上にあるものを求めよ
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- 説教
- 川栄智章 牧師
- 聖書 コロサイの信徒への手紙 3章1節~4節
3:1さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
3:2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
3:3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
3:4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 3章1節~4節
ハングル語によるメッセージはありません。
【序】
私たちは、今コロサイ人の手紙を読み進めております。コロサイ書はキリスト論について書かれていると言われますが、本日の箇所は、キリストの再臨について触れているという意味から、キリスト論のクライマックスを迎えているのではと思わされます。
本日の説教題を「上にあるものを求めよ」とさせていただきました。似たようなタイトルで、昔、坂本九さんの「上を向いて歩こう」という大変有名なヒットソングがありました。物事を、肯定的に積極的に考えることによって、たとえ、つらく、悲しい人生でも、きっと乗り越えていくことができるのではないかという歌詞でございます。当時の日本の高度経済成長期を背景とし、その厳しく劣悪な環境の中に置かれていた労働者の姿が思い起こされます。そのような中にあって、大きな慰めと希望を与えてくれる歌だと思いました。それでは、本日の箇所において、パウロはコロサイの人々に同じようなことを言っているのかと言うと、恐らくそうではないと思われます。なぜなら、パウロはすべての人々に対するメッセージとして語っているのではなく、コロサイとラオディキアにいるイエス・キリストを信じる兄弟姉妹に向けてこのメッセージを語っているからです。それではキリスト者にとって、「上にあるものを求めよ」とは一体どういう意味を持っているのでしょうか。1節をご覧ください。
【1】. 上にあるものを求めて
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
パウロはコロサイの兄弟姉妹に対し「あなたがたは、キリストと共に霊的に復活させられた」と、復活が過去のある時点において起こったこととして語っています。この言葉が出る伏線として、すでに2章20節の御言葉で、「あなたがたは、キリストと共に死んだ」ことが語られていました。2:20-21をご覧ください。
あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。
この20節もやはり、「キリストと共に霊的に死んだ」ことが、過去のある時点において起こった事実として語られています。パウロに言わせるなら、キリスト者とは何かと言えば、洗礼を受けた時点で、キリスト共に十字架に死んで、そしてキリストと共に復活させられた者であると言うのであります。古い自分に死んで、聖霊によって新しく生まれ変わった人であると言うのであります。従って、今、私たち聖徒が、この世にあって生きているのは、以前の私の罪深い命がそのまま継続しているのではなく、そこに一度終止符が打たれて、復活の命によって、キリストの命によって生かされている。つまり、生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の中に生きているというのであります。このことが、これから起こる約束として与えられているのではなく、もう、既に起こった既成事実を、その事実通りにパウロは語っているのです。この既成事実をさらにたどっていくのなら、キリストの体である私たち聖徒たちは、既にキリストと共に復活させられ、キリストと共に天の右の座に着座させられているということになりますが、エフェソ書2:6を見るとやはりそのような内容が書かれています。エフェソ2:6をご覧ください。
キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
