2021年06月20日「神の秘義、キリスト 하나님의 신비, 그리스도」

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神の秘義、キリスト 하나님의 신비, 그리스도

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
コロサイの信徒への手紙 1章21節~29節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:21あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
1:22しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。
1:23ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。
1:24今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。
1:25神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。
1:26世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。
1:27この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。
1:28このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。
1:29このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 1章21節~29節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

先週は、キリスト賛歌の箇所から、イエス・キリストが創造において長子であられ、源であられ、根源であることと、そして再創造においてもやはり、長子であられ、源であられ、根源であることを学びました。実に万物の創造主であり、神であられるお方が、十字架に掛けられたのは、罪によって神様と敵対してしまったこの世と、神様との関係を和解させ、神の燃えるような怒りを宥めるための犠牲の生贄であったということを見てまいりました。パウロは、イエス・キリストというお方がどれだけ素晴らしく、どれだけ有り難く、どれだけ偉大なお方なのかを説明した後に、このお方を救い主として受け入れた、コロサイにある家の教会のお一人お一人に対して、実際にあなた方の中で起こった経験に目を向けさせています。彼らに起こった変化とは、一言で言えば、信仰が与えられたことです。このことが大変重要なことであり、本日のテーマです。彼らは、信仰が与えられたために、過去において自分がどれほど罪深く、神様に敵対していたのか、むしろサタンの手先のような歩みをしていたのか、その、目を覆いたくなるような自分の黒歴史について、気づきが与えられたということを指摘しています。また、信仰が与えられたために、罪の赦しの確信と、深い平安が与えられ、今や目が開かれて、物の見方と価値観と完全に変えられ、生きる目的が完全に変えられたことについて指摘しています。このような変化は、自分がいくら勉強しても、いくら賢くなっても気づかないものです。信仰が与えられて初めて理解することが出来る事柄です。従って信仰とは、自分自身で獲得するものではなく、神様から与えられるものであるということが分かるのです。信仰とは神様から「フウ」と、息を吹き込まれるようなものです。私たちキリスト者は、どのようなタイミングでなのかは、分かりませんが、福音を聞き、キリストにある希望について聞かされて、ある時、信仰が与えられ、聖霊が吹き込まれて新しく生まれ変わり、信仰によって歩み出すようにされたのです。それは、言ってみれば、奇跡的な誕生のようであり、まさに「再創造」と呼ぶにふさわしい瞬間であり、コロサイの人々の上にも、(いつか、はっきり分かりませんが)、そのことが起こったのであります。ですから、信仰とは、例えて言うなら、神の子どもの自然な呼吸のようなものであります。肉から生まれた者は、息を止めると死んでしまいますね。同じように霊から、上から新しく生まれた者は、信じることを止める時に死んでしまうのであります。従ってキリスト者はこの世の人生の旅路において、天のエルサレムへのその巡礼の中で、一時も信じることを止めることが出来ませんし、一旦神様から信仰が与えられたなら、そこに堅く踏みとどまらなければなりません。本日、パウロが語っているのは、私たちが一時も手離してはならない、この、信仰についてです。私たちは見えるものに従って歩むのではなく、信仰によって歩むからです。しかし、偽りの教師たちは、「あなたも今、秘密の儀式を通して手に入れることが出来ます。聖書には書かれていない隠された事を教えてあげましょう」などと吹聴しました。神の約束が今、この世において完全に成就すると教えるために、もはや神の約束に対する希望を持つ必要はなくなってしまいます。信仰を持って歩む必要がなくなってしまいます。

確かに私たちキリスト者は、やがて信仰や希望が必要なくなる時が来るでしょう。その時は、いつなのかと言いますと、それは、ズバリ、キリストの再臨の時であり、神の国が完成される時です。その時になれば信仰と希望はなくなって、愛だけが永遠に残ることになります。その時、私たちが信じていたことが、ことごとく成就されるからです。しかしこの世においては完全に成就される訳ではありません。この世においては、私たちは信仰によって歩む者、信仰によって生かされる者なのです。21~23節をご覧ください。

