2021年05月23日「私たちの弁護者」

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14:12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
14:13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14:14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
14:15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14:16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 14章12節~17節

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【序】

 ペンテコステおめでとうございます。使徒言行録を見ますとイエス様が天に昇られた後、使徒たちは、女たちと、主イエスの母マリアと、そして主イエスの兄弟たちと、そして120人ほどの多くの信者たちと共に、マルコの家の二階部屋に集まって、心一つになり祈りを捧げていたと書かれています。それは次のようなイエス様の命令があったからです。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」イエス様が昇天されてから、十日後のペンテコステの日に、突然、強い激しい風の音があり、炎のような舌が分かれて現れ、そこにいたすべての人々に聖霊の満たしが与えられ、彼らは外国語で語り始めました。これを「聖霊降臨の事件」と呼んでいます。弟子たちは、その瞬間、宣教と世界のための教会として新しく誕生したのであります。本日のヨハネによる福音書14章は、イエス様の最期の晩餐の中で語られた告別説教の一部でありますが、この告別説教の中で、「もう一人の弁護者を遣わす」という言葉によって、イエス様は聖霊降臨事件について、前もって語っておられたのでありました。

イエス様が天に挙げられて最初に行った働きが、聖霊を注ぐことでありました。この五旬節に起こった聖霊降臨の事件とは、創造と、受肉に続く、神様の三番目の偉大な働きであると言うことができるでしょう。つまり、神の創造の働きと、御子の受肉に匹敵するのが、本日、調べます聖霊降臨の事件であるということです。というのは、御父よる統治と保持が、これを摂理とも言いますが「創造」によって始められ、御子による贖いの働きが「受肉」によって、始められました。そして聖霊による教会の聖化の働きが、「聖霊降臨」によって始められたからです。従いまして、聖書には書かれていませんが、神学的には、神が万物を創造されてからイエス様の受肉までの間を「父の働きの時代」と呼んでいます。この時、聖霊は主に幕屋や神殿に留まられました。そしてキリストが受肉されてから天に昇られるまでの間を「子の働きの時代」と呼んでいます。この時、聖霊はイエス様を宮とされて、イエス様の上に留まられました。そして、聖霊が降臨されてから、神の国の完成までの間を「聖霊の働きの時代」と呼んでいます。この時、聖霊は教会をご自身の宮とされました。

現在、私たちが生きている時代は、まさに、聖霊の働きの時代であるということですね。本日は、この聖霊降臨の意味について、考えてみたいと思います。

【1】. キリストが父のもとへ行かれた

 第一に聖霊降臨とは、キリストが父のもとへ行かれ、全能の神の右に着座されてから起こったという点に注目したいと思います。14:12節をご覧ください。

“はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。”

イエス様は、私を信じる者は、イエス様の行う業より、もっと大きなことを行うようになると言われました。ここで、「もっと大きなこと」とは、イエス様が去られた後、弟子たちの伝道を通して結ばれた、その実について語っておられます。生前のイエス様は、言ってみれば、せいぜいユダヤの中だけで伝道されたに過ぎませんが、弟子たちは地の果てにまで行き、たくさんの実を結ぶようにされたのです。そのようなことが起こされる理由として、イエス様は「わたしが父のもとへ行くからである」とおっしゃっています。父のもとへ行くというのは、どういう意味でしょうか。それは全能なる神の右に着座されるということです。しかし、実際に神の右に椅子があるということではなく、象徴的な意味であると思われますが、それでは一体何を象徴しているのかと言いますと、イエス様は、神であられながら、全き人として十字架に死なれ、復活され、人性を持って昇天された後に、初めて天と地のすべの名に優る名を受け、すべての被造物の上に優れた権力と栄誉を受けられ、神の子として立てられ、王の王、主の主として栄光に入れられたということです。本日の信仰告白で、私たちが告白したウェストミンスター信仰告白8章1節に書かれていますように、イエス様は私たちの永遠の王であり、永遠の昔から王として、そして仲保者として父から任命されていたことには違いありませんが、人性を持ってイエス様が天に挙げられて、初めて実質的に天と地のすべての権力を受けられたというふうに理解してください。これは、例えばサムエル記の少年ダビデが預言者サムエルから油を注がれた瞬間に、神の目には既に、イスラエルの王はサウル王ではなく、少年ダビデでありましたけれども、実質的には、それから長い年月を経て、ヘブロンでダビデが南ユダ王国の王となり、その7年後に、北イスラエルと統合されて全イスラエルの王となった時に、初めてダビデが権力を有するようになったのと同じであります。少し御言葉を調べてみましょう。フィリピ2:9と、ヘブライ2:7~8をご覧ください。

