2021年06月13日「御子は見えない神のかたち 그는 보이지 아니하는 하나님의 형상이시요」

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御子は見えない神のかたち 그는 보이지 아니하는 하나님의 형상이시요

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
コロサイの信徒への手紙 1章15節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
1:16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
1:17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
1:18また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。
1:19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
1:20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 1章15節~20節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 本日は伝道礼拝となります。このように普段来られない方と共に礼拝を捧げられる恵みを心より感謝いたします。本日の箇所はキリスト賛歌とよばれておりまして、時々クリスマス礼拝などで取り上げられる聖書箇所でもあります。1:15~20節まで、詩のように整えられていますから、おそらく、パウロは、当時、実際にキリストを称えるために使用されていた、そして、コロサイの人々にも馴染みのある賛美歌の中から、若干の補足的な加筆を加え、それを引用したものと考えられています。パウロがなぜこの賛美歌を引用したのかというと、この賛美には、創造においてキリストがナンバーワンであり、根源であり、源であることと、再創造においても、やはりキリストがナンバーワンであり、根源であり、源であることが、はっきり歌われているからだと思われます。コロサイの人々の信仰生活において、イエス様がだんだん、ぼやけて行く中で、普段自分たちが歌っていた賛美の解説を改めて聞かされて、目が覚めるような思いをしたに違いありません。今、「創造」と「再創造」と言いましたが、何だ?と思われる方もおそらくいらっしゃるのではないでしょうか。創造はいいとしても、「再創造とは、何ぞや」と言いますと、これは神学用語で、キリストの贖いの御業を指しています。つまり、私たちがイエス様を信じて、新しく生まれ変わることを意味します。聖書全体に一貫して書かれていることは、創造が、神様の働きの完了ではなくて、次に再創造が準備されており、最終的に神の安息に入るという流れがあり、これが神の摂理によって導かれているということです。自然のものが最初にあって、それから霊のものがあります。最初の人アダムは、「創造」を象徴し、第二のアダムであるキリストは、「再創造」を象徴しています。少しわかりづらいかもしれませんが、自然現象から例をあげますと、最初は小さく、醜い種で蒔かれ、種が土の中に落ちて死ぬと、芽が出て、葉が茂り、美しい花を咲かせますね。或いは、最初は醜い青虫として生まれ、やがて死んだように蛹となり、それから復活するかのように孵化して、蝶となり自由に飛び回るのです。これと同じように人間も、最初の人は土から造られ、地に属する者であり、第二の人は霊によって造られ天に属する者であるということです。神様は創造を終えて、ご自身の働きをパタッと止められたのではなく、神様の摂理の中で創造は再創造に向かうようになっていて、そして最後に神の国が完成されるのです。ですから神様は、万物を創造してから悠久の時を経て、今も休まずに再創造のために万物を統治し、保持し、働いておられ、最終的な安息に向かっているのです。

【1】. 創造の源泉であるキリスト

 それでは、コロサイの教会に、異端の教えを吹き込んでいたと思われる、その偽りの教えとは、一体どのような教えだったのでしょうか。はっきりとしたことは分からず、推測の域を出ないものですけれども、コロサイの地域にもディアスポラのユダヤ人が一定数いたようで、特にギリシア語しか話せないユダヤ人も多くいました。そして、コロサイを訪問する偽りの教師たちによって、ギリシア哲学を通して聖書が解釈され、ギリシア哲学を通して、信仰の歩みに充満が与えられると教えられていたと思われます。キリスト者であれば誰であれ、聖霊の満たしを求め、早く成長したいと願うものと思いますが、そういった願望に漬け込んできて、偽りの教師は「いい方法がありますよ!」などと触れ回っていたのではないでしょうか。当時のギリシア哲学が無条件に悪いということではありませんが、キリスト教とチャンポンになって、聖書に書かれている内容を超えて、いろいろと新しい事柄を付け加えるという所に、この教えの問題点がありました。具体的に例をあげるなら、第一に、神様が悪を創造されるはずがないので、悪に満ちているこの世は、神様の創造ではなく、ある霊的存在によって創造されたと考えたり、或いは天使によって創造されたと考えた点です。これは所謂、霊肉二元論的と言われるものです。霊の世界は神様が創造されたけれども、肉の部分は天使によって創造されたと考える見方です。第二に、イエス・キリストを神の独り子ではなく、神と人間の間にいる数多くの媒介者である天使の一人であると考えた点です。これは三位一体の教理をどうしても受け入れられず、仲保者であるキリストが神ではなく、神様の道具に過ぎなかったというふうにイエス様を格下げしてしまいました。このような教えに対して、パウロはどのように弁証していったのでしょうか。賛美の前半部分であるコロサイ書1章15~17節をご覧ください。

