知恵と知識の宝であるキリスト
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- 説教
- 川栄智章 牧師
- 聖書 コロサイの信徒への手紙 2章1節~7節
2:1わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。
2:2それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。
2:3知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。
2:4わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。
2:5わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。
2:6あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
2:7キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 2章1節~7節
ハングル語によるメッセージはありません。
【序】
神様は近寄り難い光の中に住まわれ、誰一人神を見たことがなく、見ることもかないません。神は永遠から変わることなく、時間と、空間と、そしてすべての被造物の上に超越されているお方です。従って、御子と御霊以外には、誰も神様を知ることができません。しかし、神様はご自身の充満がキリストの中で、肉体に住まわれるようにされました。そしてキリストの体である教会をご自身の神殿とし、そこを住処となさいました。この驚くべき真理をコロサイの人々に説明するために獄中にいるパウロは切に祈りながら、あらゆる牧会的な配慮をし、尽力をしています。2章1節をご覧ください。
【1】. パウロの格闘
“わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。”
1節で、パウロは「まだ直接顔を合わせたことのないコロサイの人々のために、どれほど労苦して闘っているのか、分かってほしい。」と訴えていますね。注目すべき言葉は「闘って」という言葉です。1:29にも出てまいりましたが、このギリシア語は、「競技する」、「格闘する」という意味です。パウロは神さまから与えられた宣教という務めに対する、彼の労苦や尽力のことを言っているのですが、他の書簡でもそうですが、自分の務めに対する尽力や取り組みを、まるでオリンピック競技にでも出場するかのように例えています。東京五輪も間近に迫っていますが、オリンピックや、スポーツの代表選手の場合、選手は国を代表したり、ある地域や県を代表して競技に臨みますね。パウロも自分の尽力と苦難を、あたかも教会を代表するかのように、主の務めに励み、競技に取り組んでいますと語っているのです。私たちもこのパウロの姿勢を見習っていきたいと思います。私たちが今、苦難に直面しているのは、実は神様からの務めであります。私たちが、今日、生かされているのも、実は神様からの務めであります。そのように目の前に置かれている現実に誠実に取り組んでいくということです。私たちのこの世での営みは、すべて総責任者であり、総監督である、イエス様の為に励むということですね。それにしても、パウロが、いくら責任感が強く、信仰の人だと言っても、まだ一度も会っていないコロサイの人々のために、なぜ、ここまで熱心になることができたのでしょうか。2~3節をご覧ください。
【2】. 偽りの教師たちの教え
“それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。”
ここでは、知恵と知識という言葉が出てまいります。もともと、知恵も、知識も、第一に人間の知恵と知識を意味する場合と、第二に神の知恵と知識を意味する場合がございました。旧約聖書では、特に神の知恵と知識は、神の啓示と関連し非常に大切にされていました。コロサイの人々にとっても、やはり知恵と知識とは、神から与えられるものであると考えられていたようですが、さらに言えば、神秘的な知恵、霊的で呪術的な知恵さえも意味していました。そのような知恵と知識を得るということは、恐らく「見る」とか、「体験する」などという言葉に置き換えられるようなものであったと思われます。ですからコロサイの人々にとって、知恵と知識というのは人間を解放し、幸いにするものであると考えられていたと推測できるのです。果たしてイエス・キリストを通してそのような解放を味わうことができただろうか、果たしてイエス・キリストを通してそのような幸いを、神秘的体験を経験できただろうか、という風に、コロサイのキリスト者の信仰生活の中で、少しずつ不満が鬱積されていきました。きれいな言葉で言うなら、「恵みによってもっと満たされたい」ということです。これは現代に生きるキリスト者にとっても、看過することのできない渇きであると言えるでしょう。イエス・キリストを通して、経済的に豊かになれないではないか、イエス・キリストを通して、病の癒しと幸いと解放を受け取ることはできないではないか、という渇き・不満を持つことがあるからです。ですから、パウロが「神の秘義であるキリストを悟るようになる」ですとか、「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されている」という言葉を聞いた時、おそらくコロサイの人々に、少なからず驚きをもたらしたに違いありません。「え、イエス・キリストって、そんなにすごいお方だったの?」という感じです。
