2021年05月30日「神の恵みによって 하나님의 은혜로 말미암아」

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神の恵みによって 하나님의 은혜로 말미암아

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
コロサイの信徒への手紙 1章1節~8節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:1神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、
1:2コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
1:3わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。
1:4あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。
1:5それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。
1:6あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。
1:7あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、
1:8また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コロサイの信徒への手紙 1章1節~8節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

 小アジアにあるコロサイという町は、港湾都市エフェソの東に170キロほど内陸に入ったところに位置する町でありました。このコロサイの教会の成り立ちとして手がかりとなる記事がパウロの第三次宣教旅行の中に出てまいります。使徒言行録19:9~10をご覧ください。

“しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。”

この時パウロはエフェソにあるティラノの講堂で毎日福音を宣言し、そこで二年も語り続けました。アジア州に住む者は、誰でも主の御言葉を聞くことになったと書かれています。ギリシア人であれ、ディアスポラとして散らされたユダヤ人であれ、誰でもです。そして恐らくその中にエパフラスもいたと思われます。エパフラスはパウロの言葉を聞いて信仰を持つようになり、自分の故郷に帰って、パウロから聞いた福音をそのまま伝え、コロサイの教会を開拓したと思われます。そして裕福であったフィレモンの家を解放してもらい、コロサイ教会は家の教会から交わりが始まっていきました。コロサイの教会の中には、フィレモンの奴隷である、オネシモもいました。ですから私たちはコロサイの信徒への手紙とフィレモンへの手紙を、同じ背景から読むことができるのです。

さて、コロサイの町ですが位置的には、リュコス川の渓谷にあり羊毛の産地として比較的裕福な町でした。リュコス川沿いには温泉で有名なヒエラポリスという町と、目薬で有名なラオディキアという大きな都市がありまして、この二つの都市はコロサイより、さらに大きな都市でありました。このような豊かな文化的な要素が、コロサイの人々に福音から少しずつ離れるようにさせる誘惑を与えました。彼らは、最初キリストに堅く結ばれていたのですが、次第に、当時流行していた哲学や、伝統的な価値観に依存するようになっていきました。このような世俗化の誘惑と、伝統という価値感の中で、コロサイの人々にとって、イエス・キリストがだんだんとぼやけて行ってしまったのです。暗雲立ち込めるように、雲行きが怪しくなった教会の、その「異様な雰囲気」を感じ取ったエパフラスは、獄中のパウロを訪ね、コロサイの教会の現在の消息について報告しました。するとパウロは、エパフラスの報告に感謝し、感動し、そして、まだ一度も会ったことのないコロサイの信徒たちに、この手紙を書いてくれたのでした。書き出しには、「キリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから」という言葉で始まっています。つまり、この書簡は個人的な書簡ではなくて、公的な書簡であり、権威ある書簡として、コロサイの人々に何か勧告しようとしていることが読み取れます。そして、同労者であるテモテの名を連ねることで、手紙の権威はさらに強調されています。それではこの書簡の主題は何かと言いますと、コロサイの聖徒たちが結ばれているイエス・キリストというお方が、どのようなお方なのかについてです。ですから、コロサイ書とは、暗雲立ち込める中にあって、或いは濃い霧が立ち込める中にあって、イエス・キリストをはっきりと指し示す「灯台のような書簡」であると言うことができるでしょう。本日の箇所にはパウロの感謝しか出てきませんが、もう少し読み進んで行きますと、彼らの信仰を脅かすものが何だったのか、次第に判明していくことになります。現代に生きる私たちがこの書簡を学ぶときに、私たちも同じように、無意識の内に刷り込まれていくような世の流行、世の趨勢、或いは伝統という価値観の、その厚い霧の中で、どのような信仰の闘いをしていくべきか、コロサイの手紙から適用して行く事ができるわけです。

ところで、この地域にはAD.61年頃、大きな地震が起こりました。歴史家のエウセビオスによれば、この大きな地震によって、コロサイもラオディキアもヒエラポリスも崩壊したとのことです。その後、ラオディキアとヒエラポリスは町を復興することができましたが、コロサイは復興することができず、町は完全に消滅してしまいます。つまりこの手紙を受け取って何年か後に、この町はなくなってしまいます。

