2021年06月06日「御子の支配下に移されて 아들의 나라로 옮기셨으니」

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御子の支配下に移されて 아들의 나라로 옮기셨으니

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
コロサイの信徒への手紙 1章9節~14節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:9こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、
1:10すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。
1:11そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、
1:12光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。
1:13御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。
1:14わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 1章9節~14節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 私たちキリスト者の信仰生活における幸いの根拠とは、私たちの信じている神様の、その完全さにあると言うことができるでしょう。神の完全さは、ご自身の栄光を外に表すことによって知らされます。ソビエトのガガーリンは、1961年人類初の、宇宙への人が乗り込んでの有人飛行という快挙を成し遂げました。彼は、宇宙船から見た地球の、あまりにも美しい姿を見て「地球は青かった」と言い残しました。このように私たちが、神様の創造された被造世界に目を向ける時に、自然の美しさ、自然の輝きと彩り、そのスケールの大きさと崇高さに、神様の栄光と威厳を知らされるのであります。しかし、それにもまして、神の栄光は、特に恵みの領域において、さらにはっきりと現されました。神の栄光はイスラエルの民に昼は雲の柱、夜は火の柱として臨在され、イスラエルの荒野での40年間の旅路を、着物は古びず、足に履いた靴もすり減ることなく導いてくださいました。この栄光は幕屋と神殿を満たし、特にこの栄光は、御子イエス・キリストの中に満ち現れました。イエス・キリストを通して、目の見えない者が見えるようになり、耳の聞こえない者が聞こえるようになり、足の不自由な者が躍り上がって立ち上がるようにされました。このような神の自己啓示によって、私たちは神の栄光を目撃し、神の完全さを知り、幸いが心の奥深いところから満ち溢れてくるのであります。聖書の中で、主イエスはご自身について、「わたしは、世の光である。(ヨハネ8:12)」と言われました。自然界の光そのものが神様ではありませんが、光のイメージを通して、神様がどのような方なのかを教えてくださっているのです。つまり、自然界の光が、知識と純潔と喜びを象徴しているように、神様は、霊的な世界における光なのです。神は敬虔な者たちの光であり、神の御顔と神の御言葉は、私たちの人生を照らしてくださいます。キリストの内に暗さは全くなく、キリストの中で充満な光として神の栄光が現わされました。このような神の栄光が燦々と輝いているのを悟る時に、私たちは、心からの平安と幸いを感じることができるのであります。私たちの信仰生活の目標とは、まさにこの点にあるのではないでしょうか。即ち、私たちの霊的な目が開かれて、御言葉を通して悟りが与えられて、神様のことをもっと深く知り、感謝と喜びに満ちた歩みへと成長することです。本日の箇所は、パウロが、まだ一度も会ったことのないコロサイの聖徒のために、とりなしの祈りをしている場面ですが、パウロは、世が与える知識によってではなく、神様によって与えられる知識によって、霊の目が開かれるようにと、とりなしています。1:9節をご覧ください。

【1】. 何によって充満されるのか

 “こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、”