“御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。”

15節は少し注意しなければなりませんが、イエス様は全てのものが造られる前に「造られた」被造物ではなく、父なる神様から「生まれた」お方であるということです。「造られた」という言葉と「生まれた」という言葉の使い分けに注意を払わなければなりません。ヨハネの福音書の中で、フィリポは、イエス様に「どうか私たちに、御父をお示しください。そうすれば満足できます」と質問しましたら、イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか」と言われましたね。イエス様は神の本質の現れであるということです。続いて、「すべてのものが造られる前に生まれた者」という言葉は、ギリシア語で「プロトトコス」という言葉で「長子」とか、「初子」という意味です。この長子という言葉は、時間的なナンバーワンではなく、時間とは関係のない、名誉や栄誉としての、ナンバーワンとか、根源とか、源という意味です。というのは、旧約聖書でこの言葉が、何度か使われていますけれども、神様は末っ子のダビデを指して“わたしは彼を長子とし/地の諸王の中で最も高い位に就ける。(詩編89:28)”と言われたからです。つまり、プロトトコス(長子)とは、ナンバーワンであり、源泉であり、源であるという意味です。イエス様は創造において、プロトトコスとなられました。ギリシア哲学の言うように、創造とは天使の業ではなく、イエス様ご自身の御業であるということです。

16節は、15節を補足説明しています。天にあるものも、地にあるものも、見えるものも、見えないものも、王座も、主権も、支配も、権威も、全て御子によって創造されたと書かれていますから、御子は天使たちよりも、諸々の王座や主権や支配よりも優れているということです。当時、ギリシア哲学の影響で天使たちがほとんど神様と同等であるかのように考えられていましたが、ここで、天使とはただの造られた被造物に過ぎず、創造主である御子が、何者にもまさって優れていることが強調されているのです。

また、16節から17節にかけて「御子において、御子によって、御子のために」という言葉が続いていますが、ここで言われているのは、天地万物の創造は、御父だけの御業ではないということです。御父の考えられた青写真に従って、御子の中で、御子を通して、御子のために、そして聖霊と共に万物が創造されたということです。創造とは、御父だけの働きではなく、三位一体なる神様の働きであるということですが、特に御言葉であられるイエス様が創造に関与していることに強調点が置かれています。これは創世記1章1~3節に書かれていることと符合しています。創世記をご覧ください。

創世記1:1~3

“初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。”

ここでは、三位一体の神様の創造の御業が、はっきりと書かれておりまして、パウロの主張と符合するわけです。イエス様が受肉されてこの世に来られる前にも、イエス様は御言葉として存在しておられ、しかも神の創造の御業に参与されたということです。また、1:17節を見ますと、神は、御子にあって、万物を今も支えていると書かれています。宇宙を見ると星々の距離にバランスが与えられ、規則正しく周回する星がありますね。或いは顕微鏡をのぞくと原子があり、その周りに電子があるのを確認できます。これらすべての均衡が絶妙なバランスで崩れずに保たれているのは、御子が万物を支え、保持してくださっているからだというのです。この手紙を読んでいる時から、わずか30年ほど前に十字架で処刑されたイエス・キリストという方とは、どれだけ偉大なお方だったのかと、驚きを隠せなかったでしょう。

このような創造の御業が起こされ、そして、その後も神様の摂理によって万物は統治され、保持され、支えられているわけですが、このすべての神の働きにイエス様は、長子として参与しておられるのを見てきました。ところが、アダムが罪を犯したために人類は堕落し、アダムによって管理されていた被造物も(神の許しの中ではありますが)、虚無に服するようにされてしまいました。従って万物の造り主がこの世に来られた時、何と、この世が造り主に対して敵対するということが起こったのです。ヨハネの福音書1:10~11をご覧ください。

“言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。”

万物はイエス様のために創造されたのに、万物はイエス様に仕えるため、礼拝を捧げるために創造されたのに、創造主であり、産みの親であるイエス様のことを、世は認めることも、受け入れることもしませんでした。世は堕落してしまい、罪と死の力が支配するところとなってしまい、被造物が創造主と断絶されてしまったことを示しています。このような中でイエス様が十字架につかれ、復活され、贖いの御業を成し遂げてくださいました。賛美の後半部分である1:18~20節をご覧ください。