【1】. 完全な者

“あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。”

22節に着目しますと、「神の前に、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」とあります。これは、イエス・キリストのような完全さを意味しています。私たちはキリストの似姿に変えられるという意味です。しかし、そうは言っても、たとえ私たちは信仰によって歩み始めたからと言って、罪が全て消えるわけではありませんね。私たちは救われたのにも拘わらず、相変わらず日々罪を犯してしまう、弱く惨めな者であります。するとこの22節は、嘘・偽りを言っているのでしょうか。そうではありません。新しく生まれ変わったキリスト者の命の源である、イエス・キリストが天の御父の右におられる限り、キリスト者の命も、やはりキリストと共に神の中に隠されていて、この世で生きる間は、信者たちには本当の自分の姿とでも言ったらいいでしょうか、真の姿は依然として天に隠されているのです。しかし、やがて私たちが天に引き上げられる時に、イエス様と顔と顔を合わせるようになり、栄化され、その時には完全にされるという事です。1コリント13章12節をご覧ください。

“わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。”

キリストの体である教会はこの世にあっては不完全であっても、天に引き上げられてキリストと顔と顔を見合わせて、完全にキリストを知るようになり、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として立たせてくださるのです。続いて24節をご覧ください。

【2】. 信仰者の歩み

“今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。”

パウロは現在、獄中にいるわけですね。もしかしたら、偽りの教えを説く者たちは、パウロのその無様な姿をもって、彼のリーダーシップと教えが、疑わしい証拠だと言ったのかもしれません。ところが、パウロはそのことを逆手にとり、むしろ「今、自分が、福音のために苦しむことを喜びとしている」、さらには、「教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言っています。これは一体どういうことでしょうか。まさか、キリストの十字架によって捧げられた生贄の犠牲では、その流された尊い血では、贖罪の代価として十分ではなく、まだ不足していると言っている訳ではありません。なぜなら、もしそうなら、今までパウロが自分で主張してきたことと完全に矛盾してしまうからです。ここでパウロが言わんとしていることは、キリスト者はキリストと密接に結合されているために、自然にキリスト者の人生は、キリストを証しするような人生を歩むことになるということだと思います。イエス様の生涯が苦難を通して栄光に入れられたように、キリストの体である教会も、この世においては、なぜかキリストの姿がだんだんとあぶり出されていくように、苦難を経験することになるのです。使徒言行録14:22には次のような御言葉がございます。

弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。

ここにもやはり「苦しみ」という単語が出てきますが、コロサイ書1:24節と「苦しみ」と同じ単語が使用されています。私たちキリスト者は、誰であれ、この地上において苦難を経験するようになり、そして天に召され時には、高く引き上げられるということです。キリスト者は、キリストと共に十字架に掛けられ、葬られ、復活し、神の右に座り、栄光を受けるのです。キリスト者は、キリストの服を着て、キリストのかたちを自分たちの中であぶり出されていき、キリストの苦難と命を自分たちの肉体の中で表し、キリストの中で完全とされていきます。そのことを知っていたパウロは、神様が自分の人生に与えてくださった苦しみや患難から、決して逃げ出すことはせず、苦しみを全てそのまま甘んじ、享受しました。垂直飛びでより高くジャンプするためには小さく屈まなければならないのです。自分が今まさに、苦しんでいるのは、自分が神様の福音を正しく宣べ伝えている証拠であると、偽りの教師たちに論証しているかのように聞こえてくるのです。続いて26~28節をご覧ください。

【3】. 神の秘義、キリスト

“世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。”

ここでは、偽りの教師たちが好んで使う言葉である「秘められた計画」と、「代々にわたって」という言葉があえて使用されています。そのため、パウロが言っているのは、偽りの教師が語る教えに対する弁証だと思われます。この「秘められた計画」とは、新しく出た、聖書協会共同訳では「秘義」と訳されていまして、ギリシア語ではミュステリオンです。因みにこの言葉はイエス様も用いられています。マタイによる福音書13:11をご覧ください。

“イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。”

マタイ福音書では「秘密」という言葉で翻訳されています。この秘密という言葉を偽りの教師たちは好んで使ったわけです。「自分たちの秘密の神の教えを教えて差し上げましょう」ということです。そしてもう一つ気になる言葉があります。それは、「代々にわたって」とは、新しい聖書では「幾世代にもわたって」と訳されています。ギリシア語ではアイオーンの複数形です。つまり、「幾世代」とか「永遠」という意味です。ラテン語ですとイオンモールの「イオン」です。このような言葉が少しずつ独り歩きして行き、異端の思想が形成されたと考えられています。というのは、ギリシア神話を見ますと、例えば時間、(ギリシア語で「クロノス」と言いますが)ギリシア神話では、この時間という言葉が神格化され、神々の一人として考えられたり、或いは、世代、つまり「アイオーン」という言葉も、神格化され何か霊的な存在として考えられています。こういった影響を受けて、偽りの教師たちは自分たちの教えの中で、秘密の儀式を通して、神格化されたアイオーンを語りながら、聖書の教えを、完全に似て非なるものへとすり替えて行ったと思われます。

このような異端の教えの問題点は、つまるところ、イエス・キリストを格下げして、あたかもアイオーンの一人であるかのように相対化させることと、そして、もう一つ重要なことは秘密の儀式を通して、この地上で、完全に至ることができる、この現世において充満にいたることができる、完成することができると教えることです。そうしますと信者の命綱であった信仰が、もはや不要なものと勘違いされてしまうのです。偽りの教えとは、信者の呼吸である信仰を不要なものとさせ、命を枯渇させ、死に至らせようとするのです。この点が聖書の語る秘義と全く異なる点でございます。それでは、パウロの言う聖書的な秘義とは、一体何でしょうか。イエス様も言及されたように、秘義という言葉は、啓示された神の国に関するものです。私たちが神の国へ入るための門であるキリストは、旧約の時代、律法や儀式の中に隠されていました。ですからイザヤ書などに将来、異邦人が救われることが約束されていますが、それはあくまで割礼を受けて、ユダヤ人になって救いに入れられると理解されていました。しかし、現在、キリストの十字架と復活によって隠されていた神のご計画が、公に完全に啓示され、コロサイ人のような異邦人であっても、イエス・キリストを信じるなら誰もが救われて、神の国に入れられるという福音が、今、世界中に伝えられたのです。つまり、聖書の中で「秘義」という時、最初に律法や儀式の中にかくされていた内容が、後の世代になり、福音の中で知らされて、世界中、至るところに宣べ伝えられ、今や信者たちであれば、皆が知っているイエス・キリストのことを指し示しているのです。しかし、だからと言って、それは誰にでも理解できる自明の事柄ではありません。なぜなら、福音の中にはイエス様の受肉や、イエス様の復活、イエス様との神秘的結合などが語られるからです。こういうことは科学によって説明することはできず、理性によって理解することはできない事柄であり、罪びとである人間にとって、その恵みは信仰によってでしか受け入れることができないからです。聖書の言う秘義とは、信者であれば誰でも知っているイエス・キリストであり、私たちの信仰を下から支える栄光の希望なのです。ですからキリスト者は、その秘義であるイエス様のことを学問的な意味から理解して、悟っているのではないという事ですね。キリスト者も、イエス様のことを「部分的に知っているのであり」、「鏡におぼろげに映っている」イエス様のお姿を見ているのであって、日々のイエス様との交わりを通して、イエス様のことをもっともっと、知って行く者とされ、成長していく者とされているのです。従って、聖書の言う秘義とは、信仰に進ませるものであり、やがて受けることになるイエス・キリストを仰がせるものなのです。