この手紙の著者は、使徒パウロであり、そして獄中の中で書いたと4章に書かれていますが、それでは一体いつ頃、書かれたのでしょうか。時期については二つの学説がありまして、はっきりしません。一つは、パウロの晩年(ネロ皇帝の統治下でローマにおいて殉教しますが)、そのローマにおいて軟禁されている期間に書かれたという学説です。もしローマの獄中で書かれたなら、おそらくAD.60年から、コロサイの町が消滅する61年の間に書かれたものと考えられます。もう一つの学説は、聖書に書かれていませんが、パウロはおそらくローマ以外でも、エフェソにおいて投獄されたことがあって、エフェソの獄中からこの書簡を書いたのでは、という説です。もしエフェソの獄中で書かれたなら、おそらくAD.52~56年頃に書かれたものと考えられます。はっきり結論を出すことはできませんが、いずれにせよ、大地震が起こりコロサイの町が消滅する前に、つまりAD.61年以前にパウロによって書かれたということになります。

【1】. パウロの感謝

 それでは本文に入りまして3~6節をご覧ください。

“わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。”

3節には、「いつもあなたがたのために祈り」と訳されていますが、ここは「あなた方のことを祈る時にいつも、感謝している」というふうに訳すこともできます。パウロはエパフラスの報告を聞いて、それほど迄に、感謝・感激に満ち溢れていたということです。

「パウロ先生、私がエフェソで聞いた福音をそのまま故郷のコロサイに行って語りましたら、多くの人々が信じ、救いに入れられました。今では家に集まって礼拝を捧げ、キリストの身体なる教会を形成するようになっています。」何よりも、パウロの感謝とは、会ったこともないコロサイの人々の内に「愛と信仰」が結実されているということを聞いたからでありました。このように、もし、御言葉がきちんと語られているなら、教会は不思議と愛が満ち溢れるようになり、そして、生き生きとした信仰に満ち溢れるようになるものです。これは、語る者が、雄弁な語り口だからとか、カリスマにあふれているからとか、魅力的な容貌を兼ね備えているから、そうなったということではありません。或いは、御言葉を語る者によって、強制的に命令されたから、そうなるのでもありません。教会が喜んで、自主的に愛の業に励むようになり、信仰の生き生きとした雰囲気が自然と醸成されていくのです。なぜでしょうか。それは、彼らが受け入れた御言葉の種が生きていて、種そのものの中に、御言葉そのものの中に、命と躍動力が含まれているからです。5節を見ると、パウロは、コロサイの聖徒の愛と信仰は、「あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものだ」と説明しています。天に蓄えられている希望が、彼らの「愛と信仰」を下から支えていると言っているのです。そしてその希望とは、何かはかない希望ではなく、将来、確実に成就されるように神の御言葉によって保障され、担保されている希望なのです。また、コロサイの人々に伝えられた福音というのは、実はコロサイだけに伝えられているのではなく、世界中の至るところで、同じように伝えられ、畑に種が蒔かれるように、御言葉が心の畑に蒔かれるなら、自然と種は実を結び、そして成長していくのであります。ですから、この御言葉の種を蒔くという働きが、どれほど尊い働きであるのか、さらに言えば、その種まきの働きを忠実に実践している同労者エパフラスのことを、パウロがどれほど誇りに思っているのか、そのことを言わんとしているのです。私たち、せんげん台教会も、教会パンフレットを作りましたね。私たちがこのパンフレットを地域に配ることによって神の宣教の業に参与することができるのです。そうすることによって神様が、忠実な私たちをきっと誇りに思ってくださるに違いありません。

【2】. 福音の性格

 ところで、ローマ書10:14~15には次のような御言葉がございます。少しご覧なっていただけますでしょうか。

“ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。”

