新しい人を着せられて
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- 説教
- 川栄智章 牧師
- 聖書 コロサイの信徒への手紙 3章5節~11節
3:5だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
3:6これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。
3:7あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。
3:8今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
3:9互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
3:10造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
3:11そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 3章5節~11節
ハングル語によるメッセージはありません。
【序】
本日の箇所は、新しい人を着せられたキリスト者の歩みについて書かれています。パウロはよく「新しい人を着せられたのだから」とか、「キリストを着せられたのだから」という言葉を用いて聖徒たちを励ましています。今もそうかもしれませんが、パウロが生きていた時代、そして特に旧約時代においても、服装というのは基本的にその人の身分を現わしていました。従って新しい人を着せられた、キリストを着せられたという言葉は、身分が変えられたことを意味します。つまり、私たちの古い人は罪に仕える奴隷でありましたが、今や救われて、新しく生まれ変わった人は、イエス様に仕える神の僕に代えられて、神の家族、ロイヤルファミリーとして身分が変えられたということです。
【1】. パウロは霊肉二元論を説いているのか
5節の冒頭には、「だから」という言葉で始まっていますね。これは3章1~4節を受けて、「だから」という言葉で始まっています。1~4節では、何が書かれていたのかと言うと、「上にあるものを求めなさい、あなた方の帰るべき故郷であり、本来の国籍である天の都を求めなさい」ということでありました。この希望は、キリスト者にとっては、決して不確かなものでも、あいまいなものでもありません。なぜなら、この希望とは、わたしたちが十字架においてキリストに結ばれて共に死んだように、私たちの債務証書も、あの十字架上に打ち付けられ、破り捨てられたという希望だからです。また、この希望とは、わたしたちがキリストに結ばれて復活に共に与ったように、私たちも義とされて、新しく生まれ変わったという希望だからです。また、この希望とは、私たちがキリストに結ばれて天の王座に着座したように、私たちも天の王座に着座し、神の子であり、ロイヤルファミリーとされたというそのような希望だからです。コロサイの人々も、このキリストにある、確かな希望に生かされているので、「だから」という5節の冒頭の言葉によってパウロの勧めが始まっています。古い自分に死んで、新しい人を着たのだから、その身分に相応しく日々新たにされなさいとパウロは勧めているのです。それでは、異邦人であるコロサイ人にとって、イエス様を信じる前の、古い自分とは、一体どのような特徴を持っていたのかと言いますと、5節と8節において二回に渡って罪のリストが列挙されています。まず最初に一回目のリスト3:5~6節をご覧ください。
“だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。”
5節には、罪のリストとして、①みだらな行い、②不潔な行い、③情欲、④悪い欲望、および⑤貪欲という性的な罪が、五つ列挙されています。一番目の「みだらな行い」とはギリシア語で「ポルネイア」という言葉でありまして、これはポルノの語源となっています。また、三番目の「情欲」というのもやはり、行き過ぎた性的な欲望を指しています。五番目の「貪欲」に関しては、偶像礼拝そのものであると厳しく戒めています。人は一人の主人にしか仕えることはできません。イエス様に仕えるのか、或いはお金や仕事や趣味が偶像となってしまい、それらを崇拝するのか、二つに一つであります。
この5節に列挙されている罪に関する戒めは、旧約の律法の中でも戒められており、通常ユダヤ人が嫌悪した異教徒たちの罪であったと言えるでしょう。ということは、パウロは確かに禁欲主義を否定してはいますが、律法の教えを完全に否定しながら、放縦主義だとか、反律法主義を唱えているのではないということが分かります。現在、私たちの教会の中で、時々耳にする言葉として、「それは律法主義でしょ」という言葉があります。しかし律法主義に反対するあまりに、反律法主義や放縦主義にならないように十分に気を付けなければなりません。律法主義もよくありませんが、反律法主義もよくないということです。