パウロはまだ顔を一度も見たことがないコロサイの聖徒のためにお祈りしていますよ。「どうか、霊による」という言葉から具体的なパウロのとりなしの祈りが始まっています。「霊によるあらゆる知恵と理解によって」というのは、聖霊によって知恵と理解が与えられるようにという意味です。「神の御心を十分悟り」という言葉は、直訳しますと「神の御心の知識で充満されるπληρόωように」となります。共同訳聖書は、少し意訳され過ぎているように思います。最近、若い人の言葉で、「リア充」という言葉がありますが、聞いたことがありますでしょうか。充満されるようにとは、まさにリアルに充実できるようにという意味です。しかし、パウロが言うには充満は充満でも人間の力によって充満されるのではありません。自らの努力によってですとか、哲学を学ぶことによってですとか、禁欲的でストイックな節制をすることによって、充満されるのではありません。ギリシア語をよく見ますと「神の御心の知識で充満されるように」と受け身になっています。つまりパウロは神様によって、聖霊によって、充満されなさいと言っているのが分かります。ここが本日の大切なポイントになります。コロサイ書の2:8に「哲学」という言葉が出てまいります。余談になりますが、ギリシア語で哲学は「フィロソフィア」と言います。この語源を調べてみると、フィリアが「愛する」で、ソフィアが「知恵」ですから、「知恵を愛する」という意味なんですね。恐らく当時のインテリ層の間で流行していたことの一つとして、哲学を学んで、どのようにしたら、人生がリア充になれるのか、追い求めていたのではと思われます。そして、偽りの教師たちが、それをコロサイの聖徒たちに吹き込んでいたのでしょう。これは、ガラテヤ書に書かれているのと少し似たような状況だったと思われます。私の想像ですが、彼らにとって、罪の赦しというのは、キリストの十字架によって与えられたということを確かに信じていましたが、それでは、その次に、どのようにして、人生に解放が与えられるのか、どのように進化していき、成長していき、実際にリアルな充満が得られるのかという設問に進んで行ったのでないかと思われます。そして、コロサイ地方に後から来た、偽りの教師が、ちょっと、ちょっと、「充満の秘訣について」、「贖いの秘訣について」、「神の知識の秘訣について」、教えて差し上げましょう。などとひそひそ話で触れ回るために、人々はだんだん、そのような教えに引きずられて行き、エパフラスが伝えた福音が色褪せて行ったのではないでしょうか。コロサイの聖徒たちにとって、罪の赦しとは、信仰生活の一番初歩的な教えに過ぎないものであって、それは陳腐なワンステップにしか見えなかったということです。この点においてパウロの考え方とは、大きな違いがありました。パウロによれば、キリスト者は回心した瞬間から、天の全てのものを有している、持ち合わせていると教えました。ただ、それは見えないだけに過ぎないのであって、もう既にすべてのものを持ち合わせていると、言っているのです。そのことを、聖霊による「知恵」、「理解」、「神の知識の充満」を受けて、悟りなさいと、とりなしています。偽りの教師たちの「充満になりますよ」という信徒たちをたぶらかした詐欺的な言葉の響きが、パウロによって正当に取り扱われ、無害化されているのです。それでは神を知るとは何か?神の御心の知識の充満とは、一体何か?という質問が出てまいります。一つの参考聖句として、ヨハネによる福音書17:3をご覧ください。

“永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。”

ここには、永遠の命とは、哲学を通して充満を知る事、哲学を通して神を知ることとは書いてありませんね。ところで、イエス・キリストを知らない人は中々いないでしょう。だからと言ってすべての人がイエス様を信じている訳ではありません。ヨハネの福音書に書いてある神を「知る」という言葉は、知識的に知っていることを意味するのではありません。そのような薄っぺらなものではなく、交わりを通して知る、聖霊によって知るという意味です。簡単に言うと、もっと濃く知るという意味です。「神を知る」とは、哲学によって表面的に知ることではありません。神を知ることは聖霊の臨在によって照らされることであり、もっと言えば、聖霊によってキリストと結合されることを意味するのです。引き続いて10~12節をご覧ください。

【2】. 主に相応しく歩むことができるのか

 “すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。”

