2021年08月08日「この平和に与らせるために 평강을 위하여」

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この平和に与らせるために 평강을 위하여

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
コロサイの信徒への手紙 3章12節~17節

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聖句のアイコン聖書の言葉

3:12あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
3:14これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
3:15また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
3:16キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
3:17そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 3章12節~17節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 コロナの感染が拡大しております。マスクの着用と手指消毒の徹底をよろしくお願いいたします。ところで、コロナウイルスの感染には潜伏期間というのがありますね。万が一病状が発生した場合、感染時期は、潜伏期間を遡って以前に、もう感染していたということです。この潜伏期間は、最大で2週間位だと言われています。少し不謹慎かもしれませんが、神の国というのも、これに少し似ているなと思いました。神の国は既に到来しておりますが、未だ完成してはいません。どういうことかと申しますと、私たちは洗礼を受けて新しく生まれ変わりましたが、これはつまり、救いに至る信仰が賜物として心に植え付けられたということです。心に植え付けられたこの信仰は、イエス様のことを、より知っていくことによって、日々成長していき、やがてイエス様と顔と顔を見合わせることになり、イエス様の似姿へと変えられていくのですが、やはり潜伏期間のようなものがありまして、中々すぐにはその正体を表すことはないということです。しかし、神様が私たちに与えてくださった救いとは確かなものであり、そして、その救いとは私たちの考えをはるかに超越していて、まだ見たこともなく、まだ聞いたこともないほど素晴らしいものであるということです。ですから私たちは、日々、霊的に成長して行き、キリストの似姿へ聖化されるべきです。聖化とは、何かと言えばイエス様のことを日々新しく知ることによって、イエス様の似姿へと少しずつ変えられて行くということです。

【1】. キリストの品性

 本日の聖書箇所の3:12~13節をご覧ください。

“あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。”

先週、見ました前の段落において、パウロはコロサイの人々に「新しい人を着なさい」と語っていました。その新しい人とは具体的に何かと言うと、本日の箇所で五つの徳目が具体的に挙げられています。それは、1つ目が憐れみの心、2つ目が慈愛、3つ目が謙遜、4つ目が柔和、5つ目が寛容です。特に寛容については、補足説明がされておりまして、「たとえ教会の兄弟姉妹の交わりの中で、相手に責めるべきことがあったとしても、互いに忍び合いなさい、赦し合いなさい、主があなた方を赦してくださったではないですか。そうでしょ?」と言っています。これら五つの徳目が素晴らしいことは、誰の目にも一目瞭然であります。確かにパウロの勧めはその通りであると納得することができますが、しかし、実際、その通りに生きられるのかといえば、それは全く別問題になります。私たちは教会の中においても直ちに赦すことの困難さ、相手を忍んで受け入れることの困難さに直面するからです。従ってパウロの五つの勧めは、大変ハードルの高いものとして私たちを圧倒するかもしれません。しかし、見方によればそれもそのはず、この五つの徳目とは、主にイエス様に対して、或いは神様に対して使われてきた言葉だからです。主イエスは、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれたと、マタイ9:36に書かれています。これは一つ目の徳目です。また、主イエスはご自身のくびきが慈悲深い、善良なくびきであり、私の荷は軽いと、マタイ11:30で言われました。これは二つ目の徳目です。また、同じ個所で主イエスは、「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから」と三つ目、四つ目の徳目をこの箇所で言われました。最後の寛容という言葉ですが、これは怒るのに遅いという意味で、旧約聖書において神の品性について語られる時に、よく使用されています(ローマ9:22)。こういった神の品性をあなた方も身につけなさいと勧めているのです。既に新しく生まれ変わったあなた方は、今は工事中であっても、やがての日に、そのようになるために今、完成を目指して成長して行きなさいと、パウロは言っているのだと思います。そして、最も注目してほしいのは、12節の冒頭の言葉であります。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、」と書かれていますね。「選びの民」「聖なる民」「神の愛される民」。この言葉は、旧約聖書の中で主にイスラエルに対して、よく用いられた言葉です。神様はイスラエルの民を他の諸々の国々の民と比較して何かが優れていたからお選びになったのではありませんでした。申命記7:6~7には次のような御言葉がございます。

“あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。”

むしろイスラエルは他の国々より弱く、彼らに選ばれる根拠は一切ありませんでしたが、一方的な神の恵みによって主の聖なる民とされたと書かれています。コロサイ人も同じように、一方的な恵みによって選ばれ、契約の民とされたが故に、神様に愛されているが故に、信仰が賜物として与えられているが故に、その与えられた信仰によって、愛の実を結びなさいとおっしゃっているのです。

【2】. 教会は愛と平和の満ち満ちたところ

 続いて3:14~15節をご覧ください。

“これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。”

愛は最高の徳であります(1コリ13章)。なぜなら、愛は先ほど挙げた五つの徳目を全てその中に含んでいるからです。そういう意味で愛(アガペー)とは、すべてを完成させる「きずな、とか帯」であるとパウロは言います。ところで少し余談になりますが、ギリシア語には、「愛」と言うときに、アガペーという言葉があったり、フィリアという言葉があったり、エロスという言葉があったりします。普通、アガペーとは、自己犠牲的な愛を指しており、フィリアとは友愛とか隣人愛を指しており、エロスとは情欲の愛を指しています。聖書の中には、エロスという言葉は使われていません。聖書にアガペーとフィリアという言葉は出てきますが、それでは聖書でアガペーではなく、フィリアが使われる時、それはどのような愛を指しているのか、どういった使い分けがされているのかと疑問を持つかも知れません。例えばアガペーが特に神の愛を指す時に使われて、フィリアが特に人間的な愛を指す時に使われているのではないかということです。実は聖書の中で「アガペー」と「フィリア」は、相互に交換して使われていて、ほぼ同じ意味であると考えられています。つまり聖書は、アガペーとフィリアとエロスの三種類の愛が存在すると教えているのではなく、愛は、ただ一つしか存在しないと主張しているのです。ただし、この聖書の教える愛とは、神から来る愛であって、人間の中には元来、存在しないもの、人間には持ち合わせていないものであると言います。従ってノンクリスチャンの人たちにあって、本当の意味で「愛に生きる」ことは不可能だと言えるでしょう。「神は愛である」と聖書に書かれていますが、神の愛が私たちに注がれて、十字架の愛を悟った時に、初めて神が愛であることを知り、神の愛を知った者は、愛に生き、愛を実践していくことが出来るのです。

同じように平和も、元来私たち罪びとの中には存在しないもの、持ち合わせていないものであります。平和は贖いの御業を成し遂げたイエス様の中にのみ存在します。私たちは元来、自己中心的だからです。ヨハネの福音書14:27には次のような御言葉がございます。

“わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。…”

イエス様ご自身が平和そのものであると言ってもいいでしょう。キリストの十字架によって、敵意が取り除けられ、平和、つまり神のシャロームが実現されました。教会は、一つの体として、このような平和に与らせるために、この神の深い平安に与らせるために、神様から呼ばれ、集められました。神の救いとは、聖徒の交わりの中に「平和」、「シャローム」が訪れることだということです。ですから、たとえ、この世に完全な教会はなく、交わりの中で相手に責めるべき点があり、不平不満は尽きないかもしれませんが、それにも拘わらず、コロサイ人は、神と和解され、神との間に平和を得て、キリストの体に建てあげられるようにと召されているのです。こういう訳ですから、この世にはない愛と平和が満ち満ちているこのキリストの教会を通して、コロサイ人も、そして私たちも、天国の前味を既に味わっていると言うことができるのではないでしょうか。この世にあって教会とは、神の国の予型、予表であるということです。天の都エルサレムとは、私たち聖徒の交わりを通して既にこの地に具現化されているのです。教会は神様を証しする群れであり、この世に対して、「天国は本当にある!」ということのメッセージなのです。

【3】. キリストを新しく知ることによって

 続きまして3:16~17節をご覧ください。

“キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。”