ローマ書のこの御言葉は一見すると、伝道について語られているように見えますけれども、この御言葉は実は、伝道に焦点が当てられているのではなく、福音の性格について焦点が当てられています。私たちが福音を信じるようにされて、聖書の御言葉に目が開かれるということは、まず誰かによって、私たちに福音が伝えられなければならないという事です。つまり、コロサイの町に福音を宣べ伝えたエパフラスのような人がいなければならないということです。この点において福音とは、仏教ですとか、創価学会や、立正佼成会や、幸福の科学のような一般的の宗教とは対照的な位置に置かれています。このような一般的な宗教は、ある人の悟りによって、教祖の開眼と瞑想の産物として、生成し、体系づけられるのが普通であり、その教えは誰にでも共感できるような教えになっています。しかし、私たちが信じている十字架の福音は、決して人間の瞑想からは生まれてきません。ある人の内側で試行錯誤を繰り返しながら、「あー、これだ!」ということで、造られた教えではないということです。福音は、神の啓示によって外から入って来たものです。頭のいい人よって、IQの高い人間によって、内側で作られるものではない。ですから、福音とは伝えてくれる人がいて、初めて聞くことができ、「あー、イエス・キリストが十字架で私の罪のために死なれたんだ」と信じることができるのです。ですからローマ10:14節の「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」という御言葉は、実は、福音の重要な性格であると言えるのです。私たちが聞いて、私たちが信じた福音とは、私たちの内側から生成されたのではない、修行して、悟りの境地に至ったのではないという事ですね。外から、入って来たという事です。教会が福音を宣教する理由が、まさにここにあるのです。誰かが伝えなければ、誰かが出て行かなければ、誰もこの福音を聞くことができません。そのような意味において、エパフラスからコロサイ教会の消息を聞いた時、パウロは、感動し、一度もあったことのないコロサイの人々のことを祈る度ごとに、父なる神に感謝を捧げているのです。続いてコロサイ書1:7~8節をご覧ください。

【3】. 神の僕を通して

 “あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。”

7節前半の「共に仕えている仲間」という言葉は、ギリシア語では一つの単語で、σύνδουλοςシュンドロス(僕仲間・奴隷仲間)という言葉です。パウロは聖書の他の箇所において、自分自身を「キリストの僕」つまり、「キリストの奴隷」と紹介していますが、ここではエパフラスを自身の同労者として認め、「奴隷仲間」という言葉を使用しているのでしょう。また、7節後半の「彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり」とありますが、新しく出た聖書協会共同訳では、「彼は、私たちのためにキリストに忠実に仕える者であり」となっていて、「あなたがたのために」ではなく「私たちのために」へと翻訳が変更されています。これは、より信頼できる写本が「私たちのために」と書いてあるからです。

ということは、どういうことかと言いますと、エパフラスは、獄中のパウロとテモテのためにキリストに忠実に仕える者だということです。つまり使徒パウロの代理人であると言っているのです。従って僕のように低くへりくだっているエパフラスの言葉を、使徒パウロの言葉としてしっかり心に留めなさい!彼を軽んじてはならない!という意味です。パウロのこれらの表現から見えてくるのは、神様に用いられる器というのは、主人ではなく、僕であり、奴隷であるということです。神に用いられる器は、その人が他の人と比べ、抜きん出ていて、才能があるから用いられるのではありません。他の人と比べ、弁が達者だから、容貌が美しいからでもありません。ただ僕のように、奴隷のように、自分には何の功も功績もないということをはっきりと自覚し、他人を自分より優れていると認める人、完全に神様に依り頼む者を用いるのです。宣教の働きとは、誰がこのようなパンフレットを信じてくれるだろうか、誰がこんな説教を聞いて信じるだろうか、と人間的な基準で心配したり、判断する必要は全くないということです。なぜなら、宣教は神の働きであり、ただ神の忠実の僕、神の奴隷を通して、福音が宣べ伝えられ、神の御心が成就していくからです。ですから、例えば、の話ですが、私たちの教会が神様に用いられて、祝福されて、多くの人々に伝道することが万一できたとしても、それは決して、私たちの功績によって伝道が成功したと考えるべきではありませんし、そのことを人に自慢することもできません。ただ、神さまは全世界に出て行き、十字架の福音を宣べ伝えるように願われ、私たちに低くへりくだって人々に仕えるように願われるのです。なぜなら、この世で低くへりくだった者は、この世で兄弟姉妹に仕え、奴隷のように忠実だった者は、天において高く上げられるからあります。天において、神の宣教に参与させていただいた働きの報いは、大変大きいのです。

【結論】

 神さまの御言葉は生きており、この福音をエパフラスのように聞いたことを忠実に他の人に伝えるのなら、神様が救われる民を起こしてくださることでしょう。神様は、僕パウロと共に働く僕仲間、奴隷仲間を探しておられ、低く人々に仕える者を通して、宣教の御業を起こしてくださるのです。

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하나님의 은혜로 말미암아

2021년 5월30일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키목사

골로새서 1장 1~8절

서론

소아시에 있는 골로새라는 도시는, 항구도시 에베소 동쪽으로 170킬로미터 정도 내륙으로 들어간 곳에 위치한 도시였습니다. 이 골로새서 교회의 설립의 단서가 되는 기사가 바울의 제 3차 선교여행 속에 나옵니다. 사도행전 19장 9,10절을 참고하시기 바랍니다.