【結論】

神様から信仰が与えられ、暗闇から光へと移され、神の国へ入れられたキリスト者の歩みとは、天に約束されている栄光へ向かう歩みであります。一方で偽りの教えとは、秘密の儀式や秘密の教えに目を向けさせて、キリスト者の信仰やキリストの内にある希望を不要にさせる教えです。ですからキリスト者はそのような異端の教えに用心して、生涯この信仰に踏みとどまらなければなりません。信仰とはキリスト者にとって呼吸のようなものであり、キリスト者は信仰の歩みを通して、少しずつイエス様のお姿が形成されていきますが、そのことは何よりも苦難を通して確認することが出来るのです。信仰によって歩む者は、イエス様がそうであったように、この世にあって必ず苦難の道を通るようにされます。信仰の苦難を受けているという事はキリストが形作られていることの証拠なのです。私たちはまだ信仰によってキリストのおぼろげな姿しか見ることは許されておりませんが、やがて顔と顔を合わせ、神の前に、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として造りかえられるのです。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

하나님의 신비, 그리스도

2021년 6월20일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

골로새서 1장 21~29절

서론

지난주에는 그리스도 찬가 부분에서, 예수 그리스도가 창조에 있어서 장자요, 시초요, 근원이요, 그리고 재창조에 있어서도 역시 장자요, 시초요, 근원이심을 배웠습니다. 참으로 만물의 창조주이자, 하나님이신 분이 십자가에 못박힌 것은, 죄로 말미암아 하나님과 적대적이 되어버린 이 세상과 하나님과의 관계를 화해시키고 하나님의 불타는 분노를 달래기 위한 속죄의 제물이었다는 것을 보았습니다. 바울은 예수・그리스도라는 분이 얼마나 훌륭하고, 얼마나 감사하고 얼마나 위대한 분인지를 설명한 후에, 이 분을 구원자로 영접한 골로새에 있는 가정 교회의 한 사람 한 사람에 대해서, 실제로 그들 안에서 일어난 경험에 눈을 돌리게 하고 있습니다. 그들에게 일어난 변화를 한 마디로 말하자면, 믿음이 주어진 것입니다. 이것이 매우 중요한 일이며 오늘의 주제입니다. 그들은 믿음이 주어졌기 때문에 과거에 자신이 얼마나 죄 많고 하나님께 적대적이었는지, 오히려 사탄의 앞잡이 같은 삶을 살고 있었다는 것, 자기 눈을 가리고 싶어지는 자신의 흑역사에 대해 깨달음이 주어졌다는 것을 지적하고 있습니다. 또 믿음이 주어졌기 때문에 죄 용서의 확신과 깊은 평안이 주어졌고, 이제 믿음의 눈이 열려 사물에 대한 시각과 가치관이 완전히 달라졌고, 삶의 목적이 완전히 바뀐 것에 대해 지적하고 있습니다. 이러한 변화는 자신이 아무리 공부해도, 아무리 똑똑하다 해도 스스로 깨닫지 못하는 것입니다. 믿음이 주어져야 비로소 이해할 수 있는 일입니다. 따라서 믿음이란, 자기 스스로 획득하는 것이 아니라 하나님께서 주시는 것임을 알 수 있습니다. 믿음이란 하나님께서 「후우」하고, 입김을 불어 넣어주시는 것과 같습니다. 우리 그리스도인은, 어떤 타이밍인지는 모르지만, 복음을 듣고 그리스도께 있는 소망에 대해서 듣고, 어느 순간, 믿음이 주어지고 성령이 들어 오셔서, 새로 태어나, 믿음에 의한 걸음을 시작하게 된 것입니다. 그것은, 말하자면, 기적적인 탄생인 것 같고, 그야말로 「재창조」라고 부를 만한 순간이며, 골로새 사람들 위에도 (언젠가 확실히 모르겠지만), 그 일이 일어난 것입니다. 그래서 믿음이란, 비유해서 말하자면, 하나님의 자녀의 자연스러운 호흡과 같은 것입니다. 육에서 태어난 사람은, 숨을 멈추면 죽게 됩니다. 마찬가지로 영에서, 위에서 새로 태어난 자는, 믿는 것을 멈출 때 죽고 마는 것입니다. 따라서 그리스도인은 이 세상의 삶의 여정에서, 하늘의 예루살렘으로의 그 순례 속에서 한시도 믿는 것을 멈출 수 없으며, 일단 하나님으로부터 믿음이 주어진다면 그곳에 굳게 머물러야 합니다. 오늘 바울이 말하고 있는 것은, 우리가 한시도 놓아선 안 되는, 이 믿음에 대해서입니다. 우리는 보이는 것을 따라 사는 것이 아니라, 믿음에 따라 살기 때문입니다. 하지만 거짓 교사들은, “당신도 지금, 비밀 의식을 통해 얻을 수 있습니다. 성경에는 쓰여 있지 않은 감춰진 것을 가르쳐 줄께요”라고 퍼뜨렸습니다. 하나님의 약속이 지금, 이 세상에거 완전히 성취된다고 가르치기 때문에, 더 이상 하나님의 약속에 대한 소망을 가질 필요가 없게 됩니다. 믿음을 가지고 살 필요가 없어져 버립니다.