この書簡の初めに、パウロがまだ会ったこともないコロサイ人にどれだけ感謝しているのかが綴られていました。御言葉を通してイエス・キリストにお会いする時に、或いは、イエス・キリストについて新しく目が開かれる時に、私たちは喜びに満たされ、感謝する他ありません。自分の力で自分自身を変えようと努力しても、自己啓発に努め、一生懸命励んでも、どうしても自分の習慣や自分の悪癖を変えることが出来なかったのに、神の御前に悔い改めることによって、止めることができた、180度変わることができたというのはよく聞く話でございます。「煙草をやめることが出来た。」「酒をやめることが出来た。」「自分の性格が全く変わった。」などなどです。私たちは御言葉を通して、霊の目が開かれ、神を知り、或いは自分自身の罪を悟ることによって、キリストの似姿へと少しずつ変えられるのです。ですから、キリストの言葉を心に豊かに宿るようにさせることは大変重要なことです。私は救われて間もない頃は、好きな御言葉を紙に印刷して自分の部屋にペタペタ貼り付けて、その御言葉を暗記するようにしていました。私たちの教会員である、ある方から、毎日聖書の写経に励んでいるということをお聞きしました。そうすることで御言葉が豊かに宿るようになるんだと思います。また、キリストの御言葉は、賛美を通しても私たちに直接働きかけ、私たちに影響を与えてくれることでしょう。ある先生は讃美の歌詞に神経を注ぎつつ、その歌詞がキリストを褒めたたえている内容なのか、聖書の御言葉の内容がきちんと現れているのかを入念にチェックします。それは、讃美を通して、御言葉が私たちに宿り、働きかけてくれるということを体験し、知っているからだと思われます。讃美と言えば、コロサイ書1:15~20にもキリスト賛歌の断片が保存されていたことを思い起こされますが、初代教会は私たちが想像する以上に讃美する群れであったようです。16節の「詩編と賛歌と霊的な歌」とは、具体的に何なのか、神学者によって諸説ありますが、この三つの言葉に区別をもうけることはできないようです。「詩編」とは、旧約聖書の詩編のことを言っていると思われますが、自発的な賛歌もこれに含まれていたようですし、或いは賛歌とは特定の詩編も含まれていた一方で、また新しい歌を指す場合もありました。ですから賛歌とは広い意味での讃美歌ということになります。従って「詩編と賛歌と霊的な歌」が意味するところは、それぞれをはっきり区別することはできませんが「旧約聖書から受け継がれ歌われた詩編」と、「最近の若い方々が歌う新しいコンテンポラリーな讃美」と、「自発的な讃美」まで、全部を含んでいると理解してください。キリスト教会は、まさに歌いつつ時代を歩んできたのです。

私たちが、御言葉を通して、そして讃美を通して、キリストについて新しく目が開かれる時に、私たちの口からは、ただただ神を褒めたたえる讃美しか出て来ないのであり、神の目的もまさにこの点にありました。神がご自身を啓示するのは、罪人に変化を与え、悔い改めた民が神を褒めたたえ、賛美するようにと回復させるためだったのです。すべての栄光が神に帰されるのです。

【結論】

 神様が永遠においてコロサイ人を選ばれ、聖なる者とされ、愛されていたその理由は、コロサイ人を日々聖化させて、少しずつキリストの品性に与らせるためでありました。また同時に教会にこそ、神の国の予型として愛と平和が満ち溢れるようにさせるためでありました。そして、お一人お一人の聖化とは、キリストの御言葉を通して、キリストと出会うときに起きるのであり、御言葉によって私たちの心の目が開かれて、新しくキリストを知る時に、私たちの口から、神を褒めたたえる讃美と感謝と深い喜びが自然と沸き起こってくるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