【2】. 再創造の源泉であるキリスト

 “また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。”

18節は、「御子は教会の頭である」という言葉から始まっています。御子はアダムの時のように、全人類の頭ではなく、教会の頭となられました。イエス様は全人類の預言者、王、祭司ではなく、教会の頭であり、シオンの王として油注がれたことに注意しましょう。つまり十字架によって全人類を贖われるのではなく、ご自身の花嫁である教会を贖われるということです。

また、18節の後半を見ますと、死者の中から最初に生まれた方とありますが、この「最初に生まれた方」というのは、先ほども出て来た「プロトトコス(長子)」という言葉が使われています。イエス様は、最初に死者の中から生まれた方でありますけれども、ここも創造の時と同じように、時間的に一番早く復活したというより、名誉や栄誉としての、ナンバーワンとか、根源とか、源となられたという意味です。イエス様は、罪と死の力に勝利されて、ご自身に属する者たちを復活させる、生かす霊となられました。1コリント15:45には次のような御言葉がございます。

“最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。”

人類の肉体の祖先はアダムですが、信仰によって新しく生まれ変わった者たちにとっては、祖先はアダムではなく、第二のアダムであるイエス様に入れ替えられました。なぜなら、旧い人はキリストと共に十字架に死んで、霊によって新しく生かされるようになったからです。キリスト者は、地に属する者ではなく、天に属する者として、生まれ変わったのです。1コリント15:46~47をご覧ください。

“最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。”

イエス様の贖いの恵みとは、古い人に死んで、新しい人に再創造することです。このようにして、創造の際にプロトトコスであったイエス様は、再創造の際にも、やはりプロトトコスになられたということです。

20節には、御子の十字架の贖いによって、その尊い血が生贄として流されたことによって、贖いの代価が完全に支払われ、敵対関係から神との和解に入れられて、平和がもたらされたと書かれています。罪に対する神の怒りを完全に宥めるような、罪の贖いの代価という、途方もない大きな代償を支払うようにできたのは、生贄として献げられた命がまさに神の子の命だったからです。その流された血潮は、それほどの絶大の力を持っていたからです。この点の解釈をめぐって、偽りの教えと、パウロの説く福音とでは、根本的な違いがありました。ギリシア哲学の影響を受けた偽りの教えでは、キリストを、神と人の間の媒介者として認めるものの、それは神の使い捨ての道具としてしか認めず、キリストの十字架において、罪の贖いがなされ、再創造が起こされたという事はどうしても受け入れられませんでした。それに対してパウロは、神の子、受難の僕であるメシアの死を通して、贖いの代価が完全に支払われたと主張したのです。神の子が低められ、神の子が試みにあわれ、打ち砕かれ、辱められ、嘲られたのは、キリスト者が神と和解され、平和が与えられるためであり、キリスト者の罪が赦され、癒されるためであり、キリスト者を神の子として受け入れ、再創造するためであったと主張したのです。

【結論】

 私たちの愛する主イエス・キリストは、万物の創造において長子として参与され、再創造においても長子として参与されました。そのことが意味していることは、神様は、アダムが罪を犯すことを、永遠において既にご存じであられ、創造の時点で既に再創造を見通していたということであり、そして、今も変わらずに万物を統治し、保持しながら、神の安息に向かって贖われた教会である私たちを導いてくださっているということです。