확실히 우리 그리스도인은, 머지않아 믿음이나 소망이 필요없게 될 때가 올 것입니다. 그때가 언제냐 하면, 바로 그리스도의 재림의 때이고, 하나님 나라가 완성될 때입니다. 그때가 되면 믿음과 소망은 없어지고 사랑만이 영원히 남게 되는 것입니다. 그때는 우리가 믿었던 것들이, 모조리 성취되기 때문입니다. 하지만 이 세상에서는 완전히 성취되는 것은 아닙니다. 이 세상에서 우리는 믿음에 의해 걷는 자, 믿음에 의해 사는 자입니다. 21~23절을 보시기 바랍니다.

(1) 온전한 자

21 전에 악한 행실로 멀리 떠나 마음으로 원수가 되었던 너희를

22 이제는 그의 육체의 죽음으로 말미암아 화목하게 하사 너희를 거룩하고 흠 없고 책망할 것이 없는 자로 그 앞에 세우고자 하셨으니

23 만일 너희가 믿음에 거하고 터 위에 굳게 서서 너희 들은 바 복음의 소망에서 흔들리지 아니하면 그리하리라 이 복음은 천하 만민에게 전파된 바요 나 바울은 이 복음의 일꾼이 되었노라

22절을 보면, 「하나님 앞에 거룩하고 흠 없고 책망할 것이 없는 자로 그 앞에 세우고자 하셨으니」라고 되어 있습니다. 이것은, 예수・그리스도와 같은 온전함을 의미하고 있습니다. 우리들이 그리스도의 형상을 닮아가는 모습으로 변해간다는 뜻입니다. 하지만 그렇다고 해도, 설령 우리가 믿음으로 걷기 시작한다고 해서, 죄가 다 사라지는 것은 아닙니다. 우리는 구원을 받았음에도 불구하고, 여전히 날마다 죄를 짓고 마는 연약하고 비참한 자입니다. 그렇다면 이 22절은, 거짓말을 하고 있는 것일까요? 그렇지 않습니다. 새롭게 태어난 그리스도인의 생명의 근원이신, 예수・그리스도가 하늘 아버지의 오른편에 계시는 한, 그리스도인의 생명 역시, 그리스도와 함께 하나님 안에 숨겨져 있고, 이 세상에서 사는 동안, 신자들에게는 참된 자신의 모습이라고 해야 할까요? 참모습은 여전히 하늘에 숨겨져 있는 것입니다. 그러나 머지않아 우리가 하늘로 끌어올림을 받을 때, 예수님과 얼굴을 마주하게 되고, 영화롭게 되고, 그때는 온전히 된다는 것입니다. 고린도전서 13장 12절을 참조하시기 바랍니다.