この長い文章の中に、動詞は、実は一つしかありません。それは「主に従って歩みなさい!」という言葉です。新しく出た聖書協会共同訳では、翻訳が訂正されていますが「主に相応しく歩みなさい」という意味になっています。そしてこの動詞に残りの4つの分詞がかかっている訳です。即ち「実を結び」、「深く知るように」「強められ」「感謝するように」は、全て、「相応しく歩みなさい」という一つの動詞にかかっています。ですから、たとえば、最初の「実を結び」に着目すると「あらゆる善い業を行って実を結びつつ」、主に相応しく歩みなさいと言っています。落としどころは「主に相応しく歩みなさい」ということです。パウロは聖霊による知恵と知識が、必ず善き業という行いに結実することを知っていました。ですから、もしコロサイの人たちが得た知恵と知識が、哲学によったものであるなら、そのような人々は必ず高慢になります。少数のエリートだけに許されている神の秘密について知ることができたということで、特権意識を持つようになり、一方で知ることが出来ない人々は神の国の教会の中で、二流市民にでもなったような差別と屈辱を感じることになるでしょう。反対に、もしコロサイの人たちが得た知恵と知識が、聖霊によったものであるなら、神さまがまず、罪びとである自分のことを愛してくださったということを深く悟り、涙を流して感動し、感謝と喜びによって自分も兄弟姉妹を愛するように変えられるのです。そして、愛の業を通して聖霊の実が豊かに結ばれるのです。主に相応しく歩みなさい!この一つの動詞に4つの分詞が落とし込められている訳です。このことは何を意味するのかというと、パウロはコロサイの人々に対して「あなた方は、主イエスに相応しく歩むことができる!」という前提から、これらの勧めを語っているということになります。なぜここまで強気で語ることが出来るのでしょうか。コロサイの人々は、この言葉を聞いて、戸惑ったかもしれません。「いや、私は罪の赦しは受けましたけど、それ以外はまだ、何も頂いておりません…」しかし、パウロは、そうではないと言います。もしイエス・キリストを信じ受け入れたなら、どんなに自分は未熟なキリスト者だと考えたとしても、既にキリストを頭とする体に組み込まれているのです。キリストの体に組み込まれているなら、キリストに相応しく歩んでいくことができるのです。

 大リーグのエンゼルスの大谷選手が2018年に、肘を痛めてしまいました。思うようにボールが投げられなくなりました。その後、トミー・ジョン手術を受けましたが、これは、肘の傷ついた腱を、補強する手術です。手術後、時間の経過と共に、動かなかった神経が次第に回復していき、血液が良く循環し、肘の筋肉が頭の命令の通りに動くようになっていきました。そして今シーズンは、打者としても、投手としても大活躍しています。完全復活を果たしました。このように、たとえ今は、肘の腱が傷ついて、思うように動かなかったとしても、もう既に体の一部として取り込まれているのです。たとえ半身不随であったとしても、からだの一部として取り込まれているのであります。頭であるキリストに結合されているのです。このことが大事です。ですから、血液が循環し、神経が少しずつ回復され、故障した部分が頭との交わりを通して、徐々にではありますが、主イエスに相応しく歩むようにされるということです。

従って、キリスト者の信仰生活というのは、次のようなものではありません。誤解しないでくださいね。それは、神様が最初に私たちの過去の罪だけを赦してくださり、これからどのように生きるのかは、私たちの意志に従って勝手に生きるようにと、放置することではないということです。そうではなくて、キリスト者の信仰生活とは、信者個人の戦いではなくて、神様が頭としてその現場に介入してくださり、聖徒一人ひとりが必ず愛の実を結ぶことができるように、神様が最後まで責任を持って、導いてくださるのです。神さまは私たちが、どれほど罪に傾きやすい存在であり、私たちの意志がどれほど弱いのかを、よくよくご存じで、父親として最後まで責任を持って私たちを導いてくださるのです。続いて13~14節をご覧ください。

【3】. 贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

 “御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。”