また、5節には、これらの五つの罪の前に「地上的なもの」という言葉が修飾されています。この箇所を新しい聖書協会共同訳を見ると、「地上の体に属するもの」というふうに訳が変更されています。実は、こちらの新しい訳がギリシア語聖書の直訳に近いものですが、この「地上の体に属するもの」という言葉を聞くと、やはり、パウロも霊的なものが優れていて、肉的なものが汚れているという霊肉二元論を説いているのではないかと勘違いしてしまいそうになりますが、そういうことではありません。地上の肉体も神の創造物である限り、それ自体、善いものであります。ただ、肉は、もろく、脆弱で、罪に傾きやすいという性質がありまして、肉体そのものは善いものですが、この肉体が罪を犯してしまう道具にもなり、或いは善を行う道具にもなるということです。
「捨て去りなさい」という命令文は、ギリシア語では「地上の体を殺しなさい」となっていて、ここは「死んだものとして考えなさい」と解釈できます。つまり、パウロの言わんとしていることは、罪に支配された古い自分は、既に死んだものと考えなさいという意味だと思います。パウロは霊肉二元論を主張しているのではなく、「既に」と「未だ」を主張しているということです。「既に」と「未だ」の関係にある、信仰の二元論とでも言ったらいいでしょうか。神の国は到来し、私たちは既に霊的な救いを頂いていますが、未だ救いは完成されていません。しかし、イエス様の再臨の時には、肉体も完全に救われて、救いが完成し体も永遠に生きるように復活の体として、完成されるのです。パウロは、以前の罪に支配されたあなた方の体は、既に死んでいるので、信仰によって体をイエス様に献げ、献身し、義の器として用いていただきなさいと言っていると思われます。続いて7~10節をご覧ください。
【2】. 新しい人を着せられて
“あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。”
ここでは、二回目の罪のリストとして、五つ列挙されています。①怒り、②憤り、③悪意、④そしり、⑤口から出る恥ずべき言葉、という、どれも言葉によって犯す罪です。今回の東京オリンピックにおいてもSNS上で、選手に対する誹謗中傷がされたりして、問題になっていました。こういった言葉によって犯す罪も、性的な罪と同じように断ち切らなければなりません。なぜなら、コロサイにいる兄弟姉妹は既に新しい人を身に着けたから、新しく生まれ変わったのだから、むしろキリストの福音がその口から語られるようにしなければならないと、パウロは言います。服というのはその人の身分を現わしますが、キリスト者は既に古い罪に支配された服を脱ぎ捨てて、新しい人を身につけたのです。そして、その新しい人とは、10節で「造り主の姿に倣った」と修飾されています。この箇所のギリシア語を見ると、創世記1:27(70人訳聖書)の引用であることに気づかされます。創世記1:27(聖書協会共同訳)をご覧ください。
“神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された。”
つまりコロサイ書3:10の「造り主の姿に倣う」という言葉は、創世記の1:27「神のかたちに」と同じ言葉であります。このことから教えられるのは、イエス様が私たちに与えてくださる救いというのは、アダムとエバが罪を犯す前に持っていた神様との関係の回復であったということです。アダムとエバは罪を犯す前は、真の神様の事をちゃんと知っていて、神様と自由に交わることが許されていました。従って、この世が堕落し、真の神様を見失い、自分勝手に偶像礼拝に走って行ったのは、アダムとエバの犯したその罪に起因していたということです。罪を犯す前は、ちゃんと神知識を持っていましたが、罪を犯したことによって、神様との交わりが絶たれ、神知識を失ってしまったのです。また、アダムとエバが罪を犯す前に持っていたのは、この知識だけにとどまりません。義と聖さも持っていたと神学者たちによって指摘されています。その証拠聖句としてエフェソの手紙4:24が挙げられます。このエフェソ4:24はコロサイ書3:10とセットにして、しばしば引用される聖句です。
“神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。”
この御言葉を見ますと、聖霊によって新しく生まれ変わった人とは、神のかたちを着た人のことであり、それは正しく、清い生活を送るようにされた人であると書かれていますね。この聖句から神のかたちに造られた堕落前のアダムとエバは、先ほどのコロサイ3:10の「知識」に加えて、「義」と「聖さ」をも、持っていたと推測できるのです。ところが罪を犯したために、人間から知識と義と聖さが失われてしまいました。キリストにある救いとは、この失われた神のかたちである「知識」と「義」と「聖さ」が回復させること、リフォームドされることであると言うのであります。