9 어떤 사람들은 마음이 굳어 순종하지 않고 무리 앞에서 이 도를 비방하거늘 바울이 그들을 떠나 제자들을 따로 세우고 두란노 서원에서 날마다 강론하니라

10 두 해 동안 이같이 하니 아시아에 사는 자는 유대인이나 헬라인이나 다 주의 말씀을 듣더라

이때 바울은 에베소에 있는 두란노 서원에서 매일 복음을 선포했고, 그곳에서 두 해 동안 날마다 강론 했습니다. 아시아에 사는 자는, 누구나 주님의 말씀을 들었다고 쓰여져 있습니다. 헬라인이나 디아스포로로 흩어진 유대인이든 누구든 말입니다. 그리고 아마 그 안에 에바브라도 있었을 것으로 생각됩니다. 에바브라는 바울의 말을 듣고 믿음을 갖게 되어 자신의 고향으로 돌아가 바울에게 들은 복음을 그대로 전하며 골로새 교회를 개척했다고 생각됩니다. 그리고 부유했던 빌레몬이 집을 개방하여, 골로새 교회는 가정교회로서 교제가 시작되어 갔습니다. 골로새 교회안에는 빌레몬의 노예인 오네시모도 있었습니다. 그래서 우리는 골로새 성도에게 보내는 편지와 빌레몬에게 보내는 편지를 같은 배경에서 읽을 수 있는 것입니다.

자, 골로새 도시에 대해서 입니다만, 위치적으로는 리코스 강 계곡에 있어 양모의 산지로 비교적 부유한 도시였습니다. 리코스 강변에는 온천으로 유명한 히에라폴리스라는 도시와 안약으로 유명한 라오디게아라는 큰 도시가 있었는데, 이 두 도시는 골로새보다 더 큰 도시였습니다. 이런 풍부한 문화적 요소들이 골로새 사람들이 복음에서 조금씩 멀어지게 만드는 유혹이 되었습니다. 그들은 처음엔, 그리스도와 굳게 연합되어져 있어지만, 점차, 당시 유행하던 철학과 전통적인 가치관에 의존하게 되었습니다. 이러한 세속화의 유혹과 전통이라는 가치관 속에서 골로새 사람들에게 예수・그리스도가 점점 흐려져 간 것입니다. 먹구름이 끼듯 영적 상황이 위태해진 교회의, 그 「이상한 분위기」를 느낀 에바브라는, 옥중의 바울을 찾아가 골로새 교회의 현재 상황에 대해 보고했습니다. 그러자 바울은 에바브라의 보고에 감사하고 감동했으며, 그리고 아직 한 번도 만난 적이 없는 골로새 성도들에게 이 편지를 써준 것이었습니다. 첫머리에는 「하나님의 뜻으로 말미암아 그리스도 예수의 사도 된 바울과 형제 디모데는」라는 말로 시작되고 있습니다. 즉, 이 서한은 개인적인 서한인 아니라 공적인 서한이며 권위 있는 서한으로 골로새 사람들에게 무언가 권고하려는 것을 읽을 수 있습니다. 그리고 동역자인 디모데의 이름을 올리면서 편지의 권위는 더욱 강조되고 있습니다. 그러면 이 서신의 주제는 무엇이냐면 골로새 성도들이 연합해 있는 예수・그리스도라는 분이 어떤 분이신지에 대해서입니다. 그러므로 골로새서란, 먹구름이 끼는 가운데, 혹은 짙은 안개가 끼는 가운데, 예수・ 그리스도를 분명하게 가리키는 「등대같은 서한」이라고 할 수 있을 것입니다. 오늘의 구절에는 바울의 감사밖에 나오지 않지만 조금 더 읽어나가도 보면 그들의 믿음을 위협하는 것이 무엇이었는지 점차 밝혀지게 됩니다. 현대에 사는 우리가 이 서신서를 배울 때, 우리도 마찬가지로 무의식 속에 각인되어 가는 세상의 유행, 세상의 추세, 혹은 전통이라는 가치관의 그 짙은 안개 속에서 어떤 믿음의 투쟁을 해 나가야 할지 골로새서로부터 적용해 나갈 수 있는 것입니다.