평강을 위하여

2021년 8월8일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

골로새서 3장 12~17절

서론

코로나 감염이 확산되고 있습니다. 마스크 착용과 손 소독을 철저히 해주시기 바랍니다. 그런데 코로나 바이러스 감염에는 잠복기라는 것이 있습니다. 만약 증세가 발생했을 경우, 감염 시기는 잠복기를 거슬러 올라가면 그 이전에 이미 감염된 상태라는 것을 의미합니다. 이 잠복기는 최대 2주 정도라고 합니다. 조금은 진부한 표현일지 모르지만, 하나님의 나라라는 것도 이것과 조금 비슷하다는 생각이 들었습니다. 하나님의 나라는 이미 도래했지만, 아직 완성되지 않았습니다. 무슨 말인가 하면, 우리는 세례를 받고 거듭났지만, 이는 곧 구원에 이르는 믿음이 선물로 마음에 심겨졌다는 뜻입니다. 마음에 심겨진 이 믿음은 예수님을 더 알아가면서 날마다 성장하고, 결국 예수님과 얼굴과 얼굴을 마주보게 됨으로써, 예수님의 형상을 닮아가는 것이지만, 역시 잠복기 같은 것이 있어서 금방 그 실체를 드러내지 못한다는 것이라는 것입니다. 그러나 하나님이 우리에게 주신 구원은 확실한 것이고, 그리고 그 구원은 우리의 생각을 훨씬 초월하여 아직 본 적도 없고, 아직 들어본 적도 없을 정도로 놀라운 것입니다. 그러므로 우리는 날마다 영적으로 성장하여 그리스도를 닮아가는 성화가 이루어져야 합니다. 성화란 무엇인가 하면, 예수님을 날마다 새롭게 알아가면서 조금씩 예수님을 닮아가는 것을 말합니다.

(1) 그리스도의 성품

오늘 본문의 성경 말씀 3:12~13절을 보시겠습니다.

12 그러므로 너희는 하나님이 택하사 거룩하고 사랑 받는 자처럼 긍휼과 자비와 겸손과 온유와 오래 참음을 옷 입고

13 누가 누구에게 불만이 있거든 서로 용납하여 피차 용서하되 주께서 너희를 용서하신 것 같이 너희도 그리하고

지난주에 살펴본 앞 단락에서 바울은 골로새 교인들에게「새 사람을 입었으니」라고 했습니다. 그 새 사람이 구체적으로 무엇인지 오늘 본문에서 다섯 가지 덕목을 구체적으로 열거하고 있습니다. 첫째는 긍휼, 둘째는 자비, 셋째는 겸손, 넷째는 온유, 다섯째는 오래 참음입니다. 특히 오래 참음에 대해서는 보충 설명이 있는데, 「설령 교회 형제 자매와의 교제 가운데 상대방에게 잘못이 있더라도 서로 인내하고 서로 용서하라, 주께서 너희를 용서해 주셨지 않느냐, 그렇지 않은가?」라고 말하고 있는 것입니다. 이 다섯 가지 덕목이 얼마나 훌륭한 것인지는 누구나 알 수 있습니다. 물론 바울의 권면이 옳다는 것을 납득할 수 있지만, 실제로 그렇게 살 수 있느냐 하는 것은 또 다른 문제입니다. 우리는 교회 안에서도 바로 용서하는 것의 어려움, 상대를 참으며 받아들이는 것의 어려움에 직면하기 때문입니다. 그래서 바울의 다섯 가지 권면은 매우 허들이 높은 것들로서 우리를 압도할지도 모르겠습니다. 그러나 어떻게 보면 그럴 만도 한데, 이 다섯 가지 덕목은 주로 예수님, 혹은 하나님을 향해 사용되어 온 말이기 때문입니다. 마태복음 9:36절에 보면, 예수님은 「무리를 보시고 불쌍히 여기시니 이는 그들이 목자 없는 양과 같이 고생하며 기진함이라」라고 기록되어 있습니다. 이것이 첫 번째 덕목입니다. 또한 예수님은 마태복음 11:30에서 「이는 내 멍에는 쉽고 내 짐은 가벼움이라」고 말씀하셨습니다. 이것은 두 번재 덕목입니다. 또한 28절에서 예수님은 「수고하고 무거운 짐 진 자들아 다 내게로 오라 내가 너희를 쉬게 하리라 나는 마음이 온유하고 겸손하니」라고 세 번째, 네 번째 덕목을 이 구절에서 말씀하셨습니다. 마지막 오래 참음이라는 단어는 화를 늦게 낸다는 뜻으로 구약성경에서 하나님의 성품에 대해 이야기할 때 자주 사용되었습니다(롬9:22). 이런 하나님의 성품을 여러분도 닮으라고 권면하고 있는 것입니다. 이미 거듭난 여러분은 지금은 공사 중이지만, 언젠가는 그렇게 되기 위해 지금부터 완성을 향해 성장해 가라고 바울은 말하고 있는 것 같습니다. 그리고 가장 주목해야 할 것은 12절 첫머리에 나오는 말씀입니다. 「너희는 하나님이 택하사 거룩하고 사랑 받는 자처럼」이라고 쓰여 있네요. 「택하사」「거룩하고」「사랑 받는 자」이 단어들은 구약성경에서 주로 이스라엘을 향해 자주 쓰인 단어입니다. 하나님께서 이스라엘 백성을 선택하신 것은 다른 여러 나라 백성들과 비교해서 뭔가 더 뛰어나서 선택하신 것은 아니었습니다. 신명기 7:6~7에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