御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に、つまりキリストの王国に移してくださいました。罪に支配された僕から、神に支配された僕へと移されました。何と素晴らしいことでしょうか。しかし、神の統治がこの地上に生きるキリスト者たちの中で、直ちに、完全に実現されるわけではありません。依然として神の王国は未来的であり、キリスト者はその王国にある所有物である、永遠の命を完全に受け取ることはできません。それだけでなく、神様と、顔と顔を合わせて対面することも、天に積まれている報いを分配されることも、私たち自身が栄化されることも、一言で言えば、救いが完成されることをこの地上において完全に享受することはできません。しかし、コロサイの聖徒たちには気づいていない点でありますが、目に見えないことは、即ち、存在しないこととイコールではないということです。キリストの働きを通じて、この王国は既に、ここ地上にも確かに樹立されていて、キリスト者にとって王国は既に到来しており、王国は現在的であり、キリスト者は既に、この地において天国の市民であり、天国の参加者である、天国の前味を味わっているのであります。また、キリストは王の王、主の主であり、ご自分に属する者たちを王として、聖なる祭司として見做してくださっているのです。このことは、信仰の目によってでしか見ることができず、聖霊の照明によってでしか悟ることができない内容ですが、パウロはむしろ、キリストの中に隠されている真の存在について強調しているのです。私たちはイエス・キリストによって法的に罪の赦しを宣言されましたけれども、実際においても、既に贖い金が支払われ、罪の支配から解放され、神の子、光の子として天に受け入れられ、頭であるキリストと結合されているのです。その点に目を留めなければなりません。そこに目が開かれる時に、私たちは幸いを感じ、礼拝を中心とした、感謝と喜びの信仰生活へ歩み出すことができ、兄弟姉妹の交わりを通して愛の実を結んでいくことができるのです。

【結論】

 福音とは、キリストの十字架による完全な罪の贖いの成就でございます。私たちが救われるために、これ以上、何も付け加える必要はありませんし、付け加えてもなりません。イエス様の十字架により、神の国は既に到来し、私たちは既に天国の市民であり、天国の参加者であり、目には見えませんがイエス・キリストに結ばれていて、この世にあって、預言者として、王として、祭司として遣わされているのです。私たちは聖霊によって日々、霊の目が開かれ、キリストの中に隠されている私たちの真の存在について知ることができるよう祈ってまいりましょう。

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아들의 나라로 옮기셨으니

2021년 6월6일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

골로새서 1장 9~14절

서론

우리 그리스도인의 신앙생활의 복됨의 근거는, 우리가 믿고 있는 하나님의 온전하심에 있다고 말할 수 있을 것입니다. 하나님의 온전하심은, 자신의 영광을 계시하심으로써 알려집니다. 소련의 가가린은, 1961년 인류 최초로, 사람이 탑승한 유인 비행으로 우주 비행을 성공했다는 쾌거를 이루었습니다. 그는 우주선에서 본 지구의 너무나 아름다운 모습을 보고 “지구는 푸르다”라고 말했습니다. 이렇게 우리가 하나님의 창조된 피조세계에 눈을 돌릴 때 자연의 아름다움, 자연의 빛과 채색, 그 스케일의 크기와 숭고함에 하나님의 영광과 위엄을 알게 되는 것입니다. 더군다나 하나님의 영광은, 특히 은혜의 영역에서 더욱 뚜렷이 드러났습니다. 하나님의 영광은 이스라엘 백성에게 낮에는 구름기둥, 밤에는 불기둥으로 임재하셨으며 이스라엘 백성의 광야에서의 40년 여정 가운데, 옷은 헤어지지 않았고 발에 신은 신발도 닳지 않게 인도해 주셨습니다. 이 영광은 장막과 성전에 충만했고, 특히 이 영광은 아들이신 예수・그리스도 안에 충만했습니다. 예수・그리스도를 통해 앞이 보이지 않는 자가 보이게 되고, 귀가 들리지 않는 자가 들리게 되며, 다리가 불편한 자가 일어서게 되었습니다. 이러한 하나님의 자기 계시로 우리는 하나님의 영광을 목격하고 하나님의 온전함을 알게 되며, 행복한 감정이 마음 속 깊은 곳에서 충만하게 되는 것입니다. 성경에서 주 예수님은 자신에 대해 요한복음 8장 12절에서「나는 세상의 빛이니」라고 하셨습니다. 자연계의 빛 자체가 하나님은 아니지만, 빛의 이미지를 통해 하나님이 어떤 분인지를 알려주시는 것입니다. 즉 자연계의 빛이 지식과 순결과 기쁨을 상징하는 것처럼 하나님은 영적인 세계의 빛입니다. 하나님은 경건한 자들의 빛이시고, 하나님의 얼굴과 하나님의 말씀은 우리의 삶을 비춰주십니다. 그리스도 안에 어두움은 전혀 없고, 그리스도 안에서 충만한 빛으로 하나님의 영광이 드러났습니다. 이러한 하나님의 영광이 찬란하게 빛나고 있음을 깨달을 때 우리는 마음으로부터의 평안과 행복을 느낄 수 있는 것입니다. 우리 신앙생활의 목표란, 바로 이 점에 있는 것이 아닐까요? 즉 우리의 영적인 눈이 열리고, 말씀을 통해 깨달음이 주어져, 하나님을 더 깊이 알고, 감사와 기쁨이 가득한 삶의 걸음으로 성장하는 것입니다. 오늘의 구절은, 바울이 아직 한 번도 만난 적이 없는 골로새 성도들을 위해 중보 기도를 하는 장면인데, 바울은 세상에서 얻은 지식에 의해서가 아니라, 하나님께서 주시는 지식에 의해서, 영의 눈이 열리도록 기도 하고 있습니다. 1장 9절을 보시기 바랍니다.

