさにこの点にありました。神がご自身を啓示するのは、罪人に変化を与え、悔い改めた民が神を褒めたたえ、賛美するようにと回復させるためだったのです。すべての栄光が神に帰されるのです。
【結論】
神様が永遠においてコロサイ人を選ばれ、聖なる者とされ、愛されていたその理由は、コロサイ人を日々聖化させて、少しずつキリストの品性に与らせるためでありました。また同時に教会にこそ、神の国の予型として愛と平和が満ち溢れるようにさせるためでありました。そして、お一人お一人の聖化とは、キリストの御言葉を通して、キリストと出会うときに起きるのであり、御言葉によって私たちの心の目が開かれて、新しくキリストを知る時に、私たちの口から、神を褒めたたえる讃美と感謝と深い喜びが自然と沸き起こってくるのです。