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그는 보이지 아니하는 하나님의 형상이시요

2021년 6월13일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

골로새서 1장 15~20절

서론

오늘은 전도예배입니다. 이처럼 평소에는 오시지 못하는 분과 함께 예배를 드릴 수 있는 은혜를 진심으로 감사드립니다. 오늘의 구절은, 그리스도 찬가라고 불리며, 때때로 크리스마스 예배 등에서 자주 설교되는 성경 부분이기도 합니다. 1장 15~20절까지 시처럼 다듬어져 있기 때문에, 아마도 바울은, 당시 실제로 그리스도를 찬송하기 위해 사용된, 그리고 골로새 사람들에게도 친숙한 찬송가 중에서 약간의 보충적인 가필(加筆)을 더해 그것을 인용한 것으로 생각됩니다. 바울이 왜 이 찬송가를 인용했냐면 이 찬송에는 창조에 있어서 그리스도가 담지자(擔持者: 어떤 이론이나 사상 따위를 가지고 있는 사람)시요, 넘버원이시요, 근원이시요, 시초이시며, 재창조에 있어서도, 역시 그리스도가 재창조의 담지자시요, 넘버원이시요, 근원이시요, 시초이시라는 것이, 분명하게 노래되고 있기 때문이라고 생각됩니다. 골로새교회 사람들의 신앙 생활에서 예수님이 점점 흐릿해져 가는 가운데, 평소 자신들이 부르던 찬양의 해설을 다시 듣고 눈이 번쩍 뜨이는 것 같은 생각을 했음에 틀림이 없었을 것입니다. 지금 이 설교를 듣는 분 가운데서 “「창조」와 「재창조」라고 했는데 뭐지?”라고 생각하시는 분들도 아마 계시지 않을까요? “「창조」는 그렇다고 해도 「재창조」는 무엇인가?”라는 것을 말하자면, 이것은 신학 용어로 「그리스도의 속죄의 역사」를 가리키고 있습니다. 즉 우리가 예수님을 믿고 새롭게 태어나는 것을 의미합니다. 성경 전체에 일관되게 적혀 있는 것은 창조가 하나님의 역사의 완료가 아니라 그 다음에 재창조가 준비되어 있고, 최종적으로 하나님의 안식으로 들어간다는 흐름이 있으며, 이것이 하나님의 섭리에 의해 인도되고 있다는 것입니다. 자연의 것이 먼저 있고, 그 뒤에 영의 것이 있습니다. 첫 번째 아담은 「창조」를 상징하고, 두 번째 아담인 그리스도는 「재창조」를 상징하고 있습니다. 조금 이해하기 어려울 수도 있지만 자연현상에서 예를 들면 처음에는 작고 볼품없는 씨앗으로 뿌려져, 씨앗이 흙 속에 묻혀져 죽으면 싹이 트고 잎이 무성해지며 아름다운 꽃을 피웁니다. 또한, 나비는, 처음에는 보잘것 없는 알에서부터 시작하여 애벌레와 이윽고 죽은 것처럼 번데기가 되는 시기를 거쳐, 부활하는 것처럼 변태하여, 나비가 되어 자유롭게 날아다니는 것입니다. 이와 마찬가지로 인간도 첫 번째 사람은 흙으로 만들어져 땅에 속한 사람이고, 두 번째 사람은 영에 의해 만들어져 하늘에 속한 사람이라는 것입니다. 하나님은 창조를 마치시고, 자신의 사역을 뚝하고 끊으신 것이 아니라, 하나님의 섭리 안에서 창조는 재창조로 향하게 되어 있고, 그리고 마지막으로 하나님의 나라가 완성되는 것입니다. 그래서 하나님은, 만물을 창조하신 후 영원한 시간을 거쳐, 지금도 쉬지 않고 재창조를 위해 만물을 통치하시고, 계속 유지하시며, 일하시며 최종적인 안식을 향해 가고 계십니다.

(1) 창조의 원천이 되시는 그리스도

그러면, 골로새 교회에 이단의 가르침을 불어 넣고 있었다고 생각되는 그 거짓 가르침이란 도대체 어떤 가르침이었을까요? 확실한 것은 알 수 없고, 추측의 영역을 벗어나지 않습니다만, 골로새 지역에도 디아스포라 유대인이 일정 수 있었던 것 같고, 특히 헬라어밖에 할 수 없는 유대인도 많이 있었습니다. 그래서 골로새를 방문하는 거짓 교사들에 의해 헬라 철학을 통해 성경이 해석되고, 헬라 철학을 통해 신앙 생활에 충만함이 주어진다고 가르쳤던 것으로 보입니다. 그리스도인이라면 누구든 성령충만을 원하고 빨리 성장하기를 바라는 것이라고 생각합니다만, 그러한 마음을 이용해서 거짓 교사는 “좋은 방법이 있어요.”등으로 언급하며 접근해 오지 않았을까요. 당시 그리스 철학이 무조건 나쁘다는 것은 아니지만 기독교와 혼합이 되어 성경에 적혀 있는 내용을 넘어 여러 가지 새로운 것을 덧붙인다는 데, 이 가르침의 문제점이 있습니다. 구체적으로 예를 든다면 첫째, 하나님께서 악을 창조하셨을리가 없기 때문에, 악으로 가득 찬 이 세상은 하나님의 창조가 아니라 어떤 영적 존재에 의해 창조되었다고 생각하거나, 혹은 천사에 의해 창조되었다고 생각한 점입니다. 이것은 소위, 「영육이원론」이라고 하는 것입니다. 영의 세계는 하나님이 창조하셨지만 육의 부분은 천사에 의해 창조되었다고 보는 시각입니다. 둘째, 예수・ 그리스도를 하나님의 독생자가 아니라, 하나님과 인간 사이에 있는 수많은 매개자인 천사 중 하나로 여겼다는 점입니다. 이는 삼위윌체 교리를 도저히 받아들일 수 없어, 중보자인 그리스도가 하나님이 아니라, 하나님의 도구에 불과했다는 식으로 예수님을 격하시켜 버렸습니다. 이러한 가르침에 대해, 바울은 어떻게 변증해 나갔을까요? 찬양의 전반부인 골로새서 1장 15~17절을 보시기 바랍니다.