コロサイの人々が日々、偽りの教師たちから教えられている内容は、恐らく次のように説明されていたと思われます。「キリストというのはね、来るには来たけれども、どのように来たのかと言うとね、キリストの霊が誰に留まるのか、その対象を探していた時に、ちょうどナザレ出身の、誠実で、よく準備された一人の青年がいるのを見つけてね、その青年にキリストの霊が入ったんだよ(ほーら、おそらく洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、あの時だと思われるよ)」という具合です。つまり、キリストはあくまで霊的な存在・天使のようなアイオーンのような存在であるという理解です。このような理解に立ちますと、たまたま、そこにいたナザレの青年が選ばれたのであって、結局は、誰でもキリストになれる可能性があることを意味します。偽預言者たちの主張の背後には、ギリシア哲学から起因している霊肉二元論がありました。霊肉二元論とは、神様が悪を創造されるはずがないので、悪に満ちているこの世界は、神様による創造ではなく、ある霊的存在によって、或いは天使によって創造されたと考えます。そして、霊は聖く、肉は汚れていると考えるのです。コロサイの人々も、そのような影響を受けて聖書の教えが霊肉二元論を言っているかのように誤解してしまいました。しかし1ヨハネ4:1~3には、次のようなみ言葉があります。
“愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。”
神であるイエス・キリストが、霊的に、一人の青年に入ったのではありません。イエス・キリストが実際に私たち人間と同じ肉を取られ、女から生まれ、十字架に掛かられ、葬られ、三日目に復活されたのは、仲保者としてご自分に属する者たちを贖うためであったのです。
【3】. 知恵と知識の充満であるキリスト
神が肉を取られた、ということについてもう少し詳しく見ていきますと、私たちの信仰告白において、「イエス・キリストはまことの神であると同時に、まことの人間である(ハイデルベルク問15)」と告白しています。完全な神であると同時に完全な人間であるということです。イエス様は、成人としての神の姿で、この世に来られたのではなく、女から、赤ちゃんとして生まれて、成長して行きましたね。そして知恵と知識においても、やはり成長して行かれたということが聖書から読み取れます。ということは、聖書に書かれているのは、全知であられるイエス様というよりも、イエス様ご自身、知識としてまだ知らないことがあって、成長と共に知識が増し加えられていくイエス様の姿が描写されています。例えばルカによる福音書には、幼子イエスはたくましく育ち、知恵が増し、背丈も伸び神と人とに愛されたと書かれています(ルカ2:52)。聖書のこのような記事は、偽教師たちが考えるように、ナザレのイエスが決して神ではなく、普通の人間に過ぎなかったということではありません。それでは、なぜ、イエス様は全知ではなかったのでしょうか。それは、イエス様は完全なる神であられましたが、神の知恵は、人として来られたイエス様の中で制限されていたということです。同様に、聖書には、全能のイエス様ではなく、食べ物と飲み物を必要とされ、のどが渇き、旅をする中で疲れを覚えられるイエス様の姿が描写されています。さらに私たちと同じように悪魔から試みを受けられました。しかし、だからと言って、イエス様も罪を犯す可能性があったということではありません。これも先ほどと同じように、神の全能の力が、人として来られたイエス様の中で制限されていたということです。ところが、復活された後に、イエス様は天と地の一切の権能を授かったと言われました。マタイ28:18とフィリピ2:9-10をご覧ください。
マタイ28:18
“イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。”
フィリピ2:9-10
“このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、”