ところで、パウロは聖書の中で、「造り主のかたちである新しい人を着せられた」という表現と併せて、「キリストを着せられた」という表現もしばしば用いています。例えばローマ書13:14では、「主イエス・キリストを身にまといなさい。」と命じていますし、ガラテヤ書3:27では、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」と言っています。つまり、イエス・キリストこそアダムにまして、神のかたちであるということです。イエス・キリストこそ、神の子として、神の御言葉として、全面的に、最も正確な神のかたちであるということです。コロサイ1:15には「御子は、見えない神の姿(かたち)であり、」と書かれている通りです。従って、私たちに与えられている救いとは、イエス・キリストに結ばれて、まだ罪を犯す前のアダムとエバの状態に回復されるというのではありません。アダムとエバが成長して完全な知識と義と聖さに至った状態に、つまりイエス・キリストによって完全に成就された「知識」と「義」と「聖さ」の状態に、霊的にではありますが、回復されたということです。私たちはイエス・キリストを信じて、心の割礼を受け、古い自分に死んで、新しく生まれ変わり、聖霊によって再生されました。悪い木は、悪い実を結び、良い木は、良い実を結びます。悪い行い、良い行い、これはどこから出てくるでしょうか。心からであります。心が聖霊によって新しく生まれ変わったということはどれほど大きな恵みでしょうか。このことに驚かなければなりません。
【3】. キリストを着せられて
以前の古い私たちが罪しか犯すことが出来なかったのは、心にまだ割礼を受けていなかったから、イエス様によって心が新しく生まれ変わっていなかったからです。しかし今や、私たちはイエス様を信じ、洗礼を受けて、新しく生まれ変わり、心の割礼を受けました。再生によって私たちの心の中に聖霊が内住されるようになり、イエス・キリストによって成就された「知識」と「義」と「聖さ」を着せられるようになったのです。この新しい命は、依然として神の中に隠されていて、鏡を通してでしか見ることが許されず、まだおぼろげではありますけれども、それは完全な命に違いはありません。時間をかけてではありますが、心の中の神のかたちである「知識」と「義」と「聖さ」は、実際的に肉の体にも拡大されていくことでしょう。ですから、私たちはこの世において、古い自分に死んで、地上的な罪を離れ、言葉の罪を捨てていく、その聖化が、私たちの肉の体において、少しづつではありますが進行されていくのです。確かにこの地上においては完全に聖化されることはなく、相変わらず私たちは罪を犯してしまいますが、それにも拘わらず少しずつでありますが、イエス様に似て行くようにされて聖化されるのです。続いて3:11節をご覧ください。
“そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。”
救われた兄弟姉妹において、イエス・キリストが全てであり、イエス・キリストが、私たちの生命となられ、私たちの心の中に内住してくださいました。もはや、ギリシア人とユダヤ人の区別もなく、割礼と受けた者と受けていない者の区別もなく、未開人と、未開人よりさらに野蛮だと言われていたスキタイ人の区別もなく、奴隷と自由人の区別もありません。もちろん霊的な意味で区別がなくなったという意味です。当時の現実の社会に目をやるなら、依然として階級制度や奴隷と自由人の区別は残っているかもしれませんが、しかし、そのような現実社会を超えて、キリストにある霊的な兄弟姉妹として互いに愛し合い、互いに尊敬しあい、共同体を形成していくことができるようにされたということです。私たちは王の家族、ロイヤルファミリーとして再生されましたが、この地上においてはイエス様が歩まれたように僕として、低く生きるように導かれるのです。
【結論】
私たちは、信仰によって神のかたちを着せられました。心の中に神のかたちが、即ち、「知識」と「義」と「聖さ」が回復され、更新されました。ですから、私たちの実際の行いと私たちの実際の言葉も、同じように日々聖化されていかなければなりません。この聖化の歩みとは古い自分との闘いであり、このゾンビのように死んだのに拘わらず、すぐに立ち上がってくる古い自分との闘いであり、罪と誘惑との闘いでありますが、既にキリストにあって勝利が約束されていて、勝利の冠が準備されている闘いでもあります。そのことに感謝しつつ、私たちを通して「知識」と「義」と「聖さ」の影響力を、この世に及ぼしていくことができるように一歩一歩、歩ませていただきましょう。