(1) 무엇에 의해서 충만해지는 것인가

이로써 우리도 듣던 날부터 너희를 위하여 기도하기를 그치지 아니하고 구하노니 너희로 하여금 모든 신령한 지혜와 총명에 하나님의 뜻을 아는 것으로 채우게 하시고

바울은 아직 얼굴 한 번 본 적 없는 골로새 성도들을 위해 기도하고 있습니다. 「모든 신령한」 이라는 말에서 구체적인 바울의 중보 기도가 시작되고 있습니다. 「모든 신령한 지혜와 총명에」라는 것은 성령에 의해 지혜와 총명이 주어지라는 뜻입니다. 「하나님의 뜻을 아는 것으로 채우게 하시고」라는 말은 직역하면 「하나님을 아는 지식으로 충만하게πληρόω」가 됩니다. 공동역 성경(일본어 성경)은 조금 의역된 것 같습니다. 최근 젊은 사람의 말로 「리얼충(리얼, 현실의 생활에 충실한 사람을 지칭하는 일본의 인터넷커뮤니티에서 발생된 인터넷 속어이다)」이라는 말이 있습니다만, 들어보신 적이 있으십니까? 충만해지라는 것은 바로 리얼에 충실하라는 뜻입니다. 그러나 바울이 말하길 충만은, 인간의 힘에 의해 충만되는 것이 아닙니다. 스스로의 노력에 의해서라든가, 철학을 배움에 의해서라든가, 금욕적이고 스토익한 절제를 함으로써 충만해지는 것이 아닙니다. 헬라어를 자세히 보면 「하나님의 뜻을 아는 것으로 채우게 하시고」라고 수동적으로 되어 있습니다. 즉 바울은 하나님으로 말미암아 성령으로 충만하라고 말하는 것을 알 수 있습니다. 이것이 오늘의 중요한 포인트입니다. 골로새서의 2장 8절에 「철학」이라는 단어가 나옵니다. 여담이지만 헬라어로 철학은 「필로소피아」라고 합니다. 이 어원을 조사해 보면 「필리아」가 「사랑하다」고 소피아가 「지혜」니까 「지혜를 사랑한다」라는 뜻이네요. 아마 당시의 인텔리층 사이에서 유행하고 있던 것의 하나로서 철학을 배워, 어떻게 하면, 인생이 리얼충이 될 수 있을지, 추구하고 있었던 것은 아닐까 생각됩니다. 그리고 거짓 교사들이 그것을 골로새 성도들에게 불어넣고 있었을 것입니다. 이것은 갈라디아서에 쓰여져 있는 것과 조금 비슷한 상황이었다고 생각됩니다. 제 상상이지만, 그들에게 죄의 용서라는 것은, 그리스도의 십자가에 의해 주어졌다는 것을 분명히 믿었지만, 그렇다면 그 다음에 어떻게 삶에 해방이 주어질 것인가, 어떻게 진화해 나가고 성장해 나가며, 실제로 사실적인 충만함을 얻을 수 있는가 하는 물음을 만들어 나아간 것이 아닐까 생각됩니다. 그리고 골로새 지방에 나중에 온 거짓 교사가 “저기, 잠깐만요, 충만의 비결에 대하여”, “속죄의 비결에 대하여”, “하나님의 지식의 비결에 대하여”, 알려드리겠습니다. 이런 비밀스러운 이야기로 접근했고, 사람들은 점점 그런 가르침에 끌려가고, 에바브라가 전한 복음이 빛바래져 간 것은 아닐까요. 골로새 성도들에게 죄 용서란 신앙생활의 가장 초보적인 가르침에 불과한 것이었고, 그것은 진부한 한 단계로밖에 보이지 않았다는 것입니다. 이 점에 있어서 바울의 사고방식과는 큰 차이가 있었습니다. 바울에 따르면 그리스도인은 회심한 순간부터 하늘의 모든 것을 가지고 있다고 가르쳤습니다. 단지 그것은 보이지 않는 것에 지나지 않는 것이지, 이미 모든 것을 가지고 있다고 말하고 있는 것입니다. 그것을 성령에 의한 「지혜」, 「이해」, 「하나님을 아는 지식의 충만」을 받아 깨우치라고 말하고 있는 것입니다. 거짓 교사들의 “충만해질 거예요”라는 성도들을 홀리는 사기성 언사의 울림이, 바울에 의해 정당하게 다뤄지고 무해화되고 있는 것입니다. 그러면 하나님을 안다는 것은 무엇입니까? 하나님의 뜻을 아는 지식의 충만함이란 무엇인가? 라는 질문이 나옵니다. 한 가지 참고 성구로 요한복음 17장 3절을 보시기 바랍니다.