ここでは、私たちは既に、天の王座に「共に着かせて下さった」とやはり過去の出来事として書かれています。大変不思議な感じがいたしますね。そうしますと、キリスト者にとって、「上にあるものを求める」とはどういうことかと言うと、これは、決して「肯定的・積極的思考を持って生きよう」ということではありません。そのようなぼんやりとした確実性の薄いものでありません。或いは、「もう少し形而上学的に、哲学的に生きよう」とか、「もう少し高尚な生き方を、ワンランク上の優雅な生活をしよう」というのでもありません。キリスト教はそのような、アクセサリーのようなものではありません。むしろ、たとえ、この世の統治者に敵対し全財産が没収されたとしても惜しくないようなものであります。たとえこの世においては迫害され、憂き目に遭い、命さえ奪われたとしても惜しくないようなものであります。それは「神の右に着座されたキリストがおられる天を求める」ということだからです。「聖徒たちの故郷である天の都を求める」ということだからです。私たち聖徒は、この世では、旅人であり、寄留者であり、巡礼者でありますが、天のエルサレムこそ、私たちの嗣業であり、目的地である、天のエルサレムこそ、本当の我が家であるということです。こんなことを言うと、厭世的になったり、この世を諦めて、現実逃避することを勧めているのかな?とも思ってしまうかもしれませんが、そういうことでもありません。なぜならキリスト者が「上にあるものを求める」ということは、この地において一人一人に与えられた神の召しに、忠実に応答する時に成就されるからです。キリスト者にとって、この世で地に足を付けながら、感謝と喜びをもって敬虔に歩むことと、天の都を追及して歩むことはしっかりと両立するからです。
【2】. 天の都とは何か
天の都とは具体的な何なのかということについてさらに考えを進めて行きたいと思います。コロサイ書3:2~3節をご覧ください。
上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
前回、2章において、パウロは、禁欲主義と偽りの謙遜の、その動機を暴露し、批判していました。禁欲主義や偽りの謙遜というものは、「もっと満たされたい」「もっと聖化されたい」という願いから出て来たものですが、結局、頭であるキリストから離れた自己中心的な教えであって、一見、知恵あるように見えるかもしれませんが、それらは神様から出て来たものではなく、人間から出てきたものだというのであります。
「人間的なもの、地上的なもの」ではない、「上にあるもの」に心を留めなさいと言っています。ところで、パウロは再び「上にあるものを求めなさい」という言葉を、違う言葉によって繰り返しています。1節では「熱心に追求しなさい」という表現を使い、2節では、「思いに抱きなさい、念じなさい」という表現を使っています。なぜ、上にあるものを求め、上にあるものに心に留めることを、パウロは口酸っぱく勧めるのでしょうか。3節を読み進めますと、「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」からだと言っています。つまり、あなた方の命は、あなた方の本来の生活は、この地上にあるように見えるけれども、実は、キリストと共に神の内に隠されているからだと言うのです。なんと素晴らしいことでしょうか。そして、何故、地上のものに心を引かれないように、地上のものを捨てるように勧めるのかと言えば、それは、あなた方はこの世に依然として生きているように見えるけれども、実は、死んでいるからだと言うのです。この世においてあなた方はゾンビのようだということですね。これもまたびっくりです。こういうわけで私たちの本当の国籍は天にあるのです。パスポートを見ますと国籍は日本ということになっていますが、実際は天と地に二重国籍を持つような者であるということですね。
聖書の中で私たちキリスト者は、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民」として輝かしい栄光とともに紹介されています。しかしこの栄光は、地上において成り立つ事柄ではなく、天において成り立つ事柄でございます。聖徒たちはこの世にあってはイエス様が歩まれたように、既に神の子であり、王の系統を引く祭司には違いありませんけれども、僕として歩むことになるからです。
皆さんはシオニズム運動という言葉を聞いたことがあるでしょうか。「ダビデの幕屋が再び復興されるだろう(アモス9:11)」という預言に従って、パレスチナにユダヤ人国家を建設しようとする運動です。さらには、はっきりとは分かりませんが、現在イスラム教の岩のドームが建立されているその場所に、ダビデの神殿を建て直そうと目論んでいるかもしれません。つまり、シオニズム運動とは、「聖書の約束通り、この世において自分たちが神の栄光に入れられる」と主張しているのです。しかし、これは、明らかに誤った聖書解釈であります。なぜなら真の神殿は、真のエルサレムは、この世ではなく天にあるからです。聖徒たちが王として振舞うことになるのは、この地上においてではなく、天の都において王として振舞うことになるのです。この地においては、私たちは旅人であり、寄留者に過ぎず、まるで荒れ野を彷徨うかのように、まるで嵐の海を進んで行くかのように、大きな患難の中で御言葉にしがみつきながら、信実な歩みを一歩一歩重ねて、世に対し証しをしていくように導かれるのです。しかし信者たちはこの世で生を全うすると、直ちに天の都に引き上げられ、地上の労苦を終えて安息を得ることになります。