15 그는 보이지 아니하는 하나님의 형상이시요 모든 피조물보다 먼저 나신 이시니

16 만물이 그에게서 창조되되 하늘과 땅에서 보이는 것들과 보이지 않는 것들과 혹은 왕권들이나 주권들이나 통치자들이나 권세들이나 만물이 다 그로 말미암고 그를 위하여 창조되었고

17 또한 그가 만물보다 먼저 계시고 만물이 그 안에 함께 섰느니라

15절은 조금 주의해야 하지만, 예수님은 모든 것이 만들어지기 전에 「만들어진 피조물」이 아니라 아버지 하나님으로부터 「태어난 분」이시라는 것입니다. 「만들어진」이라는 말과 「태어났다」라는 말의 구분에 주의를 기울여야 합니다. 요한복음에서, 빌립은, 예수님께 「아버지를 우리에게 보여 주옵소서」라고 말을 했습니다. 예수님께서는 「나를 본 자는 아버지를 보았거늘 어찌하여 아버지를 보이라 하느냐」라고 말씀하셨습니다. 예수님은 하나님의 본질의 발현이라는 것입니다. 이어서, 「모든 피조물보다 먼저 나신 이시니」라는 말은 헬라어로 「포로토토코스」라는 말로 「장자」라는 뜻입니다. 이 장자라는 말은, 시간적인 넘버원이 아니라, 시간과는 관계없는, 명예나 영예로서의 담지자(擔持者: 어떤 이론이나 사상 따위를 가지고 있는 사람)라든가, 넘버원이라든가, 근원이라든가 시초라고 하는 의미입니다. 그 말은 구약성경에서 이 말이 여러 번 사용되었는데, 하나님은 이새의 아들 중, 막내 다윗을 가리키며 「내가 또 그를 장자로 삼고 세상 왕들에게 지존자가 되게 하며 (시편 89편 27절)」라는 말씀을 하셨기 때문입니다. 즉 「포로토토코스(장자)」란 담지자이며, 넘버원이며, 근원이며, 시초라고 하는 의미입니다. 예수님은 창조에 있어서, 「포로토토코스」가 되셨습니다. 헬라어 철학이 말하는 것처럼, 창조란 천사의 역사가 아니라 예수님 자신의 역사라는 것입니다.

16절은 15절을 보충 설명하고 있습니다. 「하늘과 땅에서 보이는 것들과 보이지 않는 것들과 혹은 왕권들이나 주권들이나 통치자들이나 권세들이나 만물이 다 그로 말미암고 그를 위하여 창조되었고」라고 쓰여져 있기 때문에, 아들은 천사들보다, 여러 왕권들이나 주권들이나 통치자들이나 권세들보다 뛰어나다는 것입니다. 당시 헬라 철학의 영향으로 천사들이 거의 하나님과 동등한 것처럼 여겨졌는데, 여기서 천사란 단지 만들어진 피조물에 불과하고 창조주인 아들이 누구보다 뛰어나다는 것이 강조되고 있습니다.