영생은 곧 유일하신 참 하나님과 그가 보내신 자 예수 그리스도를 아는 것이니이다

여기에는, 영원한 생명이란, 철학을 통해 충만함을 아는 것, 철학을 통해 하나님을 아는 것이라고 쓰여 있지 않습니다. 그런데 예수・그리스도를 모르는 사람은 좀처럼 없을 것입니다. 그렇다고 모든 사람이 예수님을 믿은 것은 아닙니다. 요한복음에 적혀 있는 하나님을 「안다」는 말은, 지식적으로 알고 있음을 의미하는 것이 아닙니다. 그런 얄팍한 것이 아니라 교제를 통해 안다, 성령으로 안다는 뜻입니다. 쉽게 말해서 더 깊게 안다는 뜻입니다. 「하나님을 안다」는 것은, 철학에 의해 표면적으로 알 수 있는 것이 아닙니다. 하나님을 아는 것은 성령의 임재에 의해 조명되어 지는 것이고, 더 말하면, 성령에 의해 그리스도와 연합하는 것을 의미하는 것입니다. 이어서 10~12절을 보시겠습니다.

(2) 주께 합당하게 행할 수 있는가

10 주께 합당하게 행하여 범사에 기쁘시게 하고 모든 선한 일에 열매를 맺게 하시며 하나님을 아는 것에 자라게 하시고

11 그의 영광의 힘을 따라 모든 능력으로 능하게 하시며 기쁨으로 모든 견딤과 오래 참음에 이르게 하시고

12 우리로 하여금 빛 가운데서 성도의 기업의 부분을 얻기에 합당하게 하신 아버지께 감사하게 하시기를 원하노라

이 긴 문장 안에 동사는 사실 하나밖에 없습니다. 그것은 「합당하게 행하여」라는 말입니다. 그리고 이 동사의 나머지 4개의 분사(동사가 자기의 역할을 나눠서 형용사 역할을 하는 것을 분사라고 한다)가 걸려 있는 것입니다. 즉 「맺게 하시며」「자라게 하시고」「능하게 하시며」「감사하게 하시기를」는 모두 「합당하게 행하여」라는 하나의 동사에 달려 있습니다. 그래서 예를 들어 첫 번째 「열매를 맺게 하시며」에 착안하면 「모든 선한 일에 열매를 맺으면서」주께 합당하게 행하라는 것입니다. 포인트는「주께 합당하게 행하라」는 것입니다. 바울은 성령에 의한 지혜와 지식이 반드시 선한 일이라는 행실로 결실을 맺음을 알고 있었습니다. 그래서 만약 골로새 사람들이 얻은 지혜와 지식이 철학에 따른 것이라면 그런 사람들은 반드시 교만해집니다. 소수 엘리트에게만 허용되는 하나님의 비밀에 대해 알게 되었다는 것으로 특권의식을 갖게 될 것이며, 한편, 알 수 없는 사람들은, 하나님의 나라인 교회 안에서 이류 시민이라도 된 듯한 차별과 굴욕을 느끼게 될 것입니다. 반대로 만약 골로새 사람들이 얻는 지혜와 지식이 성령에 의한 것이라면, 하나님께서 먼저, 죄인인 자신을 사랑해주셨다는 것을 깊이 깨닫고 눈물을 흘려 감동하고 감사와 기쁨에 따라 자신도 형제자매를 사랑하도록 변할 수 있는 것입니다. 