つまり、イエス様は、以前、ロゴスとして御父と共に持っていた神の知恵と知識の充満と栄光を、復活後に、肉の体を持つ人間として、初めてお受けになったということです。従って復活されたイエス様の働きは、もうこれ以上、僕ではなく、主であられ、君主であられます。天の右に上られたキリストの働きは、依然として私たちをとりなす祭司の働きを担っていますが、もはや犠牲祭事を献げる働きではなく、ご自身に属するすべての者たちを集めて、自らの全ての敵をご自身の足元に置くまで治められる王としての働きとなりました。イエス様は、父の右に、どっこいしょっと、ゆっくり休むために昇天されたのではありません。天に上げられたのは、そこで、ご自身の民のために住まいを備え、ご自身の完全な従順によって獲得した知恵と知識の充満を、地上にいる、ご自身の民である教会に満たすためであったのです。繰り返しますと、肉をお取りになったイエス様が天に高くあげられたのは、キリストに結び合わせられている者たちを、天に高く上げるためであり、肉をお取りになったイエス様が、神の満ち満ちた充満を獲得されたのは、教会を神の満ち満ちた充満に満たすためであったのです。エフェソ4:10をご覧ください。
“この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。”
ですから、私たちは、イエス・キリスト以外によっては、断じて神のもとに引き寄せられることはありません。また、イエス・キリスト以外によっては、断じて神の知識の充満に与ることもできません。コロサイの人々のようにさらに満たされるために、キリスト以外から断食祈祷ですとか、禁欲的生活を通して渇きを潤してもらおうとしたり、キリスト以外から知識や知恵を求めたりする理由は、全くないということです。コロサイ書に戻りまして2:4~5節をご覧ください。
【4】. キリストの中で
“わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。”
キリストこそ神の秘義であり、キリストこそ知恵と知識の宝であるという、その言葉の意味が理解できますと、パウロがなぜ、コロサイ人に対してそこまで熱心になることができたのか少しずつ分かってきます。キリストが私たち人間と同じ肉となって来られ、十字架に掛かられ、復活されたのは、仲保者としてご自身に属する者たちを贖うためでありました。キリストは単なる霊的存在ではなくて、私たちの仲保者となるために肉を取られ、完全な神でありながら、完全な人となられたのです。キリストが全き神であり、全き人であるが故に、私たちにとって、イエス様は秘義であり、知恵と知識の宝となるのです。このことをきちんと抑えているなら、当時、異端の教えが猛威を振るっていたコロサイ地方においても、偽りの教えを分別することができるようになり、決して騙されることはないのです。パウロの、コロサイ人への牧会的な励ましを、この箇所から読み取ることができるのですが、それは、5節の、「体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、…喜んでいます。」という言葉です。コロサイの教会は確かに異端の教えに揺さぶられていても、パウロの目には、れっきとしたキリストの教会であり、キリストに結合された、キリストの教会であるために、聖霊によって一つになり、一致が与えられると言っているのです。続いて6~7節をご覧ください。
“あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。”
ここで、パウロはコロサイ人に「あなた方は、キリスト・イエスを主として受け入れたのですから」と言っています。コロサイ人はイエス様を自分たちの主として受け入れました。ですからキリスト以外の所から誘惑されることなく、キリストに結ばれて日々成長して建てあげられなければなりません。7節で、細かいことを言いますと、「深く根を下ろすようにされて」という言葉は完了形の受動態になっていて、一方、「造り上げられなさい」「信仰が強固にされなさい」という言葉は継続を表す現在形の受動態になっています。どういうことかと言いますと、「あなた方は根を下ろした」、つまり「あなた方はイエス様と結合されました。結び合わされました。」というのは完了形であり、「造り上げられなさい」、「建てあげられなさい」と「信仰が強固にされなさい」というのは今、現在進行中であるということです。教会は今なお、キリストという土台の上に少しずつ石が積み上げられ、強固にジョイントされつつある、その継続的な意味あいが表現されています。この土台から外れて他の場所を基盤とするのなら、教会は決して立ち行かないということです。私たちはキリストの中にあって、成長していき、キリストの中にあって、歩むことができることを常に意識してまいりましょう。そのようにするときに、私たちの内側から何故か、あふれるばかりの感謝が湧き出るようになるのです。
【結論】
本日の箇所では、異端の教えに揺さぶられるコロサイの人々に対してパウロの牧会的な配慮を見てまいりました。イエス・キリストは仲保者としての働きを全うするために、完全な神でありながら、完全な人として、教会に与えられた。そしてこのイエス・キリストこそが、教会の秘義であり、教会知恵と知識の宝である、教会が充満にされる源であるということです。このイエス様から私たちは一時も目を離すことなく、私たちの現実の中で与えられている、それぞれの闘いに尽力していく者とならせていただきましょう。