또, 16절부터 17절에 걸쳐 「그에게서, 그로, 그를, 그가, 그 안에」라는 말이 계속되고 있습니다만, 여기서 말하는 것은, 천지 만물의 창조는, 아버지만의 사역이 아니라는 말입니다. 아버지가 생각하신 청사진에 따라, 그 안에서, 그로 말미암아, 그를 위하여, 그리고 성령과 함께 만물이 창조되었다는 것입니다. 창조란, 아버지만의 역사가 아니라 삼위일체 하나님의 역사라는 것인데, 특히 말씀이신 예수님이 창조에 관여하고 있다는 것에 강조점이 놓여 있습니다. 이는 창세기 1장 1~3절에 적혀 있는 것과 부합합니다. 창세기를 보시겠습니다.

1태초에 하나님이 천지를 창조하시니라

2 땅이 혼돈하고 공허하며 흑암이 깊음 위에 있고 하나님의 영은 수면 위에 운행하시니라

3 하나님이 이르시되 빛이 있으라 하시니 빛이 있었고

여기서는 삼위윌체 하나님의 창조의 역사가, 분명하게 적혀 있어서, 바울의 주장과 부합하는 것입니다. 예수님이 성육신하셔서 이 세상에 오시기 전에도, 예수님은 말씀으로 존재하셨고, 게다가 하나님의 창조의 역사에 참여하셨다고 합니다. 또 1장 17절을 보면 「만물이 그 안에 함께 섰느니라」라고 쓰여 있습니다. 우주를 보면 별과 별들의 거리에 균형이 잡혀 규칙적으로 주위를 도는 별이 있습니다. 또는 현미경을 들여다보면 원자가 있고, 그 주위에 전자가 있는 것을 확인할 수 있습니다. 이 모든 균형이 절묘한 균형으로 무너지지 않고 유지되고 있는 것은 아들이 만물을 지탱하고, 유지하고 있기 때문이라는 것입니다. 이 편지를 읽고 있을 때부터, 불과 30여 년 전 십자가에서 처형된 예수・그리스도라는 분이, 얼마나 위대한 분이셨을지 놀라움을 감추지 못했을 것입니다.

이러한 창조의 역사가 일어나고, 그리고 그 후에도 하나님의 섭리에 의해 만물은 통치되고, 유지되고, 지탱되고 있는데, 이 모든 하나님의 역사에 예수님은, 장자로서 참여하셨다는 것을 보았습니다. 그런데, 아담이 죄를 지었기 때문에 인류는 타락했고, 아담에 의해 관리되던 피조물도(하나님의 허락 가운데이긴 하지만) 허무한 데 굴복하게(로마서 8장 20절) 되었습니다. 따라서 만물의 창조주가 이 세상에 오셨을 때, 놀랍게도 세상이 창조주를 알지 못하고 영접하지 아니하는 일이 벌여졌습니다. 요한복음 1장 10,11절을 보시기 바랍니다.

10 그가 세상에 계셨으며 세상은 그로 말미암아 지은 바 되었으되 세상이 그를 알지 못하였고

11 자기 땅에 오매 자기 백성이 영접하지 아니하였으나

만물은 예수님을 위해 창조되었고, 만물은 예수님을 섬기기 위해, 예배를 드리기 위해 창조되었는데 창조주이자 친부모인 예수님을 세상은 인정하지도, 받아들이지도 않았습니다. 세상은 타락해 버리고, 죄와 죽음의 힘이 지배하는 곳이 되어 버렸고, 피조물이 창조주와 단절되어 버렸음을 보여줍니다. 이런 가운데 예수님께서 십자가에 못 박히신 후, 부활하시고 구속의 역사를 이루셨습니다. 찬양의 뒷부분인 1장 18~20절을 보시기 바랍니다.

(2) 재창조의 원천인 그리스도

18 그는 몸인 교회의 머리시라 그가 근본이시요 죽은 자들 가운데서 먼저 나신 이시니 이는 친히 만물의 으뜸이 되려 하심이요

19 아버지께서는 모든 충만으로 예수 안에 거하게 하시고

20 그의 십자가의 피로 화평을 이루사 만물 곧 땅에 있는 것들이나 하늘에 있는 것들이 그로 말미암아 자기와 화목하게 되기를 기뻐하심이라

18절은, 「그는 몸인 교회의 머리시라」라는 말로 시작하고 있습니다. 아들은 아담 때처럼 온 인류의 머리가 아니라 교회의 머리가 되셨습니다. 예수님은 온 인류의 선지자, 왕, 제사장이 아니라 교회의 머리이시자 시온의 왕으로 기름부어졌음에 주의합시다. 즉 십자가의 구속의 역사로 온 인류를 속죄하는 것이 아니라 자신의 신부인 교회를 속죄하는 것입니다.