6 너는 여호와 네 하나님의 성민이라 네 하나님 여호와께서 지상 만민 중에서 너를 자기 기업의 백성으로 택하셨나니

7 여호와께서 너희를 기뻐하시고 너희를 택하심은 너희가 다른 민족보다 수효가 많기 때문이 아니니라 너희는 오히려 모든 민족 중에 가장 적으니라

오히려 이스라엘은 다른 민족 보다 가장 적었고, 선택받을 근거가 전혀 없었지만, 일방적인 하나님의 은혜로 하나님이 거룩한 백성으로 삼으셨다고 기록되어 있습니다. 골로새인들도 마찬가지로 일방적인 은혜로 택함받고, 언약의 백성으로 여겨졌기 때문에, 하나님의 사랑을 받았기에, 믿음을 선물로 주셨기에, 그 주신 믿음으로 사랑의 열매를 맺으라고 말씀하고 있는 것입니다.

(2) 교회는 사랑과 평강이 넘치는 곳

이어서 3:14~15절을 보시겠습니다.

14 이 모든 것 위에 사랑을 더하라 이는 온전하게 매는 띠니라

15 그리스도의 평강이 너희 마음을 주장하게 하라 너희는 평강을 위하여 한 몸으로 부르심을 받았나니 너희는 또한 감사하는 자가 되라

사랑은 최고의 덕목입니다(고전13장). 왜냐하면 사랑은 앞서 열거한 다섯 가지 덕목을 모두 포함하고 있기 때문입니다. 그런 의미에서 사랑(아가페)이란, 모든 것을 온전하게 매는「띠」, 곧 「끈」이라고 바울은 말합니다. 여담이지만, 헬라어에는 「사랑」이라고 할 때 아가페라는 단어도 있고, 필로스라는 단어도 있고, 에로스라는 단어도 있습니다. 보통 아가페는 자기희생적인 사랑을 뜻하고, 필로스는 우애나 이웃사랑을 뜻하며, 에로스는 정욕적인 사랑을 뜻합니다. 성경에는 에로스라는 단어는 사용되지 않습니다. 성경에 아가페와 필로스라는 단어가 나오는데, 그렇다면 성경에서 아가페가 아닌 필로스가 쓰일 때 그것은 어떤 사랑을 가리키는지, 어떻게 구분해서 사용하고 있는지 의문을 가질 수 있습니다. 예를 들어 아가페가 특히 하나님의 사랑을 가리킬 때 쓰이고, 필로스가 특히 인간적인 사랑을 가리킬 때 쓰이는 것이 아닌가 하는 것입니다. 사실 성경에서「아가페」와 「필로스」는 상호 교환적으로 사용되어 거의 같은 의미로 여겨지고 있습니다. 즉, 성경은 아가페와 필로스, 에로스의 세 가지 사랑이 존재한다고 가르치는 것이 아니라, 사랑은 오직 한 가지 사랑만 존재한다고 주장하는 것입니다. 다만 이 성경이 가르치는 사랑은 하나님으로부터 오는 사랑이며, 인간 안에는 본래 존재하지 않는 것, 인간에게는 없는 사랑이라고 말합니다. 따라서 비기독교인들에게 있어서 진정한 의미의 「사랑으로 사는 것」은 불가능하다고 할 수 있습니다. 「하나님은 사랑이시라」라고 성경에 기록되어 있지만, 하나님의 사랑이 우리에게 부어지고, 십자가의 사랑을 깨달았을 때 비로소 하나님이 사랑이심을 알게 되고, 하나님의 사랑을 알게 된 사람은 사랑에 살고, 사랑을 실천할 수 있게 되는 것입니다.