그런데, 이 지역에는 AD. 61년경 큰 지진이 일어났습니다. 역사가 에우세비오스에 따르면, 이 큰 지진으로 인해 골로새도 라오디게아도 히에라폴리스도 붕괴했다고 합니다. 그 후 라오디게아와 히에라폴리스는 도시가 부흥할 수 있었지만 골로새는 부흥할 수 없었고, 도시는 완전히 소멸되고 맙니다. 즉 이 편지를 받고 몇 년 후에 이 도시는 없어져 버립니다.

이 편지의 저자는 사도 바울이고, 그리고 옥중에서 썼다고 4장에 적혀 있는데, 그렇다면 도대체 언제쯤 쓰였을까요? 시기에 대해서는 두 가지 학설이 있는데 확실하지 않습니다. 하나는 바울의 말년(네로 황제의 통치하에 로마에서 순교합니다만), 그 로마에서 연금되고 있는 기간에 쓰여졌다는 학설입니다. 만약 로마의 옥중에서 쓰여졌다면 아마도 AD. 60년에서 골로새 도시가 소멸되는 61년 사이에 쓰여졌을 것으로 생각됩니다. 또 다른 학설은 성경에 적혀 있지 않지만, 바울은 아마도 로마 외에도 에베소에서 투옥된 적이 있어서 에베소의 옥중에서 이 서신을 쓴 것이 아닌가, 하는 설입니다. 만약 에베소의 옥중에서 쓰여졌다면 아마도 AD. 52~56년경에 쓰여졌을 것으로 생각됩니다. 확실하게 결론을 낼 수는 없지만, 어쨌든 대지진이 일어나 골로새 도시가 소멸하기 전에, 즉 AD. 61년 전에 바울에 의해 쓰여졌다는 것이 됩니다.

(1) 바울의 감사

그럼 본문으로 돌아가서 3~6절을 보시겠습니다.

3 우리가 너희를 위하여 기도할 때마다 하나님 곧 우리 주 예수 그리스도의 아버지께 감사하노라

4 이는 그리스도 예수 안에 너희의 믿음과 모든 성도에 대한 사랑을 들었음이요

5 너희를 위하여 하늘에 쌓아 둔 소망으로 말미암음이니 곧 너희가 전에 복음 진리의 말씀을 들은 것이라

6 이 복음이 이미 너희에게 이르매 너희가 듣고 참으로 하나님의 은혜를 깨달은 날부터 너희 중에서와 같이 또한 온 천하에서도 열매를 맺어 자라는도다

3절에는 「너희를 위하여 기도할 때마다」라고 번역되어 있는데, 여기는 「너희를 위해 기도할 때 항상 감사한다」라는 식으로 번역할 수도 있습니다. 바울은 에바브라의 보고를 듣고, 그 정도로 감사와 감격이 넘쳤다고 합니다.

“바울 선생님, 제가 에베소에서 들은 복음을 그대로 고향인 골로새에 가서 전하자, 많은 사람들이 믿고, 구원을 받았습니다. 지금은 집에서 모여서 예배를 드리고, 그리스도의 몸되신 교회를 형성하게 되었습니다.” 무엇보다도, 바울의 감사라는 것은, 만난 적도 없는 골로새의 사람들 가운에 「사랑과 믿음」이 맺어져 있다는 것을 들었기 때문입니다. 이처럼, 만약 말씀이 확실히 선포되면, 교회는 이상하게 사랑이 넘치게 되고, 그리고 생생한 믿음이 넘치게 되는 것입니다. 이것은, 말하는 사람이 웅변적인 말투라서라든지, 카리스마가 넘쳐서 라든지, 매력적인 외모를 겸비하고 있기 때문에 그렇게 된 것은 아닙니다. 혹은, 언변이 능한 설교자에 의해 강압적으로 컨트롤을 받았거나, 그런 요인 때문이 아닙니다. 교회가 기꺼이, 자주적으로 사랑의 일에 힘쓰게 되고, 믿음의 생생한 분위기가 자연스럽게 조성되어 가는 것입니다. 왜 그럴까요? 그것은 그들이 받아들인 말씀의 씨앗이 살아 있고, 싸앗 그 자체 안에, 말씀 그 자체 안에 생명과 역동력이 담겨 있기 때문입니다. 5절을 보면 바울은, 골로새 성도의 사랑과 믿음은 「너희를 위하여 하늘에 쌓아 둔 소망으로 말미암음이니」라고 설명하고 있습니다. 하늘에 쌓아 둔 소망이 그들의 「사랑과 믿음」을 밑에서부터 지탱하고 있다고 말하는 것입니다. 그리고 그 소망이라는 것은, 덧없는 희망이 아니라 장차 확실하게 성취될 수 있도록 하나님의 말씀에 의해 보장되고 담보되어 있는 희망입니다. 또 골로새 사람들에게 전해진 복음이라는 것은 사실 골로새에만 전해지는 것이 아니라 온 세상 곳곳에서 똑같이 전해져 밭에 씨앗이 뿌려지듯이 말씀이 마음의 밭에 뿌려진다면 자연스럽게, 씨앗은 열매를 맺고 성장해 가는 것입니다. 그래서 이 말씀의 씨를 뿌리는 일이 얼마나 고귀한 일인지, 더 말하면 그 씨뿌리기의 일을 신실하게 실천하고 있는 동역자 에바브라를 바울이 얼마나 자랑스럽게 생각하는지 그 말을 하려는 것입니다. 저희 센겐다이교회도 교회 팜플렛을 만들었습니다. 우리가 이 팜플렛을 지역에 나눠줌으로써 하나님의 선교사업에 참여할 수 있는 것입니다. 그럼으로써 하나님께서, 신실한 우리를 분명 자랑스럽게 생각해 주실 것임에 틀림없습니다.