또, 18절의 후반을 보면, 「죽은 자들 가운데서 먼저 나신 이시니」라고 되어 있습니다만, 이 「먼저 나신 분」이라고 하는 것은, 조금 전에도 나온 「포로토토코스(장자) 」라고 하는 말이 사용되고 있습니다. 예수님은 「죽은 자들 가운데서 먼저 나신 이」시지만, 이것도 창조 때와 마찬가지로 시간상 가장 빨리 부활했다기보다 명예나 영예로서의 담시자시요, 넘버원이시요, 근원이시며 시초가 되셨다는 의미입니다. 예수님은 죄와 죽음의 권세에 승리하셔서, 자신에게 속한 자들을 부활시키는, 살리는 영이 되셨습니다. 고린도전서 15장 45절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다.

기록된 바 첫 사람 아담은 생령이 되었다 함과 같이 마지막 아담은 살려 주는 영이 되었나니

인류의 육의 조상은 첫 사람 아담이지만, 믿음으로 새롭게 태어난 자들에게 조상은 첫 사람 아담이 아니라 제2의 아담이신 예수님으로 바뀌었습니다. 왜냐하면 옛 사람은 그리스도와 함께 십자가에 죽고, 영으로 거듭났기 때문입니다. 그리스도인은 땅에 속한 자가 아니라, 하늘에 속한 자로 거듭난 것입니다. 고린도전서 15장 46,47절을 참고하시기 바랍니다.

46 그러나 먼저는 신령한 사람이 아니요 육의 사람이요 그 다음에 신령한 사람이니라

47 첫 사람은 땅에서 났으니 흙에 속한 자이거니와 둘째 사람은 하늘에서 나셨느니라

예수님의 속죄의 은혜란, 첫 사람이 죽고 새로운 사람으로 재창조되는 것입니다. 이와 같이, 창조시에 「포로토토코스」였던 예수님은, 재창조시에도 역시 「포로토토코스」가 되었다는 것입니다.

20절에는, 아들의 십자가의 구속의 역사로, 그 흘리신 보혈이 제물로 바쳐짐으로, 속죄의 대가가 온전히 지불되고, 하나님과의 적대관계에서 「그의 십자가의 피로 화평을 이루사」라고 적혀 있습니다. 죄에 대한 하나님의 분노를 완전히 달래는 듯한, 죄에 대한 속죄의 대가라는 터무니없는 큰 대가를 치를 수 있게 된 것은, 제물로 바쳐진 목숨이 바로 하나님의 아들의 목숨이었기 때문입니다. 그 흘리신 보혈은 그 정도의 절대적인 힘을 가지고 있었기 때문입니다. 이 점의 해석을 놓고, 거짓 가르침과 바울이 설파하는 복음 사이에는, 근본적인 차이가 있었습니다. 헬라 철학의 영향을 받은 거짓 가르침에서는, 그리스도를, 하나님과 사람 사이의 매개자로 인정하지만, 그것은 하나님의 일회용 도구로만 인정했고, 그리스도의 십자가에서 죄의 속죄가 이루어지고, 재창조가 일어났다는 것은 도저히 받아들일 수 없었습니다. 이에 바울은, 하나님의 아들, 고난의 종인 메시아의 죽음을 통해, 속죄의 대가가 온전히 지불됐다고 주장한 것입니다. 하나님의 아들이 낮아지시고, 하나님의 아들이 시험을 받으시고, 깨어지고, 능욕을 당하고, 비웃음을 받았던 것은 그리스도 안에 있는 자가 하나님과 화평 하기 위해서이며, 그리스도 안에 있는 자의 죄가 용서되고, 치유되기 위함이며, 그리스도 안에 있는 자를 하나님의 자녀로 받아들이고 재창조하기 위해서였다고 주장하는 것입니다.

결론

우리가 사랑하는 주 예수・그리스도는, 만물의 창조에 있어서 장자로 참여하셨고, 재창조에 있어서도 장자로 참여 하셨습니다. 그것이 의미하는 것은, 하나님께서는, 아담이 죄를 짓는 것을, 영원 가운데 이미 알고 계시며, 창조의 시점에서 이미 재창조를 내다보고 계셨다는 것이고, 그리고 지금도 변함없이 만물을 통치하시고, 유지하시면서 하나님의 안식을 향해 속죄 받은 교회인 우리를 인도하고 계신다는 것입니다.

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