그리고 사랑의 행실을 통해 성령의 열매가 풍성하게 맺어지는 것입니다. 「주님께 합당하게 행하라!」이 하나의 동사에 4개의 분사가 담겨져 있는 것입니다. 이 일은 무엇을 의미하는가 하면, 바울은 골로새 사람들에게 「너희들은 주께 합당하게 행할 수 있다」는 전제에서 이러한 권면을 말하고 있다는 것이 됩니다. 어떻게 이렇게까지 강경하게 말할 수 있을까요? 골로새 사람들은 이 말을 듣고 당황했을지도 모릅니다. “아니, 저는 죄 용서는 받았지만 그 외에는 아직 아무것도 받지 못했습니다…”그러나 바울은 그렇지 않다고 말합니다. 만약 예수 그리스도를 믿고 받아들였다면 아무리 자신은 미숙한 그리스도인이라고 생각했더라도 이미 그리스도를 머리로 하는 몸에 편입되어 있는 것입니다. 그리스도의 몸에 연합되어 있다면 그리스도께 합당하게 행할 수 있는 것입니다.

메이저리그 엔젤스의 오타니 선수가 2018년에, 팔꿈치를 다쳤습니다. 생각대로 공을 던질 수 없게 되었습니다. 그 후 토미 존 수술을 받았는데, 이것은 팔꿈치의 손상된 인대를 다른 곳에 있는 힘줄로 교체해주는 수술입니다. 수술 후 시간이 지남에 따라 움직이지 않던 신경이 점차 회복되어 혈액이 잘 순환되고 팔꿈치 근육이 머리의 명령대로 움직이게 되었습니다. 그리고 이번 시즌에는 타자로서도, 투수로서도 맹활약하고 있습니다. 완전 부활을 이루었습니다. 이와 같이, 비록 지금은 팔꿈치 힘줄이 손상되어, 생각대로 움직이지 않는다고 해도, 이미 몸의 일부로서 받아들여지고 있는 것입니다. 비록 반신불수일지라도, 몸의 일부로 받아들여지고 있는 것입니다. 머리 되신 그리스도께 연합되어 있는 것입니다. 이 일이 중요합니다. 그래서 혈액이 순환되면서, 신경이 조금씩 회복되고, 고장 난 부분이 머리 되신 예수님과의 교제를 통해, 서서히나마 주 예수님께 합당하게 행할 수 있게 된다는 것입니다.

따라서, 그리스도인의 신앙생활은 다음과 같은 것이 아닙니다. 오해하지 마십시오. 그것은 하나님께서 처음에 우리의 과거 죄만 용서해 주시고, 앞으로 어떻게 살 것인지는 우리의 뜻에 따라 마음대로 살라고, 방치하시는 것이 아니라는 것입니다. 그게 아니라, 그리스도인의 신앙생활이란, 믿는 자 개인의 싸움이 아니라, 하나님께서 머리로서 그 현장에 개입해 주시고, 성도 한 분 한 분이 반드시 사랑의 열매를 맺을 수 있도록, 하나님께서 끝까지 책임지고 이끌어 주시는 것입니다. 하나님은 우리가, 얼마나 죄에 기울기 쉬운 존재이고 우리의 의지가 얼마나 약한지를 잘 아시고 아버지로서 끝까지 책임지고 우리를 인도 해 주시는 것입니다. 이어서 13,14절을 보시겠습니다.