フィリピ2:9

“このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。”

ヘブライ2:7~8

“あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。」”

このようにして、イエス様は十字架と復活によって、死に勝利され、悪魔の働きを滅ぼし、父の御前で、サタンのすべての訴えに対抗しながら、私たちの側に立って下さり、父なる神が、私たちの祈りと私たちの感謝を喜んで受け入れるようにしてくださり、そして、私たちが恵みの御座へ大胆に進み出ることができるようにしてくださったのであります。引き続いて14:13~14節をご覧ください。

“わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」”

人としてイエス様が天の栄光に入れられたために、私たちが主イエスの名によって願うなら、何でもかなえられると言います。しかし、ここは少し注意しなければなりませんが、どうやら、イエス様のお名前さえ唱えれば、どんな願いでも叶えられるということではないようです。というのは、イスラエルにおいて名前とは、その人の人格と大変、密接に関連があるからです。名前はその人自身を現しています。旧約聖書に「御名が、とこしえにあがめられますように」という表現が出てきますが、神様ご自身があがめられますようにという意味です。名前とはその人自身であるということですね。ですからイエス様の名によって祈るということは、イエス様のご人格と、イエス様の目的に、完全に一致した祈りを捧げるということになります。従って、13~14節の御言葉の意味するところは、第一ヨハネ5:14~15の御言葉と同じ意味であると思われます。第一ヨハネ5:14~15をご覧ください。

“何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。”

「イエス様の名」によって祈るということは、勝手気ままな祈りをして、最期に決まり文句一つを付けるということではないということです。そんなふうに神の御前に進み出る特権を軽々しく考えてはなりません。「イエス様の名」によって祈るということは、イエス様のことを思い、イエス様の御心に適う祈りを私たちが捧げる時に、その祈りは、私たちの願いではなく、イエス・キリストの願いとして必ず叶えられるということなのです。このようにイエス様が天と地のすべの名に優る名を受け、すべての被造物の上に優れた権力と栄誉を受けられ、栄光に入れられたが故に、私たちに注がれている聖霊を通して、このような素晴らしいイエス様の御業が起こされるようになったのです。

【2】. もう一人の弁護者が遣わされた

 第二に、聖霊降臨の事件とは、もう一人の弁護者である聖霊が遣わされたという点に注目したいと思います。14:15~17節をご覧ください。

“「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。”

弁護者とは、ギリシア語でパラクレートスという言葉ですが、パラが「そばに」という意味で、クレートスが「呼ばれた者」という意味です。直訳すると「そばに呼ばれた者」となります。この翻訳としていろいろな名称が使われておりますが、「代弁者」ですとか、「助け主」ですとか、「慰め主」などがございます。これらの名称から分かりますように、たとえイエス様がこの世を去られても、弟子たちは、寂しく放っておかれるのではなく、そばで励まして下さり、助けて下さり、支えて下さる方がいるということです。そして「別の」、「もう一人の」という表現から分かるように、この弁護者とは、まずイエス様ご自身であるということです。1ヨハネの手紙2:1には、イエス様に対して、弁護者という言葉が使われています。

“わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。”

イエス様がもうこれ以上、肉体的に弟子たちと一緒には、いることができなくなる時、もう一人の弁護者である聖霊が、これまでイエス様が弟子たちを守り導いてくださったように、その働きをそのまま継承してくださるのです。そして、この聖霊は私たちから決して取り去られることなく、永遠にまで、共にいてくださいます。このことはよくよく考えてみると、ものすごい約束だと思います。