우리가 지금은 거울로 보는 것 같이 희미하나 그 때에는 얼굴과 얼굴을 대하여 볼 것이요 지금은 내가 부분적으로 아나 그 때에는 주께서 나를 아신 것 같이 내가 온전히 알리라

그리스도의 몸인 교회는 이 세상에 있어서는 불완전하더라도, 하늘로 끌어올려져 그리스도와 얼굴과 얼굴을 마주하고, 온전히 그리스도를 알게 되어, 거룩한 자, 흠이 없는자, 책망할 것이 없는 자로 세워지는 것입니다. 이어서 24절을 보시겠습니다.

(2) 신앙인의 걸음

나는 이제 너희를 위하여 받는 괴로움을 기뻐하고 그리스도의 남은 고난을 그의 몸된 교회를 위하여 내 육체에 채우노라

바울은 현재 옥중에 있습니다. 어쩌면 거짓 가르침을 설파하는 자들은, 바울의 그 비참한 모습을 보고 그의 리더십과 가르침이 의심스러운 증거라고 말했을지도 모릅니다. 그런데 바울은 그 일을 역이용해, 오히려 「이제 너희를 위하여 받는 괴로움을 기뻐하고」심지어 「그리스도의 남은 고난을 그의 몸된 교회를 위하여 내 육체에 채우노라」라고 말하고 있습니다. 이게 도대체 무슨 말일까요? 설마 그리스도의 십자가에 의해 바쳐진 제물의 희생만으로는, 그 흘리신 보혈로는 속죄의 대가가 충분하지 않고, 아직 부족하다고 말하는 것은 아닙니다. 왜냐하면 만약 그렇다면, 지금까지 바울이 스스로 주장해온 것과 완전히 모순되고 말 것이기 때문입니다. 여기서 바울이 말하고 싶은 것은, 그리스도인은 그리스도와 밀접하게 연합되어 있기 때문에, 자연스럽게 그리스도인의 삶은, 그리스도를 증거하는 것 같은 삶을 걷게 된다는 것이라고 생각합니다. 예수님의 생애가 고난을 통해 영광으로 들어가셨듯이, 그리스도의 몸인 교회도, 이 세상에 있어서는, 그리스도의 형상이 점점 드러나게 되는 것처럼 고난을 겪게 되는 것입니다. 사도행전 14장 22절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

제자들의 마음을 굳게 하여 이 믿음에 머물러 있으라 권하고 또 우리가 하나님의 나라에 들어가려면 많은 환난을 겪어야 할 것이라 하고

여기에도 역시 「환난」이라는 단어가 나오는데, 골로새서 1장 24절의 「고난」과 같은 단어(한국어 성경에는 환난과 고난이라고 번역되었으나 헬라어에는 같은 단어인 θλῖψις 드립시스)가 사용되고 있습니다. 우리 그리스도인은 누구든지 이 땅 위에서 고난을 겪게 되고, 그리고 하늘의 부르심을 받을 때에는 높임을 받는다는 것입니다. 그리스도인은 그리스도와 함께 십자가에 못 박히고, 장사되고, 부활하고, 하나님의 오른편에 앉아 영광을 받는 것입니다. 그리스도인은 그리스도의 의의 옷을 입고 그리스도의 형상을 자신들 안에서 드러내고, 그리스도의 고난과 생명을 자신들의 육체 안에서 나타내며 그리스도 안에서 온전하게 여겨지게 됩니다. 그 사실을 알고 있던 바울은, 하나님이 자신의 삶에 주신 고난과 환난에서 결코 도망치지 않고 고통을 모두 그대로 달게 받았습니다. 수직으로 날아 올라 더 높이 점프하기 위해서는 작게 웅크려야 합니다. 자신이 지금, 고난받고 있는 것은, 그야말로 하나님의 복음을 올바르게 전파하고 있다는 증거라고, 거짓 교사들에게 논증하고 있는 것처럼 들려오는 것입니다. 이어서 26~28절을 보시겠습니다.