(3) 속죄, 즉의 죄의 용서을 얻고 있는 것입니다

13 그가 우리를 흑암의 권세에서 건져내서 그의 사랑의 아들의 나라로 옮기셨으니

14 그 아들 안에서 우리가 속량 곧 죄 사함을 얻었도다

아버지는, 우리를 흑암의 권세에서 건저내서 그의 사랑의 아들의 나라로 즉, 그리스도의 왕국으로 옮겨 주셨습니다. 죄의 지배를 받던 종을 하나님의 통치를 받는 종으로로 옮겨주셨습니다. 얼마나 멋진 일입니까? 그러나, 하나님의 통치가 이 땅 위에 사는 그리스도인들 속에서, 당장 완전히 실현된 것은 아닙니다. 여전히 하나님의 왕국은 미래적이며, 그리스도인은 그 왕국에 있는 소유물인, 영원한 생명을 온전히 받을 수 없습니다. 뿐만 아니라, 하나님과 얼굴과 얼굴을 맞대고 대면하는 것도, 하늘에 쌓여 있는 보답을 분배받는 것도, 우리 자신이 영화롭게 되는 것도, 한마디로 구원이 완성되는 것을 이 지상에서 온전히 누릴 수 없습니다. 그러나 골로새 성도들은 깨닫지 못하는 점이지만 눈에 보이지 않는 것은 곧 존재하지 않는 것과 이콜이 아니라는 것입니다. 그리스도의 사역을 통해, 이 왕국은 이미, 이곳 지상에도 분명히 수립되어 있고, 그리스도인에게 왕국은 이미 도래했으며, 왕국은 현재적이며, 그리스도인은 이미 이땅에서 천국의 시민이자 천국의 참가자로서, 천국의 전미(前味)를 맛보고 있는 것입니다. 또 그리스도게서는 왕의 왕, 주의 주시며 자신에게 속한 자들을 왕으로, 거룩한 제사장으로 간주하고 계십니다. 이 일은 믿음의 눈으로만 볼 수 있고 성령의 조명을 통해서만 깨달을 수 있는 내용이지만 바울은 오히려 그리스도 안에 숨겨져 있는 참된 존재에 대해 강조하고 있는 것입니다. 우리는 예수 그리스도에 의해 법적으로 죄의 용서를 선언받았지만, 실제로도 이미 속죄금이 지불되어 죄의 지배에서 해방되었고, 하나님의 자녀, 빛의 자녀로 하늘에 받아들여져, 머리 되신 그리스도께 연합되어 있습니다. 그 점에 주목해야 합니다. 거기에 눈이 열릴 때, 우리는 행복감을 느끼고, 예배를 중심으로 한, 감사와 기쁨의 신앙생활로 나아 갈 수 있으며 형제자매의 교제를 통해 사랑의 열매를 맺어갈 수 있는 것입니다.

결론

복음이란 그리스도의 십자가에 의한 완전한 속죄의 성취입니다. 우리가 구원받기 위해, 더 이상 아무것도 덧붙일 필요는 없고, 덧붙여서도 안 됩니다. 예수님의 십자가의 구원의 역사에 의해, 하나님의 나라는 이미 도래했고, 우리는 이미 천국의 시민이며 천국의 참가자이며, 눈에는 보이지 않지만 예수 그리스도와 연합되어 있고, 이 세상에 대해서, 선지자로서, 왕으로서, 제사장으로서 보내심을 받은 것입니다. 우리는 성령으로 날마다, 영의 눈이 열리고, 그리스도 안에 숨겨져 있는 우리의 참된 존재에 대해 알 수 있도록 기도하며 나갑시다.

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