ここで一点、勘違いしてはならないことは、私自身も以前誤って理解していた点ですが、信者たちは世の終わりの日に、キリストの再臨において、初めて救いを受けるのではないということです。牧田先生の書かれた「終末の希望に生きる」という本に詳しく書かれていますが、私たちは死後、一旦、控室で休憩するように世の終わりの救いを待つということではありません。死後に、「ま、とりあえず一服しながら、再臨でも待つか」というのではないのです。死ぬと同時に、私たちの霊は天に引き上げられ、冠を受けることになるのです。だからこそ、初代教会の聖徒たちは迫ってくる迫害に勇気をもって耐え忍ぶことが出来たのです。勝利の冠が私たちの為に準備されている、そして死後、直ちに天の都に入れられ、キリストと共に御座に座り、親しい交わりに入れられ、王として治めることになるのです。
先月、私たちは教会員であるY姉妹を天に送りました。思えば、2019年のクリスマスの時には教会に来られなくなったY姉妹のご自宅をキャロリングで訪問させていただき、賛美を届け、交わりの時を持たせて頂きました。その時大変喜んでいただいたことが思い起こされます。帰り際にジュースの差し入れまでしてくださいました。また、まだ教会に通っていた頃は、ご主人がイエス様を受け入れてくれるように一生懸命とりなし、ご主人の病床で岩永先生を通して洗礼を授けることができたことを、劇的にお証ししてくださったことなども覚えています。Y姉妹の死は、ご遺族の方々、或いは姉妹と特に親しい関係を持っておられた方々にとって、大変悲しい経験となりましたが、しかし、姉妹の霊は天の都に引き上げられ、勝利の冠が与えられ、この世の仮住まいではない、真の故郷に戻り、イエス様との親しい交わりの中に入れられたということなのです。そしてキリストと共に王のように治めているのです。
聖書で天の都とは、色々なイメージで描写されていますが、例えば、川が流れ命の木がある楽園であったり、或いは、神ご自身が住まわれる至聖所のある神殿であったり、或いはあらゆる金と宝石を持った王国として黙示録に描かれています。こういった描写は天に実際に存在するその実在を、この世の限られたものなどによって描写されたものであります。天の都とは、言ってみれば、天と地のすべての被造世界にある、最も良いもの、最も真実で、高貴で、聖く、愛らしく、美しいものによって、最高の栄光に高められた場所として考えていいのではないでしょうか。しかし、この天の都は、いつの日か人の目に見える形で顕わにされることになります。その日はいつかと言えば、イエス様の再臨の日です。イエス様が見える形で再び戻って来られ、全教会をご自身の栄光の中に参与させる日であります。3:4節をご覧ください。4節はまさにキリストの再臨について書かれています。
【3】. キリストの再臨
あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
イエス様が再臨される時、天のエルサレムが、地上へ降りてきます。そこで、天使たちは、偉大な王の僕たちであり、先に死んだキリスト者たちは、その都の市民となっています。そして地上にいるキリスト者たちは、天を仰ぎながら、キリストの再臨によって一瞬に復活の体に変えられて、この天のエルサレムに携挙されるのです。黙示録21:9~11と1テサロニケ4:16~17をご覧ください。
黙示録21:9~11
さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。
1テサロニケ4:16~17
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
このようにして天の都が実際に地上に降って現れ、聖徒たちはその時復活の体によって、新しい天と新しい地において、永遠に生きることになるのです。
【結論】
私たちはキリストと共に霊的に死んで、キリストと共に霊的に復活させられ、天の右に着座させられた以上、私たちの本当の国籍は、栄光の天の都にあり、キリストはそこで神の右に着座しておられます。これが私たちの希望です。私たちはこの地上において寄留者として仮住まいしている間、常に上にあるものを求め、上にあるものを思いに抱きながら、希望の中を信仰によって歩ませていただきます。私たちの愛の行いは信仰によって生み出されますが、私たちの信仰は、まさに天に連結されている確かな希望によって支えられていて、天の都の希望から信仰が湧き出てくるのです。