마찬가지로 평안도 본래 우리 죄인들에게는 존재하지 않는 것, 가지고 있지 않은 것입니다. 평안은 구속의 사역을 이루신 예수님 안에만 존재합니다. 우리는 본래 자기중심적이기 때문입니다. 요14:27에 다음과 같은 말씀이 있습니다.

평안을 너희에게 끼치노니 곧 나의 평안을 너희에게 주노라 내가 너희에게 주는 것은 세상이 주는 것과 같지 아니하니라 너희는 마음에 근심하지도 말고 두려워하지도 말라

예수님 자신이 평안 그 자체라고 해도 과언이 아닙니다. 그리스도의 십자가로 인해 적대감이 사라지고 평안, 즉 하나님의 샬롬이 실현되었습니다. 교회는 한 몸으로서 이러한 평안을 누리게 하기 위해, 이 하나님의 깊은 평안을 누리게 하기 위해 하나님께로부터 부르심을 받고 모여졌습니다. 하나님의 구원은 성도의 교제 속에「평안」,「샬롬」이 임하는 것입니다. 그러므로 비록 이 세상에 완전한 교회는 없고, 교제 속에서 서로에게 비난할 점이 있고, 불평이 끊이지 않을지라도, 그럼에도 불구하고 골로세 교인들은 하나님과 화해하고, 하나님과 화평을 이루며, 그리스도의 몸으로 세워지도록 부름을 받은 것입니다. 이런 이유로, 이 세상에는 없는 사랑과 평강이 가득한 그리스도의 교회를 통해 골로새인들도, 그리고 우리도 이미 천국의 전초전을 맛보고 있다고 말할 수 있지 않을까, 이 세상에서 교회는 하나님의 나라의 예표라는 것입니다. 하늘의 도성 예루살렘은 우리 성도들의 교제를 통해 이미 이 땅에 구현되어 있는 것입니다. 교회는 하나님을 증거하는 무리이며, 세상을 향해 「천국은 정말 있다!」는 메세지입니다라는 것입니다.

(3) 그리스도를 새롭게 앎으로써

이어서 3:16~17을 보시겠습니다.

16 그리스도의 말씀이 너희 속에 풍성히 거하여 모든 지혜로 피차 가르치며 권면하고 시와 찬송과 신령한 노래를 부르며 감사하는 마음으로 하나님을 찬양하고