(2) 복음의 성격

그런데 로마서 10장 14,15절에는 다음과 같은 말씀이 있습니다. 보시기 바랍니다.

14 그런즉 그들이 믿지 아니하는 이를 어찌 부르리요 듣지도 못한 이를 어찌 믿으리요 전파하는 자가 없이 어찌 들으리요

15 보내심을 받지 아니하였으면 어찌 전파하리요 기록된 바 아름답도다 좋은 소식을 전하는 자들의 발이여 함과 같으니라

로마서의 이 말씀은 언뜻 보면 전도에 대해 이야기하는 것처럼 보이지만, 이 말씀은 사실 전도에 초점이 맞춰져 있는 것이 아니라 복음의 성격에 대해 초점이 맞춰져 있습니다. 우리가 복음을 믿게 되고 성경 말씀에 눈이 열린다는 것은 먼저 누군가에 의해 우리에게 복음이 전해져야 한다는 것입니다. 즉, 골로새 도시에 복음을 전하던 에바브라 같은 사람이 있어야 한다는 것입니다. 이 점에 있어서 복음이란, 불교라든지, 창가학회나, 입정교성회(일본의 불교계 신흥종교), 행복의 과학(일본의 불교계 신흥종교)과 같은 일반적인 종교와는 대조적인 위치에 놓여 있습니다. 이러한 일반적인 종교는 어떤 사람의 깨달음에 의해 교주의 개안과 명상의 산물로 생성되고 체계화되는 것이 보통이며, 그 가르침은 누구에게나 공감할 수 있는 가르침으로 되어 있습니다. 그러나 우리가 믿고 있는 십자가 복음은, 결코 인간의 명상에서 나오지 않았습니다. 어떤 사람의 내면 안에서 시행착오를 반복하면서 “아, 이거다!”라고 깨달아진 것으로 만들어진 가르침이 아니라는 것입니다. 복음은 하나님의 계시에 따라 밖에서 들어온 것입니다. 똑똑한 사람에 의해서 IQ가 높은 사람에 의해서, 내면 안에서 만들어진 것이 아닙니다. 그래서 복음은, 전해주는 사람이 있어야 비로소 들을 수 있고, “아, 예수 그리스도가 십자가에서 나의 죄 때문에 돌아가셨구나”라고 믿을 수 있는 것입니다. 그러므로 로마 10장 14절의 「전파하는 자가 없이 어찌 들으리요」는 말씀은, 사실 복음의 중요한 성격이라 할 수 있습니다. 우리가 듣고, 우리가 믿고 있는 복음이란, 우리 안에서 생성된 것이 아니며 수행하여 깨달음의 경지에 이른 것이 아니라는 것이지요. 밖에서 들어왔다는 것입니다. 교회가 복음을 선교하는 이유가, 바로 여기에 있는 것입니다. 누군가 전하지 않으면, 누군가 전하러 나가지 않으면, 아무도 이 복음을 들을 수 없습니다. 그런 의미에서, 에바브라로부터 골로새 교회 소식을 들었을 때 바울은 감동하고, 한 번도 만난적이 없는 골로새 사람들을 위해 기도 할 때마다, 아버지 하나님께 감사를 드리는 것입니다. 이어서 골로새 1장 7,8절을 보시기 바랍니다.