私たちの身体には一つの霊が宿っていますね。同じように神様も一つの霊、聖霊を持っておられます。神様はこの霊を通して、この世を創造され、そして統治し保持されています。また、この霊を通して旧約の時代にあらゆる賜物と能力を注いでくださいました。この霊はギデオンやサムソンなどの士師たちに注がれ、イザヤや、エゼキエルなどの預言者たちに注がれ、そして、ご自身の民を悔い改めに導き、新しく聖め分かたれました。

イエス・キリストはこの霊によってみごもられ、この霊の満たしを受け、この霊によってご自身のすべての働きを成就なさいました。この霊は、「御父の霊」とか、「御子の霊」とか、「キリストの霊」とか、「真理の霊」とか、「生かす霊」とも呼ばれ、五旬節の日にキリストの教会に注がれたのです。しかし、この世は、この霊を受けることができません。神の選びの民にのみ、聖霊は注がれるのです。この一つの霊がお一人、お一人に注がれて、私たちは新しく生まれ変わり、生きるものとされたのです。命の源であるキリストの霊が、私たちの心の中に内住してくださるので、内側から泉がこんこんと湧き出るように、日々新しくされ、永遠の命に与る者とされたのであります。また、真理の霊であるキリストの霊が、私たちの心に内住してくださるので、物事の見方が、価値観が、人生の目的がすっかり変えられました。神を知り、イエスを主として告白するようになり、暗闇の業を捨てて、光を愛し、聖霊の武具を身にまとい、愛の実を結ぶ者として作り替えられたのであります。また、子とする御父の霊が、私たちの心の中に内住してくださるので、私たちはもはや孤児ではなく、みなし子ではないという、深い喜びと平安が与えられました。神の愛が日々、心の中に刻まれ、神との平和を確信し、「アバ父よ」と、大胆に祈りを捧げることができる者とされ、そして天で受けることになる、未来の栄光を確信することができるようにされたのです。

信者たちが、このような聖霊を受けたために、彼らは全く異なる、新しい、霊的な人々として生まれ変わりました。信者は聖霊の中で生きて、聖霊の事柄を考え、聖霊の中で祈り、聖霊の中で喜んで、聖霊の法の下で生き、聖霊の導きを受けて、聖霊を通じて神の愛を確信するのです。信者がこの聖霊の中にあるということは、キリストの中にあるということと同一のことであり、聖霊が、お一人のお一人の中に留まるということは、キリストがその人の中に留まられることとして表現されるのです。そして、この霊が一つの霊であるために、教会はこの世にいくつもあるのではなく、普遍的な教会が一つだけあると言えるのです。あちらの教会にはタイプAの霊が注がれていて、こちらの教会にはタイプCの霊が注がれているというのではないのですね。一つの霊が注がれているので、教会は一つであり、有機体であり、キリストの身体として建て上げられるのです。

私たちの普段の信仰生活において、私たちは自ら進んで聖書を開き、神の御声に耳を傾けようとしていますが、実は私たちの霊の中に内住しておられる聖霊が、ご自身の御言葉を通じて私たちに語りかけてくださっているのです。

私たちの普段の信仰生活において、平安の中で、キリストの再臨を祈って待ち望んでしますが、実は、誰よりも、私たちの霊の中に内住しておられる聖霊が、キリストの花嫁と共にキリストの再臨を祈り待ち望んでおられるのです(黙22:17)。私たちにはこのような弁護者である聖霊が永遠に私たちの内に留まるようにされたのです。ですから聖霊は私たちの救いの保証であり、救いの担保であり、もはや、私たちはさまようことはないのです。

【結論】

 日々の信仰生活を通して与えられる、喜びと平安によって、私たちの内に聖霊が内住されているということが強い確信へと変えられていくことでしょう。この聖霊降臨の恵みは、しつこいようですけれども、イエス様が天に挙げられて、天と地のすべの名に優る名を受け、すべての被造物の上に優れた権力と栄誉を受けられ、神の子として立てられ、王の王、主の主として栄光に入れられたが故に、一言で言えば、全能の神の右に着座されたが故に、聖霊の降臨が神の民に与えられたのであります。私たちはこの神の御業を心から褒め称え、賛美してまいりましょう。

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