17 또 무엇을 하든지 말에나 일에나 다 주 예수의 이름으로 하고 그를 힘입어 하나님 아버지께 감사하라

이 서신의 서두에는 바울이 아직 한 번도 만난 적 없는 골로새 교인들에게 얼마나 감사한지가 적혀 있습니다. 말씀을 통해 예수 그리스도를 만날 때, 혹은 예수 그리스도에 대해 새롭게 눈을 뜨게 될 때 우리는 기쁨으로 충만하고 감사할 수밖에 없습니다. 자신의 힘으로 바꾸려고 노력해도, 자기계발에 힘쓰고 열심히 노력해도 도저히 자신의 습관이나 악습을 바꿀 수 없었는데, 하나님 앞에 회개함으로써 멈출 수 있었다, 180도 바뀔 수 있었다는 이야기를 자주 듣게 됩니다. “담배를 끊을 수 있었습니다.” “술을 끊을 수 있었습니다.” “제 성격이 완전히 바뀌었습니다.”등등 입니다. 우리는 말씀을 통해 영의 눈이 열리고, 하나님을 알게 되고, 혹은 자신의 죄를 깨닫게 됨으로써 조금씩 그리스도를 닮아가는 것입니다. 그러므로 그리스도의 말씀을 마음에 풍성히 거하게 하는 것은 매우 중요한 일입니다. 저는 구원받은 지 얼마 되지 않았을 때, 마음에 드는 말씀을 종이에 인쇄해서 방에 붙여놓고 말씀을 외우려고 애썼습니다. 우리 교회 회원 중 한 분이 매일 성경 필사에 힘쓰고 있다는 이야기를 들은 적이 있습니다. 그렇게 함으로써 말씀이 풍성히 거하게 되는 것 같아요. 또한 그리스도의 말씀은 찬송을 통해서도 우리에게 직접적으로 역사하시고 우리에게 영향을 주실 것입니다. 어떤 목사님은 찬송 가사에 신경을 쓰면서 그 가사가 그리스도를 찬양하는 내용인지, 성경 말씀의 내용이 제대로 드러나는지 꼼꼼히 체크합니다. 그것은 찬송을 통해 말씀이 우리에게 거하시고 역사하신다는 것을 경험으로 알기 때문인 것 같습니다. 찬송이라고 하면 골로새서 1:15~20에도 그리스도 찬송의 단편을 보존하고 있었던 것이 생각나는데, 초대교회는 우리가 상상하는 것 이상으로 찬송하는 무리였던 것 같습니다. 16절의 「시와 찬송과 신령한 노래」가 구체적으로 무엇인지에 대해서는 신학자들에 따라 여러 가지 설이 있지만, 이 세 가지 단어는 구분할 수 없는 단어인 것 같습니다.「시」는 구약의 시편을 말하는 것으로 생각되지만, 자발적인 찬송도 여기에 포함되었던 것 같고, 혹은 찬송이란 특정 시편도 포함되는 한편, 새로운 노래를 가리키는 경우도 있었습니다. 따라서 찬송이란 넓은 의미의 찬미가라고 할 수 있습니다. 따라서 「시와 찬송과 신령한 노래」가 의미하는 바는 각각을 명확하게 구분할 수는 없지만 「구약성경에서 이어져 내려오는 시편」과 요즘 젊은이들이 부르는 새로운 컨템포러리한 찬양과 자발적인 찬송까지 모두 포함하는 것으로 이해해 주시기 바랍니다. 기독교 교회는 바로 노래하며 시대를 걸어온 것입니다.

우리가 말씀을 통해, 그리고 찬송을 통해 그리스도에 대해 새롭게 눈을 뜨게 될 때, 우리의 입에서는 오직 하나님을 칭송하는 찬송이 나올 수밖에 없고, 하나님의 목적도 바로 이 점에 있었습니다. 하나님께서 자신을 계시하시는 것은 죄인을 변화시켜 회개한 백성이 하나님을 칭송하고 찬송하도록 회복시키시기 위함이었습니다. 모든 영광이 하나님께로 돌아가는 것입니다.

결론

하나님께서 영원 전부터 골로새 교인들을 택하시고 거룩하게 하시고 사랑하신 이유는 골로새 교인들을 날마다 성화시켜 조금씩 그리스도의 성품을 닮아가게 하기 위함이었습니다. 또한 동시에 교회야말로 하나님 나라의 예표로서 사랑과 평강이 넘치게 하기 위함이었습니다. 그리고 한 사람 한 사람의 성화는 그리스도의 말씀을 통해 그리스도를 만날 때 일어나는 것이며, 말씀으로 우리 마음의 눈이 열려 그리스도를 새롭게 알게 될 때, 우리의 입에서 하나님을 칭송하는 찬송과 감사와 깊은 기쁨이 자연스럽게 솟아나게 되는 것입니다.

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