(3) 하나님의 종을 통해서

7 이와 같이 우리와 함게 종 된 사랑하는 에바브라에게 너희가 배웠나니 그는 너희를 위한 그리스도의 신실한 일꾼이요

8 성령 안에서 너희 사랑을 우리에게 알린 자니라

7절 전반의 「우리와 함께 종 된」이라는 말은 헬라어로 하나의 단어로 σύνδουλος 쉰들로스(종의 동료・노예 동료) 라는 말입니다. 바울은 성경의 다른 곳에서 자기 자신을 「그리스도의 종」즉, 「그리스도의 노예」라고 소개하고 있는데, 여기서는 에바브라를 자신의 동역자로 인정하고 「우리와 함께 종 된」이라는 말을 사용하고 있는 것일 것입니다. 또 7절 후반의 「그는 너희를 위한 그리스도의 신실한 일꾼이요」라고 되어 있는데, 새로 나온 성경협회 공동역(일본어 성경)에서는 「그는 우리를 위하여 그리스도를 신실히 섬기는 자이며」라고 되어 있고, 「너희를 위한」이 아닌 「우리를 위하여」로 번역이 변경되어 있습니다. 이것은 보다 신뢰할 수 있는 사본이 「우리를 위하여」라고 쓰여 있기 때문입니다.

그렇다는 것은 무슨 말이냐면, 에바브라는 옥중의 바울과 디모데를 위해 그리스도를 신실히 섬기는 자라는 것입니다. 즉 사도 바울의 대리인이라고 하는 것입니다. 따라서 종처럼 자신을 낮추는 에바브라의 말을 사도 바울의 말처럼 잘 간직하고 그를 가볍게 여겨서는 안 된다라는 뜻입니다. 바울의 이 표현들에서 보이는 것은 하나님께 쓰임받는 그릇이라는 것은 주인이 아니라 종이며 노예라는 것입니다. 하나님께 쓰임 받는 그릇은 그 사람이 다른 사람에 비해 뛰어나고 재능이 있어서 쓰임 받는 것이 아닙니다. 남들에 비해서 언변이 좋거나 외모가 멋져서 그런 것도 아닙니다. 다만 종처럼 노예처럼 자신에게는 아무런 공도 공적도 없다는 것을 분명히 자각하고 타인을 자신보다 낫다고 인정하는 사람, 온전히 하나님께 의지하는 자를 사용하시는 것입니다. 선교의 일이란 누가 이런 팜플렛을 보고 믿어줄까, 누가 이런 설교를 듣고 믿을까 하고 인간적인 기준으로 걱정하거나 판단할 필요가 전혀 없다는 것입니다. 왜냐하면 선교는 하나님의 일이며, 오직 하나님의 신실한 종, 하나님의 충성된 종을 통해 복음이 전파되고 하나님의 뜻이 성취되어 가기 때문입니다. 그러니까 예를 들면, 우리 교회가 하나님께 쓰임받고, 축복 받고, 많은 사람들에게 전도할 수 있다 하더라도 그것은 결코 우리의 공적에 의해 전도가 성공했다고 생각해서는 안 되고, 그것을 남에게 자랑할 수도 없습니다. 다만 하나님께서는 온 세상에 나가서, 십자가 복음을 전하도록 하시고, 우리에게 낮은 자로서 겸손하게 사람들을 섬기도록 하십니다. 왜냐하면 이 세상에서 자신을 낮추고 겸손한 자, 이 세상에서 형제자매를 섬기고 노예처럼 신실했던 자는, 하늘에 있어서 높임을 받을 것이기 때문입니다. 하늘에 있어서, 하나님의 선교에 참여한 일의 보답은 매우 큽니다.

결론

하나님의 말씀은 살아있으며, 이 복음을 에바브라처럼 들은 것을 신실하게 다른 사람에게 전한다면, 하나님께서 구원받는 백성을 일으켜 주실 것입니다. 하나님께서는 종 바울과 함께 일할 종의 동료 노예 동료를 찾으시고, 낮은 자리에서 사람들을 섬기는 자를 통해, 선교의 역사를 일으켜 주시는 것입니다.

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