(3) 하나님의 신비, 그리스도

26 이 비밀은 만세와 만대로부터 감추어졌던 것인데 이제는 그의 성도들에게 나타났고

27 하나님이 그들로 하여금 이 비밀의 영광이 이방인 가운데 얼마나 풍성한지를 알게 하려 하심이라 이 비밀은 너희 안에 계신 그리스도시니 곧 영광의 소망이니라

28 우리가 그를 전파하여 각 사람을 권하고 모든 지혜로 각 사람을 가르침은 각 사람을 그리스도 안에서 완전한 자로 세우려 함이니

여기서는 거짓 교사들이 즐겨 쓰는 말인 「감추어졌던 것」과 「만대로부터」라는 말이 굳이 사용되고 있습니다. 그래서 바울이 말하는 것은, 거짓 교사가 말하는 가르침에 대한 변증이라고 생각됩니다. 이 「감추어졌던 것」이란 새로나온 성경협회 공동번역(일본어 성경)에서는 「비의」라고 번역되어 있고, 헬라어로는 「뮤스테리온」입니다. 참고로 이 말은 예수님도 사용하고 있습니다. 마태복음 13장 11절을 보시기 바랍니다.

대답하여 이르시되 천국의 비밀을 하는 것이 너희에게는 허락되었으나 그들에게는 아니되었나니

마태복음에서는 「비밀」이라는 말로 번역되고 있습니다. 이 「비밀」이라는 말을 거짓 교사들은 즐겨 사용한 셈입니다. 자신들이 깨달은 비밀스러운 하나님의 계시를 가르쳐 주겠다는 것입니다. 그리고 또 한 가지 궁금한 말이 있습니다. 그것은 「만대로부터」라고 하는 것은, 새 성경에서는 「몇 세대에 걸쳐서」라고 번역되어 있습니다. 헬라어로는 아이온의 복수형입니다. 즉, 「몇 세대」라든가 「영원」이라는 뜻입니다. 라틴어로는 이온 몰(일본의 대형 쇼핑 몰)의 이온입니다. 이런 말들이 조금씩 독자적으로 변형되어 가면서 이단의 사상이 형성된 것으로 생각됩니다. 그렇다는 것은, 그리스 신화를 보면, 예를 들어 시간, (헬라어로는 크로노스라고 하는데) 그리스 신화에서는, 이 시간이라는 말이 신격화되어 신들의 한 사람으로 생각되거나, 아니면 세대 즉 「아이온」이라는 말도 신격화되어 뭔가 영적인 존재로 생각되고 있습니다. 이런 영향을 받아 거짓 교사들은, 자신들의 가르침 가운데서, 비밀스러운 의식을 통해서, 신격화된 아이온을 말하면서, 성경의 가르침을, 비슷하지만 완전히 다른 것으로 바꿔치기 해 갔다고 생각됩니다.

이러한 이단의 가르침의 문제점은, 결국 예수・그리스도를 격하시켜, 마치 아이온의 한 사람인 것처럼 상대화시키는 것과 또 한 가지 중요한 것은 비밀스러운 의식을 통해, 이 지상에서 완전히 이를 수 있는, 이 현세에서 충만함에 이를 수 있고 완성할 수 있다고 가르치는 것입니다. 그러면 믿는 자의 생명줄이었던 믿음이, 더 이상 불필요한 것으로 착각되어 버리는 것입니다. 거짓 가르침이란, 신자의 호흡인 믿음을 불필요한 것으로 만들어, 생명을 고갈시키고 죽음에 이르게 하려는 것입니다. 이 점이 성경이 말하는 비밀과 전혀 다른 점입니다. 그렇다면, 바울이 말하는 성경적인 비밀이란 대체 무엇일까요? 예수님도 언급하셨듯이, 비밀이라는 말은 계시된 하나님의 나라에 관한 것입니다. 우리가 하나님 나라에 들어가기 위한 「문」인, 그리스도는 구약시대의 율법과 의식 속에 숨겨져 있었습니다. 그래서 이사야서 등에 장차, 이방인이 구원받을 것이 약속되어 있습니다만, 그것은 어디까지나 할례를 받고, 유대인이 되어야 구원에 들어갈 수 있다고 이해되고 있었습니다. 그러나 현재 그리스도의 십자가와 부활로 인해, 감춰져 있던 하나님의 계획이 공개적으로 완전히 계시되고, 골로새인과 같은 이방인일지라도 예수・그리스도를 믿는다면, 누구나 구원 받아 하나님의 나라에 들어갈 수 있다는 복음이 지금 전 세계에 전해진 것입니다. 즉 성경 속에서 「비밀」이라고 할 때, 처음 율법이나 의식 속에 숨겨졌던 내용이, 후대에 이르러 복음 가운데 알려져 있으며, 온 세상 곳곳에 전파되어, 이제는 신자들이면 모두가 알고 있는 예수・그리스도를 가리키고 있는 것입니다. 하지만 그렇다고 해서, 그것은 누구나 이해할 수 있는 자명한 일은 아닙니다. 왜냐하면 복음 속에는 예수님의 성육신이나 예수님의 부활, 예수님과의 신비로운 연합 등이 이야기 되기 때문입니다. 이런 것은 과학으로 설명할 수 없고 이성으로 이해할 수 없는 일이며 죄인인 인간에게 그 은혜는 믿음으로 밖에는 받아들일 수 없기 때문입니다. 성경이 말하는 비밀이란, 신자라면 누구나 아는 예수・그리스도요, 우리의 믿음을 밑에서부터 지탱하는 영광스러운 소망입니다. 그래서 그리스도인은, 그 비밀이신 예수님을 학문적인 의미에서 이해하고 깨닫고 있는 것이 아니라는 것이지요. 그리스도인도, 예수님을 「부분적으로 알고」「거울로 보는 것 같이」희미한 예수님의 모습을 보고 있는 것이며, 매일 예수님과의 교제를 통해, 예수님을 좀 더 알아가는 자가 되고 성장해 가는 자가 되어 가는 것입니다. 따라서 성경이 말하는 비밀이란, 믿음으로 나아가게 하는 것이며 곧 만나게 될 예수・그리스도를 우러러보게 하는 것입니다.

결론

하나님으로부터 믿음이 주어져, 어둠에서 빛으로 옮겨져, 하나님 나라로 들어가는 그리스도인의 발걸음이란, 하늘에 약속된 영광을 향한 발걸음입니다. 한편으로 거짓된 가르침이란, 비밀스러운 의식이나 비밀스러운 가르침에 눈을 돌리게 하여, 그리스도인의 믿음이나 그리스도 안에 있는 소망을 불필요하게 만드는 가르침입니다. 그래서 그리스도인은 그런 이단의 가르침을 조심해서, 평생 이 믿음에 머물러야 합니다. 믿음이란 그리스도인에게 호흡과 같은 것으로, 그리스도인은 믿음의 발걸음을 통해 조금씩 그리스도의 형상을 닮아 가는데, 그 일은 무엇보다 고난을 통해 확인할 수 있는 것입니다. 믿음으로 걸어가는 자는, 예수님이 그랬던 것처럼, 이 세상에 있어서 반드시 고난의 길을 지나게 됩니다. 믿음의 고난을 받고 있다는 것은 그리스도의 형상을 닮아가고 있다는 증거입니다. 우리는 아직 믿음으로 그리스도의 희미한 모습만 볼 수 있지만, 곧 얼굴과 얼굴을 맞대고 하나님 앞에 거룩한 자, 흠잡을 데 없는 자, 책망할 것이 없는 자로 세워지는 것입니다.

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